ゼロの視点
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2004年03月28日(日) 無題

 女、36歳、とある日曜日の朝・・・・。



 洗面所へコンタクトレンズをはめるために足を運ぶ。

 ボーっと鏡に写る自分をしばし眺めた後、

 指を右目に入れて、グリグリとコンタクトを探す作業。

 しばらしして、目の痛みとともに、

 自分がコンタクトをはずしに来たのではなく、

 コンタクトをはめにきたということに気づく。



 目が真っ赤だ。

 


2004年03月26日(金) ネットの巧妙

 毎朝起きると、とりあえずパソコンを立ち上げる。そして、ネットで日本のニュースを読みながら朝食をとる、というのが私の習慣。

 ネットは、時に実際テレビニュースや新聞より、早く色々なことが掲載されることもあるので、“日本に住んでいる人より、早く情報をキャッチ”してしまうことが多々ある。

 たまに、日本にいる母親や友人らに電話すると、

「なんでゼロ、そんなに知っているの?。気持ちワル、本当にフランスに住んでるの?」

と言われる始末(笑)。

 友人らの多くは、子育てや仕事に忙しいので、限られた時間にニュースを見るだけだったりする。ゆえに、ケーブル回線で一日中ネットに接続していられる私のように、見たいときにニュースを閲覧できる状況ではないゆえ、ますますここに差が生じてくる。

 でも、こんなに日本のニュースに詳しくなっても、久しぶりに日本へ戻ったりすると、現実に愕然とすることが多いのが、かえって不思議だ。百聞は一見にしかずとは、このことか?。

 こういう体験をすると、象牙の塔に篭っている研究者達の発表がときにまったく現実感を伴っていない理由が、漠然と推測できるようになってくる。文献などを通して研究し尽くしたものと、実際にその場にいてしかわからないことの違い・・・。

 フランスにたくさんいる、自称日本オタ、逆に日本にたくさんいる自称フランスオタなども、そうなのかもしれない。

 いずれは、私もフランス在住のアジア人の顔した、日本語が堪能な、日本オタの一人に化してしまうのだろうか?!?!?!。 
 


2004年03月25日(木) 初体験

 午後から、M嬢宅へ。

 絵に描いたような、主婦達の昼下がりのお茶会。と、いいつつ、私とYK嬢はワイン持参。どうもお茶だけだと・・・・・、以下自粛。


 茶だけして、本当は早く退散するはずだった。が、気がつくと、話がどんどん盛り上がっていく。おまけに日が長くなってきたのか、時間の感覚も鈍くなっているみんな・・。

 すでに午後8時になろうとしていた。さすがに遅くなったので、この時点で2人の妻連中は、家に戻っていった。

 が・・・・。


Y嬢は、たまたま夫が家で子供の面倒をみてるので居残り可能な状況。

で、私は、たまたま夫が家に戻るのが遅い日なので、居残り可能な状況。

 

 そんな私たちに、あるじのM嬢は、“家でご飯でも食べていく?”等と魅惑的な誘いをかけてきてくれた。“え、でも・・”“お邪魔しちゃ悪いし”等といいつつ、M嬢がもうすぐ帰宅するであろう彼女の夫との晩御飯用に作っている、カレーの匂いに激しく食欲が刺激される。

 そんなわけで結局、図々しくM嬢の“夫婦団欒”時間にお邪魔してしまった・・(汗)。

 夕食の用意が終わった頃、M嬢の夫F氏が仕事から戻ってきた。我が家に戻って、自分の妻以外に2人の日本人がいて、ちょっとビックリしていたような気がする。

 と同時に、なんかいつにもなく妙な緊張感を覚える私・・。なんでかな?、と思いつつ・・・・、M嬢の料理に舌鼓を打つ。普段は標準語のM嬢だが、夫の帰宅と同時に、2人で完全に関西弁になる。その姿は夫婦漫才のようで、非常に楽しい。日本語だけの食卓というのは、なかなか味わいがある。

 すっかり、楽しんで家に戻るメトロの中、ふととあることに気づいた。

 日日夫婦が揃っているお宅で、一緒に食事をさせてもらったということは、私のパリ生活ではじめてのことだった。なーるほど、だからなんかちょっと緊張したのだ、私・・・・。初体験っ!!!!。

 M嬢にとって、はじめてビズ体験をしたのがうちの夫だったのだが、今度はM嬢の夫F氏のおかげで、私も初体験できたということになる。メルシーー。


 メトロの中でも、友人YK嬢から借りた日本語の本を没頭して読みつづけ、本日は午後から、本当にナマの日本語の世界にどっぷり。そしてしばらくすると、夫が戻ってきた。

 夫は、本日あったことを喋る喋る・・・。しかもたくさんのジェスチャーつき。たった一人帰ってきただけなのに、10人くらい人を連れてきたような感じで賑やかといえば聞こえがいいが、ま、要するにウルサイ。

 あ、この人、日本人じゃないな、とあらためて思い、フランス社会に引き戻されたゼロでございました。


2004年03月24日(水) 散財

 突然用事が入って、昼にパリ郊外Noisy le Grandという町へ行くことになった。

 午後用事も終わり、RER駅併設のショッピングモールをブラブラ散策。嫌な予感がしてきた。いわゆる日本にある駅ビルのようなつくりで、色々なブティックがたくさん入っている。あちこち歩かず、疲れず、そしてたくさんの商品・・・・。消費者社会の典型。


ヤバイ・・・・、何か買ってしまいそうだ・・・・。

でも、今月はあまり散財したくないのだが・・・・。

“見るだけ”と何度も自分に言い聞かせながら、フラフラしているうちに、一軒の店のショーウインドーに、気になる洋服が展示されているのを発見してしまった。

 それにつられるように、店に入る私。“見るだけ”と決めているので、本当に目当ての商品をしばらく眺めていた私。幸い、店員も小金持ちそうなマダムの試着大会で多忙ゆえ、その隙を縫って、私の目当ての商品を“見るだけ”から“手にとるだけ”の作戦に変更して、吟味していた。

 すると、もう一人の店員が休憩時間からすでに戻ってきていたようで、私にスッと近寄ってきて、

「何かお手伝いしましょうか?。」

と尋ねてくるので、“とりあえず見せてください”と返事して、相変わらず、目当ての商品を眺めていた。見るだけみたら、帰ろうと思っていた私だったのだが・・・・。

 その店員は

「その服は見てるだけじゃ本当に自分に会うかどうかわからないわよ。」と私の不覚をついてくる発言をしてくる・・・。

“そんなこと百も承知だよ、店員”

“試着したら、もうおしまいなんだよ、店員”

と心の中で呟きながら、気がつくと店員にそそのかされて試着室に入っている自分がいた・・・・。マジでヤバイ。この服は、私にとって異様に高価。トルコ旅行より高価・・・・。どーーーーーしようっ。

 試着室の鏡にうつった、お気に入りの商品を羽織った私の姿・・・・。本当に危険なほど、私の好みの服・・・・。これを着て、あの機会に出席しようかな、とか色々な妄想のおまけつき。もう止められない・・・。

 しかし、まだこの時、試着するだけして家に帰ろうと頑張っていたのだが、とうとう、次の店員の言葉で心が激しくぐらついてしまった。

「支払いを2回にわけてもいいのよ」

 しぶとく、この服をまとったまま、長いこと2回払いで購入したあとの自分の生活について想像してみた。払えないことはない。が、もっと廉価で気に入ったものをいつか見つけるかもしれない、でも、見つからなかった時、一番のお気に入りさえもすでに売れてしまっていたら、くやしい、等と、ウダウダ・・・・。

 で、とうとうお買い上げ・・・。店員の巧妙な作戦にすっかりはまってしまったような気がしてならない。嬉しいけれど、散財にかなりの罪悪感・・・・。

 昔、日本で稼いでいた頃は、なんの躊躇もせずに大枚はたいていた自分は、もうはるか彼方になっていることを再認識したゼロでした。


 


2004年03月23日(火) 貧乏な家系

 珍しいことに、用事をすべて早めに終えて家に戻ると、夫もなぜか本日は早めに会社から戻ってくる。

 ま、とりあえずインゲンだけでも茹でておこうと思い、キッチンにいると、夫が自分の携帯を私に差し出してくる。私あての電話が夫の携帯にかかってきた模様。相手はフランス語ができないようで、どうにも対処しきれなくなった爆弾を私に渡すように、夫は自分の携帯を私の手に握らせてくる。

 で、電話にでると、

相手「ゼロちゃん?、私、Aよ」

私「あ、お久しぶり、でも、携帯は日本からだと高いのに」

相手A「高くないのよ、だって私、今パリにいるの」

私「えーーーーーーーーーーーーっ」


 A嬢は、私の従妹で61歳。わしの父の兄Zの娘だ。

 もともと私と父自体47歳の年齢差があり、父とその兄Zは12歳も違うわけで、必然的に、父の兄Zの子供達は私と全然世代が違う、ということになってくる。私にとっては、大正生まれの父と、明治生まれの叔父、遡れば、江戸時代末期生まれの祖父という、昭和42年生まれの私にとって、計算するのも面倒くさいほど、激しい年齢差がある。

 私が日記に従妹と書く場合、そのほとんどが母方のソレであり、みんなほとんど同世代。こちら側とは非常に頻繁に付き合いがあるのだが、父方のほうは稀。なぜなら、父がはるか昔、自分の兄Zと大喧嘩をして以来、疎遠になっていたからだ。

 喧嘩の理由は、父と兄Zの間にいた、姉AKの仕業ともいわれている。末息子として生まれた父は、誕生してすぐに父親を失った。それと同時に、母親の健康もすぐれず、兄Zと姉AKが事実上の両親のようにして我が父の面倒をみていた模様。

