KENの日記
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2003年10月31日(金) 10月も終わりです。

先ず今朝の新聞記事での周知記事

本日のラマダン時間
断食の開始時刻:午前4時56分
最初のお祈り時刻:午前5時11分
断食の終了時刻:午後6時23分


このように細かくルールが決められているようです。時間にすごくルーズなスリランカの人がこのようなルールを守っているのは少し驚きです。仏教徒の人も宗教上の時刻の適用(開所式とか、結婚式式とか)時刻を守ります。会社の会議とは大違いなのです。



2003年10月30日(木) SOS最後の追い込み

SOS(オーケストラ)は、1日(土曜日)の演奏会に向けて、最後の追い込みに入っています。水曜日・木曜日・金曜日と連続で夜6時から9時30分頃まで練習しています。気合が入ってきました。


私はというと、練習すれば良くなりそうなところと、とても手が出ないので消
えるところとをはっきりさせる時期に来ています。例えば「火星」の早い分散和音とか消えます。もっともここは多少音程が悪くても、カシャカシャやっていたほうが良いのかもしれません。


今回の演奏会では、チケットを20枚ほど買って会社とかの関係者に配りました。日本のアマチュアの演奏会だとチケットを捌くのは大変で「協賛」とか言って出演者が「お金」を出し合うのが常です。それと似たようなもの。私としては、細々やっているクラシック音楽をできるだけ多くの人に聞いて欲しいというのが本音です。フルオーケストラの演奏を「生」で聞く機会などコロンボではほとんど考えられないからです。


前に聞いた「チャイコフスキー」の「白鳥の湖」もそうでしたが、コロンボの暑い気候の下で、演奏者も聴衆も汗だくになって「寒い国」の音楽を聴くことに少し違和感を覚えました。演奏者は必死になっているのでわからないですが、さてコロンボの聴衆に受けるかどうか。


今回の演奏会にはもうひとり日本人が参加する予定です。JICA(多分青年協力隊)の人でキャンディでトロンボーンを教えているという「MUSHIAKAE」さんです。キャンディから金曜日に駆けつけて金曜・土曜の2回の練習で本番に臨みます。彼はほとんどプロ並なので強力な助っ人なのです。「火星」でも「チャイコフスキーの交響曲5番」でもトロンボーンが大活躍するので楽しみです。



2003年10月29日(水) ラマダン

この10月27日からイスラム教信者のラマダンの月が始まりました。この日はイスラム暦の新月にあたり、ラマダンは次の新月まで続きます。ラマダン月の断食はモハメッドがイスラム教信者の求めた五つの行いの一つです。


1、コーランの教えに従うこと。
2、一日に五回祈ること。
3、精神的な修行、罪を償うためにラマダン月「断食」すること
4、貧しい人、病人のためにお金をだすこと。
5、聖なるメッカに巡礼すること。


ラマダンはイスラム宗教上イスラム教徒が、肉体的な苦痛を自らに課すことによって、宗教に没頭しあるいは罪を償う期間なのです。従ってイスラムの精神が高揚・純化する時期でもあるのです。


ラマダンの一箇月の間は「日の出」から「日の入り」までの間「断食」をするのです。それこそ水も飲んではいけないのです。食事は日の出前と夜間に取ることになります。モハメッドの教えは次のようになっています。


「ラマダンの間、信者は特に朝早く起きてアラーに祈りを捧げなくてはなりません。そして信者に幸福が来るようにこの間「Sehri」を食べるようにしなさい。」夜明けの食事を「Sehri」、夜の食事は「Ifthari」といいます。


幸い、この時期は北半球では秋・冬にあたり、昼の長さが短くなるので「断食」時間は短くて住みます。コロンボは夜は6時ごろ暗くなり、朝は6時30分ごろ明るくなります。6月ごろの日の長い時期にラマダンがあったら大変です。


(職場のイスラム教徒のファーティマさんに聞いたところ、朝4時56分から夜6時30分までの間、一切の食べのもの。飲み物を取らないのとのこと。)


