KENの日記
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2015年05月31日(日) 島忠ホームズ隣にスーパー開店

昨年3月さいたま市南区南部の戸田市との境界に近い場所に「島忠ホームズ浦和南店」開店しました。随分交通の便の悪いところに出店したものだと思っていました。一階がホームセンター、二階が家具売り場、3階、4階、5階の3フロアと大型駐車場を確保されています。武蔵浦和駅からは大分遠く徒歩客の集客は難しいし、幹線道路からも外れています。やはり立地が悪かったのか、数回行ってみましたが3階駐車場でさえ疎らにしか車が居なくて店舗内も随分空いていました。

その「島忠ホームセンター浦和南店」の隣で大きな建物を作っていたと思ったら、今年4月にスーパーマーケットがオープンしました。島忠ホームズのホームセンターに用事があったので序に隣のスーパーで買い物をしてきました。「ホームセンター」の方は多少は客が増えたかなと言う程度の変化でしたが、4月に開店したスーパーの「ベルクス」には随分客が入っていって賑わっていることに驚きました。

武蔵浦和駅前に「マルエツ(二か所)」と「オリンピック」があり、我が家の近くには「コープ」があるのですが、これらより多くの客を集めている幹事でした。少し買い物をすると分かったのですが、新たに参入した「ベルクス」は品揃えも価格も既存店とは違う新鮮な感じを持ちました。「ベルクス」は東京都(北東部)・埼玉(南東部)・千葉(北西部)に34店舗を集中的に展開する中堅スーパーです。イオン・イトーヨカドーがどんどん吸収合併で大きくなり、多くの店舗が画一化され、個々の店ごとの特色が薄れていく中で、こうした系列化とは逆に特色をもった中小の勢いの良いスーパーの活躍することは非常にあり難いことだと思います。

「島忠」の出店した場所には交通の便は悪い割には大規模マンションがどんどん建設されています。従って「食品・日用品スーパー」の出店は地域からは大歓迎のはずです。それに加えて敷地が広いことのメリットとして大規模駐車場を設置すれば「家具・ホームセンター」へ客を呼び込むことが出来そうです。そうした客は車でやってくるので一週間分程度の食品をまとめて買って帰る層ともだぶっているようです。カートに大量の買い物品を積んでいる客を結構見かけました。「大量に買う客」にも「近所のその日の惣菜を買う客」にも対応できるような品揃え・パッケージ作りに工夫を凝らしているようです。このスーパーの二階には「ダイソー」と「歯科医院」が入居することになっているようです。



2015年05月30日(土) 美味しいワイン「ARTIGAZO」



スペインのアラゴン州カリニェナのワインの「ARTIGAZO」です。「ビルへン・デル・アギラ」というメーカのワインだそうです。このワイナリーは 『BEST WINERY OF ARAGON IN 2012』に選ばれということです。使っている葡萄はガルナッチャ40%、シラー30%、カベルネ・ソーヴィニヨン30%。

非常にバランスの良いワインだと思いました。ガルナッチャ40%ですが、30%のカベルネ・ソヴィニヨンが優しすぎないように味を引き締めています。そして味の複雑さは大したもので「1000円」以下のワインでは味わえないレベルに達していると思いました。価格は税抜きで1280円。1000円未満で美味しいワインを選んでいますが、ほんのちょっと奮発すると格段に良いワインに当たると嬉しいです。

このワインは「パーカーポイント90点獲得(アルティガソ2007)の他にワインコンクールでの入賞暦があるということです。スペイン国内ではない場所のワインコンクールでの入賞暦は間違い無い「美味しいワイン」の証拠だと思います。
○2011年度カナダ国際ワインコンクール銀賞受賞(アルティガソ2007)
○2012年度ベルリン・ワイントロフィー金賞受賞(アルティガソ2007)



2015年05月29日(金) ヤルヴィとN響の船出

5月3日の連休中の日曜日に放送されたNHK交響楽団の演奏会模様を妻が録画しておいてくれたので今日見てみました。パーヴォ・ヤルヴィのN響主席指揮者としての記念すべき第一回の演奏会でした。

NHK交響楽団第1802回 定期公演 Aプログラム(2015.2.7NHKほーるでの録画)
エルガー作曲 チェロ協奏曲 ホ短調 作品85
マーラー作曲 交響曲 第1番 ニ長調「巨人」
指揮 : パーヴォ・ヤルヴィ
チェロ : アリサ・ワイラースタイン

エルガー、マーラーともN響の演奏会としてはこれまで聞いたことが無いほど、真摯で謙虚で熱のこもった演奏だったと思います。NHK交響楽団とヤルヴィのコンビが非常に相性が良く、且つお互いを評価しお互いを素直に評価している関係だと思われる演奏であり気持ちの遣り取りだったと思います。

パーヴォ・ヤルヴィは世界の指揮者界で重要な位置を占めていると思います。今月のベルリンフィルのシェフ選びでは話題に上りませんでしたが、天才肌ではないけれどその人間性を感ずることが出来る演奏は新しい音楽の在りかたの一面を示していると思います。それは二つの世界大戦前後のドイツ流の音楽、それに対抗するような「ユダヤ人作曲家・演奏家の音楽、その後の冷戦下の東西対立の縮図のような音楽とは一線を画す「平和の時代の音楽」の在り方を示していると思います。「芸術のための芸術」に陥らないためには「ヒューマニズム」が大切に成っていると思います。

NHK交響楽団が求めている音楽とヤルヴィの方向性はかなり近かったのではないでしょうか。最初から極東の音楽の本場から離れた日本のオケが「ヨーロッパの本場の音楽」を目指すとしてもそれには限界があります。ヨーロッパを離れたドュトアとかロシアのアシュケナージを連れてきても、もうひとつ目指すものがはっきりしませんでした。目指す音楽・目標とするオーケストラの姿が違っていたのかもしれません。ヤルヴィの音楽は悩み続けたNHK交響楽団にひとつの方向性を与えることになったのだと思います。

この日の演奏で感心した点はまず弦楽器群の纏まった厚い「響き」でした。演奏者全員とは言いませんがかなりの人達が積極的にトップ奏者の音楽に寄り添っていくように演奏しているのだと思いました。コンサートマスターがゲストの方であったことも要因かもしれませんが、トップが指揮者の意図を的確に理解して奏法を決定し、パートの演奏者はトップに厳密に従えば、パートの音楽は統一され分厚くなります。このような弦楽器群の音でベートーヴェンはブラームスを聞いてみたいと思いました。

また管楽器群の各パートの積極性と木管・金管としてもまとまりも見事であったと思います。金管がトランペットからチューバまで非常にバランスよく統率ある響きがしているし、ホルンパートのチームワークも立派でした。金管・木管・打楽器・弦楽器群がそれぞれパートとして充実し、さらにトゥッティではお互いの音を良く聞いてバランスを取り、見事なダイナミックな音楽を奏でていたと思います。この上を目指すとすれば各管楽器トップが「スーパーソロ」のようにオケから飛び抜けるような美音を奏でることが期待されます。



2015年05月28日(木) FIFA不正で大揺れ

FIFA(国際サッカー連盟)が大揺れです。アメリカのFBIは国際サッカー連盟の副会長ら関係者14人を収賄などの疑いで逮捕することになりました。収賄は主にワールドカップ開催地決定に絡んで候補地の国から贈られたもののようです。アメリカのFBI・司法当局は、FIFA本部のあるスイスの司法当局と連携してかなり前からFIFA役員の不正の捜査を進めていた模様です。

サッカーに熱狂する国ではないアメリカが何故このような行動をとったのか詳細な理由ははっきりしませんが、贈収賄の金の操作のためには「アメリカ+スイス」の金融機関を活用することが考えられます。裏金の移動・資金洗浄はこの二か国の銀行口座間で行われたことは想像できます。アメリカは自国の金融機関を使った不正取引には捜査権を有するのではないでしょうか。また比較的最近「サッカー界」に参画したアメリカは、不正を是正しようとしないFIFAの古い体質にはカチンと来ていたのかもしれません。イギリスやドイツなどの「サッカー王国」の場合には逆にFIFAに役員を出していたりして犯罪糾弾が難しかったのではないかと思われます。

今回の逮捕者リストでは中南米のFIFA役員が多く含まれているようです。ヨーロッパと並んでサッカーが盛んな中南米ですが、世界的イベント開催に絡んで大金が動くという誘惑には弱そうです。アメリカとしては中南米のそうした体質にも手を焼いていたのだと思います。

「ワールドカップ招致」は「オリンピック招致」と並んで国全体が威信をかけて争奪する競争です。多分贈賄スレスレの行為はどこの国でも行っているものだと思います。どこに線を引くのか難しい問題もあろうかと思います。
現時点では「収賄」が大きく取り上げられていますが、その裏には「贈る側」が必ずいます。そちらへの「メス」はどのようになるのか。また加熱しすぎた大会招致合戦にも批判が向けられるでしょう。またIOC(国際オリンピック委員会)は大丈夫なのかということも気になるところです。



2015年05月27日(水) 血液検査結果など

17日間の四国遍路から帰って始めての血液検査結果がでました。最も注目していた「血糖指標」の「グリコアルブミン比率」は「18.9%」という高い値でした。毎日相当の距離を歩いて「運動」の結果で「血糖値」は下がっているのでないかと期待していたのですが結果は逆でした。実際には毎日これまで経験したことも無い程歩くことになったために、筋肉への「エネルギー供給としての血糖」を逆に高めに保つように身体が調整されたのかもしれません。

また早めの通御飯をたっぷり食べた後に、日頃よりづっと長いたっぷりの睡眠を取っていたので、前身の疲労回復のために睡眠時間中の「血糖量」が増したのかも知れません。一方で、帰ってから一週間程経過してから体重の減少傾向が現れ始めました。食事は普通通り食べていますが、体重は62Kg台から61Kg台に落ちました。足の筋肉は遍路から帰った後に急激に縮んでいる感がします。これが血液にどんな影響を及ぼすのか、もう少し観察していきたいと思います。

先週金曜日に会社の池で確認された「5羽のカルガモの雛」は今週月曜日に全部姿を消していました。社員の来ない静かな土曜・日曜日は、カラスと猫にとっては「カルガモ雛狩り」の絶好のチャンスなのでした。親ガモが卵を孵化させた池の浮島の同じ場所で恰も卵を抱くように身を沈めていました。「雛」全てを失ったことを理解できないでいるような可愛そうな姿でした。



2015年05月26日(火) ヤマダ電機店舗削減

ヤマダ電機が国内46店舗を閉鎖すると発表しました。今月初めにヤマダ電機は「ソフトバンク」との資本・業務提携しましたが、経営改善策第二段で不採算な店舗の閉鎖と言う改革案を採用しました。ヤマダ電機の昨年度の決算は、売り上げ1兆6700億円で▲12%、営業利益が199億円で▲42%、経常利益355億円▲29%、当期純利益93億円▲50%と減収・減益決算となっていました。

ヤマダ電機は池袋・新宿・新橋と都心への強引な出店が気にかかっていました。池袋はビック、新宿は淀橋の牙城ですがヤマダ電機が都心ターミナルマーケットに殴り込んだ形でした。結果は既存基幹店の力の前に敗れた形で経営上相当の負担となってしまったと思います。新橋の「キムラヤ」を買収した結果は分かりませんが、嘗て「キムラヤ」ファンであった私は少し苦々しい思いをしていました。都心店には外国人(中国人を中心にした)をターゲットにした総合免税店に業態を変えていくという手がありますが、免税店で売れる家電は限られるので採算が合うのかどうか微妙な所です。

四国遍路で徳島・高知を歩いた際に「ヤマダ電機」の大きな郊外店舗が目立っていました。両県でのヤマダとケーズの店舗展開を見てみると、徳島県ではヤマダ7店・ケーズ6店、高知県ではヤマダ9店・ケーズ4店とヤマダの積極性が店舗展開してきたことが分かります。今回46店舗の閉鎖は主に郊外型店舗の削減となるようですが、巨大店舗で家電を売り捌くという嘗てのビジネスモデルがそのまま顧客に受け入れられるのかどうか難しいところだと思います。ソフトバンクとどのように連携して行くのか気になるところです。



2015年05月25日(月) 「IS」の攻勢

イラク西部の戦略的要衝「ラマディ」がISに占領されたことに関して、アメリカの国防長官カーター氏はボロクソにイラク軍をこき下ろしました。カーター氏曰く「兵力で勝っていたイラク政府軍にはISと戦おうという意欲が無かった」。更にイラク政府軍がISの侵攻に抗しきれずに退却した際に大量の武器・弾薬を放棄し、それがISの手に渡ってしまったことも頭に来ているようでした。

この批難に対してイラクのハイダル・アル首相は「間もなくイラク軍のラマディ奪還作戦が開始され数日でラマディを取り返す」という勇ましい声明を発表しました。しかしこれはイラク政府トップの根拠が心もとない強がりのように思えます。イラク政府軍の兵士にとっては、世界中から「不満分子・命知らず」を集めた「IS」は、数では政府軍に対して劣っていても、命をかけて闘おうという戦意を奪ってしまう恐怖心を煽るようです。

ISがインターネットで広めている政府軍兵士が捕虜として捕まった時の残忍な処刑シーンや、占領地域を治める時の恐怖政治は、イラク政府に急遽「金で」雇われた兵士達にとっては非常に恐ろしい光景だろうと思います。ましてや自分達は安全な所からの空爆と、武器・弾薬の供与・兵士の訓練だけやって、命をかける本物の陸上侵攻作戦をイラク軍に押し付けるアメリカには反発があり、そうしたアメリカのIS政策に反論できないイラン政権への不満もあるでしょう。