 商才に非常に長けていた兄Zは、家庭の事情もあり学業を続けるかわりに本格的にビジネスをはじめ、それが戦後の動乱でどんどん波にのり、あっという間に大金持ちになっていく。

 そして兄が諦めた学業を、商才にまったく恵まれず、ただ学業だけが非常に長けていた我が父に、ソレを続けさせるために、兄は弟の金銭的支援を続けていた。そして、父の姉Aもしかり。近親相姦的とも言える、姉Aの我が父への愛情はどんどん強くなっていく一方。

 すでに父になっていた兄Zに対して、“自分の家庭ばかりを優先させる”というイチャモンをつけだしたのは、父の姉A。そして、学業しか知らず、世間からちょっとずれていた父は、そんな自分の姉の言葉に丸め込まれていき、本来上手く行っていた兄と弟の関係を放棄せざるを得なくなっていった。

 このようなことが発生したのが、昭和20年代・・・・・。

 ああ、気が遠くなってくる。その当時、私は影も形もない。もちろん、母もまだ思春期だったはずだ。

 そして父は、死ぬまで決してこの決裂のいきさつを詳しく、自分の妻と子供に話すことがなかった。


 それでも、兄Zは、音信の途絶えた自分の弟(つまり私の父)が、学業ばかりに専念して、霞を食うような生活をしているだけじゃなくて、結婚もして、なおかつ1児の父になっているらしい、という噂をききつけて、一度だけ我が家にやってきたことがあった。それも、父が不在の時を狙って。

 兄Zは、その時4人の彼の子供のうちの一人である娘を連れてやってきた。それが今回私に“私、今パリよーーん”と電話をかけてきた従妹A嬢だ。

 当時、私にとって従妹といえば、自分と同じように子供なのだと信じ込んでいたゆえ、突然20代の女性を見て、“ああ、おねーさんっ!!”等と妙に感動したものだ。

 次に兄Aとその娘A嬢に会ったのは、父の葬式の時。翌日、兄A宅にはじめて行き、その信じられない豪邸にビックリしながら、娘A嬢がグランドピアノでちょっと演奏してくれたのが、私がピアノを習うきっかけになっている。今、思えば、A嬢が弾いた曲は“エリーゼのために”だったのだが、当時幼かった私に、“キレイなおねーさんが、キレイな曲をピアノで弾いてくれる”と感動するには充分だった。



 我が父が死ぬ3ヶ月前に、彼の姉であり、兄と弟の仲を徹底的に引き裂いたとされているAK嬢がひっそり、孤独に亡くなっている。AK嬢の死を知った父は、一日中肩を震わせて泣いていたという。

 そして、今度は父の訃報を知った兄Zは、やはり同じように一日中肩を震わせて泣いていたのだという。

 そんな兄Zも、その数年後に亡くなった。


 “恩讐の彼方に”じゃないが、どうして死ぬまで決裂したままだったのだろう?!?!、という私と従妹A嬢の疑問。大事な人間を失った後で、無念に肩を震わせて泣いているぐらいなら、生前から仲良くしておきましょう、ってことで、私とA嬢は今でも仲良くしている、というわけだ。

 いずれにせよ、私は、父らのお家騒動のかなーーり後に、ひょっこり生まれてきているので、A嬢としても逆に付き合いやすいのだと思う。実際にA嬢の兄などは、兄と弟の麻布“暗闇坂”での激しい喧嘩の時に目撃者としていたらしい。こうなると、またイメージが違ってくるというもの。ちなみに、A嬢の長兄の子供達は、私より年上だったりする・・・・。



 どうでもいいけれど、
 暗闇坂で殴りあうなよ・・・・、キミ達・・・・。



 従妹A嬢は、シャモニーにフラッと遊びにきていた模様。今回パリはトランジットとして通過するだけだから、私たちにあらかじめ連絡をしてこなかったという。が、オペラ界隈で空港行きのバスを待っている時、時間があったので、以前わしらが渡した電話番号にいちかばちかでかけてみたらしい。

 もし、夫がたまたま早く家に戻っていなかったら、夫がA嬢の電話を受けても私は彼女の電話には出られなかったことだろう。本当にラッキーだった。


A嬢「で、うまく行っているの?」

私「何が?」

A嬢「だから、あの、その・・・」

私「あ、わかった、アタシのことだから、旦那が嫌になったとか言って、家を飛び出したりして、そのうち日本へ戻ってA嬢のところへ突然現れて、離婚しちゃった・・・、と言いそうで、心配してるんでしょ?」

A嬢「そうよ・・・・ゼロちゃんだったらやりかねないでしょ。」

私「今のところ、無事に続いてるよ。安心してね」

A嬢「ああ、よかった」

とこう締めくくると、彼女はホッとしたのか涙声になっていた。



 先週までのフランス西部旅行では、夫の父方の親族を中心に面会を重ねてきた私たち。夫も気がついたら、母方の親族とばかり繋がりが強くなっていたらしい。おまけに夫の父も、自分の家系など気にもせず、妻がやりたいようにやらせておいた、という感じらしい。

 ちなみに、夫の祖父には弟がいた。夫の祖父は商売の才能がまったくない、インテリタイプに対して、その弟は商才に非常に長けており、子孫たちが着々とビジネスに成功している。



そして、夫と2人で、

どうも“金持ち”には縁がないようだね、私たち・・・、と。

と同時に頭脳もそう簡単に遺伝しないしね・・・・、と。

もしかして、私たちってどうしようもない子孫?!?!?!、と。


一瞬、2人で暗くなりかけたが、中途半端な子孫として、現生活をエンジョイしているんだから、ま、いいか?、と、都合よくしめくくり、安ワインを口に流し込んだ。


2004年03月18日(木) カミカゼコンサート

 本日は、我が家で日本人女性3人による、なんちゃってコンサートの日。クラリネット担当のYT嬢が“カミカゼコンサート”と名づけている。

 実は、チェロ担当のA嬢が3月末日に、日本に帰国が決定。そんなわけで、3人で一緒に練習することなく、本日、ぶっつけ本番でブラームスのクラリネットソナタを我が家で演奏することに決定。

 私は、YT嬢から早々と楽譜をもらっていたとはいえ、旅行だのなんだのと全然まともに練習する時間がなかった。一度だけY嬢とあわせたことがあったけれど、その時は、まだピンときていなかったと思われる。

 ただ私は、先週、色々なアマチュア音楽家とすでにぶっつけ本番でアンサンブルを楽しんできた後だったので、自分の練習不足を棚に上げても、なんとかなる・・・・、という根拠もない自信だけはあった。

 こんな練習不足のコンサートに、YS嬢とYK嬢が勇気ある聴衆としてやってきてくれたことに、感謝、感謝。

 YK嬢には、あらかじめお酒持参できてねーー、などと伝えておいた。というのも、シラフで聴いたら気持ち悪くなってしまうかもしれないと思ったからだ。

 参加者の中には、ママの人もいるので、彼女らのベビーシッターや子供の
学校の関係で午前中から我が家を開放。


 徐々に人が集まってくる。ちょっとだけA嬢のチェロと私のピアノでバルトークの『ルーマニア民族舞曲』の一曲をあわせてみる。で、ちょっと真面目モードになってきたかな?、という時にクラリネットのYT嬢が、スーツケースの中にクラリネットと、本日のランチ用の食材を詰め込んでやってくる。

 YT嬢は、我が家に到着するや否や、さっさとキッチンへ篭って料理を始める・・・・。そのおかげで、次々にキッチンへ行きだし、気がついたらみんな狭いキッチンで料理しながらお喋り。

 どうも女性というのは、給湯室だったり、キッチンだったり、こう言う場所であーだこーだおしゃべりするのが好きなようだ。ま、私ももちろんその一人なのだが(笑)。

 そこにYS嬢が、できたての豆腐などを持参でやってきた。

 もうこうなったら、豆腐が食べたい。音楽なんてどーでもいいわけであり・・・。

 コンサートです、と宣言しておいたはずなのに、気がついたら楽しいランチになっている。

 が、チェロのA嬢の我が家での滞在時間は限られている。ので、慌てて3人でぶっつけ本番のブラームスが始まった。

 どうなることか?、と3人個別で思っていたに違いないが、このぶっつけ本番が想像以上にうまくいったので、思わず感激。と同時に、もっと真面目に練習しておけばよかった・・・・、と悔やまれることしかり。

 途中何度かリズムが狂ったりで、止まることはあったが、それぞれのパートが響きあう部分では、エクスタシーを充分に感じることができた。一人でピアノパート部分だけを弾いていると、“ケッ、おもしろくねえ”等と思いがちだったのだが、なんのなんの、こうやってアンサンブルすると、本当に自分のパートも非常に効果的になってくる。

 その後、YS嬢がフォーレのレクイエムのうちの一曲をCDを伴奏に歌った。彼女は窓から外を眺めつつ歌ったのだが、これが非常に美しく、どんどんと聴衆が彼女の歌に惹きこまれていった。彼女の繊細な感情がそのまま歌に表現されており、それが私に感動の鳥肌を立たせたほど。

 さて、ここで残念なことにチェロのA嬢の時間切れ。別れを惜しみながら、A嬢は帰っていった。

 あとは残りの4人でお喋り大会。色々な暴露話も登場して、時間が経つのが非常に早い。そして、YS嬢とYK嬢も帰路につく。

 残ったYT嬢と私でしばらく話し込む。ある程度話し込んだあとで、YT嬢の夫Dが仕事を終えて、我が家に駆けつけてくる。が、コンサートはすべて終了。しかたがないので、彼にはYT嬢が撮影した日中のなんちゃってコンサート風景のビデオを見せて我慢してもらう。

