ゼロの視点
DiaryINDEXpastwill


2003年12月28日(日) クリスマス

 恒例でクリスマスは、レンヌの姑宅へ泊まりこみ。24日の午後にTGVに乗ろうとモンパルナス駅へ出向くと、人、人、人・・・・。多くの人が殺気立っている。15分も早めに駅についた私達だったが、未だに掲示板には、私達のTGVがどの何番線ホームから出るのかが、まったく表示されてない。

 出発10分前を切った頃、ようやく9番線との表示が発表されると、皆、ものすごい勢いで自分の席に向かい出す。ああ・・・・・、みんなイライラしている・・・・。

 TGVのホームは長い。そこにたくさんの人が押し合いへし合いで、あらかじめ手にした自分の車両ナンバーと見比べながら、ひたすら歩く。クリスマス前に帰省ラッシュ以外では、ぶつかっても、“あら、ごめんなさい”の一言もあるのだが、今回は違う。ちょっとでも肩が触れると、鬼のような形相で振り返る人多し。

 こういうのを見ていると、帰省したくないのに、帰省しなくてはならず、という人が多いのだろうなぁ・・・・、などと、ついつい思ってしまう。イライラした親に連れられて、そんな雰囲気にまるで抵抗するように、泣き出す子供もたくさん・・・・。ゆえに、車内も落ち着いて新聞読めるような状況では、全くない。

 日本に住んでいる間は、一度もやったことがなかった帰省ラッシュ。テレビで年末年始の帰省ラッシュの模様を見ながら、一度はやってみたいな・・・、なんてノンキに思っていた自分が懐かしい。こんなこと、やらないでいいなら、どんなにいいものか・・・・、と気付くこと遅し。

 やっとこさ到着した姑宅で、24日は、わしらと、義理の弟家族を含む7人でディナー。同じように、パリからクルマでやってきた義理の弟家族は、途中渋滞にはまり、姑宅に到着したのは午後9時半過ぎ。“元気?”なんて聞くのがイヤミになるほど、彼らの顔は道中の渋滞で疲労でヨレヨレになっている。

 この家族は、誰かが疲れていると、そこからいとも簡単に喧嘩に突入することもあるのだが、今回は予想を反して、楽しいディナーを過ごすことができた。ああ、幸い。最初の頃は、家族の喧嘩も私にとっちゃ、アル意味おもしろい余興だったが、今となっては、ただ面倒くさいだけのものになってしまったから(笑)。

 翌日の25日は、姑の妹宅へ親族一同が集まり、ランチという名の長い一日。これも恒例で午後1時に集合し、ベッドに戻るにはたいてい午前様になる。が、今回は、姑の妹の2番目の息子、つまりは夫のいとこであるFX夫妻が、昨年の夏に購入した家を家族に披露するという名目で、ランチが済んだところでそこへ移動。

 とりあえず、メシを食い終わって、場所を移動することができて、これ幸い。FX夫妻は二人で医者やりながら、バリバリ稼いでいるので、さすがに彼らの家も豪華だった。これなら、人に披露したくなってもしょうがない、というシロモノ。広い、キレイ、心地よい、と三拍子揃った、理想のモデルハウスのようだった。

 その後、再び姑の妹の家へ移動。そう簡単には解放してもらえない(苦笑)。結局、予想通り姑宅へ戻ることができたのは、午後11時半だった。戻ってから、姑と本日あったことなどをまたまた話すので、シャワーを浴びて最終的に、ベッドの中に入った時には、すでに午前2時を過ぎていた。クリスマスとは、私にとって、本当い体力勝負の日々なのだっ!!。

 今回のクリスマスは、今までのことを教訓にして、絶対に食べ過ぎないようにしようと思っていたが、嬉しいことにこれに成功した。めでたし、めでたし。

 26日は休息し、27日。このサイトを通して知り合ったS嬢にはじめてお目にかかる。レンヌ在住のカトリック信者。彼女とレンヌの市役所前で会う約束をしたのだが、いかんせんレンヌに慣れてない私。しょうがないので、市役所の場所を姑に聞くと、すぐさま、“何の用で市役所に行くのか?”という定番の質問が飛んでくる。

 そこで、レンヌ在住のカトリック信者の日本人女性とそこで会う・・・・と伝えると、姑の目が輝く出す。そして、その瞬間から、まるでこの待ち合わせが私のものじゃなくて、姑のものであるかのように、物事が進行していった(笑)。午後のお茶の準備を姑が始め出す。みるからに姑はウキウキしている。

 さて、実際にお目にかかったS嬢は、非常に楽しい方であった。私も人見知りしないが、彼女もしない。ゆえに、会った瞬間から話が色々とはずむ。そして、S嬢を連れて(彼女の合意を取った上で)、いざ姑宅へ。

 呼び鈴をならすと、夫が出てくる。なんとネクタイまで締めている。きっと姑に“きちんとした格好をしなさいっ!!”なんて言われて、首に巻きつけられたのだろう(笑)。その後ろから姑が出てくる。

 あまりに張り切りすぎて、妙に彼女が着飾ってたらどうしよう・・・・、と思っていたが、これは予想を反して、適当におしゃれしただけだったので、私はホッとした。

 S嬢は、社交好きなフランス語ペラペラ日本人だったので、どんどん勝手にワシの義理家族と交流してくれるのが、たまらなく素晴らしい。姑は、こんなコミュニケーション好きな日本人女性で、なおかつカトリック信者と聞いて、本当に嬉しそうだった。

