KENの日記
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2014年01月28日(火) ホロコースト・リメンブランス・デー

1月27日はイギリスの「ホロコーストを思い起こす記念日」でした。このメモリアルデーが制定されたのは2001年だそうで比較的新しい記念日です。また国連は2005年にアウシュビッツ強制収容所が解放されたこの1月27日を「ホロコースト犠牲者追悼デー」とすることを決めています。第二次世界大戦から50年以上経過した時代に制定されるところに、ヨーロッパにおけるホロコーストの傷の深さを感じざるを得ません。

ホロコーストに関する報道がインターネットのBBCNewsで豊富になされていました。その中のひとつに「チェロを弾けたので助かった女性のニュース」がありました。その女性の名は「Anita Lasker Wallfisch」。18歳の時に強制収容所に送還されました。入所時の検査の際に以前の職業を問われて「チェロを弾いていた」という回答によって命を救われたのだそうです。

彼女の以下のコメントは非常に重いものです。「強制収容所で双子の子供の人体実験をしていた医師は、私の弾くシューマンのトロイメライを大変気に入ってくれました。音楽を愛好する時には完全に普通の人間であるのに、同じ人間が非常に恐ろしい人体実験を平気で行えるということは理解することができなかった」。ナチスがワーグナーの音楽を大変好んで利用したことは有名ですが、文明(この場合は音楽)と残虐は全く普通に両立してしまうことは忘れがちです。

「平和を愛する(文明のひとつ)」からと言って「残虐性」が消滅するものではないと思います。人類の歴史において多分殆どの戦争は「平和を求める」ために開始されてきたと思います。「積極的平和主義」という言葉の裏にはそうした「こわさ」を感じてしまう人が多いと思います。

ドイツ国民は第二次世界大戦・ホロコーストを「ナチの仕業」ということで整理して客観視する一方で、その「ナチ」の暴走を許した自分達ドイツ人の責任は今後将来に渡って忘れないように戒めているようです。ですから現在でもナチスの真似をする若者は非難されているようです。

しかし、イギリス・ドイツの両国民が理解しているのは、ナチスは文明国ドイツから生まれたし、残虐なナチの指導者は職を離れた時には洗練された文化を理解していたということです。ホロコースト記念日を作るとか、アウシュビッツを世界遺産に指定するとか絶えず反省材料を近くにおいておかないと自分達も何をするか分からないという危惧を抱いているのだと思います。

そのように考える人達に対して、「積極的平和主義・靖国神社参拝・憲法改正志向」は危険に思われても仕方がないと思います。



2014年01月24日(金) アバード・ムローヴァのブラームス

アッバードの訃報に接して、嘗てテレビで放送された「ムローバ」と競演したブラームスのヴァイオリン協奏曲があることを思い出し、埃をかぶったヴィデオテープを探し出して聴いてみました。またアッバードがベルリンフィル就任直後に演奏したブラームスの交響曲第一番もあるので、冒頭部分を聞いてみました。

ブラームス交響曲第一番    1990年9月5日 フィルハーモニーホール
ブラームスヴァイオリン協奏曲 1992年1月25日 サントリーホール

いずれの演奏もアッバードがベルリンフィルのシェフに就任して間もない時期の演奏です。アッバードはウィーンとベルリンの両トップオケのシェフになったことで非常に溌剌として自信に溢れている様子です。ところが良く調べてみるとこの時期、アッバードは東京での演奏会のソリストの「ムローヴァ」と非常に厄介な事になっていたようです。以下はインターネットに掲載されているムローバのインタヴュー記事(真実だと思われます)を、勝手に翻訳してみたものです。

