ゼロの視点
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2004年02月27日(金) 再会

 それは突然のことだった・・・・・。

 電話が鳴った・・・。

 いつものように、受話器を取る・・・・。


相手「日本大使館のものですが・・・・・・、ゼロさんですか?。」

私「(一瞬ギョッとして)はい、私ですが・・・・・」

相手「とあるフランス人からの問い合わせで、ゼロさんと連絡を取りたいとのことなんですが、こちらとしてはゼロさんご本人と確認をとったうえでと思いまして・・・・」

私「(何も悪いことしてないのに、妙に焦りながら)はあ、で、それは誰なんですか?。」

相手「○○○さんと申します・・・・。」

私「(少し考えてから)、ああっ、それは昔の友人ですっ!!」



 そんなわけで、大使館の方には丁重にお礼をいい、私と連絡を取りたいというSの携帯にさっそく電話してみる。

 Sと出会ったのは、1993年秋。パリ旅行の際、バスの乗り方を彼に尋ねたのが縁だった。彼は当時、哲学専攻の学生で、大のバッハ好き。私も哲学にのめり込んでいて、当時からバッハ狂だったため、あっという間に意気投合。

 とはいえ、当時はフランス語なんぞ今ほど話せるわけもなく・・・・。筆談と限りなく頼りない英語でなんとかのりきっていたものだった・・・・(涙)。 

 電話に出た彼は、まず、日本大使館の迅速で確実な連絡の取り方に激しく驚愕。こんな即座に返答が戻ってくるとは思っていなかったようだ。なので、これが日本なのだ、と自慢してみる。

 ま、とにかく、これはわしらにとって、11年ぶりの再会。電話に出たSの声が妙に懐かしいのと同時に、不思議な感覚にとらわれる。というのも、前述したように、当時の私は、彼とはまともに会話できなかったため、いまひとつ彼の格が把握しきれなかったような気がしてならなかった。が、こうやって共通の言語で対等に話せるようになると、あらためてSという人間像が違って伝わってくる・・・・。

 面白いことに、ブランクを感じさせないほど、Sとは話しやすいことに気付く。むこうはむこうで、11年ぶりに私のコンタクトを取ってみようとトライした結果、私が電話でベラベラとフランス語を話してくるので、ビックリしている(笑)。なので、思わず

私「ねえ、ちょっと、私さあ、これでもフランス語上達したでしょっ(ちょっと自慢げに)」

S「うん、ちょっとどころじゃなくて、こうやって話すことができるのって、おもしろいねぇ」


 そんな彼は、現在南仏在住。ところが来週いっぱいパリに滞在しているという。それじゃ、さっそく会おうっ、ということになり、我が家にやってくることになった。




今から4年ほど前、暇つぶしにミニテルで遊んでいる時に、ふとSのことを思い出して住所を探してみたことがあった。そして、見事に彼の名前がヒットしたので、自分の近況報告もかねてハガキを出してみた。

 が、そのハガキが一ヵ月後に我が家に返送されてきた。私は、なんだかよく事体を理解することなく、それ以後Sのことを忘れていったのだった。が、実は、今になってそのことをSが説明してきた。

 実はSは6年一緒に暮らしてきた妻同然の女性と別れたばかり。で、この女性が見ず知らずの日本人女性からのハガキをみて、嫉妬に狂い、私のハガキは一度ゴミ箱へ行ってしまった挙句、なんらかの方法で私のところへ舞い戻ってきたらしい、ということ。

 個人的には、どうしてSの彼女が私の絵葉書に嫉妬するのかサッパリわからないが(夫と一緒に住んでいることなど、きちんと書いたわけであり、やましいことなぞなにもないっ!!)、その時のことをSがしっかり覚えていたので、もしかしたらまだ私がパリに在住している確率があるかもしれない・・・、と思ってふと大使館に問い合わせてみた、というわけだった。




 おりしも、我が家には一足早く、美しいY嬢がクラリネットを持ってやってきていた。Sに“かわいい日本人女性がきてるわよん”と言うと、全力疾走でやってくるという(←典型的なフランス男)。

 Sが来るまで、Y嬢がクラリネット、私がピアノでブラームスのアンサンブルを練習してみたのだが、2人とも練習不足のためアウト。Y嬢が持ってきたこの曲のCDを聴いて、それにあわせて弾いたフリをするのがやっと(汗)。

 2人でこりゃ、ヤバイねえ・・・・、なんて言っているときに、Sが登場。以後、3人でおしゃべり。本当に久しぶりに再会するSは、昔よりちょっと太ったようにも見えるが、性格は相変わらずガキくさいので、つっこみどころ満載。とはいえ、2人の日本女性に囲まれて、気分がよさそうだった。

 Sは、現在は哲学の先生をやりながら、画家としても活躍しはじめたようで、現在パリ郊外でやっている自分の個展の宣伝を、ちゃっかり私たちにして帰っていった。

 その後、夫のことも知っているY嬢曰く、「なんかゼロの周りって、似たような人が多いよね」とのことだった。ま、つまりは男でも女でも、非常にお喋りでガキが多いってことだろうか?!?!?!。確かに・・・・・あたっている(笑)。



 機会があったら、今度はSを夫に紹介してみようと思っている。きっと私を超えて、コイツらは妙に意気投合しそうな予感がしたゼロでした。


2004年02月24日(火) トルコ旅行・まとめ

 なんだかんだとあっという間に過ぎ去ってしまったトルコでの日々。運転手の死から、出会い、ガイドへの反乱、美しい景観等、本当に短い間に色々なことがあった。

 バスでの座席を最後部にしたことで、何気ないバスの移動も楽しいものになった。というのも、色々な人を背後からウオッチングできるから。長時間に渡るバスでの移動中、実に様々なカップルが仲睦まじくチチクリあっている姿は、なかなか微笑ましかった。

 オトコのほうから甘えたり、オンナのほうも待ってましたとばかりに顔を近づけて・・・・。頬をぺったりくっつけあったり、鼻と鼻を擦りあって遊んだり、もちろん身体を寄せ合い・・・・、そりゃもう、密着度満点。

 そこまでいちゃついてなくとも、ほとんどのカップルがただ普通にバスに隣り合わせて乗っている間、手をつないでいることが多かった。

 ちなみに、これらの行為には年齢制限はない。とにかく、ああ、みんな仲がいいのだなぁ、と素直に思った。やっぱり幸せなカップルというのを見ていると、悪い気はしない。

 また別に大学生の女性2人組みは、もうひたすら話し続けている。一人は非常に男っぽいタイプで、もう一人はちょっとおしとやか系。男っぽい方が、常にふざけようとし、そんな彼女の横で、おしとやか系が楽しそうに笑っている。こういう男っぽく振舞わざるをえないタイプに限って、突然男性の前で赤くなったりするのかな?、等と想像してニヤニヤする私・・・。


 フランス生まれのトルコ人女学生2人は、常にバスの最前席を“自分達の特等席”のように占拠する。ほとんどの人間は、彼女らと争うのを早々に放棄してしまったが、40代後半の教師カップルは、猛然と彼女らと無言の闘いを続ける。トルコ女性2人組は、時に彼女らの席を奪われそうになると、敵を突き飛ばすこともあるから手強い。


 ガイドは、相撲取りのような体型なのだが、説明だけするとガーガーといびきをかいて眠り続ける。彼の解説はかなりハイレベルで、いい仕事はするのだが、2時間おきにトイレ休憩でサービスエリアにバスが停車する度に、食事を注文・・・。だから、ああなるんだな・・・・、と妙に納得。起床食後にファンタの大瓶を抱える彼の姿は、時におぞましくもある。


 私たちの定番隣人である30代カップルL&Aは、一緒に暮らし始めて一年未満。男性Lはブルターニュ生まれで、女性Aはチュニジア生まれのイスラム教徒。Aの方の両親が、イスラム教徒じゃない相手と付き合うことに猛反対中で、それを逃避するようにトルコ旅行へやってきた。ふいに機嫌が悪くなるAに対して、Lはやさしく抱きしめたり、なだめたり・・・・・。夫よ身習え(笑)。


 今回の旅行に女一人で参加したM(28歳)は、気がついたらいつもわしらの隣人。裏表がなく、よくも悪くも本当の“天然”気質。かわいい顔に、猛烈な行動力。思い立ったら考える前にすでに動いているタイプ。もちろんお喋り。彼女を見ていると、“ああ、こういう人間だからこそ、一人で団体旅行に参加できるのだっ”と妙に納得させてくれる。ま、そのくらいあっという間に、誰とでも友人になってしまう。一時、あまりにも彼女が天然過ぎて、一部の人がかなりひいていたが、最後には完全にグループのアイドルになってしまった・・・・、あっぱれ。


 20代前半の学生カップル。女性Aは、お喋り、社交好き、そして文句垂れ。それに対して、Aの彼であるMは、病気か?、というほど無口で受動的。AがMに背を向けて延々と反対座席の人とお喋りしている間も、彼は黙っている。そして、Aが話し飽きてMの方を振り向くと、MはやさしくAを抱擁。


 バスに乗った瞬間、自分の家のように色々なモノを座席の周りに広げ出し、あっという間に彼のまわりがゴミの山になる男・・・・・・・、そして、バスを降りる時に、すべてをまたバックにつめ直すために、20分以上かかる男・・・・、

それは私の夫だっ。


2004年02月23日(月) トルコ旅行パート8

 本日は、最終日。

 ホテルを午後12時半に出発と聞いていたので、早起きしてもう一度アンタリヤ市内を・・・・、なんて夢見てたわしらが甘かった。10時になっても食堂に姿を現さないわしらを心配して、わざわざMがモーニングコールをしてくれた。そして、その電話で深い眠りからさめた私たち・・・・。

 朝食は午前9時半までにテーブルにつかないと、それ以降は有料と聞いていたが、すっかり仲良くなった支配人代理Iのおかげで、チャージを取られずにゆっくりと食事をさせてもらえた。ありがたいことだ・・・。

 その後は、部屋に戻りひたすら荷造り・・・・・。あっという間にランチタイムになり、慌てて食事をとって、バスに乗り込む。世話になった支配人代理Iに丁寧に挨拶をして、空港へ。

 ほとんどの人は、運転手にはチップをあげていた。が、誰もガイドにチップをあげていない・・・・・。ま、彼は観光客に色々と買わせて、コミッション取ったのだから、当然といえば、当然だけれど。

 飛行機はトルコ時間で午後3時半(フランス時間午後2時半)に離陸。アンタリアよ、さよーーーーなら。

 3人がけの座席には、わしら夫婦だけだったが、さっそく空いた1席分に、Mがやってきた。3人で色々話している間に、ふと私の左手に目をやると・・・・、なんと・・・・。

 先日、ガイドに連れて行かれた宝石店で“激安”で購入した指輪の石が一つ見当たらない・・・・・。一瞬、石の色が変わったのか?、と思ったが、実は石がとれて、そこに穴が空いていただけ・・・・。