最前線の兵士にしてみれば「IS」の攻勢に対しては武器を置いて退却し、自分達の「弱さ」を示すことこそアメリカ等の連合軍の陸軍投入への近道なのです。アメリカ国内世論においてもオバマ大統領の弱腰の「IS対策」への批判は強くなるばかりです。オバマ大統領はまだ我慢していますが、自分達のプライドを傷つけられた時のアメリカ国民は非常に熱くなり、後先のことはあまり考えずに武力攻撃に出ることは過去良くあったことです。長年アメリカの戦略の犠牲になってきた中東の人々は、アメリカ人の熱くなる「正義感」への訴え方を体得しているように思えます。



2015年05月24日(日) 照ノ富士優勝

大相撲夏場所千秋楽は非常に面白い展開となっていました。昨日大関稀勢の里が横綱白鳳を破ったために、白鳳と関脇照ノ富士が11勝3敗で並んだのでした。今日千秋楽では白鳳・照ノ富士のどちらか一方が勝って優勝するのか、両方とも勝って優勝決定戦になるのか、あるいは両者敗れて「4敗」力士の間で優勝決定戦となるのかという幾つかのパターンが想定されていました。

実際には照ノ富士が勝ち、横綱決戦で白鳳が日馬富士に敗れたためにすんなりと照ノ富士の優勝が決まりました。照ノ富士は23歳。来場所は大関に昇進するのは確実となりました。日馬富士も照ノ富士を良く援護射撃したと思います。横綱決戦ではまともに正面から当たる相撲となり、白鳳有利かと思われましたが途中の奇襲戦法が光りました。照ノ富士の活躍にもっとも刺激を受けたのは同じモンゴル出身の逸ノ城だと思います。照ノ富士・逸ノ城のふたりの相撲は毎日強くなっていく感じを受けました。大相撲は若い力士の台頭で人気を回復しました。



2015年05月23日(土) 遍路後の献血

今日は遍路後始めての「献血」にいってきました。2週間以上毎日早朝から夕方まで歩いた結果が血液の状況にどういう変化をもたらしているのか非常に興味があります。最も注目しているのは「血糖関係の数値」です。長時間歩くことによって足の幾つかの大きな筋肉は相当の運動をこなす事になり、筋肉は筋肉細胞の中で「糖」を燃やすことでエネルギーを得ているのですから、身体全体の「糖燃焼量」は格段に大きかったと思われます。血液中の糖量の調節は「インシュリン」が行ないますが、これまで経験したことのないような大量の「糖分」を扱うことになったことを契機に「インシュリン分泌」機能が刺激されて、血糖コントロールが改善するのではないかという期待を持っています。血液成分分析結果は来襲の水曜日頃通知されてきますので楽しみです。



2015年05月22日(金) カルガモの雛



会社の池でカルガモの雛5羽誕生しました。今日の朝まだ出勤している社員が少ない静かな時間帯に、会社の家でカルガモの親子を発見しました。数日前池に作られた人工島で卵を抱いている親鴨がいるという情報がありましたが、まさかこれほど早く孵化するとは思いませんでした。

雛5匹は小さいながらも結構元気に親鴨に付いて回っています。これからカラス・野良猫が親鴨の隙を狙って襲ってくることになりますが、頑張って生き残って欲しいと思います。



2015年05月21日(木) 急に「ポツダム宣言」が話題に

20日の国会で党首討論が行われました。選挙で議席を増やした日本共産党の志位委員長が久し振りの党首討論登場となりました。民主党の岡田代表も急遽党首となった維新の党の松野代表も安倍首相に上手くかわされてしまった中で、志位委員長の目の目の付け所はさすがだと思いました。

志位委員長は「集団的自衛権行使」に関する討論において安倍首相に対して「ポツダム宣言」に関する認識を質問したのでした。阿倍首相は「ポツダム宣言の内容をつまびらかに承知していないので論評は差し控えたい」と対応したということです。志位委員長が「ポツダム宣言が過去の日本の戦争について「間違った戦争」という認識を示している」とし指摘し、右よりの発言の目立つ首相の認識を確認したということですが、やはり阿倍首相は賢明にも明言を避けたのだそうです。

夏に発表される予定の「終戦70周年の阿倍談話」の内容に関して多くの懸念が寄せられる中、志位委員長が「ポツダム宣言」を取り上げたことは非常に時機を得たものだと思います。ポツダム宣言はその後の朝鮮動乱・米ソ冷戦・中国の台頭等の世界の情勢変化に対応してかなり様変わりして具現化されたと思います。しかし70年前の日本国民の「意識」としては「ポツダム宣言受け入れ」による敗戦がその後の出発点であったことは確かです。

ポツダム宣言の最初の方に書いてありますが、イタリア・ドイツが降伏した後の連合軍には日本全土を焦土とすることも可能な戦力がありました。日本は戦力が枯渇し国内経済も疲弊してしてしまい、特攻作戦やら全国民による本土決戦などの作戦を準備してはいたのですが、無条件降伏がもう少し遅れていたらどんな不幸が待っていたかはかり知れません。日本は70年前に戦争の悲惨さを深く理解したのだと思っています。

ポツダム宣言を「つまびらかに」読んでいなかった阿倍首相にはぜひ「ポツダム宣言」をじっくり読んで欲しいと思います。そして70年前の出発点がどんなものであったのか考えてほしいと思いました。



2015年05月20日(水) スリランカ内戦終結6年目

5月19日は2009年同日にスリランカ内戦が終了してから6周年の記念日でした。スリランカでは過去5回前ラジャパクサ大統領政権下で"Victory Day"として「お祝い」されてきました。今年1月の大統領選挙でシリセーナ氏がラジャパクサ氏に勝利し、シリセーナ政権は5月19日を"Remembrance Day"と改め、民族・敵味方関係なく内戦で亡くなった犠牲者を追悼する記念日という位置づけに変更しました。

首都コロンボで大規模な追悼集会が行われた一方、北部の前LTTE支配地で最後の激戦地となったムライティヴ近郊ではタミール人の犠牲者追悼行事を行うことが初めて許されたということです。過去5年間は旧LTTE支配地域の北部・東部の宗教施設・政党事務所・報道機関の建物は5月19日に不測の事態が起きないよう厳重に監視され追悼行事も許されなかったということです。

内戦終了後も民族間の融和が進まず、働き手を戦争で失ったタミール人の人達への経済支援の仕組みが上手く機能しない時間が経過してきました。内戦終結を実現した前ラジャパクサ大統領は長年の国家の懸案を解決したとして「英雄」扱いされ、その延長で近親者を枢要なポストに就けた身内に利益を誘導する半ば独裁政治が行なわれてきたのでした。今年就任したシリセーナ大統領はラジャパクサ政権で方向を誤ってしまった様々な政策をひとつひとつ是正していこうとしています。「Victory Day」から「Remembrance Day」に変更したことは非常に思慮深い政治決断は素晴らしいものだと思いました。



2015年05月19日(火) ミャンマーからの難民

ミャンマー西部から脱出したらしい「ロヒンギャ」と言う人達が漂流難民となって東南アジア諸国に辿り着き問題となっています。「ロヒンギャ」というのはミャンマー西部(一部バングラディシュ東部)に居住していたイスラム教徒の人々で、仏教国ミャンマーにおいて市民権を剥奪されたり迫害されて祖国を脱出したのだそうです。

東南アジアと南アジアの境界地域は殆ど馴染みがありません。東南アジアの国は「ミャンマー(ビルマ)」で南アジアではバングラディシュとなります。パキスタンからインド・バングラディシュ・ビルマまで嘗ては広大なイギリスの領土でした。イギリスの統治政策は基本的に植民地内の対立を煽ることで宗主国への抵抗を和らげるというものでしたので、仏教国ビルマにおいてはイスラム勢力は嘗てミャンマーを治めるために便利に使われたのかもしれません。

更に第二次世界大戦期の日本の占領政策も混乱に拍車をかけたようです。日本は親日的なミャンマー人を糾合して現地政権樹立を目指しました。しかし日本の後ろ盾を得て動いた人達は日本の敗戦に際して逆に戦犯として扱われてしまったようです。こうした事情は日本軍と一緒にインパール作戦を戦った「スバッシュ・チャンドラ・ボース」に似ています。東南アジアから南アジアへの回廊はこの悪名高い「インバール作戦」によって知られるところとなっています。

ミャンマーといえば「アウンサン・スーチー女史」と「軍事政権」の対立の構図と、最近の民主化の動きの情報程度しか知りませんでした。ミャンマー東部のバングラディシュ寄りの地域がどのような状態になっているのか全く情報がありませんが、民主化を訴える「アウンサン・スーチー女史」には是非ともこうした「イスラム難民問題」にも正面から取り組んでもらいたいと思います。



2015年05月18日(月) 遍路の感想(1)

4月29日から歩き始め5月15日で区切った今回の遍路第一弾の実績・感想を記載しておきます。

参拝した寺院:徳島県の「第1番霊山寺」から高知県の「第37番岩本寺」まで37寺院/88寺院。
歩いた距離:423Km/1,132Km(遍路地図データから作成)
宿泊場所:宿坊2箇所(安楽寺、大日寺)、公共宿3箇所(ウミガメ荘、桂浜荘、土佐荘)、その他11箇所。

17日間で88箇所の約1/3を回りました。少し時間が掛かり過ぎで「贅沢」なお遍路だったと思います。もう少し午後遅くことは出来たと考えています。歩数計の記録で最も多く歩いたのは台風通過の5月12日の「57233歩」でした。この日は台風の影響もあって道に迷った結果、歩数が増えてしまったのでした。

遍路前後の体重は変化がありませんでした。行く前の平均は62.5Kgに対して帰った当日も62.5Kgでした。筋肉で言うと「上半身の筋肉」が落ちて「腰から足に掛けての筋肉」が増しました。筋肉の総量が増えた感じですので相対的に「体脂肪」が減っていると思います。

足の「肉刺(まめ)」の数は、右足に4箇所+左足に2箇所。台風前には左足小指一箇所だけでしたが、台風雨で靴がびしょ濡れになって一機に肉刺が増えました。足の爪内出血は左足2ヶ所。歩いている時の実感として「左足」に無理をさせているという感覚がありました。

朝・夕の食事では相当量の御飯を食べましたが、排便の量・回数とも遍路以前と目立った変化はなく、その代わりに小便の回数が目だって増えました。水分摂取量は朝詰めた900ccの水が夕方には少し残る程度まで飲みました。朝夕摂取した淡水化物を徹底的にエネルギーに変えたのだと思います。

睡眠時間は普段より多く8時間以上は取ったと思いますが睡眠によって体力回復することが朝実感できました。肉刺の治り具合とか、体力回復具合、夕方の手足が「浮腫み」が朝には消えていること等、身体の治癒力・新陳代謝が活発化していることを実感しました。



2015年05月17日(日) 「大阪都構想」否決

大阪維新の会の橋下代表が提案する「大阪都構想」に関する大阪市民の住民投票が行われました。この「大阪都構想」に対しては「自民、民主、公明、共産」の与野党が共闘して反対運動を繰り広げました。橋下代表は「大阪都構想」が否決されたときには政界を引退するという背水の陣で臨みましたが、結果は約1万票の差で否決されました。NHKの開票速報では開票作業の終盤で「大阪都構想」賛成表が反対票を上回っている段階で「否決確定」を放送しました。NHKの勇み足かなと思いながら観ていましたが、結果的には残された票の中に「反対票」が多かったようで速報どおり否決されました。開票の方法・順序・報告などの方法に恣意性があるのかと疑ってしまうような開票作業とNHKの報道でした。

投票前には「大阪都構想」反対が優勢だと報道されていましたが大阪維新の会は選挙運動後半で大分頑張って接戦まで持ち込みました。NHKの投票所出口調査によると60歳以上では「大阪都構想」反対者が多かったと報道していますが、「大阪都構想」が現在の大阪市の高齢者福祉政策を後退させるのではないかという疑念が大きかったのだと思います。「府と市の二重行政の無駄を省く」という正論が「住民サービス低下」という市民の直接的利害関係に負けた格好です。また市・府の議会・役所の既成組織に勤める人達(管理者も組合員も、与党も野党も)自分達の職場を守ることで利害が一致しますから、基本的に「大阪都構想」には反対でしょう。維新の会は善戦したと思います。



2015年05月16日(土) ベルリンフィル後任指揮者決まらず

さいたまに帰ってインターネットで最近の情報を確認したのですが、まずベルリンフィルの後任常任指揮者の選挙が行なわれましたが、結局今回は決まらずに1年以内にもう一度選挙を行なうことになったとのことです。5月11日午前10時、ベルリン市郊外に124人の団員が出席して指揮者選出会議が開催されました。会議は日没まで続いたようですが意見がまとまらず、選出選挙は「1年以内に会合をやり直す」ことになったということです。

オーケストラ役員の「ペーター・リーゲルバウアー」氏は記者会見で、数回の投票を繰り返したにもかかわらず「残念ながら選出には至らなかった」と述べたそうです。選挙の過程でどのような「名前」が出て、「何票」獲得したのか分かりませんが「相対多数」で決めないところに今回の難しさがあったのだと思います。