With her boyfriend, the conductor Vakhtang Jordania, she sought asylum after a recital in Finland. She left Jordania three years later in America and moved to London, where she met Claudio Abbado at the LSO, and sparks flew. Abbado, married and 30 years her senior, was smitten. "He was crazy about her," observes an orchestral player, "and wouldn't let her out of his sight." She moved into his penthouse in Vienna, where Abbado was music director of the Staatsoper, but when Mullova got pregnant in 1991 the relationship fell apart. Seven months pregnant, she packed up, flew to London and bought a house. Abbado pays maintenance for their son, Misha, but does not see him. "It is very painful," she says tersely. ( By Norman Lebrecht / February 14, 2001)

(1983年)のフィンランドでのリサイタルの直後、ビクトリア・ムローヴァは彼女のボーイフレンドであり指揮者の「ヴァフタング・ゾルダ−ニャ」とスウェーデンで亡命した。その3年後に彼女はゾルダーニャと別れてアメリカからロンドンに移り、そこでLSO(ロンドン交響楽団)にいた「クラウディ・アッバード」と出会い恋に落ちた。その時アッバードはムローヴァと30歳の年齢の開きがあったがムローヴァに魅了されてしまった。オーケストラの或るメンバーは「アッバードはムローヴァに夢中になってしまって、ひと時も彼女を自分から離そうとはしない程だった」とも観察していた。ムローヴァはウィーン国立歌劇場の音楽監督の職にあるアッバードのウィーンのペントハウスに移った。しかし1991年にムローヴァが妊娠すると二人の関係は終焉を迎えた。ムローヴァは妊娠7か月の時に荷物を纏めてウィーンを離れロンドンに移って家を買った。アッバードは彼の息子「ミーシャ」(1991年生まれ)の養育料を支払ったがミーシャには会おうとはしなかった。「それは非常に辛い事でした」ムローヴァは短く語った。

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She lived with the conductor Claudio Abbado in Vienna for four years. "It was an important relationship. We had a son together - Misha," she says quietly, though earlier, when I mention the great live recording of the Brahms Concerto, that she and Abbado made during a Berlin Philharmonic tour of Japan, she is happy to talk about it. "It was Claudio's idea. It was a live performance on TV. I was petrified but, when I started to play, I gave a good performance." This is an understatement if ever there was one. "Claudio said, 'Why don't we record it', and he managed to get all the exclusivity clauses sorted." (Interview from Friday 2 February 2001 The Guardian)

ビクトリア・ムローヴァは指揮者の「クラウディオ・アッバード」とウィーンで4年間暮らしていたことがある。「それは私にとって特別な時間でした。息子のミーシャが生まれました」ムローヴァは静かに語り始めた。以前に、私がベルリンフィルの日本ツアーでアッバードとムローヴァのブラームスのヴァイオリン協奏曲のライブ録音について聞いた時には彼女は嬉しそうに語ったことがありました。「それ(音盤にすること)はクラウディオのアイデアでした。テレビ番組へのライブ収録が行われるコンサートということで私は緊張していましたが、演奏が始まると良い演奏をすることができました。クラウディオは「今日の演奏は、過去に一度あったかどうかの意味ある演奏だった。これを記録に残すことにしよう」といって関係者の契約上の障害をすべて自分でクリアしたのでした。」

サントリーホールに現われた「ムローヴァ」は痩せていて、とても1才の赤ちゃんを育てているような様子はありません。上記の記事からすると、前年の1991年妊娠7ヶ月で、ムローヴァはアッバードの家を離れています。1992年1月の日本演奏旅行はいつから決まっていたことなのか不明ですが、分かれたアッバードとの協奏曲を演奏するのはムローヴァにとってあまりにも「酷」な話だと思います。二人は殆ど目線を合わせないし、演奏終了後に喝采を浴びる様子は非常に殺風景な感じがします。

アッバードがその日の演奏を「記録」に残そうと提案したのはどういう意味があったのか。実際この日の演奏は後1995年に「アカデミー賞」を受賞します。客観的に聞くと非常に冷徹で、感情に流されない厳しいものがあると思います。この演奏で、アッバードは、ムローヴァは、そして事情を知っているベルリンフィルメンバーは何を考えながら演奏したのか。皆「プロ」ですから、そんな特殊な環境下でも演奏しなければならない。ムローバはそれ以降アッバードとの関係はきっぱり断ち切っているようです。