 が、まだ本日の余韻が残っている私たち。同じ曲を、今度はチェロ抜きで演奏してみた。するとどうだろう、日中よりももっとよくなっているっ!!。2人で感動しているところに、今度はわしの夫が仕事から戻ってくる。なので、彼にも同じようにまずビデオを見せてみた。

 そして、また、ピアノとクラリネットで再度ブラームスに挑戦。これが、またまた、以前よりできがよくなってきている。YT嬢の夫Dもその歴然たる差にお気づきの様子。うおーーーーっ。

 以後、ただ4人でお喋り&ディナー。アッという間に午後11時半になろうとしていた。

 本当に楽しい一日だった。

 あと、ふと気付いたことだが、先週フランス人の連中とアンサンブルした時より、日本人同士で演奏したほうが、楽にあわせやすいということ。やっぱり、日本人というのは、他者に合わせることに長けているのだろうか?!?!?!。


2004年03月16日(火) フランス西部旅行パート11

 本日はパリへ戻る日。11日間にわたる旅の走行距離は、1111キロだった。ギャクか?、と思って何度もクルマのメーターを見直したが、1111キロだった。


 姑が色々なものを私たちにくれようとする。それをさりげなく断ったり、選んだり・・・、あっという間に時間が経っていく。気がついたら、もうすぐTGVの時間なので、急いで駅へ行き、TGVの時間を午後2時から午後5時に変更。やっぱり、今回も時間変更だ・・・・(汗)。


 家の中でバタバタと動き回っているうちに、本日が暑いことにやっと気付く。ずうっと、自分がよく働いているから汗をかくのだ・・・、などと都合のいいことを考えていたが、実はそうではなく、ただ気温が高かったのだ。

 パリからもってきたスーツケースがパンパンになってしまい、それプラス二つのスーツケース分という荷物になってしまった私たち。2階から玄関に荷物を下ろすだけでヘロヘロだ。

 そんなわしらの姿をみて、姑が、“まあ、大変、なんでそんなに大荷物なの”とのたまう。そんなこと言うなら、色々とものをくれるなっ!!、と言いたいところだったが、ここは大人の私、何も言わずに・・・・、等と思っていると、夫がすでにこの発言をして姑に食って掛かっていた。

 ドタバタの末、無事にTGVに乗り込みパリ到着。モンパルナス駅からはタクシー。気がついたら、もう自宅に到着していた。

 ああ、旅が本当に終わってしまった・・・・・。


 しかし、久々の我が家、これはこれで悪くない。ま、グチャグチャな家だけれど、落ち着く我が家、ってところだろうか・・・・。


2004年03月15日(月) フランス西部旅行パート10

 私たちしかいない、ホテルの食堂で朝食。こういう一人占め感覚は、けっこう好きだ。

 ホテルをチェックアウトした後、海岸沿いをドライブ。あいにくの小雨だったのでクルマから降りず。夏になったら、人で溢れかえるだろう場所で、ほとんど誰ともすれ違わず。

 本日の予定は、ただ一路、レンヌに住む姑の家に戻るだけ。ああ、旅も終わりに近い。

 今回の旅行は、本当に食べ過ぎたので、本日はレストランを探す気にもならない。ただ、パンを購入して、美味しい手づくりパテでものせて食べたいだけ。

 クルマを走らせながら、おいしいシャルキュトリー屋をみつけることがいつのまにか我が夫婦の使命になった。


 が・・・・、見つからん・・・・・。

 または、見つけても、閉まっている・・・・。


 もう、パテを食べるつもりになっている私たちゆえ、どんどんと飢餓感がつのってくる。ヤリたくて、ヤリたくてしょうがない男性が、結局誰ともできなかった時というのはこういう感じになるのだろうか・、とふと思う。

 欲望というのは、スゴイものだと、我ながら関心。

 スーパーを見つけても、それは無視。私たちはそこでしか味わえないパテが食べたいのだっ!!。



 しかし、レンヌまで1時間もかからないところで、私たちはとうとうギブアップ、大型スーパーに飛び込んでしまった。食べきれるかどうかわからないほど大量に数種類のパテを購入して、スーパーの駐車場に停めたクルマの中でそれにむしゃぶりつく。

 うまい・・・・・。


 とにかく、目的は遂げたので、観念したように姑のところへ戻っていく。到着は午後4時過ぎだった。

 息子夫婦とランチしようと、姑が待っていたことが発覚。夫がばつの悪そうな顔で、母親の前に立っている。彼がばつの悪そうな顔をすればするだけ、母はもっと不機嫌になってくる。ああ、悪循環。

 ご機嫌取りもかねて、姑が作ったランチのほんの一部を食べる夫。私もちょっと食べるふり。ま、ワインは飲んだフリじゃなくて、思いっきり飲んだのだが・・・。

 明日パリに戻ることだし、親子水入らずに・・・、と非常にていのよいことを理由に、姑宅を脱走。レンヌ在住のS嬢と市役所前で待ち合わせ、そのあとカフェへ。一通りはなして、少し小腹がへってきたところで、S嬢とレストランへ移動。

 そのあとS嬢宅へお邪魔し、たくさんの日本食までもらってしまった!。嬉しいっ。帰りは彼女にクルマで姑宅に送ってもらい、至れり尽せり。ああ、こんなにレンヌが楽しいとは思わなかったよ、S嬢(笑)。


 姑宅に戻ると、姑も夫も床についた後だった。なるべく音をたてないよう、暗闇の中抜き足差し足で家の中を歩いている私。まるで泥棒みたいだな・・・、と思いつつ・・・、寝る支度。

 ああ、旅がほとんど終わってしまった・・・。


2004年03月14日(日) フランス西部旅行パート9

 本日もM宅にて起床。長いブランチのあと、M宅を後にして、一路、Tiffaugeにあるジル・ド・レ(Gilles de Rais)の城跡へ。もちろん私のリクエスト。

 1904年に生まれたジル・ド・レは、シャルル・ペローの“青髭”のモデルとも言われる人物。数々の女性を殺したとも言われているが、それは女性ではなく少年だったとも言われている。1440年10月26日にナントで絞首刑のあと、火あぶりにされた。享年36歳(←私と同い年ということに、今気付いたっ!)。

 彼は青鬚のモデルとして犯罪面ばかりが取りざたされやすいが、ジャンヌ・ダルクと共に百年戦争時代を闘っている英雄の一人でもあった。その後、ジャンヌ・ダルクが処刑されてからは、錬金術や黒魔術などにはまり込んでいき、その頃から殺人にも手を染めていったらしいということだ。

 (※興味のある方は『ジル・ド・レ論-悪の論理/ジョルジュ・バタイユ著』をどうぞ。)


 やっと到着したジル・ド・レの城だったが、一般公開は4月1日からとのことで中へは入れず・・・。が、様々な角度から眺めた彼の城跡の景観は、私を満たすに充分だった。

 次に場所を変えて、Machecoulにあるもう一つのジル・ド・レの城跡を訪れる。ここはたいして観光名所化しているわけでもなく、Tiffaugeのソレと比べたら小規模なのだろうが、妙に廃れた感じがまたまた私の琴線に触れてきた。

 日没寸前の景色の中に、ポツンと建つ、彼の城の入口に立つマリア像が妙にシュールだ。昔、テレビ東京で深夜に放送されていたイギリステレビドラマ『悪魔の異形』を、ふと思い出す。

 その後は、一路、小さな島Noirmoutiersへ。この島へ行くには2つの橋がある。ひとつは常時渡れる短い橋。もうひとつは、干潮時にしか渡れないという橋・・・・。ちなみに干潮時間はたったの数時間。それ以外の時間は常に海に沈んでいる橋なのだ。

 残念なことに私たちがここに到着した時は満潮時だったため、アウト。次回が期待される・・・・。

 しかし、もし、橋の上で渋滞になってしまい、潮が満ちてきてしまったらどうすればいいのだろうか?!?!。常に渡れる橋とは違って、4km以上ある・・。橋のふもとには、“潮の動きに注意”と書かれており、その下には海に無残にも沈んでいくクルマの写真もある。

 ひえぇっ→怖い→渡ってみたい、といろいろな思いが交錯する。


 確実で現代的な橋でNoirmoutiers入りした私たちは、ひたすら滑走路のような道を進む。そうしてようやくNoirmoutiersの街中心部に到着した頃には真っ暗になっていた。とりあえず営業してそうなホテルに飛び込み、寝場所を確保。さすがに日曜日の夜だけあって、このホテルの客は私たちだけだった。

 ホテル併設のレストランで食事をとり、その後近所のバーで一杯。バーの奥には、日本の温泉旅館で昔見られたような、古ぼけたゲーム機が置いてあり、ノスタルジーーーーーーーーー、という感じだった。


2004年03月13日(土) フランス西部旅行パート8

 ナントのM宅での起床。

 ランチにはMの妹夫妻も合流して5人で食事。アペリティフに始まり、食時中のワイン、食後酒と調子よく飲んでいたら、もう出かける時間。出かけるよりも昼寝したいところなのだが・・・・。

 午後からは、ナントから少し離れたCelierというところに住む、夫の従弟で彫刻家Jの家を訪問。この従弟Jは1月の下旬に亡くなったばかり。しかし、忙しくてわしらは葬式に出られなかったこともあり、今回の旅行の機会に彼の遺族を訪問したのだ。

 Jが身体の不調を訴え始めたのが昨年のクリスマスの頃。急いで病院へ行き、色々と検査をして、その検査結果が全部出る前に彼は亡くなってしまったので、病名は不明。

 が、本人は死を悟っていたらしく、突然毎晩のようにシャンパンを飲み始め、残り少ない時間を、徐々に動かなくなっていく身体でできるかぎり享受しようとしていたらしい。

 Jは10年前にナント市街からこのCelierに引っ越してきた。余生を都会の喧騒から離れ、ロワール河を一望する高台の城のような家に住み、彫刻に専念するつもりだったらしい。その補佐として支えてきた彼の妻Mは、今一家の主を失って余計大きく感じる家の中で、ヒッソリと喪に服していた。