宿舎の近くにイスラム信徒の方が多く住んでいる地区があり、モスクも二つあるのです。この時期、夜明け前に「祈り」をガンガン流しています。すこし迷惑です。



2003年10月25日(土) ラクレット

二週間前に「ジャフナ旅行」に一緒にいったDr.シーバラトナムさんに誘われて夕食を食べに氏の家に行ってきました。ひとしきりジャフナの思い出話をしたたあと、「IMAI」さんと私が撮影したデジカメ画像を氏のマックで見ようとしましたがマックの操作がわからず断念。Drの娘さんがマックユーザなので昔からマックとの由。でも最新機器の操作はまだ慣れていない。私は7・8年前にマックを使ったことがあるのですが完全に忘れていました。


夕食はスイス料理の「ラクレット」。Drは長くスイスで住んでいたので本格的なスイス料理です。さらにバンコク出身の秘書のスーパさんがチーズに味付けするのでさらに美味しくなっている由。


ラクレットは料理の名前であると同時にチーズの名前でもあります。今日のチーズはスイス製ではなくフランス製の由。どうやってコロンボで手に入れたのか不明。


ラクレットは茹でた「ジャガイモ」に熱で溶かした「ラクレットチーズ」をかけて食べる料理です。チーズをかけるのは他の物でも可能。今晩は海老、スリランカ風春巻き、ウィンナーソーセージなどにチーズをかけて食べました。


氏の家にはラクレット専用の鉄板とチーズを溶かす料理器具がありました。とても便利そうです。そういえばこの春「チューリッヒ空港」に乗り換えで寄ったときに、免税店で「チーズフォンドゥ」の機械を沢山売っていたことを思い出しました。スイス料理は料理器具が面白いですね。


「スーパ」さんは、ラクレットチーズに「たまねぎ」を刻んで溶かすこと、さらに溶けたチーズに、コロンボの赤唐辛子の漬物を混ぜることを考えだし、さらに美味しく頂けるのです。これでチーズはさらに味の複雑さを増します。とても美味しいスイス料理でした。チーズフォンドゥでもそうですが、最後の方でチーズに飽きてしまうことがあるのですが、香辛料を使うことでそうならないのです。



2003年10月23日(木) マグロの夕食

今日の夕食は、隣に住んでいるのレオンさん(シンガポール航空)に誘われて彼の部屋でマグロを頂きました。最近同じフロアに香港から越してきた「ラム」さん一家も一緒に招待されていました。


まずレオンさんの紹介。レオンさんはシンガポール航空の仕事で、これまで日本(確か九州の博多)に住んだことがあります。コロンボの前はパキスタンのカラチ勤務でした。出身はマレーシア(中国系)です。奥さんと長男との3人暮らしだったのですが、長男はこの9月にコロンボのインターナショナルスクールを卒業してイギリスの大学に行ってしまいました。すこし寂しくなっています。


ラムさんは香港からつい最近越してきました。奥さんと1歳半になる長女そして引越しの手伝いに来たラムさんのお母さんの4人暮らし。お母さんは間も無く香港に戻る予定です。レオン夫婦とラムさん家族達はいきなり広東語で会話し始めます。香港とマレーシアでも共通の言葉を持っているのは凄いですね。


今日のメインはマグロの「手巻き寿司」です。レオンさんはシンガポール航空の貨物の仕事もしているので、日本に輸出されるインド洋マグロを安く手に入れることができるのです。美味しいマグロを久しぶりに食べさせてもらいました。前回誘われたときに「海苔」を持っていって「まぐろ」の美味しい食べ方を披露したのでした。


今手元に日本から取り寄せた「タマノイのすしのこ」(黄色いパックのやつ)があったのですが忘れていました。これを御飯と混ぜて、「まぐろと海苔」を「わさび」で頂くと結構いけそうです。「紫蘇の葉」がないのはどうしようもないのです。