 やられた・・・・・。
 トルコ人めっ!!。

これをMと夫に見せると、大騒ぎ。ま、別にそこまで大騒ぎしなくともいいのだが・・・・・(汗)。

大騒ぎするほどの値段じゃないし・・・・。
激安にはリスクはつきものであって・・・・。

と、なんで私が、彼らをなだめてんだ?!?!??!。

 とりあえず、保証書も出してもらっているゆえ、パリに戻ってから対策を練ることにした。ただし、その保証書ってのに確かな効果があればの話だが・・・・。が、この場では夫やMらには、保証書自体が怪しいかもしれないということは話さなかった。もし話したら、もっと奴らは興奮するから・・・・。

 ま、それにしても、穴の空いたリングってのも、乙なものであって・・。


 トイレに行こうかどうしようか迷っているうちに、トイレのある後部座席のほうと見ると、なぜか私たちと同じグループだったB&Cカップルがそこに苦虫を噛み潰したような顔で立っている。最初のうちは、トイレの順番を待っているのか?、と思ったが、どうもそうじゃないらしい。

 ともかく、私自身の膀胱に限度がきたので、スッと席を立ち通路を歩き始めると、床にはパンやスナック菓子が悲惨なほどばらまかれている。ジュースも撒き散らしてあり、通路のカーペットが染みだらけ・・・。

 こんな汚い飛行機はじめてだよ・・・・、と少々ひきながら通路を進んで、トイレの脇で立っているB&Cのところへ近寄る。そして、彼らが、

B&C「見た?、あの惨状・・・・」

私「こりゃ、ひどいねぇ・・・」

B&C「僕たちは、悲惨なことに、ああいうことを平気でさせる馬鹿親子の隣に座り合わせてしまって、気が変になりそうになったので、ここに立ってるんだよ・・・・」

私「注意したの?。」

B&C「注意したら、逆ギレされて、大騒ぎされたよ・・・」

私「・・・・・」


 まじまじと、“ドキュソ親子”の顔を見ると、確かにヤバイ。そういえば彼らが乗り込んでくるときに、すでにヤバイ予感はしていた。だいたいショッキングピンクのジャージ着ているアラブ系の母と、首の周りにキンキラ、ジャラジャラとネックレスを光らせる黒人系の夫に、子供3人が飛行機内を、まるで大自然の中にいるように走り回る姿・・・・。

 おもしろいことに、ヤンキー系の顔というものに国境はない。特にこの母親の顔は、日本でも充分ヤンキーとして通用しそうな感じ。わたしゃ、正直いって、この手のタイプとは近づきたくない。

 B&Cも私と同じで、近づきたくないという諦観ゆえ、とうとう席をたってしまった、というわけだ。

 子供たちは、支給された飲料水を隣人にぶっかけたり、シートにわざとたらしたり、スチュワーデス呼び出しボタンを押し続けたり、もう最悪。通路を歩くかわりに、座席の上をまたいで、つまりは乗客の頭をまたいでどこかへ行こうとする等・・・・・・・。

 で、親は何も注意しない。笑顔でガキらを見守っている。母親の腕には、トルコで購入したと思われる、偽者ヴィトンのバック。もう、ドキュソの王道をいっている。ここまでくると、アッパレ。

 着陸30分前には、一番小さな子供がトイレを我慢しきれずウン○をズボンの中にしてしまい、その匂いで、周りの乗客は悶絶していたらしい・・・・。


 とにかく、自分が彼らの傍の席じゃなかったという“幸運”に感謝するのみ。あとで聞いたところによると、彼らはわしらと同じようにトルコ格安ツアーの客だったらしい。もし、彼らと同じグループだったら?!?!?!、と考えるとゾオーーーッとしてくる。と同時に、同じグループだった方々に、哀悼の意を捧げる。


 空港に着いて、すっかり旅行中に仲良くなった人たちと挨拶。つかのまの旅行だったが、なかなか楽しかった。特に後半はガイドの“おかげ”で、もっと団結したり、と。

 帰路はRERで戻ろうか?、と思ったが、バスがあったのでそれにする。運転手と旅行の土産話をしているうちに、彼がバスの運賃をまけてくれたっ!!。ここはトルコか?。そのおかげで、信じられないほど安い運賃でパリ市内まで戻ることができた。

 5人しか乗客のいないバスの中で、腹がすきだした夫が、おもむろにトルコから持ってきたオレンジをむき出して食べ始めた。すると、隣の席に座っていたトルコ人がりんごを取り出して、まるごとかじり始めた。

 そんな光景をみているうちに、トルコもパリも“のどか”だな・・・・、と思ったゼロでした。


2004年02月22日(日) トルコ旅行パート7

 昨日の時点で、ガイドが推奨する“カモツアー”を辞退するとしていたのが5人。それが朝食の時間の間に、かなりの人が意見を翻しはじめ、結果、32人中、たった13人のみが参加することになった。

 5人が欠けるくらいならたいしたことない・・・、とタカをくくっていい気分で起きてきたガイドは、直前になっての辞退者の続出に、顔色が真っ青になっていた。

 ところで、昨日、このホテルに到着して以来、私たちは支配人代理の青年Iとお友達になっていった。英語を流暢に話し、実にいい人。彼は、ガイドが出発するのを見送ってから、私たちにアンタリアの楽しみ方を色々と教えてくれた。

 ガイド、ホテル、旅行会社、商人が一体となったトルコ旅行業界ゆえ、たかが支配人代理の青年が、カモであることを辞めて、自由を取りたい旅行者を応援することは、ある意味リスクがある。ゆえに、彼はガイドの出発を待ってから、私たちに近づいてきたのだ。地元のバスの乗り方など、本当に懇切丁寧に教えてくれた。

 その後、目の前の海岸線沿いをわしら夫婦、M、そしてA&Lカップルの5人でのんびりと散歩。

 昨日の時点で、冬のアンタリアで“カモツアー”に参加しなかったら、雨でも降ったには何もすることがない、と断言して、何も見所すら教えてくれなかったガイドだったが、そんな彼をあざ笑うかのような見事な晴天。

 遠くに、水しぶきのようなものが見えたので、それにつられるようにして進んでいくと、なんとも見事な滝だった。そして、そこにはたくさんの観光バスが停まっており、かなり有名な観光名所であることも同時に知った。

 もちろん、その瞬間、5人で“あのガイドのやろう、何も言わなかった世ナ、この滝のこと”と言って、大爆笑になった。さっそく、この滝の絵葉書を購入して、あとでガイドに見せてやるっ、と夫は言い放った。

 ここまで、ガイドのことを色々書いてきたが、何よりも私たちが嬉しかったのは、“自由を獲得した”ということであった。本日だけは、ゆっくりと自分達のしたいようにできる、ということ。あと何分とせかされることなく、美しい景観に足をとめ、呼吸し、感じる・・・・。たったこれだけのことが、思う存分できることの嬉しさよ・・・・。

 ランチはホテルに戻って、居残り組で盛り上がる。すっかり嫌なガイドのおかげで、私たちは妙に皆で仲良くなってしまった。旅の初めは、妙な気詰まりがあった私たちだったが、今じゃ、昔からの友人のよう話に花が咲く。これも明日でオシマイか・・・・、と思うと、寂しいぐらいだ。

 午後は、午前中のメンバーと一緒に市内に出かけるはずだったが、ランチ後荷物を取りに一度部屋に戻り、ふと気が緩んでベッドに身体を伸ばしたのがまずかった。それっきり、2人で午後3時半まで爆睡してしまった・・・・。

 すでに仲間は旅立った後。午後4時頃から、2人で乗合バスに飛び乗り、ブラブラと市内観光をはじめた。バスでの金の払い方が面白かった。乗客はとりあえずバスに乗ったら、自分の好きなところに座る。そして、その場所から自分に一番近い人に、紙幣を渡す。そしてその人がまた近い人に紙幣を渡し、最後に運転手の隣にある、料金箱に収まるのだ。

 運転手がおつりを返すシステムも同じ。運転手は後ろも振り替えず、紙幣を握った手を適当に差し出す。それを誰かが取り、また別人にリレーしていき、ちゃんと“お釣りをもらうべき人”のところに紙幣が到着するのだ。

 こんな風に紙幣がまわってきたら、思わず自分のポケットに入れる人がいるんじゃないか?、と思ったが、きっとそんなこともなくうまく機能しているのだろう。いいことだ。

 地元民のために開催される日曜日のバザールというのを覗いてみた。野菜や日用品などが中心で、特別自分が購入したいというものはなかったが、アンタリア市民の生活が垣間見られたようで、なかなか楽しかった。誰も、私たちに無理やり売りつけようともせず、実に気楽にブラブラできた。

 どのくらい歩いたのだろうか・・・。もうすっかり待ちは暗い。時計を見ると、午後8時。そろそろホテルに戻って夕食の時間だ。地図も持たずに思うままに歩き回った私たち。バス停で、ホテルに戻りそうなバスをひたすら待つ。が、全然来ない。

 来るバス、来るバスに乗り込んでは、運転手にホテルのアドレスを見せる。しかし、トルコ人は、“NO”という時アタマを“YES”のように縦に振るので、それを知っていても、その場その場でアタマが混乱する。で、そのたびに親切な外国語が話せるトルコ人が出てきてくれて、私たちに色々と説明してくれる。本当に親切なのだ。

 バス停でも、色々な人が、助けになってあげようとしてくれる。だからといって、親切を押し付けても来ない。トルコ人は、本当に感じがいいと思った。いい加減待ちくたびれて、どこか違うバス停まで歩こうか否か迷っている時に、子連れのトルコ人がバス停にやってきた。

 彼は、英語を操った。またバスの路線にも詳しく、私たちの乗りたい25番のバスは、確実にここにくるから安心しなさいと勇気づけてくれた。それと同時に、もしもっと早く目的地にたどり着きたいのなら、町を流している小型乗合バスを拾ったほうがいいとも的確にアドバイス。そのためには、このバス停から5分ほど歩いた、大通りに出る必要があるとのこと。

 夫と2人で“じゃ、そうしよう”ということで、彼にお礼を行って、バス停を離れて歩き出した。3分ほど歩いた所で、バスと思われるクラクションが何度もなった。音につられて振り向くと、さっきの男性がバスの中で、こっちに来いと手を振っている。

 バスの番号を見ると、25番。これぞ、私たちが待ちに待ったバスだった。彼は、私たちの事情を運転手に説明して、私たちのためにバスを停めてくれたのだった。そして、私たちはバスに乗り込み、彼にあらためて例を言った。そして、彼はしばらくするとバスを降りていった。

 次は、どこで降りるか・・・、だ。だいたいこの辺じゃないか?、と思ったところで、バスは突然停まった。窓からあらためて外を見ると、私たちのホテルのまん前。なんと、さっき降りていった男性が、すべてを運転手に話しておいてくれたことが判明。

 ガイドの言うように、タクシーで無駄遣いもせず、地元の人に助けられ、まるでタクシーのようにホテルのまん前まで送り届けてくれるバス。ああ、本当に自由を選択してよかった、と思った瞬間だった。

 夕食後は、有志の仲間と連れ立って、昨晩のバーへ。総勢20名だった。さすがに連日の観光で疲れ果てていたので、午前1時には、全員が退散した。

 

 ちなみに、最後の晩餐にはガイドは姿を現さなかった・・・・・。

 


2004年02月21日(土) トルコ旅行パート6

 本日は、カッパドキアからただひたすらアナトリアに大移動の日。朝7時半にホテルをチェックアウトして、バスに乗り込む。

 昨日とは打って変わって、大雪。昨日の晩に同じホテルに本日カッパドキアを観光するために、難行苦行で外国からやってきた観光客は泣いていることだろう・・・・。視界がほとんどなく、延々と雪が降りつづける光景。こんな気候で、景観もなにも堪能はできん。