 妻M曰く、まだ家のあちこちに夫Jの気配を感じるという。しかし、このまま家に篭っていても自分が駄目になるだけだから、徐々に前向きになって外出するようにせねば・・・・、とも語っていた。

 それならフラッとナントの街へ出かけていったらどうか?、と夫が提言すると、

妻M「ナントは、ガラの悪い人たちもいるから嫌なのよ・・・、やっぱり都会はね・・・・人も多いし・・・」

 私はビックリしてしまった。ナントがガラが悪い?!?!?!。だったらパリはどうなっちゃうんだ?!?!?。人の多さでいったら、東京から比べればパリなど地方都市のレベルになってしまうというのに・・・。

 夫は亡くなったJの彫刻が好きだったので、妻Mに頼んで、彼の作品をたくさん見せてもらった。我が家にもひとつといいたいところだが、予算が・・・。



 その後、彼らの家のすぐ近くにあるルイ・ド・フュネスの城や、Les Folies Siffaitなどを訪れた後、ナントに戻る。そこで夫の幼なじみMと合流して、今度はMの妹夫妻宅にてディナー。

 いつもは夫婦喧嘩ばかりして険悪なムードであることが多いMの妹夫妻だったが、今回はなぜかいい雰囲気。あとで事情をきいたら、昨年Mの妹はお気に入りの彼を見つけて、その彼と南国へ旅をして、それをきっかけに夫とのすったもんだを繰り返した後、夫婦愛を取り戻してしまったそうだ(笑)。

 夫婦というのは、色々あるのだな・・・・、とつくづく思ったゼロでした。

 


2004年03月12日(金) フランス西部旅行パート7

 目覚めると、外は雨。なんだか突然悲しくなってきた私。

 確かに昨日までの、わしらの旅行には大満足。が、本日はナントに移動日でもあり、このまま再びFの家で日没までダラダラして、大急ぎでナントの友人M宅に行くためだけにクルマを走らせるのかと思うと、イライラまでしてきた。

 せっかくクルマがあるのに、それを有効に使っていないような気がして、腹が立っている私、というわけだ。

 ゆえに、本日は極力ダラダラせずに、時間を有効に使って観光もしたいと夫に提言してみた。最初のうちは、夫が妙にマイナスに私の発言を受け取ったので、喧嘩になりそうになったが、なんとか落ち着いて自分の要求を繰り返して私の勝ち(笑)。

 ランチの後、Fの案内でクルマで近所を観光。そして観光先でFと別れ、私たちはそのままブリサック城へ。せっかくロワール地方にいるのだから、なんでもいいから城のひとつでも見ておきたかっただけなのだが・・・。

 ブリサック城に到着したのが午後4時半過ぎ。ここはガイドの同行で城内の観光をするシステムになっているので、とりあえず城の脇にある事務室のようなところに飛び込んでみる。

 そこでは小役人のような40代後半ぐらいらしき男性が、事務机のところで電話をしていた。あたりを見渡しても彼以外に誰もいないので、仕方なくこの男性が電話を終えるのを待っていた。

 ようやく彼の電話が終わり、私たちの用件を伝えると、“今、ガイドを探してみますから、ついてきてください”と彼が言い放つや否や、物凄い速さで事務所を出て、城内の豪華な回廊を進み、階段を駆け上っていった。

 必死に彼のあとをついて小走りになる私たち。まるで、不思議な国のアリスに登場する白ウサギに導かれて、未知の空間へ進んで行くような感じでもあった。

 そして、とうとう私たちは、小役人の姿を階段途中で見失ってしまった。彼はどこへ行ったのか?!?!?!。呆然と階段の踊り場でしている私たちのところを、掃除人が通りかかった。そして、彼らに

わしら「受付で働いている従業員をみかけましたか?」

掃除人「どんな人?」

わしら「オレンジのセーターを着た、ちょっとアタマの禿げ上がった公務員みたいな人」

掃除人「ああ、ムッシュウ・ル・マルキですね」

わしら「ムッシュウ・ル・マルキ?」

掃除人「安心してください、今戻ってきますよ、彼」

 とりあえず彼が戻ってくることに安心しつつ、夫と2人で、“あの小役人のあだ名ムッシュウ・ル・マルキだってさーーー”なんて言って笑っていた。ムッシュウ・ル・マルキそれは、日本語で言えば侯爵という意味。

 さて、無事にガイドにもめぐり合えて、ブリサック城の観光が始まった。トルコ旅行を彷彿させるように、今回の私たちのガイドもおデブだった。ガイドをやると太るのか?!?!?、それともただ私たちがデブなガイドに縁があるだけなのか?!?!?!、謎だ。

 代々続くブリサック公爵のゆかりの部屋に案内されると、そこにはたくさんの写真が飾ってあった。そして先代のブリサック公爵が亡くなった後、彼の長男が公爵からひとつ位が下がった侯爵として今の城を管理していると説明をうけた。そして、ガイドが指差した現在の侯爵の写真は、なんと、あの不思議な国の白ウサギ氏そのものだったっ!!。

夫「ゲッ、あの人本当の侯爵だったんだ・・・・」



 ところで、ブリサック城の中にあるテアトルでは、現在でも数々のコンサート、オペレッタ、演劇などが企画されている。そういえば、昨日一緒に演奏したブリサック在住の医者兼テノール歌手Hがここで歌ったことがあると耳にしたので、さっそくガイドにそれを尋ねてみると、ガイドは実にHのことをよく知っていた。

 Hの歌唱力&演技力で多くの観客をひきつけ、その公演は大成功を収めたらしいとのこと。小曲の時のピアノ演奏は、さっきまで一緒にいた夫の従妹Fだったらしい。

 ガイド曰く、Hが普段クリニックで働いている時は、非常にクールで真面目な医者なのに対して、歌い出すと豹変したように陽気で世紀のエンターテナーになってしまうという二重人格性に魅力があるとのこと。確かに、昨日彼の歌手としての面を堪能したばかりだった私は、思わずニタニタしてしまった。

 また夫の従妹F曰く、Hは医者として働いて、その空いた時間を見つけては歌うことばかりしていて、家に戻った時にはもう寝るだけ、という生活を長いことしているゆえ、昨年とうとうHの妻がブチ切れてしまったらしい。

 妻の目を盗んでのオペレッタ・・・・。ま、浮気やギャンブルよりましなのだろうが・・・・。



 その後、あちこちを迂回しながら、ナントに到着。夫の幼なじみMと合流してレストランで食事のあと、彼のうちで就寝。


2004年03月11日(木) フランス西部旅行パート6

 私がはじめて夫の従妹Fに出会ったのは、レンヌで姑により開催されてしまった私たちの結婚披露宴の時。

 披露宴といっても、姑宅で開催されたのだが、私がいつものように姑の命令でウエディングドレスのままピアノを弾かされていると、ひとりのブルジョワーズ・ボエムな女性が興奮して私に近づいてきた。

 彼女は、昔音大でピアノを学んでおり、いろいろと音楽について矢継ぎ早に私に質問してきた。そして、一緒に連弾しようと提言してくる。誰だこいつ?、と思っていると、それが夫のいとこFだった。

 そして彼女と意気投合して、いつか時間があったらFの家に遊びに行って、一日中2人でピアノ弾いて楽しもうっ!!、と誓ったものだった。が、“いつか・・”という約束はなかなか果たされるものではない。ゆえに年月が経ってゆき、もうそんなことを忘れかけてきていた現在、とうとうこれが実現したのだった。

 Fは、毎週木曜日、アマチュアの音楽家を家に招いて、アンサンブルを楽しんでいる。そして、本日は木曜日。予定では、クラリネット奏者、ソプラノ、テノール、バリトン歌手などもやってきて、19世紀のフランス音楽を中心に、色々なアンサンブルが楽しめるとのこと。

 Fが朝食のあと、“ゼロは初見で結構いけるでしょ、だからちょっとこの楽譜を見ておいて”と山ほどの楽譜を私に渡してくる。ひえっ。一人で弾くのと、誰かと合わせるのは、違うんだよーーーーっ、と心の中で文句を言いながらも、サロンのグランドピアノで練習を始める私。

 ランチが済むと、メンバーがやってきた。医者でテノール歌手でもある30代のH、陸軍大佐夫人でソプラノ歌手の40代後半のD、定年退職暮らしを優雅に楽しむ元公務員でクラリネット奏者のR、25年愛するパートナーと暮らしパリとアンジェを行ったり来たりしている40代前半のL。

 Fがみんなにお茶の準備などをしている時、私はピアノの前にいた。そこにテノール歌手のHがやってきた。そしてとある楽譜を私に渡す。

H「ちょっと弾いてみて」

私「ちょっとですよ・・・」

と恐る恐る弾き出すと、Hが突然自分のパートを物凄い声量で歌い出し参加してくる。いきなり彼が参加してくるとは聞いてなかったので、ビックリ。それも私の耳元近くでの、彼の歌・・・・。私は驚いて、次のページ部分を弾いてしまったぐらいだった。

 こんな感じで、彼はどんどんと楽譜を私に渡してきて、ちょっと弾くや否やすぐに参加してくる。

 困った・・・・・。

 ちょっと楽譜を一人でさらう時間が欲しいのだが・・・・。

 どうやらHは、伴奏がはじまると反射的に歌い出してしまうらしい・・。




 2001年の初夏、夫の会社のとあるセクションで、社内コンサートが開催された。その時、社員でプライベートではテノール歌手として人生を謳歌しているDが音頭をとって、プーランクなどの音楽を演奏することになった。