非常に辛く悲しい裏話です。音楽界において一時代を築いたアッバードの音楽にはどこか違和感を感じてきました。そのひとつの理由としては「暖かさに欠ける」というものであると思われます。(尚、今日現在ミーシャのfacebookではアッバードの訃報に一切触れていません)



2014年01月21日(火) クラウディオ・アッバード死去

1月20日指揮者のクラウディオ・アッバードが亡くなりました。1933年生まれの80歳であったとのこと。ウィーンフィル・ベルリンフィル・スカラ座で指揮台に立ち、それらの栄光の座から降りても、名手を集めたルツェルン祝祭管弦楽団と若手中心のボローニャモーツアルト管弦楽団を指揮し相変わらずの活躍をしていたのですが突然の訃報でした。

私が最初にアッバードの名を知ったのは、ウィーンフィル・ベームの組み合わせが「最強」と持て囃されていた時代にウィーンフィルと一緒に来日していた頃です。ベームの指揮する公演からチケットは売れていきベームの日が買えないのでアバードでも良いかという雰囲気はありました。尤もベームの音楽より「整然として活きが良い」とアッバードを選ぶ人もいました。

アバードが楽団の最前線に立つことになるのは、ベーム・カラヤンの楽壇退出後です。二人の両極端の巨匠を失った後に楽壇のエースに選ばれたのがアッバードでした。カラヤン・ベームの時代が第二次世界大戦後、冷戦下で社会は緊張を孕むものの高度成長を実現した西側社会にあって、価値観の多様化・ソ連崩壊に端を発する複雑な時代に移行していく時代でもあったと思います。カラヤンを驚愕させた強靭な「ムラビンスキー・リヒテル」などの東側の音楽家は既に姿を消し、ライバルの出現しないアッバードの時代が続いたのでした。

しかしそんなアッバードですが私にとっては何回も繰り返して聞くタイプの音楽家ではありません。持っているCDと言えば「ポリーニとのブラームス協奏曲2番」と、最近モーツアルト管弦楽団を振った「モーツアルト後期交響曲集」程度です。

纏めて聞けば別の味わいがあるかもしれませんが、私の印象としては「どんな楽曲でも相当程度の完成度で聞かせてくれるけれども、その楽曲のベストを争うショートリストに入るかというとそうではない。非常にオーソドックスで常に相当レベルの演奏をしてくれる指揮者だと思いますが、どんな演奏になるか予想もつかないという破天荒なことは絶対無く、想定の範囲内の演奏をするタイプです。たぶんこの種の指揮者は晩年のベーム・カラヤンの後を継ぐには最適な指揮者だったのだと思います。

アッバード時代の指揮者としてはアバドの他に以下のような指揮者が思い浮かびます。フルトヴェングラー・ワルター・ベーム・カラヤンの後にドイツ・オーストリア出身に指揮者が少なくなりました。そして、カンテルリ、ケルテス、テンシュテッドなど比較的若くして亡くなってしまった逸材がいます。さらにはハイティンク、プレビン、マゼール、クライバーなど「オーソドックス」タイプというよりは「少し変わった」指揮者もいます。結果論かもしれませんが、ウィーンもベルリンも「無難な」アッバードを選んだ理由が解る気がします。

ゲオルク・ショルティ:1912年〜1997年(享年85歳)ハンガリー
グイド・カンテルリ:1920年〜1956年(享年36歳)イタリア
ヘルベルト・ケーゲル:1920年〜1990年(享年70歳)東ドイツ
クラウス・テンシュテット:1926年〜1998年(享年72歳)東ドイツ
イシュトバン・ケルテス:1929年〜1973年(享年44歳)ハンガリー
ベルナルド・ハイティンク:1929年〜オランダ
アンドレ・プレビン:1929年〜ドイツ(その後フランス・アメリカ)
ロリン・マゼール:1930年〜フランス
カルロス・クライバー:1930年〜2004年(享年74)ドイツ