 あらためて、私たちがどんなに恵まれていたかを知る。


 突然の大雪で、わしらのバスが立ち往生。一時はどうなるか?、と思ったが、お約束の宝石店に放り込まれている間に、運転手は色々と対策を練ったらしく、なんとかなった。

 絨毯屋とは違って、桁が安いところからはじまる宝石店。プラス、女性が多かったこともあり、ケチなフランス人でもそれなりに大勢がアクセサリーを、ここで購入した。私もしかり。70ユーロ(←相変わらす激安攻撃)で色のついた小さな石が散りばめられた指輪を夫にねだって買ってもらう。

 指輪をプレゼントしてあげるから、タバコを止める日を今決めろ、と迫る夫。それに対して、タバコを止めさせたいなら、70ユーロといわず、本モノのダイヤモンドを買えと迫る私。

 
 ドライブインのようなレストランでランチの後は、またひたすら移動。ガイドがマイクを持って、色々とトルコの話などをするが、未だに今後の予定など詳しく話さないのが、だんだんと皆の不満につながってきた。

 また、さんざんの長距離バス旅行での疲れもあり、かなりの人間がブーブーと不満をそれぞれの中でマグマのように増大させており、それが噴火するのはそれほど長くないのは予想できた。

 そして、ガイドが翌日の予定について話し始めた。なんと、明日はアンタリアで自由行動だという。しかし、そんなことはあらかじめもらっていた予定表には書いてない。

 そして、ガイド曰く、今までアンタリアの自由行動では、多くの観光客がタクシーを使ったりして、予想以上の出費をしている。だから、旅行会社からのサービスとして、午前中は皮革店めぐり、そしてランチはトルコ自慢のケバブを食べて、午後は大型のショッピングセンターに連れて行って上げましょう、という提案をしてきた。

 一瞬聞こえはいいが、また店に連れられていくだけゆえ、私個人的にはこれを辞退して、自由行動を楽しもうと思った。そして、気になるのが、今晩のホテルの場所。ホテルの場所を尋ねると、今回は海岸沿いで、歩いて簡単には街中には出られない位置と判明。

 それが判明するや否や、ブーブーと不満が出る。ガイドとしては、一人でも多くこのツアーに客を参加させ、いかに店に連れて行くか?、がネライであり、それを実行するためには、まずホテルは街から遠く、その付箋として、ケチなフランス人向けに、自由行動すると“高くつきますよ・・・”と説明してきたわけだ。

 さあ・・・・、だんだんと雰囲気が険悪になってきた・・・・。

 不平不満を言わせたら世界一のフランス人公務員 VS やり手のトルコ人ガイド。しかし、トルコ人ガイドもいささか馬鹿だった。フランス人の不満に対して、逆ギレしたのだ。これは商人としては、作戦的に大失敗だ。

ガイド「格安を利用してトルコを旅行したいのはわかる。だけれど、こっちがバスも、運転手も昼飯もつけたうえに、ガイドまでつけて明日一日、何も知らない君たちを案内してあげる、って言ってやってるのに、あーだ、こーだというのは、みっともなさすぎる、馬鹿だっ!!」

とガイドは物凄い口調で言い放った。そしてこれが、開戦の火蓋を切った。宣戦布告されたフランス人らも、あちこちから叫び出す。とうとう、バスの中でフランス革命が始まってしまった・・・・・。バスチーユを落とす代わりに、ガイドを落とす気か?。

 不満という感情に基づいての、フランス人の団結観は本当にスゴイ。人の考えの数だけ、同じ数のマニフェスタシオンがあるとも思えるフランスだが、実のその通りであって、今回も基本的には一緒。2002年のアンチ・ル・ペンのマニフには、パリ解放時以上に人間が街に出てきたが、こういう小さな革命でも、その根底が面白いほど伺える。

 さんざん、フランス人らがガイドの言い分を突っつきまくった挙句、とうとうガイドは自分の利益について語り出した。

ガイド「もし明日、このツアーに誰も参加しなかったら、自分のガイドとしての評判が一挙に落ちてしまう。」

フランス人側「だからどーした」

ガイド「でも、こんなにいいアイデアに乗らない君らは馬鹿だ」


 私はトルコ人のことについてはよく知らないので、一般化できないが、とにかくこのガイドも非常に不器用だと思った。個人のプライドが高すぎる。日本人商人のように、ある意味“ごもっとも”という態度を客にとってもいいのじゃないか?、と思ったほど。一歩譲れば、相手の態度も不思議に軟化するもの。しかし、これが彼には全くできない。もし、本当に、一人でも多くの客を店に連れて行きたいのなら、他に色々と方法があるはずだ。

 個人的には、この“バスの中でのフランス革命”は非常に面白かった。どーでもいいや、と思いつつ、面白いので、フランス人側を色々煽動してみる。彼らの不満にどんどん火をつけて煽っていたのは、私です・・・。

 最後に、ガイドが“明日のツアーに参加しない人は手をあげて”という問いに対して、間髪いれずに手を挙げたのは、私たちがいた後部座席部分の5人。他の人らは、さんざん文句言った割にはまだ結論は出さず・・・、という雰囲気だった。

 思ったほど、明日のツアーを拒否する人がいないと思ったガイドは、途端に機嫌がよくなっていった。


 さて、明日は自由。決められた時間に起きる必要はない。わしら夫婦とMは、夕食後、近所の地元民が集う音楽バーへ出かけ、午前2時過ぎまで、踊って、飲んで、歌って、楽しんだ。一昨日に30ユーロも出して参加した、ディナーショーなど問題にならないほど楽しかった。

 地元民たちとは、残念ながら言語を通してのコミュニケーションは取ることは難しかったが、私たちが踊ると、むこうがむこうのやり方で踊り返してくるというのを延々と繰り返し、最後は、みなで輪になって踊りつづけた。

 そして、一人の若いキレイなトルコ人女性が、突然アカペラで、物悲しげなメロディーの伝統曲を歌い始めた。それは、本当に魔法のようで、うっとりと聞き惚れてしまったゼロでした。


2004年02月20日(金) トルコ旅行パート5

 どうやら、極端に厚着して寝たのがよかったらしく、すっかり体調がよくなった私。おまけに、外は寒いが、晴天っ!!。本日は、一日中カッパドキアで過ごす日(いわゆる、メイン)だけあって、もし天候が悪かったら最悪だ。

 朝8時にホテルを出発して、一番景観のいいところでバスを停める。そしてあたえられた1時間半の時間、大自然の中を歩き回った。今までバスに閉じ込められ、鬱屈していたものをすべて発散できたような気がする。

 この旅行中にすっかり意気投合したM(♀・28歳)は、岩や山、もしくは谷などを見ると、一度はそこへ駆け上ったり、駆け下りたりしないと気がすまない性格。そんな彼女は、一番にバスを飛び降り、私たちが丘の中腹に達した時点で、彼女はすでに頂上を目指そうとしていた。

 そんな彼女に挑発されるように、私と夫、そしてもうひとりのC(♀・30歳)は、どんどんと彼女のように頂上を目指し始めた。道無き道を進む爽快感。一瞬、このまま登っていったら、あとはどうやって下るのだろう?!?!?!、と現実的な問題がよぎったが、とにかくあまりの晴天に、どこまでも、どこまでも、上へ行きたいという欲望に抗えなかった。

 私は喫煙者だが、奇妙なことに、簡単なトレッキング程度だと全然息切れしない。いつのまにか最小限のエネルギーで登るコツを得たようで、Mほどではないにしても、斜面をみると、よじ登りたくなる。

 日本ではクルマ中心の生活をしていた私だが、パリに住み始めて以来、クルマを持たない生活となり、よけい足腰が鍛えられたのかもしれない。また、古いアパルトマンなどでは、未だにエレベーターなどがないこともあるし、気がつけば階段の上り下りはしょっちゅうしている。そんなわけで、昔から比べると、健康的な私というのを再発見(笑)。



 高いところに上り詰め、カッパドキアの奇妙な景観を眺めることの素晴らしさといったら・・・。



 ずうっと、ここに留まっていたかったが、時間切れ。再び道無き斜面を下り始める。後でつくづく思ったことだが、もしこれが個人旅行だったら、きっとここまで登らなかっただろう、ということ。仲間がいるから強気になれる、ということだ。一瞬、道を間違えて、行き止まりの岩に行き着いたときも、下にいたグループのメンバーが誘導してくれたり、万が一事故っても、即座に対応してもらえる安心感というものは、決して馬鹿にできないと思った。

 
 お次は、地下都市。数ある地下都市の中から、一番しょぼいところだけしか観光できなかった私たちだったが、なかなか面白かった。実によく考えられて作られたのがよくわかる。しかし、本当に小さくて狭い回廊は、ワシにはちとツライ。メンバーの中で、145cmというフランス人女性がいたが、彼女は『今回は、小さく生まれてきて本当によかったと思ったわ』と皆を笑わせた。

 
 ホテルに一度戻り、ランチを取った後は、再びカッパドキア地方の奇観巡り。午前中の晴天とは打って変わり、雲で覆われ始めた空と、吹き付ける寒風には参ったが、背中に数枚貼り付けておいたホッカイロのおかげで、持ちこたえることができた。

 このホッカイロ、実は、以前日本から友人がパリに来た際に、我が家において行ったモノ。今まで一度もパリでの生活では必要としなかったので、そのまま大量に我が家に残っていたのを、今回の旅行に持ってきたのだ。

 そして、このような非常に便利な商品を知らない夫を含む、フランス人らは驚異の性能を自分の背中で感じ、“日本人は信じられない”と口々に言っていた(笑)。

 ギョレメの町での、自由時間はなんと、たったの20分。これがあとでフランス人らの不満を引き起こす発端となる。それに対して、洞窟の家に住んでいる女性の家を訪れるというプランは、1時間。確かに、変わった家を訪問できる機会は嬉しいが、彼女は同時に商人であり、その家に一度足を踏み入れると、彼女が作ったという、毛糸の帽子や、マフラー、靴下などを売りつけられる仕組みになっている。

 最初は、愛想よくチャイなどを全員に振舞ってくれるが、飲んだら最後、何か買わないと出にくい雰囲気作りを彼女がする。おそらく、これが日本人グループだったりすると、どうせあとで使わないと思っても、誰彼ともなく犠牲となって金を払ったりするのだろうが、フランス人はさんざん買うようなフリをして、なんとか彼女の家を脱出しようと必死だった(笑)。

 私は、“ちょっと外でタバコを吸ってきます”というのを理由に、さっさとドロン。夫もこの時ばかりは、嫌煙者としてモラルを解く立場を捨て、喫煙者のフリをして、私と一緒に脱出。

 あとで聞いた話によると、奥の彼女の部屋には、最新式の大きな薄型液晶テレビが置かれていたのを、誰かが発見したのこと。もうけてますな、彼女。

 その後は、旅行会社と組んでいる絨毯屋に連れて行かれる。ギョレメの町観光が20分だったのに対して、ここでの予定滞在時間はなんと2時間半。はじめっから絨毯など買う気もない人間にとっては、地獄のような設定。