現職ラトルの後任として名前が挙がっているのは、ベルリン出身のドレスデン国立歌劇場管弦楽団のクリスティアン・ティーレマン(56)、ラトビア出身で米ボストン交響楽団と英バーミンガム市交響楽団を掛け持つアンドリス・ネルソンス(37)、ベネズエラ出身で米ロサンゼルス・フィルハーモニックの指揮者、グスターボ・ドゥダメル(34)の3人がショートリストに残ったと観る向きが多いようです。

この3人から一人選ぶことは現時点で困難だということでしょう。私の観想を言うと、ティーレマンは「地元出身」ですが、その指揮ぶり・音楽は非常に硬い印象で、「風貌」も嘗ての「ドイツ」のムードが漂う「危険な匂い」のする人柄だと思います。一方「ネルソンス」は人柄円満・指揮ぶりも天真爛漫な感じで好感度は高いのですが、「音楽の深さ」に疑問符が付きますし、「円熟するとどうなるのか(単なる良い人で終わる)」という心配があります。「ドュダメル」はその才能は誰しも認めるのですが、その才能は「壊れやすいガラス」のような脆弱さを感じざるを得ません。「ドュダメル」もこれからどのように円熟していくのか見えない指揮者です。これから一年間でどのような指揮者がベルリンフィルを振り、その成果がそのようなものとなるのかが選出の鍵となることでしょう。



2015年05月15日(金) 遍路十七日目(第37番岩本寺)

○安和から第37番岩本寺まで(29Km)
○JR窪川駅からJR高知駅へ(JR特急南風24号(15:51))
○JR高知駅から高知龍馬空港へ(とさでん交通)
○高知龍馬から羽田空港へ(JAL498便)
○羽田空港から武蔵浦和へ(エアポートバス)

歩行距離:29Km、歩数:46,510歩 自宅に戻り。

第36番青龍寺から第37番岩本寺への遍路道58.5Kmの後半です。宿泊地の「安和」から岩本寺のある「窪川」まで歩きました。岩本寺が今回の遍路の「区切り」となります。岩本寺の太子堂で太子に区切りのご挨拶をしました。予定では高知市内に戻り、そこで一泊して明日(土曜日)に「さいたま」に戻ろうかと考えていたのですが、高知市内の桂浜も見たし、飛行機の最終便に空席があるのなら今日中に戻ってしまおうと考えました。

安和から次の街「土佐久礼」までの間は、本来旧遍路道と国道56号線が二つの選択肢があるのですが、旧遍路道が土砂崩れで通行止めなので「国道」を歩いていく方法しかありませんでした。国道には「焼坂トンネル」という800mの長さのトンネルがあり、トンネル内は暗く歩行者用の路肩が狭いので大変危険です。ここではトンネル手前で貸し出されている「反射タスキ」を着けて歩きました。

土佐久礼からは二つの旧遍路道(そえみみず遍路道、大坂遍路道)と国道56号線が走っていますが、大坂遍路道が通行不能となっているので「そえみみず遍路道」を通りました。「そえみみず遍路道」は途中で高知自動車道を交差しているのですが、遍路道を高速道路の下を潜らすために、一旦高速道路下まで階段で降り、反対側で急な階段を連続して登るように遍路道を補修していました。登りの階段は非常に長いので、疲れたお遍路を苛めるかのような感じを受けます。高速道路設計者は遍路のことは余り考えなかったのだと思いますが、新たな「遍路ころがし」出現です。

国道を歩いていると「道の駅」「観光物産センター」が近くに連続して設営されている場所が何箇所かあることに気付きました。施設はドライバーのトイレ・休憩場所だったり、土産物が買えたり、食事が食べられたりしますが、その内容は殆どダブっているようです。なんでこんな無駄なことをするのだろうと不思議に思いました。多分「道の駅」は国土交通省、観光物産センターは市町村か農協が関連しているのだと推測されます。

JR仁井田駅あたりでは遍路道地図帳には記載されていない旧遍路道の標識とともに、接待所「風自遊庵」の案内がありました。岩本寺までまだ1時間以上歩かなければならにのでお接待をお受けすることにしました。そこは東京に住んでいる遍路経験者のご夫婦が最近(4月末)始めた「接待所」でした。家の前には「多摩」ナンバーの乗用車が置かれていました。ここで冷たい麦茶とお菓子を頂きました。ご夫婦は東京との行ったり来たりの生活をされているそうです。その場所前後の区間にはトイレ・休憩所が少ないので歩き遍路には大助かりだと思いました。こんな感じで歩き遍路サポート施設が増えて行くと「歩き遍路」の難易度は抑えら、多くの人が歩き始めることができると思います。

窪川の街中に入って「岩本寺」に参拝して今回の区切りをつけました。窪川の町で驚いたことに岩本寺の少し手前に「弦楽器製作工房」ありました。高橋バイオリン工房というその工房内には数台のバイオリンと作りかけのバイオリン、様々な木材が置かれていました。ご主人はここでバイオリンも教えられているようでした。

その後JR窪川駅に引き返して「さいたまへ戻る」算段を開始しました。2時台の高知方面特急が出たばかりだったので、高知行きは3時51分の特急に定め、飛行機の空き状況を知るためにJALの予約センターに連絡を取りました。高知−羽田の最終便は19時05分発でまだ3席空いているとのことでした。後は高知駅から高知空港までの連絡さえ上手くいけば最終に搭乗できるます。高知空港に問い合わせたところ、高知駅に17時05分に着くJRの列車に乗れば、高知駅前を17:15分に出発する空港連絡バスに乗ることができ、高知龍馬空港には17時50分には着くので、最終便には間に合うことが分かりました。この手段が円滑につながり無事にさいたまに戻ることが出来ました。今日の移動手段は非常に下記の通り非常に多彩でした。

土佐安和→第37番岩本寺 29Km 徒歩で7時間
JR窪川駅→JR高知駅  72Km 特急で74分(2,640円  
JR高知→高知龍馬空港  16Km バスで33分(720円)
高知龍馬空港→羽田空港 824Km 飛行機で75分(17,890円)
羽田空港→武蔵浦和駅   53Km バスで50分(1,540円)



2015年05月14日(木) 遍路十六日目(第37番岩本寺途中の安和まで)

○宿から安和まで29Km

歩行距離:15Km 歩数:25,460歩 宿:安和の里

今日の行程は「第36番青龍寺」から「第37番岩本寺」に至る「58.5Km」の遍路道一日目です。明日岩本寺を遍路して今回の遍路の区切りとなります。岩本寺参拝を終えた後はJR窪川駅から特急列車を使って高知に戻り、高知に一泊して翌日(土曜日)の飛行機でさいたまに帰る予定にしています。足が元気で岩本寺を早く終えることが出来たなら、高知に宿泊せずにその日の最終便で買えるという選択肢も残されています。

「第36番青龍寺」は細長い横浪半島の先端にあり北側には9Kmに及ぶ深く細長い入り江があります。第37番岩本寺に向かう遍路道には3つの選択枝があります。南側の横波半島を歩くもの、もう一度北側に戻って北側の海岸道を歩くもの、そして9Kmの「浦の内湾」を船で進むものです。湾の入り口の「埋立」から湾内部の「横浪」まで「じゅんこう」と呼ばれる渡し船(須崎市営)が通っているのです。

昨日露天風呂と夕食で一緒になった北海道からのベテラン遍路が「海の中の遍路道」を強く勧めてくれました。ここは遍路道が海の中を通っているという特殊な場所なのだそうです。また「国民宿舎土佐」の方も「海の遍路道」が本来の道だと教えてくれました。というのは9Kmもある特殊な入江となっている「浦の内湾」には大きな潮の干満に伴う海流を利用して昔から渡し船が運行されていて「空海」もその渡し船を利用したという話があるようなのです。潮が引くときには湾の奥の横浪から埋立に向かう渡し船が、潮が満ちようとする場合には湾の入り口の埋立かあ湾の奥の横浪に向かう渡し船が運行されていたのだそうです。

「じゅんこう」は「埋立」から「横浪」という町を結んではいますが、船が沿岸にすむ住民の対岸に渡る交通手段であるために8箇所程度途中駅が設けられています。10:05分発の「埋立」発の渡し船には4人の遍路客の他に乗船客はおらず、船はジグザグに進むの行きましたが、途中の停留所に客がいないことを確認して素通りして結局他の客は誰も乗らずに「横浪」に到着しました。この10時の渡し船の前には7時の船があってそれには沿線の通学児童・生徒が沢山乗るようですが10時の船には遍路客の他には利用客が殆どないようです。10時の渡し船へは国民宿舎土佐の方が車で送ってくれました。宿から5Km程度の距離なのですが歩くとなると大変な道のりなのです。台風の中の長距離歩きで両足に幾つか「肉刺」を作ってしまったので無理をするのは止めました。

久し振りの朝食をゆっくり食べて9時頃ロビーに降りて車の出発を待っている時に昨日は気づかなかったのですが「パソコン」がロビーの隅にあることに気づきました。駄目で元々と歩数計データアップロードを試してみると、なんとUSBソフトダウンロードに成功し歩数データをアップロードすることができました。14日分貯められるデータは一日部だけ消えていましたが13日分は登録することができました。昨日気づいていれば全てのデータをアップロードする事ができたのですが。昨日はエレベータの無い3階の部屋から洗濯機の空き具合のチェックと露天風呂への往復など何階かロビーの前を通っていたのですが気付かなかったのでした。

渡し船の船旅は1時間程度でした。非常に美しくのんびりした船からの景色は最高です。船は17人乗り程度の小さなものですが、スピードは歩くよりずっと早いので得した気分です。運賃は620円でした。横浪に11時に到着し近くの食品店で昼食様の「おにぎりとパン」を買ってから歩きはじめました。途中「須崎市内」を抜けて「阿和」という町で宿をとりました。今日の歩行距離は15Km程度と非常に短いものとなりました。「歩き」の他に車で「5Km」、船で「9Km」移動しました。

今日の宿の民宿「安和の里」では客は私一人でした。昨日結局洗濯しなかったので昨日の分も含めてしっかり洗濯しました。天気が良かったので洗濯物は良く乾きました。「安和の里」は海から直ぐのとことにあり、二階の洗濯物干場からは綺麗で静かな海を眺めることが出来ました。高知県もここまで来るとサーファーも居なくて海はとても静かです。この日は明日しっかり歩くために足の肉刺の処置をしてタップリ眠りました。



2015年05月13日(水) 遍路十五日目(第33番雪渓寺から第36番青龍寺まで)

○宿から第33番雪渓寺まで2.6Km
○第33番雪渓寺から第34番種間寺まで6.3Km
○第34番種間寺から第35番清瀧寺まで9.8Km
○第35清瀧寺から第36番青龍寺まで13.9Km
○第36番青龍寺から宿まで2Km

歩行距離34.6Km 歩数:51,594歩 宿:国民宿舎土佐

国民宿舎桂浜荘は桂浜を見下ろす丘の上にあります。朝食は6時30分からなので、その前に桂浜の「坂本龍馬」の像を見てきました。宿の人の説明では桂浜まで徒歩で10分程度とのことでしたが、宿のある丘の上から海抜0メートルまでは坂道なので桂浜は遠く感じました。今日の遍路行程は軽く30Kmを越えるものですし、昨日の台風暴風雨の中長時間歩いたので足に「肉刺」が何カ所かできているのでこれまでほどのスピードでは歩けないと考えていて、足への負担を少しでも減らそうと考えていたからです。

しかし、折角高知まできたのに「桂浜の竜馬像」を見ないで帰るのはもったいないので、足への負担は二の次にして見に行ったのでした。坂本竜馬の像は太平洋の朝日を望む丘の上にありました。像のレプリカは何度も見ていますし、家にも小さな長崎土産のミニチュア像がありますが本物は非常に大きいものです。高知における龍馬の存在の大きさを実感できる像です。桂浜には「龍馬」と並んで有名な「土佐犬」のショーがあるようでした。

今日は高知県の西方面の4カ所の札所を回りました。宿屋を7時に出発して「第33番雪蹊寺」「第34番種間寺」「第35番清瀧寺」「第36番青龍寺」とまわりました。宿から「雪渓寺」まで1.2Kmだと思っていた「2.6Km]もあることがわかり、一日の歩行距離は延びました。これに朝「龍馬像」を見に行っているのでトータルで3.5Kmほど追加に歩いた感じです。因みに今日の予定歩行距離は「34.6Km」ですから35Km以上は歩いたことになります。

今日の遍路道周辺の風景は高知市・土佐市の田園風景です。昨日の雨で各所で用水路の水嵩が増しているのですが、大きめの川とか1m幅位の用水路等で大きな「鯉」の産卵シーンが各所で見られました。30cm位の鯉が集まってバシャバシャ水音を立てていました。遍路道沿いの小さな川で30cm程の鯉が泳いでいることには驚きました。

高知県南部のこのあたりで「猫」に首輪を掛けてリーシュで繋いでいる所を何か所かで見ました。紐で繋がれていることに慣れている猫は堂々と「家猫顔」でいますが、慣れていない猫は何とかして紐の束縛から逃れたがっているようでした。紐で繋いだ猫は運動させないと太るばかりですから犬と同じように散歩させるのでしょうか。野良猫と区別するためにしっかり束縛しておくという飼い方はそれなりに意義があると思いました。