2003年10月21日(火) 和平会議再開近し、スリランカ市民権

LTTE(スリランカの政府組織)が和平会議再開に前向きである報道がなされました。


スリランカの政府・LTTEの和平会議は、今年の4月中旬にLTTEが会議から離脱したままになっていました。日本が威信をかけて開催した「東京援助国」にもLTTEは参加しませんでした。


その後スリランカ政府は「暫定統治案」をLTTEに提示して和平会議再開を促してきていたのです。この政府の「案」は暫定的にタミール人に一定の行政機能を与えるものなのです。この案に対してLTTEは10月31日に対案を提示することになっています。この案はタミール人の「自治権」をさらに拡大する案になっていることは間違いありません。


LTTE政治グループメンバーは先週まで2週間にわたってヨーロッパを訪問して、スカンジナビアの国々の統治システムを勉強してきたのでした。アイルランドの憲法専門化と議論し、パリで対案のレビューをしたり、デンマーク・ノルウェーを訪れたのでした。ノルウェーでは紛争解決特別大使の「エリック・ソルヘイム」氏と会って今後の進め方を協議したのでした。


この12月で停戦から2年経ちます。一刻も早く和平会議再開されることを願っています。


少し前の新聞報道で追記(2003年10月8日)
スリランカ「公民権法の修正法」が国会全会一致で可決されました。これはスリランカ南部に住む「インドから渡ってきたタミール人」に公民権を与えるというもの。この人達はこれまで国籍がなかったのです。当然選挙権もなし。スリランカの内戦の一つの原因であったのです。


この歴史を少し調べてみました。


イギリス植民地時代の1830年を中心にイギリス統治府の命令で約100万人のタミール人労働者がインドらスリランカ(当時セイロン)に連れてこられました。彼等はスリランカ南部にある茶・ゴムのプランテーションで働くことになったのです。当時はインドもセイロンも同じイギリス統治下にあったのです。従って、タミール人もシンハラ人も被支配民族として基本的には平等だったのです。


しかし、1948年イギリスから独立したセイロン政府は、セイロン国民の定義からこのインドから来たタミール入植者を除外したのでした。それまではイギリス統治下で同じ扱いを受けてきたタミール人入植者はここで国籍を失ってしまったのです。


その後1964年に当時のバンダラナイケ大統領をこの問題を解決しようとインド政府と話し合い、600,000人のタミール人をインドに帰還させることにしたのでした。この人達はインド国籍を得たのですが、インド市民権を得ずにスリランカに残りたいと考える人は多かったようです。スリランカ政府は375,000万人をスリランカに受け入れることにし市民権を与えました。しかし約150,000人のタミール人は取り残されたままの状態でした。


この取り残された150,000人とインドに戻れるのに戻らず、スリランカに留まった人達、そしてその子孫の人達が無国籍状態になったのでした。今回の法律はこの方達約300,000人にスリランカ国籍を与えることにしたのでした。


スリランカ南部「茶」畑にいくと、貧しそうな茶摘の人達を見ることが出来ますが、彼等の中には国籍さえ持っていない人達が含まれていたのです。つい最近まで。



2003年10月19日(日) 火星

今回のSOSコンサートではホルスト作曲組曲惑星から「火星」を演奏します。今年は火星大接近の年なのでそれに因んだのでしょう。大接近の日は過ぎても「火星」の明るさは大変なものです。「火星」は戦いのシンボルなので勇ましい曲です。


高校時代にブラスバンドで泣かされた曲でもあります。金管楽器の人にはカッコいい曲なのでしょうが、木管楽器担当者には「苦痛」の曲なのです。しょうもない五拍子の伴奏を延々とやったかと思うと、とんでもなく難しい16分音符のパッセージが来るのです。実は妻の高校時代にこの曲で「コンクール」に挑んだのでした。すごく苦しんだと想像できます。