2014年01月17日(金) 2014年のインド総選挙

2014年はインド総選挙の年に当たります。インドでは5年おきに総選挙が行われます。2004年総選挙でソニア・ガンジー率いるインド国民会議党が勝利して、与党「BJP」を破って政権に復帰しました。その後の2009年の選挙でもマンモハン・シンを首相候補に抱く国民会議党が勝利しました。そして国民会議派政権への批判(政治腐敗への批判が激しいようです)が増大する中で2014年に総選挙を迎えます。私がインドに滞在していたときに政権交代が行なわれたので、それから10年が経過したことになります。

そして今や「ネルー・ガンジー家」出身者をリーダを頂いて発展してきた国民会議党にとって、いよいよソニアの長男の「ラフール・ガンジー」をリーダとして選挙を戦う時代となったと一般的には認められていました。1970年生まれのラフールは今年44歳になります。しかし今日のインドのインターネットニュースによると昨日国民会議派の重要な会議が行われ、党首の「ソニア・ガンジー」はマンモハン・シンを党首に頂いて選挙をすることを発表しました。つまり長男「ラフール」の党首就任は「お預け」となった形です。

ソニアとラフールの発言を見るいると、どこかにネルー・ガンジー家からの指導者輩出を終わらせようと考えている節があるように感じます。元々政治活動に巻き込まれることに抵抗があったソニアです。そして政治によって肉親を亡くしています。「長男ラフール」は不本意にも政治活動に巻き込まれた夫の「ラジヴ・ガンジー」に似て、どこか線の細さを感じざるを得ません。「ラフール」はまだ独身を保っていますが、実はこのまま独身を通してネルー・ガンジー家の直系は消し去るつもりではないでしょうか。

ソニアは演説の中では「腐敗撲滅」「貧富の差の解消」「経済発展」「政教分離主義」を訴えましたが。これらはインドの抱える永遠の問題といっても良いでしょう。貧富の差は宗教上の身分制度(カースト)に負うところ大きく、その結果として貧しい人々の教育水準は上がらず、政治は一部のリーダ(上級カースト)の人の手に握られてしまいます。

インド国民から愛され尊敬される国民会議派ですが、伝統的に指導者を輩出してきた「ネルー・ガンジー家の血筋」を尊重することは古い身分制体質を温存することに近似しているのです。賢い「ソニア」はリーダとして国民会議党を巧みに率いながら、人気投票とならないような民主的なリーダ選出の方法を探っているのだと思います。



2014年01月15日(水) 武蔵浦和駅改装工事

昨年からJR武蔵浦和駅構内の工事が始まっています。JRの報道によると「トイレ拡張」とか、エレベータ(武蔵野線)を設置するとか、滑らないタイルに張り替えるとか、駅のショッピング店舗を増やすとか、いろいろな改善を施してくれるようです。そして2〜3日前から駅に周知文書が掲示されました。その掲示文書に掲げられている完成予想図が下の写真です。




南区役所移転が終了して駅近隣のマンション建設も大分進んできました。駅が奇麗になると街全体が生き生きとしてきそうです。随分便利になった武蔵浦和駅近辺ですが、敢えて「課題」を提示するとすれば以下のようになるでしょうか。

 ̄愽婉瓠Χ疥戮量桔(置自転車が多い。
∩音対策(推測)で確保している線路両側のJR保有敷地が殺風景。
E餌爐靴拭孱法韮單典だ彙蓮廚ゴーストタウンと化している。



2014年01月13日(月) 高校サッカー決勝戦

第92回全国高校サッカーの決勝戦が行われ、富山県代表の富山第一高等学校が石川県代表の星稜高校を破って優勝しました。家の片づけをしていて気付いたら午後四時になってしまい、2時過ぎキックオフの決勝戦の結果だけでも見ようと思ってテレビをつけるとまだ試合が続いていました。アナウンサーの解説では2点リードされた富山第一が後半ロスタイムにペナルティゴールで追いついて延長戦に入ったとのことでした。