「第35番清瀧寺」で休んでいた女性遍路から小振りの「キュウリ」を数本貰いました。彼女は沿道でキュウリを買って、食べるに便利なように塩でもんでもらったのだそうで10本近い小さなキュウリを持っていました。また昨日の雨で「IPAD」が濡れたが大丈夫だったとも言っていました。非常に大きなリュックを背負っている理由が分かりました。私もお接待に大きな夏蜜柑二つを頂きましたがそれを手にぶら提げて歩くのは結構大変でした。「青龍寺」へ行くまでの旧遍路道を登る前に自動車で遍路されているご夫婦から「森永ミルクキャラメル」のお接待を頂きました。小さいお接待は有難いです。

「第36番青龍寺」に行くには「宇佐大橋」という大きな橋を渡らければなりません。実は青龍寺は9Kmもある「浦の内湾」の南側の横浪半島(と言うらしい)の先端近くにあるのです。宇佐大橋が渡している狭い海峡はさらに9Kmも奥に広がっているのです。青龍寺のある横浪半島にはスポーツで大活躍の「高知明徳義塾」があるのです。遍路道沿いでも何か所かで看板を観ました。元横綱「朝青龍」は明徳義塾高校を中退して角界入りしました。朝「青龍」の四股名は「青龍寺」から採られています。ゴルフ界でも松山秀樹、横峰さくらを輩出しています。

今日の宿の「国民宿舎土佐」は眺望の良い露天風呂で有名なのだそうです。「第28番大日寺」下の宿「喫茶きらく」でいっしょになった九州からきているベテラン遍路の方から強烈に勧められました。しかし残念ながらサービス抜群の「国民宿舎桂浜荘」の後だったので、その設備とサービスでは見劣りしていました。3階の部屋を使わせてもらいましたが、洗濯コーナーは一階にあって、私が宿についた時には3台ある洗濯機は全て使われていました。洗濯器の空きを確認するために洗濯物を持って2回程一階を往復しましたが疲れるのでこの日の洗濯は諦めました。エレベータの無い中での3階までの往復はキツかったです。

「国民宿舎土佐」の夕食でご夫婦二人と「犬」で遍路されているという面白い遍路客にあいました。奥様は旦那様のリュックだとか「犬」の必要な装備が全て積んで車を運転して札所を回る「車遍路」をし、旦那様は荷物を車に置いて軽装備で歩き遍路をしているいのだそうです。「太り気味な犬」も歩き遍路に付き合っているのだそうですが、歩く距離は「8Km位」が限度なのだそうです。奥様は先回りして、遍路道のスーパーで待っていたり札所の駐車場で待っているのだそうです。そして宿泊地で合流するのです。最近は歩き遍路は減少傾向にあり「車遍路」「バス遍路」が主流になっていて各札所にはそうした変化に対応して駐車場が完備されています。夫婦のお遍路する場合にはどうしても体力差があって女性に合わせた歩行になることは仕方ないことですが「歩き+車」遍路は便利だと思いました。四国に近い地域の方なら一層便利でしょう。因みにこの夫婦は九州から遍路だとおっしゃていました。



2015年05月12日(火) 遍路十四日目(第29番国分寺から第32番禅師峰時まで)

○第28番大日寺から第29番国分寺9.2Km
○第29番国分寺から第30番善楽寺まで6.9Km
○第30番善楽寺から第31番竹林寺まで6.6Km
○第31番竹林寺から第32番禅師峰寺まで5.7Km
○第32番禅師峰寺から宿まで6.5Km

距離34.9Km、歩数:57,233歩、宿舎:国民宿舎桂浜荘

この日は遍路道は高知市内を北から縦断するように走っています。遍路道は途中土佐電の市内電車の文殊通駅を通過することになるので、一旦文殊通駅で遍路道を離れ電車に高知市内に出てホテルに荷物を置き、軽装となって再び文殊通駅から遍路を始めようと考えていたのですが、それは止めて出来るだけ先に進むことにしました。高知市内では「桂浜だけ」は見ておきたいと考えていたのですが、第32番禅師峰寺から少し頑張れば「桂浜」に近い宿に泊まることが出来るのでそこで宿を取ることしたのでした。その結果この日の歩行距離は約35Kmと今回の遍路で最長となりました。

一方で今日は台風6号が高知県に接近する日に当たってしまいました。天気予報では昼前から午後・夜にかけて暴風雨となると報じていました。台風季節がまだ早いとは言え、高知県に近づく台風は関東で経験する台風と違って「活きが良い」でしょうから気を付けなければなりません。雨が降り出す前にできるだけ距離を稼いでおきたかったので、朝食は抜きにして代わりに「オムスビ」を作ってもらって朝5時に宿を出発しました。暗いと道を間違える恐れがありますので、明るくなって遍路道の目印が分かるようになるのが5時だったのです。

朝5時は厚い雲が垂れ下がっていましたが雨・風はまだ無くて、第28番大日寺下の宿を出発してから次の「第29番国分寺」まで雨は降りませんでした。ところが国分寺で参拝している間に台風特有の急な土砂降りとなりました。国分寺の寺の庇下を借りてカッパの上下を身に付け、菅笠にビニールカバーを付け、リュックにカバーをしました。この後散発的に激しくなる台風の雨・風は午後5時過ぎまで続きました。一方台風の動きは天気予報よりは早く午後6時過ぎには台風一過で夕焼けと虹が綺麗に見える天気となりました。

今日の激しい雨・風に「弱点」を露呈したのが「カッパ」と「リュック」でした。カッパは遍路に取り組むに当たって新規購入も考えたのですが、大昔買った「ゴルフ用」の上下カッパがあったのでこれに防水スプレーで防水処理を施して持ってきたのでした。遍路一回目の使用ではまあまあ防水機能が働いていましたが、二回目に当たる今日の豪雨には対応できす、カッパを着けても下にどんどん雨が染み込む状態となってしまいました。体温の低下で風をひかないように気を付けました。このカッパは汚れも目立つし防水機能は全く無いので捨てることにしました。一方で竹林寺で「50円(ダイソウ製)」のカッパを売っていたので購入して上限カッパの上に着ました。これは新たに雨の侵入がない分身体を冷やさずに済んだので良かったと思います。

リュックの弱点も「防水機能」です。リュック用の防水カバーを買って持ってきているのですが、台風の激しい雨においてはリュックが背中と接する部分から雨水がリュックに侵入しリュックの中身が全部びしょぬれに成ってしまいました。宿についてから着ていた衣類とリュック内の衣類全部を洗濯しました。更に宿の部屋の中ではエアコンの乾燥機能を全開にして、靴・リュックなど洗濯できないものを乾かしました。台風の暴風雨の中を11時間以上歩いたのですから、どんな立派な装備でもずぶぬれにはなったと思います。

雨の影響で道にも迷いました。遍路地図該当ページのコピーを持ち歩いているのですが、それが雨に濡れてしまって使えない状態になってしまい目印も見失って何度か道に迷いました。高知県内の遍路道は徳島県の遍路道に比べて目印の数が少ないようですがこれが迷った原因のひとつです。また高知市内の五大山という山には札所第31番竹林寺と「牧野植物園」が同居しています。遍路の印もあれば植物名を記した名札もぶらさがっています。そして台風の暴風雨の中ですから、できるだけ後戻りしたくないという気持ちが優先したり、五台山で植物の名札があったので安心して進みすぎてしまったのだと思います。ガソリンスタンド、一般の民家の方に道を聞いて何とか遍路道に戻ることができましたし、五台山では牧野植物園で台風の最中に作業されていた方に道を聞いて編路道に戻ることが出来ました。結果的に距離的にはそれほどロスはしなかったのですが気分的に大分不安でした。

今日の遍路の道すがらどうしても寄りたかった場所が二つありました。それらに寄りながら午後4時30分前には宿に着いたのですからびしょ濡れになりながら大変頑張ったと思います。その一つは「仙台伊達騒動」の主役のひとり「伊達兵分」の墓です。伊達騒動で幕府から藩主後見人としての責任を問われた伊達兵部は仙台伊達藩から「土佐藩預かり」となって高知で亡くなったのでした。その墓が五台山中腹にありました。この墓を捜し求めたことも道に迷った原因の一つではありました。

もうひとつは「武市半平太」の生家・墓です。武市半平太は幕末土佐藩の土佐勤王党の親玉です。土佐藩からは坂本竜馬・中岡新太郎等の幕末の英雄が生まれていますが、武市半平太は坂本竜馬・中岡新太郎の兄貴分に当たる存在であり、幕末の騒擾を生き延びていれば「西郷・大久保」に並ぶ指導者になっていたとされる人物です。残念ながら藩主の山内容堂と折り合いが悪かったこともあり様々な騒擾の責任を背負って切腹させられました。

武市半平太の生家は山裾にある大きな農家でした。家の裏山には武市家の墓があり、半平太と妻「富」の墓が並んで立っていました。家の方が武市家とは別の方の所有となっていますが入口の門から中を覗くことが出来ました。昔の姿がそのまま残っていました。

今日の宿は「国民宿舎桂浜荘」です。龍馬像で有名な「桂浜」に近く隣には坂本龍馬記念館があります。残念ながら夕方到着し朝早く出発するので龍馬記念館は見学することはできませんでした。「桂浜荘」は遍路宿というよりは観光客用の宿で遍路客用に「遍路パック」という安い料金設定コースがあります。お風呂も料理も同じですが料金だけディスカウントされているようで非常に有難いです。この宿のサービス精神は特筆にあたいするでしょう。非常に細かいところまで配慮されているのです。一例を上げると空の電気ポットと茶器が備えられているのですが、水道からポットに水を汲むための特別な形をしたコップが備えられていました。各部屋に備えられたお尻粗い装置付き便器は非常に嬉しいものでした。晩御飯・朝御飯も非常に美味しかったです。

台風の暴風雨中長時間歩いたので足に「肉刺」が何カ所かできてしまいました。靴の中で水がジャブジャブ言うくらい水浸し状態だったのでふやけた足の裏の皮には酷な歩きでした。宿の部屋で教科書通り「肉刺」を潰して水を出し消毒した後に保護のためにテーピングしました。しかし「肉刺」の痛みはかなりな物なので明日が心配です。



2015年05月11日(月) 遍路十三日目(第28番大日寺まで)

○宿から第28番大日寺まで31Km

距離:31Km 歩数:47,645歩 宿:民宿喫茶きらく

今日は第27番神峰寺麓の「ドライブイン27」から高知市に向けて歩きます。昨日夕方に前方の「下山」まで進んでおいたので今日はその地点までバスで移動しました。7時丁度の朝一番のバスに乗ったのですが、車内の二人掛けの席では傍らにカバンと荷物を置いて席を一人で独占した高校生が爆睡していました。彼らは毎日このバスで通学しているに違いありません。偶々乗り合わせた遍路が彼らの邪魔はできません。一番後方の席で小さくなっていました。

今日の遍路道は「国道55号線」「土佐黒潮鉄道ごめん・なはり線」に沿った「歩道・サイクリングロード」をひたすら歩くことになりました。海岸端の道なので傾斜はありませんので退屈凌ぎに「歌の練習」をするには絶好の区間でした。この区間は左手に太平洋を見ながら進むだけで非常に退屈する区間です。「退屈=疲れる」という公式が成り立つようで、この日泊まった「きらく」のおかみさんは「第27番からやって来る遍路客の無断キャンセルが多い」と嘆いていました。私も電話で宿を予約したときにおばさんから「どこから歩き始めるのか?足に自信はあるか?」などの鋭い質問を受けました。そんなこともあって今日は頑張って午後4時過ぎには宿に着くようにしました。

今日の遍路道沿いでは二つの面白い場所がありました。ひとつは直立する「道路」です。高知県香南市夜須町に差し掛かる下り坂から見えた光景です。アスファルトで舗装された「道路」が90度近く切り立っているものでした。これは実際には「橋」で「高知県手結港臨港道路可動橋」というもだそうです。私の見たのは橋が持ち上がっているところでした。そして橋を眺めていると橋がだんだん下がり始めました。午後1時になって橋が降りる時間になったのでした。

香南市の街中には古い建物などを解説した立て札が沢山たっていました。それほど珍しかったり貴重だったりしないけれど、街が嘗ての伝統を大切にしているのだろうなと想像しながら歩きました。そんな雰囲気の中で「絵金蔵」に遭遇しました。遍路道に「絵金蔵→」という看板を見つけたのでした。「絵金蔵」という妙な名前に釣られて寄道してみると、そこには立派なミュージアムと劇場がありました。今は香南市ですが嘗ての赤岡の町には江戸から明治期に活躍した画家の「弘瀬金蔵(絵金)」という画家が住んでおり、襖に描かれた絵金の浮世絵が多く残っているのだそうです。更にその絵金の描いた「浮世絵」をバックにした「芝居」が行なわれ、そうした伝統文化保護に賛同した「市川海老蔵」公演も今年の秋に行なわれるのだそうです。非常に元気な「香南市赤岡」の町を発見しました。「絵金蔵」のことを教えてくれた家には「大きな身体の可愛い声をした猫」が飼われていました。名前は「じゃじゃまる」だそうで8歳になる三毛猫です。体重は5Kgで少し太り気味でした。この辺りでは有名な猫なのだそうです。

今日は終日良い天気で気持ちよく歩くことができましたが、明日はは「台風6号」が接近するので天候が心配です。台風は今日の夜中から沖縄石垣島に接近して前線を活発化させるために、明日の高知県の天気予報は昼前から暴風雨です。