今回はチェロで挑戦です。最初の五拍子の伴奏は「コンレーニョ」で弓の木の部分で弦を叩きます。クラリネットで吹くより疲れませんが、三拍子を上手く刻めません。ここは練習が必要。そしてやはり同じ16分音符のパッセージ。こんなのできるわけがないと殆どあきらめムードです。


大接近に因んだとは言え、金管楽器が大活躍する曲で、金管楽器の方の殆ど(ホルンを除いて)エキストラなので、なんでこういう選曲になるのか少し疑問です。



2003年10月18日(土) スリランカ音楽事情

私が参加させてもらっているSOS(シンフォニーオーケストラスリランカ)はスリランカ唯一の常設オーケストラです。大学にも高校にもブラスバンドはありますがオーケストラはありません。


SOSでも弦楽器・木管(オーボエを除く)はSOSのメンバーですが、金管楽器・オーボエなどは陸軍軍楽隊から応援で成り立っているのです。ですからこのエキストラ代を支払って演奏会をするのは結構大変なのだそうです。


弦楽器パートについていうとほとんど師弟関係者で占められています。小さい頃からレッスンに通えること。ある程度の楽器を買える事は、実は相当裕福な人達で構成されていることが想像できます。西洋音楽を実際に楽しむ環境はそう簡単には広がりません。私の宿舎の近くにヤマハ音楽教室があってピアノを教えていますが。


今回のSOSの演奏会はチャイコフスキー五番の交響曲がメインです。有名な曲で覚えやすいメロディで聞き栄えがするので、外の地域、例えばキャンディとかゴールでも演奏会を開けばいいのにと思いました。しかし「お金が無くてとてもそんなことできない」といわれました。エキストラ代と旅費が工面できないのです。


少し滞在したことのあるベトナムのハノイ市には、立派なオーケストラがありました。CDも録音しています。ハノイ市にはオペラハウスがあり、音楽学校があって、西洋音楽とベトナム民族音楽両方のプロ奏者を養成しています。


ベトナムのハノイ交響楽団の来日演奏会を聞いたことがあります。曲目は同じ「チャイコフスキー交響曲第五番」でした。ニ楽章のホルンソロが大変上手だったことを覚えています。SOSが体制を整えてスリランカの多くの人に音楽聞いてもらえるような時代が早く来るよう願っています。



2003年10月15日(水) ジャフナのこと

先週ジャフナに旅行したのですが、あまりにも多くの事を考えたので整理するのに時間がかかります。忘れない中に少し記録しておくことにします。

今回はタミールの方にジャフナ半島を案内していただいてきました。改めて感じたことは、「ジャフナはスリランカのタミール文化の中心地である」ということです。ジャフナの街には、ヒンズー教寺院・キリスト教教会がそれこそ日本で見かける「コンビニ」ぐらいあります。非常に敬虔な風土を感じました。
ヒンズー教寺院は威厳があって色彩豊かで非常に興味深いものでした。

それと、住んでいる人達(ほとんどがタミール人です)がジャフナを愛していて、大事にしていて、誇りを持っているということ。そのことが人々を支えています。コロンボから400Km離れてても、国際空港がなくても「ジャフナはジャフナ」なのです。ここはほとんどタミールの人達の「首都」なのです。
広々とした平原とパルメイラ椰子の取り合わせは本当に美しいのです。

この状態にスリランカ政府の多くの人達は我慢ができないのでしょう。スリランカの中心はコロンボであり、シンハラ世界であり、コロンボは求心力が必要なのです。

スリランカの内戦の始まりはジャフナからでした。教育における差別・就職における差別、つまりタミール人がシンハラ人より不利な扱いを受けたことが発端でした。それもジャフナ大学の入学者の構成比率の問題だったとのです。

ささいな「諍い」が次第に「不信」「憎しみ」「敵対」に変わるにはそれほど時間がかかりませんでした。政府の差別政策、そして大きな警察・軍事力に対してに対して、タミールの人達はゲリラ戦法で対抗したのでした。ジャフナの街では行政に対するゲリラ活動が活発になってしまったのです。