 ガイド曰く、今から数年前にすごい経済危機が起こり、そのために物価が急激に上昇、国自体が機能するか否かの瀬戸際に追い込まれたという。そして、その景気回復政策の一環として、観光業に政府事体がたくさんの援助金を使って、外貨を取り入れることに成功して、なんとか現在立ち直りつつあるという説明だった。

 確かに、トルコのいたるところに見られる、建築途中で放棄された建物などが、それを無言のうちに物語っている。そして、政府は、なるべく安く外国人にトルコへやってきてもらえるように、旅行会社を援助して、絨毯やや宝石やなどもそのスポンサーとして旅行会社に金を払う結果、1週間のトルコ旅行3食付激安ツアーというものができあがる、というわけだ。

 そんなわけで、幸か不幸か、激安につられてトルコにやってきた私たちのような外国人は、美しい観光地を足早に見るだけで、あとは延々とみやげ物めぐりをしなくてはならない義務を負う。

 ところが、今回は学校が休みで、そのバカンスシーズンを楽しもうとしてやってきたメンバーの大半がフランス人の教師連中(小学校から高校まで)であり、典型的なゴーシュ・ファンクショネール(左派の公務員体質)ゆえ、そこに大きな歪みを生じさせた。

 典型的なフランス公務員は、長年のミッテラン政権などが取りつづけた、公務員優遇体勢に慣れきっており、あらゆる利益に対して、つねに“当然”という態度をとり、なおかつそれ以上の優遇を求める体質ともいえる。言葉を変えれば、“永遠の不満体質”ともいえる。

 ゆえに、競争があたりまえの資本主義からは程遠く、安い買い物をしたならば、それなりのリスクという考え方をして、あきらめるのではなく、安かろうがなんだろうが、それ以上の利益を当然として求めるのが彼ら。

 というわけで、この絨毯屋での2時間半が、翌日の大議論の付箋となっていった・・・・・・。

 そして、夕食はオプションとして、30ユーロを追加するとディナーショーでトルコの民族舞踊が見られるとのこと。普段ケチなフランス人らも、今回ばかりは32人中、6人が行かなかっただけ、となった。ディナーショーでは、アルコール飲み放題、というのもうまくフランス人を釣ったのかもしれない。

 私は、ディナーショーなどどうでもよかったのだが、なんと言ってもメヴラーナ教団の例の廻旋ダンスが見られると知って、参加を決意。ところが、実際は、この踊りを真似をしたただのダンサーだった・・・・。

 同じようなモチベーションでやってきた仲間の一人は、ダンサーと教団のメンバーの顔が同じだったことまで裏を取り、完全に怒りモード。おまけに、飲み放題と言われていた赤ワインの質が非常に悪く、ディナーショーが終わる頃には、みんな頭痛を訴え始めていた。

 とはいえ、それなりに雰囲気は楽しく、ほぼすべてのショーを見終わると、舞台がそのままディスコになり、観光客が踊りたいだけ踊ることができるような粋な仕掛けになっていたおかげで、今までブーブーと不満を言っていたフランス人が楽しそうに踊り出した。

 ショーが終わったのが、11時。そしてやっと気分よく踊り出して盛り上がり始めたのが11時半。すると、無残にも経営者は、音楽を止めた。時間切れ、閉店・・・・、というわけだ。これが、スタートが遅く、いつまでも、いつまでも、楽しんでいたいフランス人をまたまた、怒らせる結果となった。



 さて、明日はカッパドキアから一挙にアンタリアに戻る日。それに対して、いつまでも説明をしようとしないガイド。一体私たちはどうなるのか?!?!?!?!。


2004年02月19日(木) トルコ旅行パート4

 本日は、パムッカレからコンヤを経由して、カッパドキアまでの、およそ700キロの大移動日。ほとんどの時間をバスの中で過ごすと予想される。

 2時間置きにトイレ休憩と称して、サービスエリアに止まるだけ。そして、ひたすら、移動、移動、移動・・・・・・。同行フランス人らの顔が、どんどん笑顔が消えていく。

 ランチは、コンヤにて。バス5台分の観光客が一斉にバイキング形式のランチとなった。さすがに日本社会で育った私は、バスが駐車場に入る時点で、競争率の高さにピンときて、一番にバスから飛び降り、皿を手に取り、さっさと列に並ぶ。そんな私にけしかけられるように、並ばされた夫は、あとになって私の行動の敏速さに感謝することになる。

 のんびりとバスから降りてきた他のフランス人観光客らは、その後最低20分ほど皿を持ったまま、自分の番を待たなくてはならなかったからだ。そんな彼らを横目に、さっそくメシにありつける幸せ・・・・・。

 ランチの後は、私にとっての一番のメインである、メヴラーナ博物館へ。でも、悲しいことに、ここでの観光時間はたったの30分。ガイドが的確に説明してくれたことは、不幸中の幸いだった。

 ひと時の放牧を許された羊が、また背後から牧羊犬に尻を追われるように、バスに戻らされる悲しさ・・・・。再び2時間ほどバスに揺られて、今度は30分でキャラバンサライ。

 ガイドの話を聞いている間だけでも、ガタガタくる寒さだった。しかし、日没寸前の太陽があまりにもきれいで、思わず塔のてっぺんまで登ってしまい、そこで完全に日が沈むのを見届ける。これがいけなかったのか・・・・、あとになって、どんどん悪寒がするようになった。

 キャラバンサライ前の土産屋に飛び込むと、そこにはかわいいトルコ人女性の売り子がいた。彼女は英語を話すのがわかったので、夫がさっそく彼女と話し始める。その隣で、ボーっと聞いていた私だが、話の流れで彼女が今日本語を勉強中だと知っ私は、突然目が覚めたように、彼女に日本語で話し掛けてみた。

 すると、彼女はビックリ。どうも彼女は私のことを日本人だと思っていなかったようだ。これも噂には聞いていたが、本当に観光客相手のトルコ人商人は、日本語の勉強に熱心だということをあらためて認識。

 簡単な挨拶、お世辞などはホイホイと口から出せる彼ら。が、面白いことに、“どのくらい”という表現が彼らは全然わからない。

トルコ人商人「私は日本語を勉強しています」

私「日本語お上手ですね。で、どのくらいの期間、勉強しているのですか?。」

トルコ人商人「日本語難しいです」

と、ちょっとズレた答え方をしてくるのが9割方だった。それでも、どのくらい、どんな方法で日本語を勉強したのか?、というのが知りたい私は、ここで譲らない。時には英語で“How long”と付け足して、なんとか相手に質問の意図をわからせようとする。

 旅行中、一番多かった答えは、“数ヶ月”というもの。なるほど。ガイドからも聞いたが、とにかく観光業で稼ぐトルコ人の間では、日本語の習得がものすごい人気だとのこと。おまけに、映画『ラスト・サムライ』等の影響もあって、イスタンブールでは、日本語教師の数が足りないらしい。これが嘘か誠かは知らないが、実際に、何人にも“自称・日本語勉強中”であるトルコ人に出会うと、なるほど・・・・、と言わずにいられない。

 ただ、私の場合、フランス人グループと一緒に来ていてるので、あまりにもつたない日本語を相手が話してくると、面倒くさくなってしまって、気がつくとフランス語で話してしまっていることが多かった。
 
 特定のガイドもグルになっている店では、フランス人観光客向けに、フランス語を流暢に話すトルコ人を厳選して待機している。そんなわけで、いくら相手が日本語を勉強中といっても、かれらのソレと比較すると、はるかにフランス語能力のほうが高いので、楽なのだ。

 そして、フランス語を媒体として、彼らのつたない日本語を少し矯正してあげて、それを恩にきせて、“だから、コーヒーおごって”とか、やっていた私だった・・・。


 キャラバンサライでの寒さがいけなかったのか、どうやらすっかり微熱が出てきた私。ゾクゾクして、アタマがボーっとしてきた。カッパドキアは遠い・・・・。何枚もセーターを重ね着したものの、ヤバイぞ、これは・・・・。

 ようやくカッパドキアのホテルに到着したのが夜の8時半。夕食も早々に済ませ、アスピリンをたくさん飲んで、寝てしまった。

 


2004年02月18日(水) トルコ旅行パート3

 朝4時半起床で、その一時間後に出発。つ、つ、つ、辛すぎる・・・・。

 噂には聞いていたが、やっぱり早起き連続攻撃に、私は耐えられるのか?!??!。インターネットの普及のおかげで、私はたくさんの日本人の方々が作成した、トルコ旅行についてのサイトを読み漁ることができた。非常に詳しい解説つきで、似たようなコースの概略もだいたい、こっちに来る前に知ることができたのも、これらのサイトのおかげである。

 サイトで、多くの日本人が、長時間のバスに疲れきったようなことを書いていたが、私もそうなるんだろうか?!?!?!、等と思っていた次第。

 そして、私たちのバスは小雨の降る中、出発した。周りはまだ真っ暗。朝食を制限時間内に食べきれなかったグループの仲間などは、あらゆる食べ物を食堂からバスに持ち込んできていた。そして、食べる時間もなく、出発ほどなく、半分以上の人々がまた深い眠りについていった。

 この日から、わしらはバスの一番後ろの席に陣取ることにした。一段高くなっていて、見晴らしがよいこと。そして、同時に色々と人間ウオッチングを楽しめるからだ。それに対して、バスの最前列の座席争奪戦は日に日に激しくなるばかり。無言のうちに、この席にこだわる人々の間で、戦いが繰り広げられている。

 一時間もバスに揺られていると、小雨がみぞれになってくる。アスファルトのもだんだんと氷に覆われ始め、それが雪に変わってくる。そして、2時間もたつと、白銀の世界。これがあまりにもキレイで、バスの中で爆睡予定だった私は、寝るに寝られない。

 道路では、積雪量が増えてきているため、ドライバーらがクルマから降りてチェーンを巻きつけ始める。そんな中、スタッドレスタイヤを履かせた我がバスは、たんたんと走りつづける。

 ヒトヤマ越えると、小さな集落・・・・の繰り返し。地元の人は、こんな雪当たり前とばかりに、薄着で歩いている。観光バスを見て、手を振る子供達もいる。洗濯物もガンガン外に干している。

 そして、トイレ休憩で、サービスエリアに20分。さぞかし中は暖かろうと、皆で飛び込むが、なんと暖房なし。これは作戦か?!?!?!。中も外も寒いので、今回ばかりは値段交渉するまでもなく、気がついたら“暖かい飲み物”をどんどん注文するフランス人たち。ということで、今回はトルコ人の勝ち。

 その後また2時間ほどバスに揺られて、ようやくアフロディシアスに到着。幸いなことに、ここは積雪がない。それにようやく晴れたようで、非常に寒いが、気持ちがいい。自然の中に広がる遺跡にしばし見とれる。

 昼食は、相変わらずのバイキング形式。なので、ついつい食べ過ぎてしまう。その後、再び膨れた腹をパスに揺さぶられながら、夕方、パムッカレに到着。写真などで、何度もみた例の石灰棚は、以前立てられたここに建設された数件のホテルが水をたくさんくみ上げてしまったおかげで、干上がってしまって、白というよりは、すこし茶色になってきてしまっていた。