2015年05月10日(日) 遍路十二日目(第27番神峰寺)

○宿から第27番神峰寺まで25.9Km
○第27番神峰寺から下山まで6.5Km

歩行距離:32.4Km 歩数:53,196歩 宿:ドライブイン27

民宿「うらしま」には黒猫の「しま」が飼われています。まだ若い感じです。依然は「うら」という兄弟黒猫がいたそうですが交通事故でなくなってしまったそうです。民宿「うらしま」さんの前の通りはバスも通る結構交通量の通りでした。

今朝7時13分のバスで出発しようと考えていたのですが、「うらしま」を出発するときに、宿の奥さんが6時59分のバスでも間に合うと言うのでついその言葉に乗って急いでしまいました。バスには無事に乗れたのですが、座席に腰掛けるときに吸水ストローをどこかに引っかけてしまったらしく、水が漏れ出ていることに降りる間際に気づきました。飲み口が外れて床に落ちていしまっていたことには気がつき拾ったのですが、二つあるチューブ固定装置の一つがリュックから外れて無くなっていることにバスを降りてから気づきました。チューブ固定装置は一つでも十分固定可能なので利用には支障がでませんが、急いでしまったことによって注意力が散漫になっていたことがこの失敗の原因です。やはり自分のぺースを守らないと不都合な事が起こります。

今日遍路道の途中の公衆電話で11日、12日の宿を予約しました。事前に想定していた宿より少し先の宿を選びました。事前に想定したプランでは「自分の体力」に自信が無く、標準的な遍路の一日に歩く距離をベースにして、後半は体力不足でバテる可能性を想定し、高知県に入ってからは少し余裕を持った計画になっていました。しかし実際に歩いてみると、毎日の通勤で歩く訓練ができていたからだと思いますが、一日に歩ける歩数は少し多めにしても大丈夫なことが分かりました。体力不足に陥るのではなく多めの歩数に身体が順応できるようになっているようです。

今日の予定は結構厳しいもので、昨日進んでおいた「道の駅キラメッセ室戸」までバスで移動し、そこから21.9Km歩いて、今日の宿の「ドライブイン27」にリュックをおいて宿から4Km先の「第27番神峯寺」を参拝し、そこから次の札所に向かって出来るだけ進もうと計画しました。結果としては更に6.5Km程あるいて「下山」というバス停まで進み、そこから今夜の宿「ドライブイン27」にバスで戻ってきました。

「神峯寺」までの往復は、さすがに20Km以上歩いた後の山登りだったので厳しいものでした。途中横浜からきている「原田さん」にあいました。原田さんとは「徳増」・「うらしま」と宿が一緒でした。72才だという原田さんは、華奢な身体ながら山登りで鍛えた脚力と近代的遍路装備(くつ、リュック、水筒など)と常に早め早めに対応する用意周到さでどんどん健康的に進んでいます。私も原田さんを見習って、午後に時間と体力のある限り少しでも前に進んでおくという作戦を取ることにしたのでした。

「ドライブイン27」はレストラン、民宿、お遍路用品販売の店です。そこのお婆ちゃんの話では山の中腹まで農地があるのですが今では他人に貸しているそうです。この宿もお婆ちゃんと娘さん(忙しい時に手伝いに来る)がやっているようです。従って大勢の遍路客を扱うことはできません。宿泊施設はドライブインとは別で少し離れた住宅に隣接する古い民家を活用していて、そこまでは「娘さん(といっても孫がいますが)」が車で送ってくれます。宿の建物は古くて狭いものでした。宿泊可能な部屋は二間だけで、トイレ・風呂は建物の外に別作りになっています。トイレの外に電気が付いていましたが、各個室の電気が無いので夜中に大変苦労してしまいました。最近の遍路はこういう施設は好まないだろうなと思いました。

「ドライブイン27」の宿泊客は私一人のはずでしたが、夕方遅く若い学生風の遍路がふらっとやって来ました。食事の準備は出来ないようなので「娘さん」といっしょにスーパーに食事の買出しに出かけたようです。この宿が一杯だったときは「駅」にでも泊まれるような装備を背負っている若者でした。(彼とはこの後何回か会いました。追記)

今日は歩きの途中で「奈半利駅」を通過しました。奈半利駅は「後免なはり線」というローカル線の終点駅です。後免からは高知までは「JR」が通じています。殆どのの列車は高知か高知の先まで行きます。「後免」からのJRは「窪川」まで延びていて、その先は「宿毛」まで「中村宿毛線」となっています。今回の遍路は「窪川」にある「第37番岩本寺」まで行く予定としました。「窪川」から「高知」までは特急列車で「約1時間」かかります。利用可能な特急列車は以下ようになります。

窪川(15:51)→高知(16:05)→岡山(19:41)
窪川(17:30)→高知(18:34)
窪川(18:24)→高知(19:26)
窪川(20:12)→高知(21:15)



2015年05月09日(土) 遍路十一日目(室戸岬を目指す3日目、第24番最御崎寺から第26番金剛頂寺まで)

○宿から第24番最御崎寺まで15.5Km
○第24番最御崎寺から第25番津照寺まで6.5Km
○第25番津照寺から第26番金剛頂寺まで3.8Km
○第26番金剛頂寺から道の駅キラメッセまで1.6Km

歩行距離:27.4Km 歩数:44,562歩 宿:民宿「うらしま」

室戸岬までの道程の3日目です。佐喜浜の民宿徳増から、ひたすら室戸岬を目指しました。東北地方太平洋岸、茨城県あたりでは太平洋の向かい側は「北アメリカ」だと分かります。従ってアジアとアメリカ西部を結ぶ海底ケーブルの最短距離の日本を経由するのです。しかし関東南部・本州西部四国の太平洋は海の向こうはどこなのか思いつきません。インドネシア・オーストラリアなのでしょうが、そこに向かって漕ぎだそうという気持ちには成りにくい国々です。船の航路は東西が一般的で南北は航路には向かないのでしょう。東西なら同じような気候帯をずっと進むことができますが、南北は気候が激変してしまいます。そんなことを考えながら歩きました。

室戸岬に近づくにつれて興味深い場所が現れるようになりました。空海が籠もって修行したとされている海岸近くの洞窟は「太平洋」を見渡せる「座禅(雨を凌げる)場所」としては絶好の場所だと思いました。その洞窟の少し手前には巨大な白い「空海の修行姿の象」が山の中腹に立っています。この像は遠くからでも非常に目立ちます。

今日5月9日は室戸市の港・坂道・海岸道路を利用して第一回室戸トライアスロン大会が行われいました。12時30分スタートなのですが、海岸に沿った道(国道55号線)はこのレースのために車両通行止めとなりました。私はスタート・ゴール地点付近に設営されていた屋台で昼飯を食べました。さすが土佐だけあって「鰹のたたき」用の藁や火を燃す大型の炉が用意されています。

鰹は食べずに金目鯛の炊き込みご飯を買って食べました。観光客向け値段になっていました。後で知ったのですが室戸市の中心部は「津照寺」のある辺りでした。お寺の位置だけに注目していると、思わぬ見落としがあります。室戸岬先端の「第24番最御崎寺」辺りから雨が強くなったので笠とリュックにカバーをかぶせ、上下のカッパをきました。カッパとリュックカバーは準備した甲斐がありました。この雨は夕方まで続きました。

津照寺近辺は室戸の町の中心部なので結構変わった店がありました。小鳥屋、毛糸屋さんなど都会でもどんどん減っている店が営業していると驚きます。魚を店先に沢山ならべている魚屋さんがあったので、買って帰ることはできないので写真を撮らせて頂きました。写真を撮っていると「食べて行きなよ」と「一人前」の差刺身盛り合わせを作ってくれたので頂いてしましました。鰹の刺身と近海マグロの刺身でしたが、本当に美味しくてびっくりしました。遍路姿の効果が絶大なものがあります。

今日は室戸のトライアスロンの日でしたが、もう一つ第26番金剛頂寺の「御祭礼」だということで、遍路に人気のある金剛頂寺の宿望が営業休止になっていました。「御祭礼」では仕方がないので金剛頂寺への登り口にある「うらしま」という民宿に宿をとりました。この宿は金剛頂寺への上り口にあるため、重いリュックを民宿に預けて26番金剛頂寺を参拝してきました。帰りは更に27番方向に山を下りて道の駅キラメッセまで進みました。帰りはバスを利用して「うらしま」まで帰ってきました。従って明日は金剛頂寺から降りた場所のキラメッセのバス停まではバスで向かうことになります。民宿うらしまの夕食には「鰹のたたき」がでました。これからしばらく「鰹のたたき」が続きそうです。



2015年05月08日(金) 遍路十日目(室戸岬を目指す2日目)

○海部町宿(生本旅館)から佐喜浜町宿(徳増)まで

距離:32.4Km 歩数:50,397歩 宿:徳増(佐喜浜町)

室戸まで長旅の2日目です。徳島県海部町の生本旅館から高知県佐喜浜町の旅館「徳増」まで32.4Kmの長丁場となります。コースは国道55号線に沿っているので国道の路肩の歩行者用道路を歩く時間が長かったです。また峠にはトンネルが掘ってある場所が多いのでトンネル経験も何度かありました。国道と言ってもそれほどの通行量はないのですが、偶に通過する車はスピードを出しているのでかなり怖いです。トンネルの中は空気が悪そうなのですが、大声で歌うと非常に気持ちよい残響音を経験できます。このルートは前後に全く「歩き遍路」がいないし、海辺の国道には歩行者など居るはずもありませんから「歌い放題」なのです。

海部の町から6Km程進むと「宍喰」の町があります。ここには「道の駅宍喰温泉」があります。立派な「ホテルリビエラ宍喰」もありますが、その隣の物産館二階にも安く泊まれる3部屋の宿泊施設があるのだそうです。3部屋なので直ぐに予約で一杯になってしまいますが運が良ければ泊まれます。ホテルの豪華な風呂を使うことができるようです。因みに今日は空きがあるとのことでした。「宍喰」は尾崎3兄弟や昔の阪急の上田監督の出身地なのだそうです。物産館の一角に尾崎兄弟・上田監督を顕彰するコーナーがありました。

宍喰の物産館ではインターネットパソコンが無いか聞いてみた所、事務室のパソコンを貸してくれるというので歩数計データアップを試みてみました。しかしどうしてもUSBソフトダウンロードのページが出てきませんでした。インターネットエクスプローラでしか機能せず、また最新のエクスプローラーには対応していないソフトなので新しい端末ではだめかもしれません。

「宍喰」が徳島県最後の街で、宍喰を過ぎるといよいよ高知県に入ることになります。「宍喰」から8Km位先の場所に東洋太子明徳寺という寺院がありました。真言密教実践の寺だということで結構生々しい感じの寺院でした。ここに飼われている犬が堂々と休憩用の長椅子で眠っていました。名前は「弁慶」だそうです。

さらに10Km程進んだ地点に「佛海庵」という小さな庵があり、そこで昨日牟岐接待所で一緒になった「フィリップさん」と「ノさん」コンビに追いつきました。今日は天気が良いのでテント。寝袋などをここで干していたとのだそうです。彼等は相変わらず「善根宿」「テント泊」で回っていますが大分疲れた様子でした。フィリップさんは足の筋肉が痛いし、そろそろ洗濯もしたいとぼやいていました。「ノさん」にも疲れが見えていたので、「アミノバイタル」をお接待しました。これで元気になれば良いのですが。ここから室戸岬に向けて野宿する場所を探すのは大変になります。

室戸岬では明日5月9日土曜日に第一回のトライアスロンレースを行うとの有線放送アナウンスが流れました。国道55号線の車両交通は規制されるようです。歩き遍路は大丈夫だと思います。高知県にはいってから55号線の南側は広い太平洋の浜がずっと続いています。サーファーが既に来ていますが、今日は波が穏やかすぎてサーフィンには向いていません。しかし海水が非常に綺麗なので泳いだり、潜ったりすると気持ちよさそうでした。



2015年05月07日(木) 遍路九日目(室戸岬を目指す第1日目)

○室戸岬を目指す行程1日目 

距離:29.3Km 歩数47,042歩 宿:海部生本旅館

ウミガメ荘から第23番薬王寺までは1.7Kmあり片道30分位かかるのですが、昨日の内に参拝を済ませたので今日は素通りとなります。第24番最御崎寺までは75.4Kmという長丁場なので、第24番まで行くまでに途中で2泊する予定です。

今日の行程は薬王寺から27.6Km先にある海部と言う町の生本旅館までです。ウミガメ荘が第23番とは逆の方向だったり、途中に遍路地図には載っていない「旧遍路道」があったりして遠回りしたので今日も実際の歩行距離は30Kmを越えていたと思います。今日の区間では3人の遍路と相前後しながら進みました。一人は奈良から来ているという遍路馴れしている若い男性。彼とは以前に会っていました。そのときは外国人の女性遍路(既に一周しているベテラン)と一緒でしたが、今日は一人でした。彼女がどうしたのか聞いたところ足の豆の水膨れが酷いために今日は「日和佐」で一日休養しているとのことでした。彼は歩きのペースが早く休憩も少ないのでズンズン進んでいきました。