土曜日に準決勝2試合をつらつら見ましたが、四日市中央をPK戦で破った富山第一ですが、ストライカー「小谷松」を擁する「京都橘」を完璧に抑え込んだ星稜が優勢ではないかとの評が一般的でした。私は接戦が続いた準々決勝(PK戦二試合)で、日章学園を4対0で破った富山第一は何か不思議な底力を持っているような感じを持っていました。延長戦後半に入り、富山第一のPK専用キーパがアップを始める時間になるや否や富山第一の見事なゴールが決まって勝ち越し、そのまま決勝戦が終了しました。

富山第一は非常にスピーディなサッカーをします。市立船橋に代表されるような「パスサッカー」ではなく、「走ってシュートするサッカー」です。バックスがボールを奪うと数人の選手が相手陣内に向かって走り出します。そこにボールが送られそれをコントロールしてシュートの可能性を探ります。最善策は自分でシュートすることなのでしょうが、それができない場合には味方のシュート可能な選手にパスします。大体これで一回の攻撃は終了。非常に単純でスピーディです。

現在ヨーロッパサッカーの頂点に居る「ロナウド、リベリ、ロッペン、ベイル」などはこうしたサッカーの名人です。今年夏のワールドカップは、ブラジル・スペインに代表される「パスサッカー」と「ドイツ・オランダ」に代表されるような「走るサッカー」の頂上決戦になると思います。世界レベルにおいてサッカーの戦法流れが変化するのか興味あるところです。

サッカーとは関係ないですが、来年北陸新幹線が開業して首都圏から長野を経由して北陸が新幹線で結ばれます。長野・富山・金沢は大分近くなる予定です。今回の高校サッカー決勝戦は長野県出身者として非常には親近感を持って見ました。



2014年01月11日(土) 別所沼の鳩の知恵

この正月休みは「さいたま」で過ごしました。そしてお節料理食べ過ぎ対策で毎朝別所沼に散歩に出かけ柔軟体操をしました。幸いにも晴れた日が多かったので朝の散歩は寒いのですが気持ちの良いものでした。

冬の朝別所沼の出かけると、鳩が池に身を乗り出すように休んでいる光景を目にします。典型的には鳩は下の写真のように暖を取っています。




鳩も寒いのだなと同情しながら、鳩と同じように池の水面近くで太陽の光を受けていると非常に暖かいことに気付きました。そして納得しました。池の水面近くに立っていると、「太陽からの光」と「水面に反射した光」の両方を浴びることができるのです。水面近くだと2倍にはなりませんが、直接の太陽の光以上の暖かさを得ることができるのです。鳩はそのことを知っているのです。

二つの光を浴びるということは、その光の影が二つできることを意味します。二つの影を撮影できる場所を探して撮影してみました。それが下の写真です。




この写真では、太陽からの直射による道路の影と、水面に反射した太陽の光による木立に写った二つの影を確認することが出来ます。冬の鳩はこのようにして暖を取っているのです。すごい。



2014年01月03日(金) メジロ




昨年末あたりから「メジロ」の姿を見かけ、今日漸く写真に撮ることが出来ました。メジロは午前中の早い時間に食事にでてくるようです。かといって暖かかくなるお昼頃までいるかと言うとそうでもないので出会うのは難しいです。

「すずめ」よりずっと臆病なので近づくことはできません。この写真はかなり遠くからズームで撮影したものを引き伸ばしました。今日は朝の7時20分頃小さな柿の実を食べていました。

この写真ではメジロは大きく見えますが、実際この柿の実はとても小さくひとつの実の大きさは直径2cmくらいなのです。「メジロ」の大きさ(身長)は5〜6cmくらいです。




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