 また、以前のように石灰棚に自由に入場でるわけでもなく、観光客の限られたスペースが与えられているだけ。しかし、景観は美しい。気温に対して、湯の温度は決して高くなく、日本の暑い温泉温度になれている身にとっては、こんなぬるま湯に、靴脱いで足を入れる勇気はなし。

 ところが、ほとんどの観光客は、どんどん靴を脱ぎ、石灰棚に入っていく。夫もしかり。エライ・・・・。私は、いまじゃ遺跡となった、元ホテル跡を歩いて、いろいろな角度から石灰棚の風景を眺めていた。そして、日没。観光も終わり、ホテルに向かう。

 温泉プールがあるというので、夕食をそそくさと終え、さっそく水着に着替える。が、やはり、ここもぬるま湯。さむーーーーーーーーーーーい。水も妙なにごり方をしていて、どうも清潔とは思えない。だから、思いっきり泳ぐ気にもならず、かといって、すぐ出られる温度でもなく、ただ固まって、プールの中に浸かっていた。

 その後ロビーのラウンジを見ると、なにやら盛り上がっている。たくさんのドイツ人客らが、割増金を出して、ベリーダンサーを呼び寄せた模様。ソファーはすべてドイツ人客が座り、ビール、ワインなど、たくさんさん注文して、すっかりいい気分になっている。

 金を出したのは、ドイツ人。でも、金を出さないでもベリーダンサーの踊りを見たいフランス人。そんなわけで、ロビーの隅っこで、何も注文せず、突っ立ったままコッソリ、この余興のおこぼれをもらおうとしているフランス人。
そんな姿を見ていると、恐らくドイツ軍占領下の頃の、フランス人ってのはこうだったのか?!?!?!、等と思えてニタニタ笑いが止まらない私。

 そこに、ちょっと太めのベリーダンサー登場。日本でいえば、場末スナックのチーママみたいなタイプが、赤いセクシーな衣装を纏い、腰をフリフリ。おまけに、おっぱいもブルンブルンさせる。男性観光客の視線の行方だけを、興味津々に観察する私。なかなか笑える。

 わしらも、ラウンジの隅で立ったままショーを見て、その後咽が乾いたので、近所の商店へビールを買いに行き(もちろん値段交渉あり)、部屋で一杯やったあと、早々と就寝。

 明日はまた5時起きだ・・・・・・・・・・・。


2004年02月17日(火) トルコ旅行パート2

 昨夜のこともあり、浅い眠りのまま、起床時間を迎える。朝食をとるために食堂へ足を運ぶが、どうやら昨日のことを知っている観光客は、私たちだけのようだった。

 恐らく、ホテル到着もすでに遅かったし、わしら以外の観光客は、外へ出かけもせずさっさと寝てしまったようで、皆すっきりとした顔で朝食を取っているのが印象に残る。

 食堂で、昨日のガイドとすれ違ったので、さっそくその後を尋ねてみた。彼はあの後、死体安置所まで行き、そのあと家族と話したりしているうちに、すでに午前5時過ぎになってしまったらしい。そんなわけで、疲れきっていた。とはいえ、本日からの観光の運転手はちゃんと手配できたようで、スケジュール変更はないとのこと。

 ここでふと思った。この事件を知っているのは私たちだけ。旅行会社としては、このことを客に情報開示するのだろうか?。それとも何事もなかったように事を進めていくのか?。いずれにせよ、どうやって彼らが動くのか、個人的に興味を持ったので、とりあえず相手側の出方をみてみようと思った。

 定刻通り出発したバスは、私たちをアンタリア市内の観光地へ運ぶ。あいにくの小雨の中、港町を散策。ここの外国観光客の大半を占めるのがドイツ人だけあって、ほとんどのトルコ人商人は流暢にドイツ語を話す。英語の普及率は以外に低い。ゆえに、フランス人で英語も満足に話せない観光客は、すでに値段交渉に四苦八苦している模様。

 その後、市内を離れて、とある自然公園へ。雨が降り注ぐ公園での自然鑑賞はなかなか乙なもの(涙)。これが滝です、と言われても、すでに滝に打たれながら観光しているようなものなのだから・・・・。

 ランチは公園近くの、団体観光客専用ともいえるレストランにて。まだツアーのはじめだけあって、みな適当に隣り合わせた人とは話すものの、なんかぎこちない会話が続く。我が夫でさへ妙にぎこちないのが、少し笑えた。

 このツアーは1日3食がついてくる。しかし、各テーブルでの飲み物代は別。そこでなんとか飲み物代で稼ごうとするトルコ人側と、出来る限り金を払わないで楽しもうとするフランス人側の攻防戦がはじまる。それでもフランス人の大半は水を注文するが、それ以上高くなるアルコール飲料などは、多くの人が注文しない。

 それに対して、たまたま一緒になったドイツ人グループのテーブルの上には、たくさんのビール瓶だのワインだのが並んでいる。見事な対極。トルコ人商人にとっては、どちらが“いい客”かは歴然たるもの。

 また、多くのドイツ人は値切りもせず、トルコ人側がユーロで高めに設定した値段に応じるが、フランス人はそれに抵抗する。一度ユーロで値段を言わせて、そのあとトルコリラでも値段を聞き出し、今度は電卓を取り出して差額を計算。それでも、不服だと、レートのことなど色々と持ち出したりと、とにかくたったコーヒー一杯でもなかなか金を払おうとしない。

 テーブルで水さえ注文したくないフランス人らは、あらかじめマイボトルを持参して、ウエイターの目が届かないところで、自分のグラスに注いで飲んでいる始末。

 笑える。

 これらの光景をみていると、あらためて日本人観光客がいかに“払いっぷり”がいいか・・・・、ということを痛感。こりゃあ、あらゆる観光地の商人からラブコールが来るわけだな、と。と同時に、あらゆる観光地においてフランス人のことを嫌う人が多い理由もおのずとわかる、というわけだ。

 食後は、アスペンドスの野外劇場見学。2世紀に、マルクス・アウレリウス帝時代に建設されたという、収容人数2万人を誇るこの野外劇場は、ファサードやその他、付属物の建築などがほぼ完全なカタチで残っている。雨にも負けず、観客席を駆け上り、頂上からあらためてその全景を見渡してみたが、なかなかのものだった。今でも、ここで数々のコンサートが開催されているらしいが、是非一度試してみたいものだ。

 その後は、観光客向けのアンタリアのバザールへ。ほとんどの値段がユーロで表示されており、それだけでも充分観光客向け。おまけに高い。モノによっては、パリ18区のバルベスあたりのほうが、断然安い。あらゆる商人が観光客の気をひこうとして、あらゆる言語で話し掛けてくる。イスタンブールと比較すれば、まだまだおとなしいのだろうが・・・。

 とにかく、商人らはこの観光客がどの国から来たか?、ということをまず推測したいわけだ。ドイツ人だったら嬉しいが、フランス人だったら“貧乏くじ”。夫と私はロシア人のような毛皮の帽子をかぶっていたこともあり、なんどかロシア語で挨拶される始末。ロシアなら、アジア系が混ざっていてもおかしくない、という発想なのだろう。

 最後には、どこかの商人は、私たちのことをカザフスタンの人間だと完全に勘違いしていたのには、妙に笑えた。あとで、夫がフランス人で、私が日本人だと白状しても、決して信じてくれなかったほど。

 いずれにせよ、このバザールもドイツ人観光客の懐具合にあわせて作られたものゆえ、何も買いたいものはなし。とりあえず、雰囲気を楽しませてもらった。そして、バザール裏で発見した地元人用のスーパーマーケットにて、今晩の水とワインを購入。スーパーなら、きちんと値段が良心的に定められているので安心して買い物ができる、というわけだ。

 午後6時にホテルに到着したものの、まだ夕食まで時間があったので、部屋にも戻らずそのまま再び街中へ徒歩で進出。ワインは購入したものの、栓抜きをパリに忘れてきたので、それを探しながら、街を彷徨った。ところが、信じられないことに、栓抜きがどこにも売ってない・・・・・・。

 あらゆる店で、時には英語、ドイツ語(←夫の役目、わたしゃドイツ語なんぞできましぇん)などを駆使して、それでも商人がこれらの言語を理解しない時には、ワインの栓を抜くジェスチャーをしながら一軒一軒の店をまわったが、ないのだ、これがっ!!。

 諦めかけたところで、一軒の酒屋を発見。店主に尋ねると、ここでも栓抜きは売ってないという。あと少しで赤ワインが咽元を心地よく通ることばかりを夢見てきた私は、愕然とする。が、なんと優しいことに、店主はこの店でわしらがワインを購入したわけでもないのに、それを自分の栓抜きで開けてあげようと進言してきた。

 そして、彼が取り出した栓抜きを見ると、なんと壊れている。グルグルとまわす部分がぶっ飛んでいるのだ。一抹の不安がよぎるが、とりあえず彼を見守ってみた。すると、彼はペンチを取り出し、栓抜きをそれではさみ、てこの原理でそれを機用にクルクルとまわしはじめ、見事にコルクを抜き取ってくれたっ!!。

 救われた。

 彼の店では、ビールを数本購入。一安心。

 ホテルに戻り、部屋でアペリティフ代わりにこの赤ワインで咽を潤し、相変わらずテーブルでは一切の飲料水を注文しなかった。


 さて、例の運転手の件だが、午後、バスの中でガイド自らが、事情を説明した。運転手は数日前から身体の調子があまりよくなかったようだった。おまけに例年にない寒波。そんな中、32人分のスーツケースなどを、身をかがめて出し入れしていて、一挙に心臓発作が彼を襲ったらしい。

 昨日の日記にも書いたが、私がホテルを出て散歩にでかけるときに見た運転手は、トランクの部分に、まるでロダンの彫刻の“考える人”のようなポーズで座っていたのだが、ホテルの従業員なども同じ姿勢の彼を目撃していた模様。ただ、皆、私と同じように、彼は一休みしているものだと思い、最初のうちはあまり気を払わなかったらしい。

 が、さすがに30分以上も同じ姿勢で座りつづける運転手を見て、ホテルの従業員の一人が声を彼にかけてみたところ、応答無し・・・・。そこで慌てて救急車を呼んでみたものの、彼はすでにこの世の人ではなかった・・・・、というわけだ。

 いつも元気だった大黒柱を突然失ってしまった家族は、霊安室で“信じられないっ”と、泣き叫んでいたらしい・・・・・。また、彼と長年仕事をしてきたガイドも、未だに心理的ショックから立ち直れないともらしていた・・・。

 
 私が最後に彼を見たとき、まだ息をしていたのだろうか?!?!?!。

 運転手、享年54歳。
 ご冥福をお祈り申し上げまする。


2004年02月16日(月) トルコ旅行パート1

 本日は、トルコへの出発日。とはいえ、格安チャーター便なので、変な時刻に出発する。空港は午後18時に集合。計算すると、アンタリアのホテルには午前零時過ぎに到着になる。そう・・・・、これだけで旅行の第一日目は終わってしまうのだ。

 いつもの私だったら、“旅行会社のヤロウなめやがってっ!!”とキレるのだろうが、遅い出発のおかげで、前から出席したかった会合に顔を出す時間ができ、大喜び。旅行の準備も全部終わってないのに、早起きしてM嬢のお宅へ。そこには6人の在仏日本人マダムらが集合。そのあと、日本食レストランで皆で食事。非常に楽しかった。