また、一緒に歩いているフランス人の男性(フィリップさん)と韓国人の女性(ノ・ウルさん)とも出会いました。フィリップさんは長期休暇を取って日本を回っているのだそうです。ノさんは学生で二回目の四国遍路だということでした。二人とも寝袋を担いで基本的に「善根宿」での宿泊で回っているという強者です。ノさんは小さなテントも背負っているのだそうです。二人ともかなり大きな荷物を背負っていました。

薬王寺から15Kmくらいの進むと牟岐の町があります。その牟岐警察署近くの接待所はネットでも非常に有名です。私が牟岐警察署あたりで「接待所」を探していると後ろから「フィリップさん」と「ノさん」が追いついてきました。3人一緒に少し進んで牟岐の接待所で休ませてもらいました。この日は二人のおばさんが居て非常に親切に接待してくれました。まずお茶・お菓子を出してくれた後にゆで卵を出してくれました。今日は歩き遍路の数が少ないようで手持ちぶさただったようで、我々3人が訪れると「待ってました」という勢いでした。この接待所は地域のボランティア30人位が順番に面倒をみているとのこと。この牟岐警察署を過ぎた辺りから遍路道は急に厳しくなりますので、この接待所で心構えをするのは良いことだと思いました。

遍路地図には「国道55号線」を唯一の遍路道と指定してるのですが、実際には「旧遍路道」が多く存在しています。たぶん昔の遍路道は切り立つ岬の山沿いにくねっていたのだと思いますが、「55号線」はトンネルを掘って「直線道」にしてしまっています。また「国道」は古い街中を通らずに街を迂回しますが、旧道は街の中心地区を貫いています。複数の遍路道がある場合にはできるだけ旧道を歩こう考えて遍路道を選択することにしました。その結果この牟岐警察署から「鯖太子」までは殆ど旧道を通ることとなりました。旧道は海岸の岩場などをも通っていて高低差があり、全く人が通っていない静かなものでした。

次のお接待場所は海部の町の手前のカラオケカフェのお接待でした。丁度出てきてくれたカラオケカフェのおばさんが私を見つけて「寄ってきなさいよ」と声を掛けてくれました。そのカラオケカフェでは客のおばさん4人とおじさん2人が歌っていましたが、おばさんグループは私と入れ替わりぐらいで帰っていきました。外に遍路休憩用の長イスがあり、そこでカフェのおばさんは冷たい水とチョコ二つをお接待してくれました。中ではおじさんふたりがギンギンに歌っています。

私が埼玉から来たというとカフェのおばさんは息子さんが大宮で暮らしていて高校生になる孫がいると話し始めました。70才になるというそのおばさんは非常に元気で、息子の世話にはならんと言っていました。中で歌っているおじさんは90才と78才だとのいうことですが演歌の歌声は相当な上級者だと分かります。おばさんが一曲歌って行きなよ言うので、誘いに乗って遍路道中で大声で歌っている「カタリ」を歌ってしまいました。

「海部」の町は小さいながら趣のある町だと思いました。昔の商店街には「ピアノ・楽器」屋さんがありました。この小さな町で楽器店がやっていけるのかどうか非常に疑問でしたが、宿の生本旅館の入り口の応接コーナにアップライトピアノが置いてありました。かつてお嬢さんが弾いたのだそうです。商店街にカラオケ店が多いことも少しびっくりです。音楽(歌)が盛んな町なのだと思いました。生本旅館の今晩の遍路客は3人。神奈川、千葉、さいたま(私)からきた遍路でした。神奈川からの青年は今回八十八箇所を通しで回るとこのこと。千葉からの女性は今日でいったん区切るのだそうです。今日で徳島県とはお別れになり明日は高知県に入ります。



2015年05月06日(水) 遍路八日目(第22番平等寺・第23番薬王寺)

○宿から第22番平等寺まで7.0Km
○第22番平等寺から第23番薬王寺まで22.4Km
○第23番平等寺から宿まで1.7Km

歩行距離:31.1Km 歩数:51,612歩 宿:国民の宿ウミガメ荘
 
今日は太龍寺下山途中の宿「坂本屋」から下山し、第22番平等寺を経由して徳島県最後の札所第23番薬王寺までいきます。宿は薬王寺手前の「ウミガメ荘」です。今日の歩く距離はこれまでの中で一番長くなります。「旅館坂本屋」から平等寺に行くまでに「大根峠」を通過するのですが、この峠に登る坂道は非常にキツかったです。歩き始めに急坂があると非常に体力を消耗することが分かりました。歩き始めは元気なのでつい歩きのテンポが上がってしまうようです。坂道を急ぐと平地を歩くより数倍筋肉を使うようで「心臓」への負担が極端に増します。歩き始めの坂道は歩数を費やして心臓に負担がかからないように歩かねければなりません。

平等寺からはひたすら徳島県南部の海岸を目指します。海岸に向かう道はいくつかの尾根を越えるので上り・下りの坂道となります。山の峠に差し掛かるととたんに風速が増すことが分かります。峠が風の通り道となっているのです。峠に差し掛かりこの峠を抜ける風を感じ始めた時にリュックを持ち上げて背中とリュックの間に隙間を作り風を通します。峠は背中を冷やす絶好の場所です。

今日は珍しい遍路人に会いました。まず平等寺の駐車場に珍しい後ろのに一人乗りカートを繋いだ自転車が駐車してありました。平等寺打ちを終えて歩いていると後ろからこの自転車が追い抜いていきました。休憩所で追いついたので話を聞いてみると、小学校低学年ぐらいの男の子とお父さんのペアだと分かりました。小学生らしき子が川崎から来たと教えてくれました。お父さんはフェリーで徳島に来て第一番から遍路していると教えてくれました。上り坂はお父さんがキツそうでしたが下りになるとかなりのスピードで走っていってしました。

もう一組は田井ノ浜の遍路休息所で休んでいたカップル遍路です。彼等は田井ノ浜を見下ろせる二階建ての休憩所で休んでいました。私も田井ノ浜の写真を撮るためにその休憩所に登ったのですが、彼等はこの辺の名物だというお菓子を接待してくれました。彼等二人は7年前の夏にこの休憩所で野宿したのだそうです。7年目にまた来てみたのだそうです。まだ第26番最御先寺までしか打っていないということなのでした。基本的に野宿遍路をしているとのこと。7年前にはちょうど台風がきていてここの休憩所で宿泊して全身びしょ濡れになったのだそうです。その時の思いでが非常に強烈だっだったようです。

薬王寺のある日和佐町は非常に伝統のある町のようです。土佐に通ずる街道の宿場として昔から繁盛していたようです。札所「薬王寺」にも非常に立派で門前町ができています。その門前の一角に非常に親切な接待所がありました。「さくら庵」と名付けられたその場所は接待所というよりはコミュニティセンターみたいです。そこは古い商家を町が貸し出しているのですが、マレーシアに長期滞在していた老夫婦が日本に帰国して始めた接待所だそうです。井上さんというその夫妻は10年以上マレーシアのクアラルンプールに住んだ後に徳島に移住したきたとのことでした。徳島の日和佐には特別の関係はないようです。5月2日から始めたということなので今は広告宣伝に力を入れているようです。お遍路も含めて町の人気スポットに成長していって頂きたいと思いました。

国民の宿「ウミガメ荘」の面している浜辺は「ウミガメ」が産卵にやってくる場所として有名です。5月2日の今年最初のウミガメの上陸が観測されたのだそうです。まだ季節ではなく夜の監視体制は実施されていません。その一匹は大分気早やだったみたいです。産卵シーズンになるとこの「ウミガメ荘」に宿泊してウミガメ産卵シーンを見学する客が増えるのだそうです。「ウミガメ荘」の隣には「日和佐ウミガメ博物館があり、広い水槽には沢山のウミガメが泳いでいます。ここに飼われているウミガメはそれ程大きくはありません。



2015年05月05日(火) 遍路七日目(第20番鶴林寺・第21番太龍寺)

○宿から第20番鶴林寺4.9Km
○第20番鶴林寺から第21番太龍寺6.7Km
○第21番太龍寺から宿まで3.9Km

距離:15.5Km 歩数:26,662 宿:民宿坂口屋

今日の遍路道は焼山寺登山に続く山岳コースでした。まず宿舎の金子屋から「第20番鶴林寺」に登ります。宿を出発するときに私より少し早く準備の整った東京からのお遍路さんの「金高さん」の遍路姿をみました。彼女は自分で「形から入るタイプ」と言うだけあって遍路姿が決まっています。上下の白装束は当然で、地下足袋・手甲・脚絆を身に付け、当然菅傘をかぶり、杖・数珠を持ちながら歩きます。一方で私と同じ吸水装備を身につけ・アミノバイタルを飲み、毎日その日の記録をブログにアップするという近代設備にも通じているのです。

第20番鶴林寺には2時間弱で到着しましたが、坂道は半端ではありませんでした。地図情報では「金子屋」近辺の標高は30mで鶴林寺の標高は500mです。そして次の第21番太龍寺に行くためには一旦標高40mの那賀川まで降り、標高550mの山頂まで登らなければなりません。

登りは遍路道には階段が作られていますが、その階段を平常のスピードで一歩で登って行く直ぐに息が切れます。かといって階段の幅は狭いので二歩で歩くよういはできていません。仕方がないので「ゆっくり歩く」「スピードはそのままで階段を斜めに歩いて歩数をかける」という二つの方法で登りました。前後にはお遍路姿は全くないのですが、道が一本なので間違えることはありませんでした。金子屋さんで作ってもらったオムスビを昼食で鶴林寺で食べました。

今日の私の予定は比較的余裕のあるものでした。というのも「鶴林寺、太龍寺」の二つの寺院が非常に伝統の有る寺で見学場所が多いということなので少し見学時間を余分にみていたのです。実際寺院の建物は立派で見ごたえがありましたが、特に時間をかける程広大ではありませんでした。太龍寺へはロープウェイが通じているので一定時間毎に多くの参拝客が遣ってきます。その合間をぬって空いている時間に参拝しました。

鶴林寺に到着した時に入れ違いで次ぎの進もうとする「金高」さんに出会いましたが、金高さんが「手ぬぐい」を無くしてしまい残念がっていました。彼女はそのまま山を降りていきましたが、私が鶴林寺太子堂に登ってみると誰もいない階段の手摺りに「落とし物だ」と示すように手ぬぐいが掛けてありました。たぶんこれが金高さんお手ぬぐいだろうと考え、それを持ち帰ってどこかで会った時に返すことにしました。

鶴林寺からの下り道は傾斜がきつい場所もありますが、傾斜が緩やかになっている場所では足早に降りることができました。麓付近で金高さんの姿を下の発見したので呼び止めました。そして手拭いを示したところ、予想通りそれ金高さんの手拭いでした。紛失した物が出てくるとうれしいものだと思います。私の今年の運勢は「失せ物は女性が見つけてくれる」というものですが恩返しができました。

太龍寺でも大分ゆっくりしたのですが、今晩の宿舎の「坂口屋」さんには2寺30分頃到着しました。さすがにこの時間に宿に入る客はいません。多くの人は「坂口屋」からさらに7Km程度歩く第22番近辺にやどを取っているようでした。私は計画を立てる時に、一日どれくらい歩けるのか分からなかったので、比較的安全サイドで計画を組みました。今日で遍路七日めですが、どうも私の脚力・体力は平均より勝っているように思えるようになりました。従って計画を組み替えることも可能となっています。今回の旅の後半の方ではまだ宿泊場所を予約していないので、これから少しキツい計画に組み替えようかなと思っています。

今日の宿の「坂口屋」さんは遍路客にとても親切です。夕ご飯も非常に美味しかったです。毎日朝・夕のご飯をしっかり食べ、日中はたっぷり運動してぐっすり眠る日が続いています。遍路の効用があるとすれば非常に健康的な生活を送っているということです。ひょっとして遍路で太ってしまうかもしれません。



2015年05月04日(月) 遍路六日目(第18番恩山寺・第19番立江寺)

○宿から第18番恩山寺8.4Km
○第18番恩山寺から第19番立江寺4Km
○第19立江寺から宿まで13.1Km

歩行距離:22.6Km 歩数:40,294歩 宿:金子屋 

今日は朝から小雨です。カッパを着るほどではなく菅笠で凌げる程度の雨でした。今日は徳島市内を通過していく比較的平坦なコースなので今日崩れて明日に回復してくれた方がラッキーです。明日は第20番鶴林寺・第21番太龍寺の二つの山中にある寺を参拝する山岳コースとなるからです。札所寺を参拝することを遍路用語で「打つ」とおうのですがもうひとつ馴染めません。

遍路さん仲間の話題は、宿舎(民宿・宿坊)のことと遍路道の様子に尽きます。昨日から徳島ではゴールデンウィークに合わせたコスプレイベントが行なわれて、市内の主要ホテルは予約が取れない状況なのですが、殆どの「歩き遍路さん」は徳島市内でどんなイヴェントが行われているのか全く興味がないようです。それだけ遍路が大変なことだとは思いますが、少し寂しい感じもします。遍路はその土地の名物を知り、土地の料理を食べ、その土地の人々を理解することも楽しみのひとつだとは思います。「遍路」という行為が四国の土地・人々と遊離してしまってはその価値が減ってしまう感じがします。

今日の朝食はオリエントビジネスホテル2階レストランで頂いたのですが、このレストランの朝食がホテル設備の「シャビーさ」とは打って変わってかなりハイレベルであることに驚きました。私は和食を選んだので味わえなかったのですが、洋食コースには何とサイフォンで作る本格的なコーヒーが付いているのです。店の中央にコーヒー用のサイフォンが3つセットされていて手際よくコーヒーが準備されていました。納豆付きの和食も十分美味しかったですが。昔親戚の叔父さんが煎れてくれたサイフォンコ−ヒーの香りと味を思い出しました。