まさに、これはアメリカ支配下のイラクを見るようです。彼等に残された道はテロしかなかったのです。最初消し忘れた炎はとてつもない大火になってしまったのです。タミール人のテロ活動はシンハラの人達にとって、「卑怯」「愚劣」な物と映り、「タミール人は信用できない」という評価になってしまうのです。

そうした抗争を通して「ジャフナ」は一旦LTTEの支配下に入ります。その後政府軍は膨大な軍事力を投入し奪回したのでした。その戦いの中で政府軍はジャフナ市街をほとんど焼き尽くしたのでした。イスラエル・ロシアに頼んで空爆も行われたのです。ジャフナのいたるところで破壊されてそのままになっている家屋を見ることが出来ます。

この抗争の最中に多くのタミール人はこの国を逃れて海外に逃げ出しました。紛争前のジャフナ半島には100万人住んでいたそうですが、今は60万人位しか住んでいないそうです。破壊されたままの空家が沢山あるのです。

私は一部を世界遺産に登録して保存すればいいのにと思います。「広島」みたいに。

スリランカ政府はジャフナの中心地に「仏教寺院」を建てました。2万人以上駐留していると言われる政府軍兵士のためでもあります。それ以前ジャフナ市内には仏教寺院はひとつもなかったのです。

ジャフナは政府がLTTE軍から開放したのか、政府軍が占領しているのか、答えは明らかなのです。



2003年10月14日(火) 武蔵浦和ラーメンアカデミー

私のオフィスに大分遅れて回覧される日本の新聞(日経・サンケイ)で、我が家の最寄り駅「武蔵浦和」に「ラーメンアカデミー」ができることを知りました。

なんでも6軒のラーメン屋さんが一つ屋根の下に開店して、一年間の売り上げ競争の結果、下位の二店は入れ替えされるとのこと。新横浜のラーメン博物館(いったことはないけど)に似ているのかな。帰ったときの楽しみが増えました。でも6軒全部食べるのは時間がかかりそう。

武蔵浦和には駅ビル二階に「ふくちゃん」という博多ラーメンの店があって、安くて美味いのでよく食べました。関西風に「かえ玉」サービスがあるのです。メンマ・わかめなどの薬味が取り放題なのも魅力でした。過当競争にならなければいいのですが。ついでに宣伝。私の故郷の長野県須坂市の「セッコウ亭」のラーメンは本当においしいです。

武蔵浦和の乗り換え客を取り込めればいいのですが。武蔵浦和は付近が田舎の割には駅は凄く混むのです。埼京線の快速・普通乗り換え客、武蔵野線から埼京線への乗り換え客が多いからです。頑張って武蔵浦和名物にしてほしいです。

恋しいものは「ラーメン」「牛丼」「回転ずし」「長崎ちゃんぽん」。手軽なものばかりですが。



2003年10月11日(土) 妻の誕生日(兼)結婚記念日

10月11日は妻の誕生日(兼)結婚記念日なのです。妻の誕生日ポイント「1」、結婚記念日ポイントが「1」とすると、妻は「1.5」、私は「0.5」相当でお祝いされるのです。この計算に従って、妻は私の3倍お祝いされなければなりません。「おめでとう」「おめでとう」「おめでとう」。

妻は4X歳。本人の許可なしでの情報開示は控えます。昔は体育の日が10月10日で固定されていたので11日と連休になることが多かったのです。1980年もそうだったのです。別に意図して妻の誕生日と合わせたのではなく、仕事の関係と当時の妻の状況から、この日しかなかったというのが真相です。

妻は、ダブルのお祝いでは、自分の「誕生日」のお祝いの価値が軽くなってしまうので最近すこし不満みたいです。実際、妻は私の3倍は酒を飲めません。日本に居れば美味しい食事でもできるのですが、スリランカしかもジャフナにいてはどうすることもできません。おいしいワインでもほどほどに飲んでください。