 だが時計を見るとすでに午後3時を過ぎようとしていたので、慌てて家に戻り、最後の荷造り。なぜ、最後の最後にならないと準備ができないのか?、と我ながら不思議に思う。

 空港に到着し、航空券をゲットすると同時にチェックイン。スーツケースも渡してしまって身軽になったわしらは、同じ便に乗り込む人々の顔を眺める・・・・。誰が、一緒のツアーになるのか?!?!?!。

 格安チャーター便には、在仏トルコ人が里帰りに利用しているらしく、待合室には、格安旅行を楽しみたい旅行者連中と、里帰り組みのトルコ人の二つのグループに自然と分かれて座っているところが面白かった。

 機内食は、マズかった。予想通り、アルコール飲料は有料(涙)。学校が休みの時期だけあって、子供らが機内を走り回る・・・・・、スチュワーデスの呼び出しボタンを延々と押し続けるガキ・・・・。完全無法地帯になっているのが、なんともたまらん。

 暇つぶしに、機内DUTYFREEカタログを見ていると、なんとマルボロライトロング・1カートンが15ユーロで販売されていることを発見。現在、フランスではこれは1箱、5、10ユーロで販売されているゆえ、どのくらい私が驚いたか、想像していただきたい。もちろん、即購入。そんな私を横目に、“ニコチン中毒”とイヤミを言う夫(←嫌煙者)。

 ま、それでもたかが3時間の空の旅。あっという間に小雨の降るアンタリアに到着。羊の群れのように、空港を出て、自分の乗り込むバスであろうところまでフラフラと進む。駐車場には何台もの観光バスが止まっていたが、どうやらわしらのバスは黄色のものらしい。

 スーツケースをバスの運転手に渡すと、小柄な彼はトランクに身をかがめるようにしてそれを入れる。幸いなことに、トルコ語でありがとうは、フランス語と同じでメルシー。なので、すっと感謝の言葉を口から出すことができるのがありがたい。

 バスに乗り込み、そうっと周りの人を眺めてみる。ふうーん、これが今回の旅行の仲間となる人たちなのか・・・・、と。定年退職組は、どうやらいないようだ。ま、彼らは金も時間もあるから、わざわざこんな時期(学校が休みの期間ゆえ、旅行へでかけようと企むフランス人が多い時期ともいえる)を選んで、格安ツアーに参加するはずもない、というわけだ。

 空港からホテルに移動する間に、トルコ人ガイドから簡単な挨拶と説明があった。そして、“質問は?”とガイドが問うてきたので、すぐさま手を挙げて、気温と天候について質問。この問いに対して、ガイドは、

「自分も同じ飛行機でパリからアンタリアに到着したばかり。だから、トルコの気候についてはわかりません。ま、最悪大雪になってバスが立ち往生となってしまったら、その時は当社がなんとかしますから安心してください」

と答えてきた・・・・。この答えを聞いた瞬間、もうどうでもいいや・・・、と思えてきた。とにかく運を天にまかせるしかないな・・・、と。

 ホテルに到着したのが午前0時過ぎ。ついさっきトランクに入れたばかりの荷物をまた丁寧に一つ一つ取り出してくれる運転手。いやあ、こういう仕事も大変だな・・、と思いつつ、自分のスーツケースを見つけるや否や、ホテルのロビーへ入る。その後、与えられた部屋へ入り、適当にくつろいだあと、このまますぐに寝るには惜しいので、どこかフラフラと散歩してみることにした。

 ホテルを出ると、そのまん前に停車してあるバスのドアや、トランクがまだ開いたままになっているのに気付いた。そして、トランクのところにもう一度目をやると、そこに腰をかけるようにして、下を向いて休んでいる運転手の姿を発見。ああ、やっぱりこういう荷物の上げ下ろしは疲れるんだな・・・・、とつくづく思った。

 そんな彼を横目に、静まり返った街中を適当に散歩。遠くに灯りを見つけたのでその方向へ進んでみると、小さな商店が一軒、まだ営業していた。ユーロしか持ち合わせてない私たちだったが、なんとか交渉してユーロで買い物をさせてもらい、おつりとしてトルコリラをもらうことにした。

 やたら“00000”とゼロの多いトルコ紙幣ゆえ、トルコに到着したばかりの観光客は皆一度は混乱する。おまけに、心のどこかに“ぼられるんじゃ?!?!”という不安もあるので、よけい混乱する。が、店主は私たちがまるで知恵遅れのように、何度も何度も計算して、金を数える作業を、私たちが納得するまでやらせてくれた(笑)。

 現地人との最初のコンタクトもうまく行き、ビールもゲットして気分がよくなった私たちはホテルに戻ることにした。そしてホテルに近づくと、そこには何人もの警官と、救急車らしきものが止まっていることに気付く。

 いつものようにヤジウマなわしらは、小走りにそこへ近寄る。救急車の周りにいる人間の顔を見渡すと、わしらのガイドの顔を発見。すかさず彼に状況を尋ねてみることにした。

ガイド「運転手に問題が起こったんです」

わしら「運転手が、なんか悪いことでもしたんですか?」

ガイド「いや、そうじゃなくて、病気になったんです」

わしら「なるほど・・・」


そして、数秒の沈黙のあと、彼は次のように言った。

ガイド「で、病気になって、今、亡くなりました....」


 
運転手が死んじゃった?!?!?!?!?!。
ひえーーーーっ。
ってことは、さっき見た運転手の姿は、なんだったのだ?!?!?!。
もしかして、死ぬ直前だったのか?!?!?!。
それともすでに具合が悪くて、座り込んでいたのか?!?!?!。
あの時、運転手に声をかけていれば彼は助かったのか?!?!?!。

わからん、わからん、わからん・・・・・・・。


 上記のことを矢継ぎ早にガイドに質問。彼もほとんど状況が読めてないので、答えることさえできない。ただひとつ、運転手は心臓発作でアッという間に亡くなってしまった、という事実。救急車の中を見ると、救急隊員がまだ心臓マッサージを続けている。

 私はあえて運転手の顔をみないようにしたけれど、夫はバッチリ見てしまったらしい。夫曰く、彼の顔は“真っ白”だったとのこと。

 冬でも比較的暖かいアンタリア。が、ここ数日めっきり冷え込んできているアンタリアで、深夜に荷物の上げ下ろしをして、どうやら心臓に多大な負担がかかってしまったとの推測・・・・・。

 その荷物ってのが・・・・、私たちのものなわけであり・・・・・。どこかで彼の死に遠隔的にでも加担したような、形容し難い罪悪感を払拭しきれないわしら。ガイドも冷静を保っているものの、実はかなり混乱しているのがよくわかる。

 明日からの観光はどうする?。
 もし、これが運転中のことだったら?。
 

 また、あらたにいろいろな疑問が湧いてくる。


 とりあえず、ホテルの部屋に戻ったものの、まだ興奮している私たち。それと同時に、こんなに簡単に人というものが、ポックリと死んでしまうという現実に直面して、奇妙な感覚がまとわりつく。深夜に一家の大黒柱の突然の訃報を聞いた家族は、さぞかし辛かろう・・・・・。



 夫と色々と話をしているうちに、もう午前3時過ぎ。明日の出発時間は午前9時半。ああ、ツライ。


2004年02月14日(土) 魚の骨

 夜8時頃、軽く自宅で夕食を取ってから、11頃から盛り上がりを見せるだろうパーティーへ行くために、準備していた。

 私は、干物とごはん、それに味噌汁。夫には、昼の残りのシュークルートを出して、つつがなく夕食が済まされるはずだった・・・・・。

 以前、私の人生ではじめて作った干物を見事に夫に食われてしまった経験をして以来、自分だけで干物を食べることにした私。それに、干物とごはんだけじゃ、どうせ燃料切れになる夫には、シュークルートを山ほど食べてもらったほうが効率がいい。

 が、いい気になって私は干物をガツガツ食べていた。

 すると・・・・・、咽に違和感・・・・・。

 ?????

 ま、たいしたことないや、と思い、また干物を食べつづける私。が、まだ咽に違和感・・・・・。なんだ、なんだ?!?!?!。


 そのうち、じわじわと咽が痛くなってきた・・・・。どうやらアジの干物の骨が咽の奥に刺さってしまったようだ・・・・(涙)。

 夫にはこのことを言いたくない。だから、何気ないふりして、骨がとれそうなこと、つまりはご飯丸呑みとか、顔色変えずに何度もトライしてみたが、まだ痛い・・・・・。

 さすがに、私が神妙になって、ごはんばかりを食べている姿を不思議に思ったのか、夫が“どうしたの?と尋ねてきた。そして、不覚にも素直に、“骨が・・・・・っ”と話すと、口元を片方だけあげて、二ンマリとする夫。

 ご飯を丸呑みしろだとか、フランスだとこんな時、パンを丸呑みするのだっ!!、などと彼は言い出し、炭水化物ばかりをテーブルに並べ始める・・・。が、もう夕食が終わりかけの頃ゆえ、おなか一杯・・・・。

 食えん・・・・・・・・・。

 と同時に、もし骨がこのままとれなかったら?!?!?、などと“骨が咽に突き刺さったままの今後の人生”などを想像している私。特に、月曜日からはトルコ旅行。旅行中に、咽がどんどん痛くなって、現地の病院でアホみたいに大口開けて、オエっ、オエっと涙流しながら、医者に骨を抜かれている自分の姿を想像すると、悲しくなってくる。

 36年間の私の人生の中で、生まれてはじめての経験。なんで、日本でも数えきれぬほどに魚を食べて生活して、一度も起こらなかったことが、旅行やパーティーの直前、それもフランスで発生しなきゃならんのだ?!?!?!、と怒りさえ沸いてくる。

 妙に情けない顔をしつづける私を見ながら、夫が申し訳なさそうに、とはいえ、堪えきれぬ笑いを押し隠しているのがわかる・・・・・。くそうっ。干物を一人占めにしたツケか?!?!?。

 夫がレンヌにいる外科医のいとこに電話。状況をとりあえず、夫が話し、続いて、私からもどのように痛いのか?などと説明。彼曰く、明日まで痛みが続いたら、夕方にでも病院へ行って、骨を抜いてもらうように、とのことだった。とにかく、様子をみること、とはいえ、別に神経質にならないように、とも言われた。

 電話のあと、そうか・・・・、わかった。もう考えないことにしようっ!!、と心に決め、出かける準備をしはじめた。シャワーを浴び、念入りに身支度することだけに集中しているうちに、すっかり骨の存在を忘れることができた。

 そして、気がついたら、咽の痛みおろか、違和感すらも本当に消え去ってしまったいた。どうやら、私は救われたようだ・・・・・。


2004年02月11日(水) 格安

 どこかへ旅行したいと思い立って早一ヶ月が経過。このままだと旅行したい、旅行したいと思いつつ、月日が経ちそうだったので、いそいでネットで検索。格安ツアーをみつけたので、申し込みをした。


 それは、トルコ・・・・・・。2月16日〜23日のものだ。


非常に格安。
信じられないほど格安。
格安、大好き。
中央アナトリアのメイン観光地を格安で巡る。
何も下調べなく、格安で全部やってもらえる。
格安で三ツ星ホテル。