徳島市内の遍路道は国道55号線を通過する場所が多いです。広い国道の側道を小松島に向かいます。国道両サイドの歩道は整備されていて歩きやすいのですが車の騒音が煩く快適とは言い難かったです。その分大きな声で歌を歌っても何の支障もないのですが。しかし歌を歌うなら河原の道とか田圃のあぜ道などが気持ち良いです。
第18番恩山寺付近は嘗て源平合戦の折に源義経群が屋島の平氏を攻めるために摂津から船出して四国に上陸した場所なのだそうです。遍路道の幾つかの場所に義経に因んだ言い伝えのある場所がありました。

今日は5月4日なので端午の節句の準備で和菓子店は忙しそうでした。立江寺門前の和菓子屋さんで柏餅をひとつ購入して食べました。徳島の辺りでは「柏の葉」の代わりに「サンキライ(山帰来)」の葉を使うのだと店の方が教えてくれました。サンキライの葉は柏の葉よりも小さく中の餅を完全に覆うことはできません。

第19番立江寺の手前で寄った休憩場所に「お京塚」という場所がありました。なんでも情夫と共謀して旦那を殺して捕まった「お京さん」が罪を償って改心して亡くなった場所なのだそうです。ま新しい「お京さん」の位牌もおかれていました。「お京」さんがどんな女性だったのか色々想像しました。今年の占いによると今回の旅は「女難に気をつけなくてはならない」ことになっています。今のところお京を始め女性にいろいろ世話になって助けられている感じです。正月のおみくじの託宣は感謝の気持ちを忘れるなということだと理解しました。

第19番立江寺から第20番鶴林寺の麓の民宿金子までは10.2Kmの道程です。坂がきついというわけではないですが、あまり変化のない風景が続くので退屈しました。立江寺近辺では付近の飲食店が全て休んでいてお菓子屋さんと酒屋さんしか営業していませんでした。酒屋さんでは昼飯になるようなものは売っていませんでした。仕方がないのでお菓子屋さんで「お赤飯」を買って途中の休憩場所で食べました。赤飯は餅米なのでエネルギーになる感じがしました。

勝浦町の町にはいると遍路道沿いの家で武者人形を飾ってる家が何件かありました。雛人形を表に出して飾ることは良くありますが武者人形は珍しいと思いました。新聞販売店の方が外にいらっしゃったので話しを聞いてみました。昔は雛人形だけを飾っていたようですが、町のボランティアが5月連休には武者人形を飾ろうという取り組みを始めたのだそうです。雛人形ほど華やかではないですが、季節がゴールデンウィークなので観光客は多く町の広告塔に成っているようでした。

民宿金子屋は歩き遍路の間では有名な民宿です。今日は歩き遍路6人、そのほかに自動車で回っているグループが宿泊していました。一人で回っているの歩き遍路の方が慈眼寺(別格3番)に歩いて行ってきたと言っていました。行くだけで結構大変なので「穴禅定」には行かずに別格20カ所の「数珠玉」だけを手に入れてきたとおっしゃっていました。慈眼寺穴禅定に行くのなら複数人集まってタクシーで向かう必要があると聞いていましたが、今日の宿泊客にはその気のある人はいなようなので「別格3番」参拝はあきらめました。今日は午後3寺過ぎ宿に到着し洗濯も済ませました。美味しかった夕食の後この日記を書いています。



2015年05月03日(日) 遍路五日目(第16番観音寺から第17番井戸寺まで

○第13番大日寺から第16番観音寺まで4.9Km
○第16番観音寺から第17番井戸寺まで2.8Km
○第17番井戸寺から宿まで8.4Km

遍路歩行距離:16.1Km 歩数:38,224歩 宿:二軒屋オリエントビジネスホテル
その外に宿から「ピッツェリアスガッチー往復2Km)

第13番大日寺の朝の「お勤め」はファンがいるだけあって非常に面白いものでした。ご住職ともう一人の僧侶の読経の後でご住職の講話がありました。この話の内容はご住職が本にして出版しているようです。ご住職は韓国伝統舞踊の一人者であり、先代大日寺住職に見初めされて前住職と結婚されました。その8年後に先代住職が突然亡くなられたために大日寺住職を引き受けることになりました。以下ご住職のお話を紹介します。

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私は36歳の時に韓国伝統舞踊を紹介するために訪日しました。四国徳島での公演のときに大日寺宿坊に一週間泊めて頂きました。無事公演を終えて韓国に戻ってから先代住職(ご主人となる方)から琴線に触れるお手紙を頂きました。そのとき先代住職は55歳でした。独身の先代住職の猛アタックの末にその一年後には二人は結婚することなっていました。(ここで先代住職の手紙を朗読されました。) 先代住職は「貴方は何もしなくても良い。男でも女でも良いから子供を産んでください。」と言われました。大日寺住職はこれまど何代にも渡って子供に恵まれず外から養子を迎えていたのでした。結婚の三年後に男の赤ちゃんを産んだときには本当に喜んでくれました。長男の誕生日は4月13日です。13番札所の子供として不思議な縁だと思います。

ところが結婚8年後には先代住職が脳梗塞で倒れそのまま亡くなってしまいました。その時には私はまだ日本語を十分に話せない・漢字も読めない状態だったのです。子供と一緒に韓国に戻って韓国で暮らしていこうと考えました。しかし先代住職は銀行からお金を借りておんぼろだった大日寺を立派なお寺に改築していました。先代住職のお葬式の日に銀行の方がやってきて大日寺の借金がまだ1億円以上残っているということを知らされました。この大ピンチに誰が大日寺の舵取りをしていくのか。

この時先代住職のお母さんが「貴方ならできるから住職になりなさい」と励ましてくれたのです。息子も「自分はしっかり住職になる勉強をするからそれまでしばらく母さんが住職となってください」と言ってくれました。また私の父(日本生まれの韓国人)も励ましてくれました。周囲のそうした励ましで日本語・お経を勉強して住職となる決意をしたのです。

住職はそのお寺の全般に責任を持ちます。宿望の宿泊客は季節によって増減します。客の多いシーズンだけ宿坊を手伝ってくれと言うわけには行きません。ですから宿坊に泊まりたいという電話があっても、人手が限られている時には断らざるを得ない場合があります。私のお父さんは大分で生まれた韓国人です。日本で教育を受けましたが戦後韓国に戻って韓国人社会で暮らしていく事は大変でした。日本での教育は認められないので公式の学歴は「尋常小学校卒業」です。しかし勉強熱心な父は韓国で独学で勉強して国家公務員になり、6人の子供立派に育ててくれました。

父はアメリカと韓国の仁川に住まいがあります。一年の半分は大日寺を手伝ってくれています。でも日本国籍がないので一年の一定期間日本から出国しなければなりません。むかしはアメリカの家に帰っていたのですが、年をとって飛行機の長時間旅行が苦痛となっために韓国の仁川にマンションを確保したのです。現在息子は18歳になっています。アメリカで勉強していますが、アメリカの大学を終えた後は高野山の大学に入って僧侶になる勉強をする予定です。四国八十八札所遍路を世界資産にしようという希望がありますが、そうなると英語を話せる住職が必要になります。息子は日本語・韓国語・英語・スペイン語が話せますので、外国人の遍路がきても十分対応できます。息子が日本に一時帰国したときの檀家のお寺で挨拶をした録音がスマートホンに入れています。息子が将来住職を次ぐ気持ちでいること、父親と私の後ろ姿をしっかり見て育ってきたことが分かります。(ここで息子さんのスピーチを再生。)

ここまでは自己紹介ですが朝の話のテーマは「家族への感謝」というものです。先代住職はいつも私に「ありがとう」といってくれました。「嫁にきてくれてありがとう」「ご飯を作ってくれてありがとう」「息子を生んでくれてありがとう」等々です。日本人は心が優しくて思いやりがあると思いますが、家族どうしでは「感謝」を言葉に出すことは少ないのではないでしょうか。家族の間でも「ありがとう」と感謝の言葉を掛け合うことは非常に大切なことだと考えています。(以上、引き続き朝食となりました。)

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韓国の人間国法級の舞踊家だというご住職は大変若々しく非常に勢力的な方だと思いました。日韓関係がギクシャクしていることにも少し触れられて両国民の相互理解に少しでも貢献できればと話されていました。但し、「家族間の感謝の言葉」など関して、韓国の方から見ると「日本人」が「シャイ」に見える事が良く分かりました。日本人の感情を表に出さない態度は韓国の方からすると少し物足りなく思えるのだと思いますし、韓国人の直截的な感情表現は日本人からすると少し不躾に見えるのだと思います。難しいところです。

昨日第14番常楽寺、第15番国分寺を参拝しておいたので今日はの二つの札所は素通りで第16番観音寺、17番の井戸寺の二つを回りました。その後は徳島市内に入り遍路とは別で「ナポリピザ」を食べる予定なのです。

昨日通ったぬきの「たんこ」の家ではお爺さんが家の外に出ていました。お話を聞くと「家族の中でお爺さんにだけ噛みつく」といっていました。しかし「たんこ」は本当はお爺さんを好きなようで「右手のお手」「左手でお代わり」の芸をちゃんとやっていました。「猫の家」では猫達があちこちで日向ぼっこをしていました。今日は6匹の猫がいました。

第16番観音寺、第17番井戸寺には多くの遍路が参拝していたのですが、遍路道の私の前後には歩き遍路の姿は全くありませんでした。昨日まで前に行ったり遅れたりしていた歩き遍路達はすでに通過してしまったのかもしれません。今日の午後は徳島で一端遍路中断です。まず駅前の「そごう」にいってセゾンカードで現金を降ろしました。セゾンの端末は高知にはないので、徳島でお金を降ろしておかなければなりません。

徳島駅前「そごう」周辺の道には派手な格好(コスプレ)をした若者がうじゃうじゃいました。5月3日から5日まで全国のアニメファン・コスプレファンが徳島に集まっているのだそうです。市内各所では様々なイベントが行われています。集まっているのは、アニメの声優さん、子供向け番組主人公を演じる俳優さん。テレビマンガのキャラクターのコスプレを趣味とする人、そうした人達の写真をカメラで撮ろうという写真マニア。奇抜な格好をしているコスプレファンには大きなスーツケースをひっぱている人も多かったです。「歩き遍路」の白衣と菅傘などはそうしたコスプレの中にあって全く目立ちませんでした。

無事にお金を降ろしてから、「真のナポリピザ協会認定店」としては徳島唯一の「ピッツェリア・スガッチー」へランチが食べられるかどうか電話しました。ランチは予約で一杯だというので夕方5時30分からの夕食を予約しました。ピザの代わりに「徳島名物の徳島ラーメン」を食べる事にしました。駅前の地元人らしい人に情報をを聞くと「駅付近なら大王だね」と「大王ラーメン」を紹介してくれました。しかし場所を聞いて大王ラーメンの近くに行ってみると、そこには長い順番待ちの列ができていました。そこまで有名店に執着する気持ちもなかったのでそこは止めて今日の宿にチェックインすることにし、そこにいく途中で「両国」という徳島ラーメン屋さんで徳島ラーメンを頂きました。非情に濃厚なスープで美味しかったです。生卵無料で濃い目のスープに生卵を入れるとまろやかになりました。

今日の宿は徳島から高知方面に走るJRの駅に二つ目「二軒屋」というところにあります。二つ目といっても駅間が短いので歩いても大した距離ではありません。街道沿いの「鯛焼き屋」で120円の鯛焼きを買って歩きながら食べましたが私の趣味には合いませんでした。「薄皮鯛焼き」だとのことで「皮」はぱりぱり、中のあんこはどろどろというものですが、作っている所をみていると焼いている間はまったく手間をかけずにできがったところで「はさみ」でバリを切り落としていました。焼いている途中ではみ出したバリを上手に鯛の体に整形することはしなくなったようです。外側はもっちりであんこは少し固めのほうが食べやすいと思いました。

この日の宿は二軒屋駅まにあるオリエントビジネスホテル。かなり古く宿泊料金は非常に安いホテルです。一泊朝食付きで4600円。晩ご飯はピザを食べに行くのでちょうどよいシステムです。徳島市内の主なホテルは連休のイベントで一杯なのに、空いているということは「相当な」ホテルだとは予想していましたが、駅前で近くのスーパー・薬局のある便利なホテルでした。薬局で「アミノバイタル」を補給しました。

アミノバイタルについてはネットで筋肉疲労に効果があるとのネットの記載があったので、ちょうど味の素のキャンペーンに当たってで6袋無料(アンケートに回答する義務あり)で持ってきていたのです。最初の日に使って大変効果があることを確認したので、それ以降筋肉が痛くなりそうな場合には飲むことにしています。筋肉の痛みを消すのではなく、アミノ酸を補給して筋肉を補修することができるようです。

必要な品物の補充を終えてからピザ屋さんい向かいました。一度JRで徳島駅に出てそこで「徳島土産」を買って埼玉に送りました。今回の遍路は高知まで行くので徳島土産を持ってあるくことはできません。ピザ屋さんは駅前ロータリーからフェリー乗り場行きのバスに乗って行きます。バス停から少し歩くのですが短距離の歩きなら苦になりません。