 で、なぜか私が社員でもないのに、Dの伴奏をすることになった(←夫のさしがね)。この当時、私は姑にピアノをプレゼントされたばかり。長年ピアノを触ってなかったという“自信のなさ”と、プーランクの譜面が予想以上に難しかったことで、コンサート日が近づくにつれて緊張していった。

 おまけにコンサート数日前まで私は南仏にいたゆえ、まったく練習などもできず・・・・。

 コンサートは午前の部と午後の部の2回だった。当日の朝、妙な腹部痛みを感じながら、とりあえず午前の部は無事に終えた私。が、昼食をとろうとすると、どんどん腹が痛くなってくる。ヤバイ、ヤバイ、と思いながら、もう痛みは激しくなるばかり。気がつくと歩くのもやっと。

 それでも、別会場で開催される午後の部へ出陣するためにクルマに乗り込む私。車窓を楽しむ余裕などなく、すでに私は意識が飛び始めてきており、クルマを降り時には、その場に倒れこんでしまった。そして、そのまま病院に駆け込み、即入院。こうして午後の部はお流れになったのだ。

 白血球が異常に増加し、急性虫垂炎の疑いがあるので、状況次第ではあさってぐらいには手術になるかもしれないと告げられ、私以上に異様に動揺する夫。このまま私の入院が続くと、夫が別の病室で横たわってるんじゃ?、と思った。

 が、実は私は虫垂炎でもなんでもなかった。ただの、ストレス、それもコンサートにビビッて、腹痛を大げさに起こしただけだったことが翌日発覚。自分ながら、まるで翌日のテストを嫌がる小学生のようだ・・・、と感動したものだった。




 ということで、私にはこういった前科があるゆえ、本日もどうなるか?、と思っていたが、以前よりはへタレでなくなった自分を発見。ま、それだけ図々しくなったということか?。

 テノールのHとソプラノDのオペレッタは、本当に素晴らしかった。彼らは実際にあちこちのテアトルで演じているだけあって、質、見せ場への持っていき方、すべてにおいて、ほとんどプロで、それをこうした個人宅で鑑賞できる贅沢さに、激しく感動。

 また、彼らのアクションに、私がピアノで参加できる嬉しさというのも、実感することができた。ある意味、この日、私は“執着をすてる”ことができたのかもしれない。ピアノを弾かなくてはならないという義務感が、ピアノを弾きたいという希望に変わった瞬間だったかもしれない。

 ゲイのLは、最近音楽に目覚めたばかり。今さら楽器は覚えられないので、最愛のパートナーの薦めで“歌うこと”を選択。ようやく簡単な楽譜が読めるようになった彼は、彼なりに一生懸命歌う。彼が得意としているヘンデルは、Fは伴奏しにくいというので、バッハ等の音楽が好きな私が彼の伴奏をする。

 伴奏をはじめると、Lが素っ頓狂な声で歌い出す。一瞬、激しく笑いそうになったが、これはいかんと思い、真面目な振りして伴奏を続ける。おまけに、彼のリズムの数え方があまりにも素人で、伴奏が非常に難しかったが、彼の熱意に打たれていくうちに、どんどん息が合ってきた。すると、彼の声もどんどんよくなってくる。



 本当に不思議なものだ。



 今まで、一人遊びの一貫としてピアノを弾いてきた私だったが、誰かと共に演奏すること、つまりは喜びを共有することの意味を知ったような気がした。それがプロレベルである必要などない。今、そこで、誰かと何かを創り出せること、これが、人生をより豊かにするものなのだ・・・・、と。

 映画『le Goût des Autres(邦題ムッシュ・カステラの恋/1999年・仏/Agnès JAOUI監督)』での印象深いシーンを思い出す。主人公のひとりが単調なフルートの演奏をいつも繰り返している。それがラストシーンでは、他者とのアンサンブルで、この単調なフルートが活き活きとした音楽に大変身するシーンだ。

 この日、午後2時から夜中の12時まで、何曲演奏したか数え切れないほど楽しんだ。ピアノは私とFがかわるがわる演奏。幼少時、両親につれられてオペレッタを腐るほど鑑賞してきた夫は、『失われた時を求めて』ではないが、当時のことがたくさん蘇ってきて、彼なりに激しく感動していたようだった。


2004年03月10日(水) フランス西部旅行パート5

 朝食の後、またまたPの案内で近所を散歩。

 Pのペンションの周りには、羊だの、牛だの、馬だの・・・、と人間より動物のほうが多い。少し歩けば、池で気持ちよさそうに泳ぐアヒルもいる。

 草むらを歩いていると、Pが“羊の糞に気をつけて歩いてね”と言ってくる。なるほど・・・・、羊の糞ね・・・・、パリじゃ、犬の糞に注意して歩かにゃならんのに、所変えれば、糞をする動物が変わる・・・・というわけか・・。

 無限に広がるかのように見える緑の大地に、清んだ空気、時間がゆっくりと進んでいくのを感じる。


 田舎暮らしをしているPを見ていると、毎日の生活に日曜大工技術が欠かせないことを痛感する。なんでもかんでも、Pは自分で修理したり、作ったりするし、またそれ以上になんでもできる助っ人などもいる。

 こんなところに、もしわしらが引越してきたら?!?!?!、などと考えるとゾッとする。必要に迫られてもしかしたら日曜大工ができるようになるのかもしれないが、それでも、我が夫がソレをしている姿がまったく想像できない。私自身もしかり。

 ゆえに、恐らく、あらゆるものが修繕されぬまま、不自由な暮らしをしている自分達が手に取るように想像できてしまい、背筋がゾクゾクしてくるのだ。というわけで、やはり身の丈を考慮して、田舎暮らし体験はバカンスだけで充分なのだと妙に納得。


 本日は移動日。なるべく早く出発して、のんびりとドライブしながら次の目的地へ行きたかったのだが、やはりダラダラしてしまったので、慌てて身支度して、Pに丁重にお礼をのべて、出発するのがやっと・・・(涙)。

 田舎道ののどかな景観を楽しむこともなく、クルマをすっ飛ばし、アンジェ近くのMurs-Erignéへ。

 ここには、夫のいとこFが、自宅を改築して営んでいるペンションがあり、そこで私たちは2泊する予定。夫のいとこといっても、夫の父方の祖父の弟の娘であり、夫とはかなり歳が離れている。小規模な城のような彼女の家には、よく整備されたフランス式庭園がよく似合っている。

 今回の旅の目的は、ここを訪れることだった。閑散期&週の半ばということで、客室が塞がらない時を狙ってやってきた私たち。Fが私たちのためにとっておいてくれた部屋は、結構ゴージャス。“ヨーロッパの香り漂うプチホテル”等と、日本の雑誌が特集を組んで、Fの部屋の写真を載せたら、ロマンチックな雰囲気が好きな日本人観光客が飛びつきそうな物件ともいえる。

 夫は、宿に到着すると、必ず自分の荷物の荷解きをしないと気がすまない性格。洋服はクローーゼットの中、本は自分の枕の横、もしかしたら食べるかもしれないお菓子類は机の上、シャンプー類などは洗面台にベタベタを並べていく・・・・。

 毎回思うのだが、彼のこういった行為をみていると、犬のマーキングと比較しないではいられない。自分のテリトリーとして作り変えないと気がすまないらしい。

 夫はたかが一泊でも、こういった行為をするのだが、私の理解を超えている。必要なものだけスーツケースから取り出すだけでもいいのでは?!?!?!、と思うのだが・・・・。こうやってすべての自分の荷物を部屋中に広げるから、出発する時に引越し作業のようになり、毎度毎度、膨大な時間がかかるというのに・・・・。

 さて、明日はこの旅の本当の目的・・・・・・・・。さて、どんなことになるだろうか!?!?!


2004年03月09日(火) フランス西部旅行パート4

 天気は良いが、非常に寒い朝。10時起床。

 P宅と同じ棟とはいえ、キッチン、バス、トイレなどがすべて独立した一区画で寝起きさせてもらっている私たち。非常に快適すぎて、あやうく昼までぶっ続けで寝るところだった。

 急いで身支度して、Pのいる居間へ。たらふく朝食を食べた後、Pの案内で近所のまだあまり人に知られていない“魅力的な場所”の観光。

 Pは、現代のシャルル・ペローとも言える人間。ここの地域での歴史や自然を研究し、あらたな“おとぎ話”を発信しているのがPなのだ。そして、私たちは、その21世紀のシャルル・ペローのガイドで、不思議で魅力的な自然を訪れてまわることができた。

 彼の存在なしには、ここまで堪能できなかっただろうと思える数々の秘境。わしらの性格だと、“なーんだただの石じゃん”とか“ただの木だろ”とか、そんな感じで通り過ぎることもありだったと思う。

 2002年にアイルランドまで行って、雨の中、色々なところを訪れた私たちだったが、Pのガイドでこの地方を観光したあとは、“なーんだ、あんなに遠くまで行く必要がなかった”とまで思わせるほど、充実したものだった。

 苔むす大きな奇岩、しっとりと空気の違う森の中、第二次世界大戦中のレジスタンスの逸話、週末の楽しみだけに城を購入するスノッブ&成金パリジャンの逸話、そして太古の逸話など、Pは私たちを色々な時代に導いてくれた。

 午後からは身を切るような寒さに見舞われたが、徐々に緑が増えている大地の中で、春の到来を感じた。


 夕方、部屋に戻ってきて少しだけ昼寝をした後、再びPとディナー。こんなことも、観光閑散期だからできる特権ともいえる。あと一ヶ月もすると、たくさんの観光客がPのペンションを賑わし、いくら友人だからとはいえ、Pも私たちだけの世話をしていられないはずだ。