2003年10月09日(木) ジャフナ再訪

(後日書いています)

10月9日(満月で休日)から12日までジャフナに来ています。金曜日は休暇をもらいました。感想は別途記事にする(つもりな)ので、簡単に事実関係のみ記載しておきます。

今回の旅の同行者:ジャフナ出身の法律家のDrシーバラートナムさん(60歳後半)。ドクターの秘書のバンコク出身のスーパさん。ご両人の友達の日本人IMAIさん。それと私。

Drシーバラトナムは国際赤十字(本部ジュネーブ)で働いていた際に、スリランカ・ジャフナ赤十字の活動に大きな貢献をされたので、ジャフナ赤十字のゲストハウスを利用できるのです。実はそのゲストハウス設立にも相当大きな私財を投入したみたいです。

赤十字ゲストハウスにも十分な数の部屋はあるのですが、メンテナンスが良くないので、私とIMAIさんはジャフナ赤十字の隣の別なゲストハウスに厄介になりました。設備は全く同じ感じです。

9日は朝4時30分コロンボを出発。

車はDrが手配してれくました。当初は私のセダンで私とIMAIさんで順番に運転して行こうということでしたが、タミール語を解する運転手をお願いして、大きな「バン」で行くほうが快適ということなので急遽変更。(ほんとうにそうでした)

旅程:コロンボから中部の交通の要衝クルネガラへ。クルネガラからA10道路を通ってアヌラダプラへ(ダンブッラを抜けるA9道路より早いです)。

ヴァウニヤで検問用の車検証のコピーなどを準備。ここで給油。

オマンタイの政府検問所・LTTEの検問所を通過してLTTE支配地域を北上。エレファントパス(スリランカ本土とジャフナ半島を結ぶ細い街道)を通ってジャフナ半島のポーレイのLTTE検問所・政府検問所を通過して、政府管轄のジャフナ地域入り。A9ロード(ジャフナではキャンディロードと言っています)に沿ったジャフナ赤十字に到着は午後4時過ぎ。12時間の行程でした。

政府の検問所の検問作業は相変わらず厳しいです。「厳しい」という言葉に代えて「国民に対するハラスメント」にすればさらに適切です。人は車から降ろされ、手荷物の検査を受けます。車はエンジンの製造番号を調べられます。貨物自動車は積荷をすべて降ろすことが義務付けられ、検査終了後にまた積み込み作業が必要になります。「LTTE」に武器持込をチェックしているのです。

LTTE支配地域への立ち入りに際しての書類(外国人用)は、パスポート・ビザ(写しで可)、申請書を準備しなくてはなりません。これに対して「LTTE」検問所は簡単な手続きで済みました。雰囲気はとても友好的です。

政府側はLTTE地域へおの旅行者を「武器持ち込み者」ではないかという猜疑心でチェックします。これに対して「LTTE側」はそんな心配は一切していません。

途中、ヴァウニヤで朝食。LTTE地域のキリノッチで昼食を取りました。前回2002年9月にキリノッチを通った時には、何もなかったのに、きれいなレストランが二軒もできていました。A9道路も「LTTE」支配地域に関する限り大幅な進歩がありました。

途中の交通安全祈願所(ヒンズー教)で、看護婦さんとしてキリノッチで働いているというKITAGAWAさんという方にお会いしました。看護所に電話がないと困っているようでした。

前回ジャフナに行ったとき(社用)は、コロンボで色々「LTTE」の悪口を聞かされていったのでした。コロンボに本拠を置く会社として「政府側の立場」で行ったといっても過言ではありません。