「スガッチィ」は夕方5時30分からディナータイムが始まるのですが、5時30分過ぎに到着してみると店の外の駐車場は車でごった返していました。地元では相当な人気店のようです。私は予約していたのですんなりテーブルに付くことができました。注文したのは勿論「マルゲリータピザ」。マルゲリータピザは税込み1200円です。結構大きめです。ここのピザの特徴は「トマトソースの美味しさ」だとおもいました。チーズは料金の高い「水牛バージョン」にしない限りは満足は望めないでしょう。ピザ生地は少し塩加減が足りないかなという感じでした。焼き加減はバッチリですが、ピザ生地の中央付近が少し「厚い」感じがしました。でもトマトソースの美味しさが全てを「カバー」していると思いましが、マルゲリータの美味しさは「白・緑・赤の具とピザ生地」ですが、残念ながら「赤」が突出していてマルゲリータの総合的な美味しさを味わうことはできなかった感じでした。帰りは徳島駅まで歩きJRで徳島駅から二軒屋まで移動しました。



2015年05月02日(土) 遍路四日目(焼山寺から下り、第15番国分寺まで)

○鍋岩荘から第15番国分寺まで19.5Km
○第15番国分寺から第14番常楽寺まで0.8Km
○第14番常楽寺から第13番大日寺まで2.3Km

歩行距離:22.6Km 歩数:43,813歩 宿:大日寺宿坊

鍋岩荘を7時15分に出発しました。鍋岩荘から第13番大日寺までは17Kmあります。遍路ルートは二つあって概ね長い下り坂の道と距離は少し短いものの峠越えの険しい道があります。距離の短いルートを選びましたがこれが結構厳しい山道でした。いきなりかなり険しい上り坂が数Km続きました。これは「遍路ころがし」と同等の坂道だと思いました。この坂道の頂上「「玉ケ峠」を越えてしまうと後は緩やかな下り坂とアスファルトで舗装されたなだらかな道が続きました。

昨日は急坂を降りる場面で慎重にゆっくりと降りてきたのですが、ゆっくり下る場合と少しスピードを上げて下るのとでは膝への負担がそれほど変わらないことに気づきました。それならば膝への負担を増やさないように足をできるだけ上げないで(忍者のように)小走りに降りると要する時間が短くなることに気づきました。登り坂は根性ですが、下り坂は工夫次第でいろいろな歩き方ができることが分かりました。

山道からいったん谷に降りてしまうと、後は谷を流れる「鮎喰川」に沿った舗装道路の道です。ここはひたすらがんばって歩くだけです。道の片側には「鮎喰川」がずっと続いています。沿道で何人かの方に「鮎」は釣れるのか聞きましたが、最近は「サギ」と「鵜」が飛来して解禁日前に「鮎」を食べてしまうとグチをこぼしていました。人間の釣り人の解禁日は6月1日だそうですが、その前に「サギ」と「鵜」が大量に食べてしまうのだそうです。

遍路道が通過する「阿川地区」という場所を通ったときに非常に興味深いものに出会いました。その集落では街道に沿った多くの家屋の前に等身大の人形が飾ってるあのです。多くは老人の人形ですが、孫と思われる子供と並んで居る人形もあります。人形はそれぞれ表情が非常に「親しげ」なのです。人形の飾っている家の隣の家の人が偶々戸外に出ていたのでこの人形のことを聞いてみました。

このあたりの集落でボランティアが等身大の案山子(人形)を作り初めたということですが、阿川地区では亡くなった方の写真を元に亡くなった方に似せた人形を作るようになったのだというこのです。その人の隣の家の人形は亡くなったの「お婆さん」に似せて人形を作ったとのことでした。その人は「人形はお婆さんそっくりですよ」と言っていました。お年寄りの人形は生前にきていた服やら帽子を身に付けているようでした。遍路道を歩いているとお墓を自宅敷地に隣接して作っている家が多い事に気づきます。先祖の墓は自宅近くに作り事ある毎にお参りできるようになっているようです。亡くなったお年寄り人形もそんな風習の延長なのかもしれません。

比較的順調に歩くことができたので「第13番大日寺」には相当早く付いてしまいそうなこととなりました。時間がもったいないので、少し遠回りして「第15番国分寺」と「第14番の常楽寺」を参拝することにしました。そのために途中から少し遍路道をそれました。国分寺に行くと中で軽トラを運転してきたおばさんがわざわざ軽トラで追いかけてきて「八朔とレモン」を接待してくれました。

通常に遍路道を逸れるとこういう経験出会う事ができるようです。すでに国分寺近くまできていましたのでその辺りの地理を聞いてみると田植え前の田圃の中のこんもりした小山は古墳だと教えてくれました。また近くの山の山頂に「雨乞い神社」があったとかそれが移転されたとか、この辺りが昔等から古い言い伝えのある場所だということを教えてくました。奈良飛鳥、吉備、信州上田、府中の国分寺など何カ所か国分寺を知っていますが、この阿波国分寺も「奈良飛鳥」と同じような雰囲気を持っています。奈良時代に国分寺の場所の選定した人達はよほど奈良飛鳥の雰囲気が好きだったのだと思われます。

「第15番、第14番、第13番」の順序は「逆打ち」コースとなります。距離は短かったですが、「逆打ち」の難しさを実感じました。遍路道には数十メートルおきにに「遍路道」の標識がありますが、この標識はいわゆる「順打ち」遍路に見やすい場所にあります。「順打ち」だと当たり前で間違えようのない交差点も「逆打ち」には非常に難しくなります。何回も間違えて大分時間をロスしてしました。その分沿線の面白い風景にであうことができました。明日また同じ道をを通るので楽しみが増えました。

最初の面白い経験は庭でサクランボをとっているおばさんとの出会いです。遍路道を聞いたのですが、道を教えてくれた後で「サクランボを沢山食べていけ」というのです。そのサクランボの木は子供が食べるのに丁度良いような高さの場所に多くのサクランボが熟していました。粒は小さいですが真っ赤なサクランボは大変美味しかったです。その家には室内犬が二匹いるそうで私の声に吠えたてます。明日もおばさんが外にでていればサクランボを頂こうと思います。

このサクランボの家からそれほど遠くない家の庭には珍しい動物が飼われていました。遍路道に近い庭の一角に犬用のケージがあるのですが、檻の中には猫とも犬とも違う動物が飼われていました。直感は「たぬき」でした。丁度この家の奥さんが玄関から室内に入ろうとしているところだったので、急いで檻の中の動物は「たぬき」かどうか聞きました。予想通り「狸」でした。

奥さんの話では一年程前玄関に「小たぬき」が放置されていたそうです。可哀想なので飼い始めたとのこと。名前は「タンコ」。雌雄不明。殆ど鳴き声をたてない賢そうな「狸」です。子供達は喜んでいるでしょうと聞くと、最初の頃は可愛がっていたが最近はほったらかしでもっぱらご主人と奥さんが世話しているようです。首に散歩用のチェーンをつけて散歩もさせているのだそうです。

三件目は多くの猫を飼っている家です。大日寺近くの家の入り口近くの庭に10匹近くの「模様様々、大小様々」の猫が群れていました。近くには餌を入れるトレイがいくつかあります。その家の人は相当猫好きな人に違いありません。猫ものびのびしていました。明日もう一度通って家に人がいたら話を伺ってみたいと思いました。

大日寺では夜の「お勤め」はありません。その代わりに明日朝6寺から住職様のお話を聞く「朝のお勤め」あるとのこと。有名な韓国舞踊の大家の女性住職がどんな話をしてくれるのか楽しみです。

夕食でテーブルが一緒になった三重県からきっと家族連れのお遍路さんから貴重なお話えお聞きました。この一家3人は車で遍路していて88カ所札所は元より別格20寺院も何回か回っているという強者です。今回は娘さんを連れての特別編で「別格第3番慈眼寺」を参拝してから住職の話で有名な「大日寺」に泊まりに来たとのことでした。「別格3番慈眼寺」には「穴禅定」といって暗闇の洞窟の中を通り抜ける有名な場所があるということです。蝋燭一本で50分程洞窟を潜っていくのだそうですが、洞窟が狭く且つくねっているので通常では経験できないスリルを味わえるのだそうです。初めてだったという娘さんも大分感動していました。

ただその「別格第3番慈眼寺」は通常の遍路道から数Km離れているので「歩き遍路」には非常に行き着くことが難しいということです。この一家の話を聞いて私も行きたくなりましたが、地図でみるかぎりかなり無理をしないと行けそうにありません。そこに行くには明後日の予定えを修正する必要があります。その後の宿も既に手配してあるので行くことは無理だと判断しました。



2015年05月01日(金) 遍路三日目(第12番焼山寺参拝)

○旅館吉野から「第12番焼山寺」13.4Km
○「第10番焼山寺」から宿鍋岩層まで3.4Km

歩行距離:16.8Km 歩数:30,888歩 宿:鍋岩荘

旅館吉野を06:45分に出発して、昨日参拝した第11番藤井寺本堂の横から登る山道に挑戦です。お昼ごはんは旅館吉野に「おむすび二つ」を頼んでおきました。この遍路道には6箇所の「遍路ころがし」と呼ばれる急坂があります。そうした急坂を含め第12番焼山寺まで12.9Kmあります。普通の人が歩くと6時間かかるコースです。「焼山寺から3.4Km下ったところに今日の宿の「鍋岩荘」があります。

藤井寺から最初の休憩所「長戸庵」までが3.2Kmですが、最初から急坂連続なのでこのコースに初めて挑む遍路をビビらせます。焼山寺まの12.9Kmの遍路道沿いには3つの「庵」がありますが3つとも廃業しています。二番目の柳水庵はつい最近(と言っても数年前)まで営業していたとのことで遍路の中にはそこに泊まった経験のある人も多くいます。長戸庵・浄蓮庵は相当以前から営業停止となっているようで建物の朽ち具合はひどいです。

四国遍路道を世界資産に登録しようという動きがあるようですが、遍路のサポート設備であった遍路道沿いの「庵」がどんどん廃屋化していってしまうと、世界遺産としての価値が損なわれてしまう気がします。とはいっても季節で極端に増減する遍路客だけを相手にして宿泊施設を維持するのは難しくなっていることも事実です。一方で、「庵」と対照的に札所となっている「寺院」には納経料はじめかなりお金が入るらしく、新しく改装したり建物を増築したりする寺院はいくつもあるようです。札所となっている寺院が「庵」の面倒をみれば良いのだけれどそのようにはなっていないらしい。というのも寺院にとっては個人の歩き遍路よりも観光バスで回る団体遍路客の方が都合が良いらしいです。

遍路道途中にある遍路用民宿の営業にも大きな問題が発生しているようです。運営者高齢化のために「歩き遍路」に親しまれてきた有名な民宿がどんどん閉鎖されています。海釣り、海水浴等も取り込める立地にある民宿はまだ存続可能なようですが、昔ながらの遍路相手の民宿は継続が非常に難しくなっているようです。高速道路の整備によって車の便利が良くなり車で回る遍路の宿泊施設選択範囲が変わってきています。

もっとも歩いて遍路するが側も考えるべき事はあると思いました。お尻洗い便座付ききトイレが合った方が良いとか、温泉があったほうが良いとか贅沢を言わないようにすべきだと思います。民宿運営者としては設備更改したのは当然だと思いますが、資金回収は保証されていません。

長戸庵から柳水庵までは3.4Km、柳水庵から浄蓮庵までが2.2Kmで、浄蓮庵から焼山寺までが4.1Kmです。さすがに「遍路ころがし」は急な坂道が長時間続きます。登りの急坂は疲労しますが安全です。危ないと思ったのは下りの急坂です。勢いがついて滑ってあしの着地を間違えると足に怪我をする惧れがあります。特に長時間歩いた後で足の筋肉の踏ん張りが効かなくなる頃合が大変危険です。この焼山寺の坂道を経験してみて四国遍路を決意することは大変な事だと改めて実感しました。

「12番焼山寺」は非常に裕福なお寺のようで参道に通ずる遍路道に信者の寄進による整備が進んでいます。四国88カ所の札所の寺院には全国からかなりの寄進があるようです。お寺への寄進に関する「税制度」がどうなっているのか知りませんが、寺だけ儲かって、道の整備とか民宿の整備み資金が回らなければ、遍路文化は永続できません。寺院・自治体・遍路団体、観光業者などが集まって、今後の方向性を論議すべきだと思いました。

今日の宿は焼山時から3.4kmほど下った鍋岩荘です。ここは住友産業の保養所だったようですが、今では遍路には有名な名物宿となっています。二階の部屋でこれを書いていますが、ウグイスが近くで非常に上手に鳴いています。焼山寺辺りの比較的標高の高い場所ではウグイスは鳴いていませんでした。むしろ麓の民家がある場所近くで鳴いているようです。5時に町内放送で「夕焼けこやけ」が流されましたが、その音楽に併せて近くで犬が遠吠えを発したので鍋岩荘には番犬が居ることがわかりました。声の主は雑種の「ぼたち君」でした。大変人なつこい犬でした。

今日の鍋岩荘、昨日の吉野でも夕食に独特「汁物」が付いていました。今日鍋岩荘の方に聞いてみたところ、徳島郷土料理の「そばごめ」という汁でした。具として「ソバの実」が沢山入っています。チキンスープ仕立てで鶏肉も入っています。「かまぼこ」も入っていてお正月料理のようでした。




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