 と調子のいいことばかり考えて、すっかり予約した私たち。で、予約し終わった後に、ふと現実的になり、色々と調べてみたら・・・・。


 1998年2月にイスタンブールにいた私。確かにあの時は結構寒かった。でも耐えられた。が、中央アナトリアは、もっと寒いということにあらためて気づいてしまった。

 夫に「なんで、格安だと思う?」と尋ねてみたが、やっぱり彼のアタマも格安&お気楽モード全快になっているので、的を得た回答を得られなかった。

 ネットで、色々と各地の気温を検索すると、寒い、寒い、寒い・・・・・。それは氷点下の世界。2月の初めに建て付けの悪いマンションが倒壊してしまったトルコの都市・コンヤは、非常に寒い。わしらのホテルも倒壊するのか?!?!?!。寒さの中で、どうやって耐えられのか?。

 事実を夫に話すと、夫も“ひんやり”とした苦しい笑顔で無言。


 ま、申し込んでしまった後なので、とりあえず来週は極寒のトルコをあえてエンジョイすることに決めたゼロでした。

 


2004年02月10日(火) スケベジジイ

 2年ぶりにPの家へ、ランチに出かける。1998年5月にPと知り合い、なぜか彼が私を気に入ってくれ、その後1ヶ月ほど彼の家をホテル代わりに、住まわせてもらっていた。その時は、まだ私は旅行者という身分。

 ちなみに彼の家は16区の4階建ての一軒家。そのうちの3階部分を無料で私に貸してくれていた。キッチン、トイレ、シャワーも私用に独立していて、非常に快適だった。当時、4階に住んでいた、チェチェン出身の美女は、その後某有名デザイナーの愛人に収まり、現在はパリ市内の一等地に彼女のブティック(アクセサリー)までオープンさせている。

 で、この家に住みながら、パリの街をブラブラしているうちに、私は夫に出会ったのだった。

 Pの家に住んでいる間、そこに出入りするPの友人らともだんだん仲良くなっていった。しかし、その当時の私は、英語がやっとなんとか話せるレベルで、フランス語なんか、もう完全にアウト状態。非常にコミュニケーションに時間を要したものだった。

 さて、久しぶりにPの家に入ると、当時のことが色々と蘇ってくる。懐かしい。もう少しで6年前のことになろうとしているのに、だ。Pと昨今の話がはずみ、一通りランチを終えた後、Pが突然、当時の私を知っているPの2人の友人に電話をしてみよう、と提案してきた。

 Pの友人Tは、電話するとすぐに会社を抜け出してPの家にやってきてくれた。そして、もう一人のPの友人PSへ、Pが電話をかけはじめる。PがPSにかけた電話がつながる寸前に、Pのイタズラ心がムクムクと沸き起こってきたのか、私にPをちょっとからかってやれ、と言ってくる。よーし、ガッテンだ、とばかりに、即座にPをからかう体勢に入る私。

PS「もしもし」

私「あ、PSさんですか?。」

PS「そうです、あなたはどちら様ですか?」

私「私はアケミと申します。以前どこかでPSさんと出会ったのですが、その時PSさんは、私に電話番号をくださいました。」

PS「どこですか?。」

私「うーーん、どうしてもそれが思い出せないのです。でも、PSさんが非常に魅力的な紳士であったことだけは、はっきりと覚えております。じゃなかったら、たまたまみつけた電話番号を見て、恥を偲んでまでPSさんにお電話を差し上げたい・・・・、なんて思いませんわ」

PS「なんか思い出してきたような気がします、アケミさんとの出会いを・・」

私「そうですか、本当に嬉しいですわ・・・。でも、まだ私の顔を思い出されておいでではないのでしょ?。なんて、寂しいこと・・・・」

PS「いや、きっと美しい人だったと思います」


 実はこの会話、スピーカーフォンでやっている。ゆえに、しゃあしゃあとでっち上げを話し続ける私と、なんとかして、嘘でもなんでもいいから、コンタクトを未知の女性と取り続けようとするPSのやり取りに、PとTは声を抑えながら、腹を抱えて笑っている。


私「思い出していただけないのは、非常に残念ですけれど・・・・」

PS「いやあ、是非もう一度アケミさんにお会いしたいものだ。アケミさん、お時間があったら、カフェかどこかで再会できませんかね?。」

私「まあ、素敵。もう一度、PSさんのお姿を拝めるのでしたらっ!!」


 ここまでやってきて、とうとう私もPとTの笑いにつられてしまってアウト。急いで受話器をPに渡して、あとは、彼に説明してもらった。PSは狐につままれたようだったが、とはいえ、最後には、あの当時のゼロが今じゃフランス語でこうやって人をかつぐまでに成長したことを喜んでくれた。

 それにしても、スケベジジイの心理というものをあらためて知ったような気がして、妙におもしろかった。


2004年02月09日(月) 突然のこと

今や家族の一員のように仲良くしている中国人女性J42歳。パリ在住暦は今年で15年になろうとしている。

 本日は、妙にJに電話しなきゃいけないような気がしていた。が、タイミングを逃し、“ま、いいや夜になったらJに電話しよう・・・”等と考えて用事を済ますことを優先していた。とはいえ、Jのことが気にかかる。

 夜8時過ぎに夫が帰宅。夫も妙にJのことが気にかかったらしく、すでに会社からJに電話したとのこと。すると、Jが電話口で泣いていたそうだ。

 電話した相手が泣いていれば、もちろん“どうしたの?”という言葉をかけたくなるのが常。で、定例どおり夫がJに尋ねると、夫の電話の数分前に中国に住んでいるJの兄から“母の死”を伝えられたところだったらしい。

 Jは、社員食堂でたらふくランチを取り、カフェテリアで一服しているところに、突然飛び込んだ実母の訃報。彼女は、そこで泣き叫んでしまったそうだ・・・・。

 彼女の母は、中国で一人暮らし。持病があったわけでもなく、文字通りの突然死、享年65歳。

 Jには、弟と姉がいるのだが、実母の近所に住んでいる姉が3日おきぐらいにいつも母の様子を見に行っていた。ずいぶん前に離婚してしまっていたJの両親。父のほうはすでに再婚。離婚後、Jの母はずうっと一人暮らし。わずかな生活費で、ちいさな家に住み、細々と現在まで暮らしていた。

 そんな母を気遣って、Jの姉が最近大きなマンションを購入。そこには母のスペースも用意されていた。そして、Jはフランスからまとまった資金を姉に渡し、“さあ、これから親孝行をしよう・・・・”という矢先のことだった。そして、この件でいつものようにJの姉が母のところへ立ち寄ると、そこには冷たくなった彼女がいた・・・・、というわけだ。

 また、Jは仕事で2月5日に本当は中国へ戻る予定だった。ところがこの仕事の企画が少し延長になり、2月の下旬に変更になったところでもあった。

 この訃報を突然知った私は、すぐにJの携帯に電話。Jはしきりに

「ママは、私の帰りを待ってくれなかったわ・・・」

「昨日電話した時は、元気だったのに・・・」

「今日の朝、ママにもう一度電話しようと思ってたけれど、仕事が入っちゃって昼過ぎに電話しようと思ってたのに・・・」

「朝だったら、ママはまだ生きていたかもしれないのに・・・」

等の言葉を涙声で繰り返す。私のほうも、ウルウルしてくる。

「でも、苦しまないで亡くなっただけでも・・・」と言うのがやっとな私。


 夫も同じ国に自分の母が住んでいるとはいえ、でも仕事だのなんだので毎日彼女に会うことはできない状況ゆえ、妙に神妙になって私たちの会話を聞いている。

 午後11時過ぎに、フラッとJが我が家にやってきた。さぞかし母の死のショックで落ち込んでいるだろうと思っていたら、そうでもなかった。

 先週別れたばかりの彼に、このニュースを知らせると、そっけない態度で“ご愁傷様でした”とだけ言われたことに対して、非常に怒っている。“こんなにアタマがカラっぽなヤロウと別れて、やっぱり正解だった!!”などと息巻いてもいる。

 そんなわけで、午前1時まで、オトコとオンナの違いからくる“カップルの溝”について、えんえんと議論してしまった。また、こういった内容の本が何冊かあったので、明日北京へ行く飛行機の中での暇つぶしにと、その中の一冊をJに貸す。

 その本を明日、北京行きの飛行機の中で読みながら暇つぶしをするらしい。そして、葬式でもし実父の姿をみたら、ぶん殴ってやると息巻いて、彼女は家路についた。



 親の死は、いつかはくるもの。私が彼女の立場になったとき、意外にも別のことで怒ってたりするのだろうか?!?!?!、と自問自答した。それとも、太陽がまぶしいという理由で、誰かを殺しちゃったりして?!?!?!。
 


2004年02月07日(土) 神父、登場!!

 昨晩は、久々の仮装パーティーだった。今回、夫は念願かなって、本物の神父用のシャツをゲット。私はそれに対して、いちおう聖職者を惑わす“悪魔”な格好で出席。

 2000年末にあった、パリ郊外の城を借り切っての盛大な仮装パーティーの時には、わざわざヴェルサイユ宮殿内の衣装部に勤務する友人に頼んで、映画や舞台などで実際に使用される衣装を着込んで出陣。夫はルイ14世もどき、私は妙な伯爵夫人だった。

 この時は、さんざん楽しんで朝の6時頃自宅に到着した私たち。さっさと家に入って、くそ重い衣装を脱ぎ捨てようと鍵を開けようとするが、開かないっ!!。何度も、何度もトライするが、アウト・・・・・。パーティーで楽しんでいる間に泥棒未遂にあったようで、鍵が変形してしまっていて、ゴージャスな格好のまま、締め出されてしまったわしらは、そのいでたちのまま、近所の警察へ出向いた。

 警官らは、わしらの格好をみて、爆笑してしまって、全然私たちの苦境を聞いてくれない・・・・・(涙)。なんとか、事情を指定の用紙に書き込もうとする警官の手が笑いで震えている。早朝出勤してきた警官らは、その衝撃で目が覚めたと発言。

 特に、夫は当時のバッハのようなヅラをかぶってたので、私でも笑えた。警官らは、“よう、モンテスキューっ!!”とか、トイレの場所をたずねた夫に対して、“陛下、ギロチンは階段の左脇です”とか、完全に笑いのネタにされてしまう夫。

 ま、こんなこともあったが、今回は小規模なパーティーゆえ、もし帰宅して家へ入れなくとも、神父の格好だったら、警察側の対応もおのずと違ってくることだろうと安心して出かけていった。

 そして、家にも無事に戻れ、休息をとり、土曜日の夕方から友人画家Cの展覧会オープニングパーティーへ。ところで、Cは、強烈なキリスト教信者。なぜ、強烈か?、といえば、彼にはマリア様が見えるレベルだから。彼曰く、マリア様ってのは、どこにでも現れてくるらしい。

 何度もこんな話を聞いている私だが、どうしても信じられない。バリバリのカトリックとして人に説教して止まない姑でも、彼の度を越えた信仰には、疑いの目を向けるほど。

 そんな彼のパーティーに、私は夫に、昨日使用した神父の格好で出かけてみることを提案。おだてると、アッというまに木に登ってしまう夫は、すぐに喜んで神父の格好に変身。こうして、二人で出かけていった。