今回の旅は純粋にプライベートで、同行者のDrシーバラトナムさんは「タミール人」であり、彼の故郷を訪問するという名目なので、政府とは一線を画す立場で旅といえます。

両方の立場から「LTTE」支配地域の状況を観察できて、ジャフナに住む人たちと交流できて非常に感慨深い「旅」となりました。



2003年10月08日(水) SOSの夜間練習

SOS(シンフォニーオーケストラスリランカ)は日曜日午前中の他に、水曜日の6時半から9時まで練習があります。今日はその練習日でした。

今回の指揮者のアーナンダさんは、指揮者であり、コンサートマスターでもあるので、バイオリンを持ち出して指導していました。ボーイングの指示や、表現の細かいところは実際にバイオリンを弾いてくれます。これが素晴らしい音で、簡単そうに弾くので、つい自分達でもできるかなと錯覚してしまいます。実際に音のイメージやボーイングのイメージをつかむと少しは進歩するのですが、技術の差は簡単に埋められるわけがありません。

でもこの調子で指導してもらえて、各人も頑張って練習すれば、いい線を行くと思います。本格的なチャイコフスキーを聞くことができると思います。

残念なのはホールが「おんぼろ」で小さいこと。折角頑張るのだから、いいホールで大勢の人に聞いてもらいたいです。演奏会場はいつものレディスカレッジの講堂。空調無し、背もたれが垂直の「木の座席」です。



2003年10月07日(火) 日本食到着

先月日本に注文していた「日本食」がようやく到着しました。すごく丁寧に梱包してあって恐縮してしまいます。もう少し雑でも大丈夫なのに。キチンと登録がなされているのか、開けられた形跡は全くありません。引越の荷物は全部キチンと開けられていました。

ところで今回は「柴漬け・きゅうりの九チャン・はならっきょ」だとかという、そのまま食べられる食材を多く買いました。もちろんレトルトカレー(ボンカレー)とか「フリカケ」などもいっしょに。本格手な日本食を「作る」というのではなく手軽に日本の味を味わえるものに特化した感じです。

食生活がすこし「マンネリ化」しているなと反省しいます。



2003年10月05日(日) SOS練習開始

今日からSOS(シンフォニーオーケストラスリランカ)の練習が始まりました。11月1日のコンサートに向けた練習です。メインはチャイコフスキーの交響曲第五番。サブとしてサンサーンスのピアノ協奏曲、ホルスト「惑星」から「火星」だそうです。「火星大接近」を記念したようです。

さて、今回はコンサートマスターの「アーナンダさん」が指揮します。師匠のペレーラ女史によるとアーナンダさんは指揮も一流とのこと。しかしアーナンダさんが抜けた1stバイオリンは少し心配です。ピアノ奏者で有名な「ラーマヤ」さんがコンサートミストレスを勤めるみたいです。トップサイドはアーナンダさんお弟子の「ツシャンニさん」みたいです。

前々回のブラームスのピアノ協奏曲のときの指揮は主席クラリネット奏者のアジットさんで、管楽器に対して細かい注文を出していました。「アーナンダ」さんは初日からボーイングの指示を細かく出していました。場面・場面の細かいニュアンスを表現するために、それぞれ違った弾き方を要求しています。

今日は弦と管で別々に練習したのですが、ざっと見て外国人が目立ちました。ビオラに白人の女性が入っていて、ガンガン弾いていました。今日は五番の終楽章の練習でした。2ndバイオリンに東洋人(日本人ではないみたい)。チラッと見たトロンボーンに東洋人(日本人かも)。前々回、下手な私が出演して結構話題になったので、コロンボ在住の外国人が自信もってどんどん参加したのかしら。

それより、自分の役割を最低果たすことが先決。前回の演奏会は聞いて楽しんだのですが、今回は弾いて楽しみたいと考えています。チャイコフスキー五番は「#」系で響きが良いし、管楽器ばかりでなく弦楽器も活躍する曲です。頑張って練習しなくては。 



2003年10月04日(土) 美味いマーボー豆腐

同僚のMさん夫妻から日本から送られた豆腐を頂いていたのです。これをどのようにしていただくか、悩んだ挙句「マーボー豆腐」にしました。

とにかくコロンボでは「豆腐」は手に入ります。地元のスーパーでも韓国食材店でも豆腐は売っています。でも美味しくない。硬いし、パサパサしているし、少し酸っぱい味がするのです。とても「やっこ」では食べることができません。マーボー豆腐にしても旨くないのです。