 寒さの中で観光してすっかり風邪をひいた夫は、今晩は非常に無口。たまには無口な夫というのも、いいものだ(笑)。

 それに反して、すっかり旅行で元気な私は、Pとアペリティフからはじまり、ディナーが終わるまで、酒のんで、色々と議論することができた。今晩のお題は、“エマニュエル・レヴィナスについて”だった。ま、私がこのお題を振ったのだが・・・・。

 ディナー途中、Pの仲間の歌手S一家がフラッとやってきた。Sは30代後半の女性歌手で、Pと一緒に現代のおとぎ話などを含めるさまざまなイヴェントで活躍しているとのこと。彼らが作ったCDを聞かせてもらったが、アカペラで民族色の強い曲を歌う彼女の声に、うっとりとしてしまった。

 夏には、Pのところで、盛大な祭りがあるそうだ。もちろんSや彼女の仲間が集い、現地の人たちも大勢やってきて、歌い、踊り、飲んで、食べて、とパーフェクト。今年は、なんとか時間を作って、ここに参加したいと思ったゼロでした。



※Pのペンション&おとぎ話情報に興味のある方はどうぞ
http://www.place-forte.fr/index.html


2004年03月08日(月) フランス西部旅行パート3

 本日は、予定なら旅に出られる日。希望は昼過ぎ出発だが、どうなるんだろうか・・・・・?!?!?!。


 案の定、ダラダラしてしまったので、出発することはできたが、それは午後5時だった。



 久々のクルマでの旅行は気楽でいい。バックに入りきれなかったものも、適当にトランクにぶち込むだけだし、慌てて駅に全力疾走で駆け込むストレスもない。自分達のペースでいられる自由さ。


本日の目的地は、Vendée県Boiméというところにある、夫の友人がやっている宿(日本語でいえばペンションみたいなところ)。ここに本日と明日の2泊する予定だ。

 レンヌからアンジェまでは高速道路を利用したので、まったく景観的が面白くなく、途中でイライラしてきたので、勝手に路線変更。夫が気付く前に、どんどんとのどかな田舎道へ我がクルマを誘導していった。

 が、残念なことに、日没。真っ暗な田舎道を、車内で懐中電灯つけて地図を見る作業に、妙な快感を見出す私。もしかしたら迷うかもしれない、と思うと、ワクワクしてくる。

 実は私、道に迷うことができない。というとちょっと変だが、方向音痴じゃないのだ。恐らく30年前に一度だけ訪れた場所も、ふとそこにあらためて行ったら、迷わずに道を選ぶことが出来るという変な習性がある。

 大学生の頃、ちょっと変わったバイトをしてみようと思って、ルート配送運転手をしたことがあったが、この時も30ルートをあっという間に覚えてしまい、同僚を驚かせたことがあった。そんな時、母親に、もっと違うことで人を驚かせたらいいのにね、と皮肉を言われたことを今でも覚えている。

 ま、こんな性質ゆえ、“迷うかもしれない”という感覚がスリリングで好きなのだ。

 逆に、夫のほうは、迷うかもしれない、というスリルがそのままストレスになる可能性があるので、必然的に私の“ひとり遊び”となる。

 突然夫が

夫「ねえねえゼロ、出発する前にざっとボクは地図を見たんだけれど、その感じだと、こんなに小さな田舎道を走る必要がなかったような気がするんだけれど、どうなんだろ?!?!?!」

私「(あ、やべ、さすがに夫が気付きだしたと思いながら)、あ、そう?」

夫「僕たち、道に迷ってるのかな?。」

私「平気だよ、気のせいだよ、絶対!!」


と、こんな会話を交わす私たち。せっかくのクルマでの旅行、久しぶりにこういうことがしたかったのよーーーー、とはあくまでも言わず。暗闇の中を、ひたすら旅人として日本中を旅した頃のことが蘇ってきて、嬉しくてしょうがない私ゆえ、そんなに簡単に目的地には到着したくないのだ。


 そうして、ようやく夫の友人P宅に到着。彼のことは夫から話に聞いていただけであり、今晩が初対面。想像以上に面白い人で、また料理も美味く、すでに姑宅で食べ過ぎて今晩からダイエットしようと思っていたわしらだったが、思わず全部平らげてしまった。

 Pは、昔、神父だった。が、突然ひとりの女性に恋してしまい、彼女を取るか、それとも聖職者の道を取るかで迷った挙句、最終的にこの女性を選んだ。その後2人の息子も誕生し、彼の人生は喜びと愛に満ち溢れたものだった。が、彼が51歳になったとき、当時39歳だった妻が癌になってしまった。発見されたときには、すでに手遅れ。結局彼の妻は、癌発見の2ヵ月後に亡くなってしまったのだ・・・・。

 Pは、妻の癌発覚の直前、自分が年上であることをあらためて考慮して生命保険の契約条件を変更したばかり。皮肉にもそれは、“Pが死んだ時のことを考えて”という条件だった。が、現実は反対だった・・・・。

 そんな彼は現在66歳。無事2人の息子も育て上げ、パリの自宅とここでの生活で、あちこちを動き回っている非常に精力的な男性だ。


 ディナーの最中に、あ、彼が非常に寛容な人間だとピンと来たので、キリスト教の矛盾についてなど、どんどん質問させてもらった。彼も待ってましたとばかりに、色々と真摯に答えてくれて、充実した会話を得られることができた。

 例えば、『なぜ、ニーチェは神の死を、あそこまでして宣言せねばならなかったのか?』あるいは、『なぜ、サドは神を侮辱しないではいられなかったのか?』など。

 そこまで神を意識しないではいられない宗教観というもの自体に非常に興味があるゼロでした。


2004年03月07日(日) フランス西部旅行パート2

 予定では、本日から姑宅を離れたかった。が、やっぱりそんなに簡単に飛び立てない予感・・・・。姑が既に、本日の夕方に彼女の友人宅でのアペリティフに私たちと一緒に出かけていく予定を組んでいた。

 なーんだ、やっぱり・・・・、と思っていたものの、訪問先がかなりエキセントリックな姑の友人の家だったため、ま、いいか・・・・おもしろそうだし・・・、という気持ちにになってきた。

 ランチは、姑宅にて。姑の妹とその息子がやってきて、5人で食事。午後1時にランチがはじまったのに、話に花が咲いて気がついたらもう午後5時半。慌てて、姑の友人宅へ行く支度を始める。

 これから出かける姑の友人Mは、77歳の画家兼アクセサリーデザイナー。そしてMの夫は、レンヌでもかなり有名だったらしい外科医のCで、噂だけでも色々ある、強烈にブルジョワな夫妻でもあったりする。

 ある意味、我が姑もただのブルジョワというだけでなく、それにボエムという言葉をつけるとピンとくるタイプなのだが、Mはそれの上を行くタイプ。たまに姑とMが一緒に写っている写真を見ると、二人のブルジョワ・ボエムが異様な存在感を放っており、時と場合によっては、魔女にさえ見えるから奇妙だ。

 姑とMは昔からの友人でもあると同時に、互いにライバル意識も丸出しだったりする。だから、彼女の家にアペリティフに行くだけでも、姑は色々と自分のファッションに気を使う。

 自分のファッションだけを気にするだけなら、いくらでもやってろ、と鷹揚に構えていられるものだが、姑の場合は、わしら夫婦の服装にまで口出しをしてくるから厄介だ・・・・(汗)。

 そんな姑の裏をかいて、私はあえて黒の皮のパンツに、ピッタリと身体の線が出るようなセーターを着用。すると、それを見た姑が、あーだこーだ言ってくる。しかし、あくまでも遠まわし。

 遠まわしの表現の中に、私が彼女の意見を汲み取り、服をチェンジすることが姑の願いだったのだろうが、私は見事に無視。すると、姑は今度は、自分の息子であり、わしの夫にちかより、ブツブツと私の服装について文句を垂れている。

 姑は、自分の息子を使って、私の服装を変えようとしていたのだろうが、その愚痴を隣の部屋で全部聞いていた私が、大きな声で

私「全部聞こえてますよ。普段から、“私はダイレクトな人間なのよォ”とかなんとか言っているわりには、やることがセコイですね。だから、嫌なんですよ、あなたのそういうところ。わかってます?!?!。いやらしいったらありゃしないっ。」

腹式呼吸でかなり大きい声で隣の部屋から姑に向かって叫んでみた。

 私の声が聞こえた瞬間、“あ、ヤベぇ”という感じでビクッと小さくなり、トイレに消えていった姑。ざまーみろ。夫も、私の不意打ちダイレクト攻撃で、思わずクスクス笑っていた。

 でも、本日はもう少し姑をつるし上げたい気持ちだったので、トイレの前で姑を待ち伏せして、さらに

私「で、何が言いたいんですか?」と尋ねてみた。

姑「どうもね・・・・(私の視線をそらしながら、小さな声で)」

私「どうもだけじゃ、わからん」

姑「c....cocotte........(尻軽女あるいは、娼婦の意味)」


 どうせ、そんなことだと思っていたので、大爆笑してしまった。

 娼婦だろうがなんだろうが、自分がそうじゃないという自信があればいいじゃないか?、と笑いながら反論すると、姑はムキになって、襲われたらどうするのだ、とやり返してくる。

 誰が、誰を、どうやって、襲うというのだ?!?!?!。こんなやり取りと聞いているうちに、とうとう耐えられなくなった夫がわしらの隣で大爆笑しはじめた。

夫「ママン、ゼロのことを襲おうって思う人いないと思うよ。で、もし万が一ゼロが襲われたとしても、もしそのおとこがゼロの好みだったら、喜んでゼロは楽しむかもしれないよ。」と姑に言い放った。その瞬間、この2人を相手に、自分の思う通りにできないことをようやく悟った姑は、さっさとクルマに乗り込んだ。