 笑えることに、夫は神父の格好が非常によく似合う。まるでドイツ占領下のフランスの田舎でバゲット脇のしたにはさみながら、レジスタンスをかくまっていたような神父に変身してしまう。おまけに、どこかで拾ってきたベレー帽があったので、それを夫のアタマの上にのせてみたのだが、これが非常にはまる。時には、私の目には“大久保清”にさえ見えるから、不思議だ。

 さて、会場についてコートを密かに脱ぎ、Cのところに歩みよる夫。その瞬間、Cの目が点になったと同時に、彼はもんどりうって笑い出した。

C「フランスはどんどん聖職者の数が減ってきている。だから、インチキでもなんでも、こうやって聖職者の格好して、カトリックの宣伝やってくれぇっ!!」と夫を激励していた。

 Cは、それでも夫の古くからの友人ゆえ、インチキだとすぐわかったものの、他の人の対応はまったく違っていた。驚いたことに、大多数の人間が、夫のことを本当の神父だと信じていたのだっ!!。画廊のオーナーは夫に向かい、“最近教会へ行く時間がなかったから、ここで懺悔してもいいですか?。”と真顔で問いはじめる始末。この願いを聞いた瞬間、飲んでいたワインが逆流しそうになった私・・・・。

 幼少期から青年期にかけて、神父に教育を受けてきた夫だけあり、ラテン語で祈りをささげることから、聖歌を歌うこと、懺悔の仕方など、全部完璧にできてしまうから、最悪だ。

 そんなわけで、画廊オーナーはまだ夫のことを神父だと思って、懺悔を続けている。ちょっと離れたところに陣取る私の耳は当然ダンボ状態。

 オーナーには、現在3人の恋人がいるそうだ。これに対して、個人的には対して罪悪感はないが、神父様、どうしたらいいんでしょう?、ということを散々話していた。そして、夫は、これに対して、“なんじが、これに対して罪悪感を感じないのであれば、どんどん続けなさい”と煽る。

 最後には、夫は、インチキ神父であることを暴露。一同で大爆笑になった。その場に同じくいた、友人のMは、最近熱をあげていた彼に振られて鬱になっていたが、この件で思いもかけず爆笑ができたとのことで、すっかり回復したと、夫に感謝していた。

 こんな夫でも、たまには人の役にたつことがあるのだ・・・・・・、と妙にビックリしたゼロでした。

 ちなみみ、あとで、この話を姑にすると、かんかんになって怒り狂い、“宗教を冒涜するなーーーーっ”と電話口で、怒られていた夫だった。
 


2004年02月05日(木) レスリング

  午後9時に友人宅でのホームパーティーに出席。そこには、なぜかゲイのスチュワートが二人。JMはすでに定年を迎えており、もうひとりのRは現役だ。客にいいオトコがいた場合のアプローチの仕方などを根掘り葉掘り教えてもらって、大満足。

 Rは、1996年に最愛の夫を病で失って以来、ずうっとパリ郊外で一人暮らしをしていた。しかし、いい加減ひきこもって暮らしているのに嫌気が差したらしく、最近パリに大きなアパルトマンを購入して引越し。久しぶりにみる彼の顔は、以前より大分明るくなっていた。

「これで、いつでもいいオトコを家に呼んでこられるね」と言うと、彼は満面の笑みで、ウイと答えた。

 午前12時過ぎまで、このパーティーでさんざん楽しんだ挙句、その後、もうひとつのパーティーへ梯子。が、主催者のE宅へ入ると、3人しかいない。非常にしらけてしまったが、せっかく来たのだから楽しもうと、ギアチェンジ。

 友人Jは26歳。非常にかわいい女性だが、今週の土曜日にはボクシングの試合に出るため、現在トレーニングに励んでいるとのこと。そんな話に即座に反応する私たち。

 夫は、そこで柔道などの基本的なポジションを教え出し、私はそのアシスタントになって、パーティーが武道教室に早代わり。最後には3人でトレパンに着替えてしまって、延々と絨毯の上でレスリングが繰り広げられた。

 もう、ここ数年、夫から柔道を教わっている私。一度も勝ったことがないのが、猛烈にくやしい私であるが、生まれてはじめて、夫以外の相手、つまりはこの友人Jと取っ組み合いをやってみて、見事に勝利。彼女は一度も私のことをブロックできなかった。

 これを観ていたJの彼であるMが今度は夫に戦いを挑む。彼は19歳で、やはりいろいろと身体を鍛えているので手ごわいはず・・・・・、と思いきや、やっぱり夫に取り押さえられてしまった。

 へーーえ、オヤジなのに、若者を取り押さえてるぅっ・・・・、と妙にビックリ。逆に、これだから今まで一度も夫に勝てなかったのか・・・、と妙に納得。

 とにかく、柔道と太極拳をやり、相手の力を利用していくテクニックに非常に長けている夫相手に、負けつづけながらも、どこか身体に染み付いている“日本人魂=武道”の血が騒ぐのか?!?!?!。とにかく、J相手に初勝利したのは、非常に嬉しかった。

 明け方家に戻り、シャワーを浴びると、身体のあちこちが強烈に染みる。どうやら、あまりに激しくバトルしたせいで、肩と膝の皮膚が擦り切れてしまっていたようだ。

 夫の膝をみたら、もっと激しく擦り切れている。これじゃあ、事情を知らない人の目には、ただの家庭内暴力みたいにうつってしまいかねない・・・・。


2004年02月03日(火) 日本語

暇つぶしに、夕方映画『キル・ビル』をレ・アールで。とうとう、この映画を観るために足を運んでしまったっ(笑)。

 で、映画の最中、笑いっぱなしだった。笑うしかない映画だ。特に、非日本人の話す、奇妙なイントネーションの日本語には、どうしても笑わないではいられない。

 相手に喧嘩売って、「かかってこい」という言葉をユマ・サーマンが発するのだが、イントネーションが違うので、凄みがない。そんな言い方されたら、刀放り投げ出して、笑い転げてしまうぜ・・・・、という感じ。で、その間に斬られてしまうんだろうが・・・・。

 他にもつっこみどころは満載だが、つっこんでいるとどうしようもなくなるので、そんなこともせずに、タランティーノのオタク的世界につきあってみた。最後の戦いのシーンはちょっと長すぎて、飽きてきたが・・・・。

 この映画も、先日観てきた『ラスト・サムライ』や『ロスト・イン・トランスレーション』でもいいのだが、私は果たして日本に住んでいたら、これほどこれらの映画を“アル意味”楽しんで鑑賞することができたか?!?!?!、と自問自答。

 先日、『ラスト・サムライ』を観て興奮気味のフランス人に、「サムライってのは新興宗教なのか?」と質問された時の衝撃(笑)。こういったわけのわからん非日本人がたくさんいる世界で、当たり前に暮らすようになってから、非常に、非日本人の日本観に寛大になってきている自分を再発見する。

 前述したように、どうも奇妙なイントネーションの日本語には、笑いが出てしまう私だが、こうやって考えると、フランス人ってのは寛大なのだ・・・・、ということにも気がつく。

 街には、あらゆるお国のイントネーションでのフランス語が溢れている。そんな半端なフランス語に対して、フランス人はいちいち笑わない。ま、笑ってられないほど、移民に慣れてしまったのだろうが・・・・・。

 それにしても、あのNHKフランス語講座のジュリー・ドレフュスが腕斬られちゃって、のたうち回っている姿は、個人的に妙に受けたゼロでした。

 


2004年02月02日(月) 意味不明

 ふと蘇った、赤面しそうな記憶。

 フランスに住み始め頃、まったくこっちの言葉に耳が追いつかなかった頃の話だ。そして、とあるパーティーでのこと。



ホスト「何を飲みますか?」という問いに対して、

私「私は東京で生まれました」と自信を持って、答えていた。



 ただ、これだけ。

 外国語習得は、難しい・・・・・・・・。


2004年02月01日(日)

 昼下がりに、夫の友人Eがやってきた。ここ最近、彼がひどく鬱気味で、ヤバイらしい、という噂はあちこちから聞いていたこともあり、本人がわしらと一緒にランチしたい、というのであれば、どうぞ、どうぞ、という感じにすぐ話はまとまった。

 Eは42歳。3年前に躁鬱病が激しく悪化した妻と、とうとう離婚成立。その後は現在13歳の娘をオトコデひとつで育てている。某大企業の幹部として将来が確約されているはずだったが、最近、リストラ問題がにわかに出てきいる状態。

 こんな彼は、昨年の春にひとりの女性に出会った。39歳の未亡人、A。Aは、7年前に最愛の夫(彼女より20歳年上)を癌で失い、夫との間にできた一粒種の息子(現在15歳)をオンナデひとつで育てている。

 非常に魅力的なAに、どんどん惹かれていったE。そんな二人は昨年の夏には一緒に旅行へ出て、それなりに楽しんでいたようだった。

 が・・・・・。

 Aからの告白だと、Eといてもあまりおもしろくない、ということ。このことは、随分前から彼女自身から聞いていた私たち。その一方でEは、自分がAに惚れまくっているということを、認めようとしない。そんな状況の中、私たちは“きっとEは、前の結婚でそうとう傷ついたから、そんなに早く特定の彼女を見つけたくないのだろう”とタカをくくって、様子を見ていた。

 Eは、とても礼儀正しい。時には、やりすぎじゃないのか?、というほど礼儀正しい。ごり押しを絶対しないタイプと言える。でも逆にいえば、絶対に自分からイニシアティブを取らないタイプともいえる。そんなあまりにも慎重は彼との時間が、どんどん退屈になっていくA。

 近頃では、Aは、たとえ鬼畜でも、もうちょっと自分というものを持ったオトコのほうがいい・・・・、と言い出してきていた。なんだか雲行きが怪しくなってきたな・・・・・、と思っていたら、年明け早々、AがEに“お別れしましょう”と宣告したとのこと。

 その後は、Eは夫に頻繁に電話して、夫からのみEの状況を聞いていた私だったが、本日、ひさしぶりに我が家にやってきたEの顔をみて、私はひきつってしまった・・・・。

 ここまで絶望して鬱になっている人間の顔、というものを見たのははじめてかもしれない?!?!?!、と思わせるほど、スゴイ形相だったからだ。本来ならば、確実にハンサムと呼ばれる部類に入ると思われるEだが、目は落ち込み、精気はまったくなく、頬はくぼみ、時々見せる笑顔は、異様にひきつっている・・・。

 仕事でも問題が多発し、Aに別れを宣告され、思春期に入りだした娘は、別れた妻との関係からの影響で、非常に精神的に不安定・・・・。

 とにかく、自分の感情を出さないことに慣れきってしまっているE。そんな彼と一緒にランチしているうちに、彼の中で吐き出しきれない怒りがマグマのように渦巻いているんだろうな・・・・、と思えてきた。そして、その怒りがついには、自分の身体を完全に蝕み始め、それをただ自暴自棄になって放置しているような感じ・・・・。

 ゾォっとした。

 残念ながら、私たちは彼を救うことはできない。彼自身しか彼を救うことはできない。そんな彼が一緒に食事したいといえば、時間があればウイということだけ。もどかしいし、彼に元気になってもらいたいが、元気になれと言うこと事態が、非常におこがましいことでもある。

 彼が自分の幸せに向かって歩き出すことを願うのみだ。

 


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