マーボー豆腐といってもインスタントです。昔から使っている「まるみやマーボ豆腐の素(中辛)」。しかし豆腐次第で大違い。今回日本直送の「絹ごし」豆腐ですが、こちらの豆腐で作るものとは全く別な料理になりました。久しぶりに日本の味(中国の味)に堪能しました。



2003年10月03日(金) 外食続き

今週は晩御飯を外で食べる機会が多かったです。

火曜日:SAPサミットinコロンボ。興味のテーマだったので、前夜祭のディナーパーティから参加を予定していたのでした。ところが会社の打ち合わせが長引いて夜8時過ぎになってしまったので急遽中止。会議で疲れたことも原因です。

水曜日:子会社のモビテル社の新ロゴ発表会。ホテルの大広間を借り切ってのお披露目でした。でもパーティ開始が45分も遅れたので疲れました。(これくらいの遅れはスリランカでは当たり前ですが)料理はブッフェ形式のスリランカ料理。予算を絞ったのか品数は少なめです。しかし親会社の財務担当としては、これは大歓迎。このパーティは途中で退散しました。(3時間)

木曜日:日本の親会社から来客。当初はせっかくスリランカに来られたので、スリランカのシーフードレストラン「ビーチワディア」に行くことにしていたのですが、急遽宿舎の上司の部屋で夕食をたべることになりました。メイドさんは料理が大変上手で美味しく頂きました。私は日本食は大歓迎なのですが、日本から来られたお客さんはどうなのか・・・。(2時間)

金曜日:インドの通信会社の幹部がコロンボに来られて我社と連携の調印式をしました。せっかくのチャンスなのでディナーをと言うことで、コロンボのインド資本のホテル「タージ」で夕食をしました。インドの客を迎えてインド料理というのもどうかと思うのですが、菜食主義の人が居たり、特定の食材を食べなかったりするので地元のインド料理店が便利なんだそうです。私のテーブル(7人がけ)でも三人の菜食主義の人が居ました。オードブルからかして違うのです。そういえば、日本に何人かのスリランカ人といったとき、ラーメン屋に行ったのですが「豚肉ノー」で全く食べなかった人が居ました。食文化の違いは結構重要な問題なのです。(2時間30分)

実は金曜日は別の夕食会(航空会社)に誘われていたのですが、断ってこちらに来たのでした。

外食の問題点:話しながら(だらだら)食べるので食べ過ぎること。時間がかかってもったいない場合があること。宿舎の普通の食事は20分あれば済んでしまうのです。



2003年10月01日(水) 再び「おしん」

今コロンボでは二つの「おしん」をテレビで見ることができます。

一つはNHK国際放送で日曜日を除くよる9時15分からの日本語放送。これは映像がとてもきれいです。

もう一つはスリランカの放送局が流す「シンハラ語版のおしん」です。朝6時45分から毎日やっています。こちらは映像がとても古いのですが、シンハラ語の吹き替えが上手でとても自然な形に仕上がっています。

今日「シンハラ語」バージョンを少し見ていたら「雪の銀山温泉」の風景をみることができました。

銀山温泉は山形県の宮城県境に近い山の中にあります。小さな温泉街なのですが、車が入れないような細い道の両側に温泉宿が集中していて、とても風情のある温泉です。県境を越えて宮城県側には、鬼首温泉とか鳴子温泉があるのです。

山形県は温泉が豊富で確かすべての市町村に温泉があるのです。山形蔵王へスキーに行った帰りに天道によって天道温泉で温まったりしました。銀山温泉は仕事の関係で泊まったことがあるのです。

当時泊まった「能登屋」さんという旅館が、今回「おしん」の中で「銀山館」という名前で出ていました。たしか「能登屋」さんのロビーにロケ模様の写真が飾られてたことを覚えています。




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