 さて、C&M夫妻宅に到着。姑の願いで、彼らの家にあるピアノで数曲演奏して欲しいということだったので、楽譜も持参。

 はじめてお邪魔するC&N夫妻宅は、本当にゴージャスだった。ゴージャスすぎて、笑いが出てきてしまったほど。夫のほうのCは、非常に無愛想で、スノッブな人間だと聞いていたので、こっちも距離を取ってしばらく観察。

 シャンパンを飲みながら、持参した楽譜のことを話すと、スノッブだったはずのCが突然饒舌になりだした。実は、彼は趣味でピアノを弾くだけじゃなくて、ハープシコードも数台所有していることが発覚。そしてそのうちの1台は彼が作ったものだということも教えてくれた。

 たまたま選んで持ってきた楽譜が、バッハ。それもハープシコードで弾いたら最高の作品ばかりだったので、すぐさま弾かせてもらえないか?、とCに頼んでみたら、即OK。

 最初のうち、Cは、ちょっとくらいだったら触らせてやろう、という感じだったのだと思う。が、私が感激して、どんどんバッハをハープシコードで引き続けたら、すっかりCのほうが感激してくれ、スノッブどころじゃなく、非常に優しく暖かな紳士に変身してしまった。

 『イタリア協奏曲』をハープシコードで弾くのが夢だったのだが、これがついに実現してしまった私。そりゃ、もう形容し難い嬉しさだ。嬉しくって、ノリまくって弾いているのだから、間違えるはずもない。自分でも言えるが、今回が一番いい出来で弾けたと思っている。

 その後、別の部屋に移動して、今度はCとグランドピアノで即興で連弾。どうやら私はすっかりCに気に入られたようで、Cが次から次へと秘蔵の楽譜コレクションを見せてくる。

 出発前に、私の服装にいちゃもんつけてきた姑も、すっかり『見てちょうだい、これが私の息子の嫁なのよ』とばかりデカイ顔している(笑)。やっぱりわかりやすい性格の姑だ・・・、と内心笑いながらも、連弾続行。

 自分の夫が、かつて見た事のないほど嬉しそうにピアノを弾いている姿を見た妻Mは、すっかりそれに喜んで、次回レンヌに来た時には、姑なんか放って、我が家に来て一日中、ピアノやハープシコードを弾くように、とまで進言してきた。

 ああ、これでまたひとつ、レンヌでの避難場所を確保できたっ、と違った意味で嬉しかったゼロでした。それにしても、ハープシコード・・・・・、一日中弾いていたーーーーーーーーーーーーーーーーーいっ!!。
 


2004年03月06日(土) フランス西部旅行パート1

 旅行初日。

 はじめは、パリでレンタカーでも借りて旅行しようと思っていたが、まずレンヌの姑宅へ行って、そこで姑のクルマを借りたほうが安上がりになることに気付き、予定変更。

 また、昨晩午前5時過ぎまでパーティーで騒いでいたゆえに、予定時間に起床ができず、TGVの時間も急遽変更。気がつくと、必ず出発間際になってTGVの時間を変更しているような気がする。

 突然の時間変更に、姑が怒り狂っているが、毎度のことなので無視。いずれにしても、姑は午後、2件の葬式を掛け持ちしているので、忙しいのだ。ちなみに、歳をとると、冠婚葬祭と呼ばれる行事のうち、“葬”ばかりになって鬱になると姑はぼやいている。

 午後6時半頃にレンヌ入りして、今晩のディナーの手伝い。姑が近所の人を招いてのディナーに、かなりの力を注いで準備しているゆえ、手伝うフリぐらいはしないと・・・・、というわけだ。

 近所の人といえど、それは姑の人選。なので、あまり馬鹿馬鹿しい、乃至は、挑発的な発言は極力控えなくてはならない。そして、ディナーの前から、姑は自分の息子のことをおびえている。なぜなら、姑の息子、つまりはわしの夫は、姑が真面目になればなるほど、その隣でそれをぶち壊すようなことや発言を繰り返すからだ。

 予定時間ピッタリに、まず元陸軍大佐F(定年退職)とその妻Nがやってきた。Nは、一人暮らしをしている姑を、いつも気にかけてくれている人物ゆえ、わしら夫婦としても、ここでこのディナーをぶち壊すわけにはいかない。ゆえに、私からも今回は細心の注意を払うよう、夫にお願いする。

 その後、30代後半の医師夫婦S&Fがやってきて、アペリティフ。ああ、きっとS&Fとは、姑抜きの状況で知り合っていれば、いろいろと際どい話をしたりして楽しめたのだろうな・・・、と思いながら、ミュスカデを飲む。

 さて、姑の最もお気に入りである、元陸軍大佐夫人Nは、息子をポリテクニシャンにさせることにも成功し、孫にも恵まれ、現在はボランティアとして、あちこちで"catéchiste(キリスト教理を教える先生)"として活躍している。
 
 ま、夫も軍人ゆえ、どう考えても政治思想的には“右”なのは火を見るより明らかだが、ほとんど極右思考のカテゴリーなのだと思われるN。おまけにバリバリカトリック・ブルジョワ。そりゃあ、姑と気が合うはずだ。

 当初は、ひどくお堅いディナーで、退屈になって、私自身おかしなことを口走りそうになるのでは?、と自信がなかったが、逆に、こういった人種の会話などを聞いているうちに妙に新鮮に思えてきたので、楽しくなってきた私だった。

 パリではないフランスの地方都市に生息するカトリック・ブルジョワの生態。これは本当に興味深い。日々、テレビや新聞で見聞するパリを中心とする事件などに過剰反応することが多い彼女ら。

 彼女らの話を聞いているうちに、機会があったら、彼女らとパリのバルベス界隈巡礼ツアーをやってみたいっ、と強く思ったゼロでした。私にとっては、放送禁止用語をごまんと学べる機会でもあるので・・・。


2004年03月05日(金) 秘密

モンパルナス界隈で、Sとランチ。11年ぶりの再会と、ようやくまともに会話できるようになったわしらは、話しまくり。時間が経つのが強烈に早い。

 その後、パリ郊外で行われる友人Aの母の葬儀へ、すっ飛んで行く。ようやく教会に到着すると、すでに葬儀は始まっていた。先に、やってきていた夫のを探し、静かに彼の横に座る。

 彼の隣には、友人Aの従妹という人が座っていた。そして、神父が荘厳なミサを進めているのに、ベラベラと彼女は私たちに話しかける。どんな家族にも一人は存在する、お喋り好きな人間なのだと思う。そして、こういう人間の口から家族の秘密が外部に漏れていくものだ。

 彼女は、私たちにAとどんな関係なのか尋ねてくる。なので、ここ数年来の友人ですと返答。そして、彼女はAの家族について色々と話し始めた。

彼女「Aは一人息子だから、さぞかしツライと思うわ。みんなで支えてあげないと・・・・」

わしら「そうですねぇ・・・・。本当に大変でしょうね」

彼女「Aのお母さんには、お会いになったことがあって?」

わしら「ええ、一度だけですが、Aと彼女と一緒に中華レストランで食事したことがあります」

彼女「彼女って?」

わしら「彼女って、彼女ですよ・・・・」

といいながら、なんか彼女の名前を特定してはいけないような予感がしたので、逃げ切ってみた。

彼女「彼女って、彼の奥さんのことよね?。」

わしら「・・・・、そうだったと思うんだけれど・・・・」


 なんとなく気まずくなって、ここで一度話が途切れた。そして、夫と私は顔を見合わせる・・・・・。そして、夫と非常に小さい声で、

『Aが既婚者・・・・?!?!?!?!』と衝撃を確認し合う。




 Aが本日の主役でもある実母と、その妹と一緒に暮らしていたことは知っていた。今までAのことを独身者だと思っていた私たち。それも独身のプレイボーイ。そのくらい、Aはかわるがわる新しい彼女を私たちに紹介してくれたものだった。

 さすがに、実母と叔母をかかえる生活だとストレスも溜まるから、あんなにたくさんの女に手を出しちゃうんだろう・・・・、等と思っていた私たち。この説を信じて疑っていなかったから、Aが既婚者であるということ聞いて、本当に驚いた。

 Aの女の好みは、外見がものすごくキレイで中身がカラッポというタイプが多かったのだが、本日このスクープを聞いた後、もう一度注意してAの周りを見渡すと、外見はあまりキレイじゃないけれど、中身はカラッポじゃなさそうな女性がAの隣に座っている・・・・。



 もしかして、彼女がAの妻・・・・・?!?!?!?!。


 
 墓地へ同行して、棺を埋葬中にさりげなくAが既婚者だということを、さも知っていたように色々な人と話してみる。そして、事実を確認。Aは長いこと既婚者で、教会でAの隣に座っていた女性が彼の妻であり、彼女が専業主婦としてAの実母と叔母の世話をしてきた・・・・、ということだった。


 夫婦やカップルと知り合いで、あとになって“あの人に実は愛人がいた・・・”等というシチュエーションには何度もでくわしてきたが、てっきり独身プレイボーイと信じ込んでいた人が、妻帯者だったとわかる経験ははじめての私・・・・・・。



 Aの親族が教会で話し掛けてきたときに、Aの彼女の名前を特定しなくて本当によかった・・・・、と思ったゼロでした。



2004年03月04日(木) 笑い病

 夫は朝8時半頃、出勤のため家を出た。そして9時すぎに夫から電話がかかってきた。

夫「いつものように定期で改札を出ようとしたら、出られなかった」

私「なんで」

夫「何度もやっても駄目なので、定期の写真を見たら、ロングヘアーのアジア人女性の写真が貼ってあった・・・・」

私「それって、もしかして、私のじゃない?!?!?!」

夫「・・・・・・」


 昨晩、我が家に戻ってきた時、入口のところに置いてある家具のところに私は自分の定期をおいた。その時、ふと、こんなところにおいて置くと、夫が間違えて会社に持っていってしまうんじゃないか?!?!?!、という予感がしていた。が、すぐに、“とはいっても、そこまで夫もアホじゃないだろう”と、いい意味で、夫を信じてあげていたつもりだったが・・・・・。

 やっぱりね・・・・・。

 いつもだったら、ここでカチンとくる私だったが、あまりにも自分のアホ差加減をギャグ映画のように延々と語る夫に負けて、笑い転げてしまった。


 そして、これが始まりだった。


 週末の旅行に備えて、本日は色々とやらなければいけないことがある。あれもしなければ、これもしなければ、と考えているうちに、一通のメールが・・・。

 それに触発されるように、返信するより電話してしまえ、ということでメール主のS嬢へ電話。真面目な話しても、なにしても、2人で笑いっぱなし。もう止まらない。

 笑いすぎて腹が減ったほど。

 S嬢との会話が終わった後、今後は中国人Jから電話がかかってきた。彼女の実母の葬儀のため、北京に戻っていた彼女は、今さっき空港へ到着したとのこと。“今回は本当に大変だったね”と神妙に会話をはじめてみたが、もうなんだか朝から笑いっぱなしの私は、また知らない間に変なことを口走り出したのか、Jがそれにつられて笑いが止まらなくなってしまった。で、結局2人で笑いっぱなし。


 その後、笑いすぎてちょっとフラフラしてきたので、ベッドに横たわると、また電話がなる。今度は大阪のT氏だ。彼は今年の4月中旬を目処に、パリに住み始める予定なのだが、その相談にのっているうちに、昨年のパリの猛暑についてだの、どうやってパリで金が稼げるか?など、だんだんとどうでもいい、くだらない話題になっていき、また私の笑い病が再発しそうになってきた。


 このあとは、先週11年ぶりに再会したSへ、とある用件で電話。これが駄目押しだった。彼の声を聞いた瞬間に笑いが止まらなくなり、その私の笑い声につられて、Sが気が触れたように笑い出してしまった。どんなに真面目に話そうとしても、もう遅い。ただもうひたすら2人で狂ったように笑ってしまって、用件がまったく片付かなかった。

 

 本当に、どうしてしまったんだろう。



 バスローブのまま何もせず、たったひとりで家に篭ったきり、ただ笑い転げているうちに、日が暮れてしまった・・・・・・。



 笑いすぎて、マジで疲れきってしまった私。午後6時になろうとしているが、ここで早めにおやすみなさい。定期もないことだし、その上、ここまで、何もやらずに一日過ごすと、もう徹底的に何もやりたくなくなったゼロでした。


2004年03月03日(水) 送別会

 本日は、日本帰国が決まってしまったA嬢の送別会。現場には、8人の駐妻と非日本人配偶者の妻、そしてそのお子様達が集った。

 子持ちであろうがなかろうが、旦那がどんな人であろうがなかろうが、そこに集う日本人女性で、大いに話しが盛り上がる昼下がり。

 フランス語習得の苦労話から、夫や姑、そして小姑の話(時に愚痴)、フランス社会に対して腹が立つことについて、昔のテレビや芸能人の話題、日本で働いていた時の話題など、尽きることがない。

 盛り上がって話しすぎて、その脇でテレビを見ていたお子様たちに、“うるさくてテレビが見られないのよ。お願いだから静かにしてよーーー”と懇願されるほど(汗)。

 お喋りに参加しつつ、母である人達は、さりげなく子供を対処(時には体よく追っ払うともいえる)する様子は、子なしの私には興味深い場面でもある。特に本日の主役であり、それと同時にわしらに家を占拠されてしまったA嬢は、ホステスとして、4児の母として、実に手際よく動くので、しばし感動する私。私にゃあ、できん・・・・・(滝汗)。

 駐妻ならでは、もしくは夫が日本人でないばかりの問題点なども、お互いに披露しあう。うーん、なるほど、へーーえ、ほほうっ、という具合。

 途中から、酒を飲むメンバーと、そうじゃないメンバーがハッキリと分かれているのには、個人的に笑えた。


 A嬢宅を後にして、寄り道を重ねつつ、夜はオペラ界隈でラーメン。これぞパリ日本人社会の王道っ!!。Y嬢の非日本人夫を呼び出してみようと提案すると、Y嬢が“もし、彼だけが非日本人だったら、きっと来ないと思う”とのこと。

 なので、我が夫を呼び出して、それをオトリにしてY嬢の夫を呼び出すことにした。我が夫は用事が入ってない限り、自分が一人だろうがなんだろうが図々しくやって来るタイプ。おまけに自分の周りが女性だけ(国籍問わず)と知ったら、全力疾走でやってくるタイプとも言える。

 結局ラーメン屋には、日本人女性6名とY嬢とわしの夫の非日本人2名が集った。途中から、わしの夫がたまたま自分の携帯に電話をかけてきた友人らをラーメン屋に合流させてしまい、会の様子も少々変わってしまった・・・。

 途中、3名の日本人女性が早めに帰宅し、残ったわしらは気がつくと、日本人組、非日本人組に分かれ、それぞれの母国語で延々と話し込んでいた。ラーメン屋の店員に勘定を催促されても、まだ平然と話し続ける私たち。

 最後にY嬢が、“やっぱり日本語で思いっきり話せるって気持ちいいねえっ!!”という言葉に、H嬢と私は、思いっきり頷いてしまったほどだった。 


2004年03月01日(月) もう3月・・・・

 もう3月。早すぎる・・・・。

 週末は、あっという間に過ぎ去ってしまった。

 土曜日の晩は、とある夫婦と我が家で食事になっていたが、妻のほうが出張先の飛行機に乗り遅れて我が家でのディナーは延期。旅行から戻ってきてまだ完全に家事シフトが再現されてない私にとっては、これは朗報。

 不思議なことに、ディナー延期を決めた瞬間、4人からディナー、およびパーティーの誘いが立て続けに入る。さーーて、どれにしようかな?!?!。とりあえず、一番美味しそうなディナーにありつけそうな人に即座に返事。

 久々の友人Gの家へ行くことにした。彼はなんちゃって精神科医。たしかに彼の専門ではいい仕事してるとはいえ、私生活はかなりハチャメチャ。2年ほど前に別れた女性のことが忘れられず、いつも鬱状態だった彼だが、本日は違ったっ!!。というのも、数ヶ月前からモーションをかけていた、ウルトラセクシー&彼にとってはとびきり若い、モロッコ人の彼女をとうとうゲットしたからだ。

 Gは57歳で、この新しい彼女Aは32歳。下着が見えそうなほどのミニスカートをまとい、Gの妻のようにディナーのホステスとしてキビキビと働いている。そんな彼女の横で、でれでれ顔のG。

 あまりにもセクシーな彼女なので、はじめわしら夫婦はGの彼女だとも気付かなかったほど。たまたまディナーの席にいた30代の長身ドイツ人の男性と彼女がカップルだと信じて疑わなかった。思わず、このドイツ人に、“なかなか魅力的な彼女ですねえ”と、わしら夫婦が期せずして、発言を同時にしてしまって、Gがムッとしている・・・・。

 すまんGよ。でも、まさかGがそこまで“いい女”をゲットできるとは考えてもみなかったのだよ・・・・。

 Gの彼女が腕を振るったというモロッコ家庭料理は、実に美味しかった。やっぱり、一番美味しそうなメシが食べられるところ、という選択肢で今晩のディナー先を選んでよかった(笑)。

 さて、前述のドイツ人男性は、結婚して3年目で現在バルセロナ在住。妻はコロンビア人。彼曰く、妻があまりにもラテン系ゆえ、3週間も一緒にいると疲れてしまい、こうやって仕事でバルセロナを離れる機会をエンジョイしているとのこと。とはいえ、彼なりに妻を愛しているらしく、いつも彼の手元にあるパソコンには、妻の写真が山ほど登録されているから笑える。

 彼の妻が、彼の前でストリップをはじめる写真などをわしらに見せながら、
“ぼくの妻はあまりにも露出狂で参っている”と嬉しそうに、ドイツ語訛りのフランス語で解説。



 日曜日の晩は、マレ地区の小さなピアノバーで、友人Sとその仲間がジャズコンサートをやるというので、久しぶりに足を運ぶ。

 数時間前にレンヌからパリに到着した夫の父方の従弟・弁護士Dも同行。Dは、以前あったブルターニュのテロリストが仕掛けた爆弾で亡くなってしまった少女の弁護のため、3月一杯パリに滞在する。

 Dは、学生の頃マレ地区に長いこと滞在していた。が、婚約が決まった途端、未来の妻がどんどんと将来の青写真を変えていき、“パリに住むなんて馬鹿”“子沢山の幸せな家庭をブルターニュで”と洗脳されて、そのままブルターニュへ戻ってしまい、妻の予言どおり、現在は5児の父。

 夫より若いDだが、さすがに彼の職業&家庭の責任感の違いか・・・?、Dのほうが夫より、はるかに大人に見えるのが妙に笑える。

 久しぶりのマレっ、と喜んでいたはずのDだが、あすがに明日からはじまる公判の緊張か、いまひとつリラックスできない様子だった。

 さて、友人Sとその仲間の演奏は、予想以上によかった。こりゃ、スゴイぞ、などと思っていたのだが、あとで聞いた話によると、ライブ席にたまたま某有名ラジオ局のディレクターがおり、この人物が彼らの演奏をたいそう気に入り、その場でスカウトされたとのこと。

 友人Sは、非常に興奮していた。



 今、ふと思ったが、フランスに住み始めて以来、数え切れないほどの弁護士、精神科医と会ったような気がするが・・・・。ちなみに、日本ではこれほどの頻度ではなかったような・・・・・。


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