 そこに、夫のいとこMまで合流してくる。みんなS嬢を見に来たのだ。なんつー家族だ・・・・・。とはいえ、みんなで色々と話をしているうちにあっという間に時間が経過し、すっかり外が暗くなったころ、S嬢は自分の家に戻っていった・・・・・。

 S嬢よ、ありがとう、わが困ったチャン義理家族の相手をしてくれて・・・・・。おかげで、わりかし無口で本日の午後を過ごすことができ、休息ができてしまった・・・・。



 そして、28日、またヘロヘロになりながらTGVに乗り、夜パリに到着。ゆっくり寝たい・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 


2003年12月18日(木) 母、帰国

 母の飛行機は午後6時30分。なのに、すっかりおしゃれすることに興味を取り戻し出してきているわが母は、帰る前に、もう2本くらいパンツが欲しいというので、急いで買い物。

 昼間でに家に戻り、夫と3人で最後のランチ。鴨料理を作ってみたら、母は喜んでいた。日本に戻ったら、同じようなものを作りたいので、あとで作り方を教えてくれとまで言ってくる。いい傾向だ。

 しかし、のんびりとはしていられない。食後のコーヒーのあと、最後の詰めで再び荷造り。そんなことをしているうちにあっという間に午後3時半。午後4時に家を出て、タクシーをつかまえて3人で空港へ。

 母の飛行機は全○空。カウンターにならんで、搭乗手続きの番を待っていると、わしら夫婦のところに、全○空のバッチをつけたフランス人男性が近寄ってきて、話し掛けてくる。こんなことははじめてだ。話をきいていると、私たちが誰をここに送り届にきたかまで知っている。一瞬焦る。

 なんで、なんで?!?!?!。

 すると、こうだった・・・・。12月8日の月曜日に母が飛行機を降りて、入国手続きをしたりするのに付き添ってくれた全○空の係員の日本人女性がいるのだが、その人がその時の日記にも書いたように、母の変調に気付いてそれをチェックしておいてくれ、日本に戻る際も、母の付き添いをするようにすでに手続きをしておいてくれた、ということだった。そして、あらかじめ席まで用意しておいてくれるという、サービス。本当にありがたいことだ。

 日本に到着した際も、飛行機を降りて到着ゲートに降りるまで、また別な人が丁重に母に付き添ってくれるという。

 で、ついつい色々とこの全○空のバッチをつけたフランス人男性に質問するわが夫婦だったが、母だけが特別なのではなく、年齢を関係なく、日本からやってきて飛行機の中で、精神変調を起こしたり、または、乗っている間は平気でも、降りた途端、緊張して自分がどこにいるのか数日間認識できない人などが、意外にいる・・・・・、ということを教えてくれた。

 そういった場合には、搭乗員などがそれをチェックして、無事に本国へ戻れるよう、帰国の便でのサービスをしているそうなのだ。こんなことをやってくれるとは、知らなかった私。いずれにせよ、母に日本の飛行機を選んでおいて本当によかったと思った瞬間でもあった。

 わが母のように、付き添いしてもらう高齢女性が他に3人、そしてフランス人の男の子一人がいた。あらかじめ指定された場所に、母を連れて行くと、まるでツアーのように、付き添い人を先頭に、母を含む5人の旅人が搭乗ゲートに向かって進みだした。

 さあ、今回は、ここで母とはお別れ。たった10泊11日という、短い母のパリの滞在だったが、内容は濃かった。奇跡的に母親が回復して、以前よりも元気になっていったことが、何よりの救い。

 そんな母が付き添い人に導かれるように、シャルル・ド・ゴール空港の動く歩道に乗り、だんだんと彼女の背中が小さくなっていくのを見ているうちに、ムショウに哀しくなってきた。

 そういえば、生まれてはじめてかもしれない・・・・、母を見送る立場になったのは・・・・・。こんなことにやっと気がついたゼロでした。


2003年12月17日(水) 姑と母 パート2

 本日は、日本に持って帰る土産などの買出し。プラス、母のイメチェン用の洋服の買出しもする。

 昔、バリバリと会社で母が働いていた頃までは、母はおしゃれだった。自分で流行を取り入れた服を作って着てさえいたが、今は、あまり服装に注意をしなくなってきている。これが娘にとっては腹が立つ。また、うつ的傾向の最たるもの。

 そんなわけで、今回の旅行にはほとんど服を持ってこなくていい、とあらかじめ母に伝えておいた。

 日本だと、この年齢だと、こういう格好だの、誰が決めたわけでもないのに、知らないうちにスタイルなどが決まってきてしまう。日本に戻るたびに、この不思議な現象がたまらなくいやで、またその中にすっぽり入り込んでいる自分の母というのにイライラしていた私だった。

 それとはうってかわって、わが姑様、すんごいです・・・、おしゃれ命。そこまでやらんでも・・・・・、というほど、おしゃれには気を使う人種。私はこれは本当にいいことだと思っている。母にはここまでやらせようとは思わないが、とはいえ、考えてもいなかったスタイルなどを実際に何度も試着室でトライさせているうちに、彼女が昔のようにもっとおしゃれに敏感になってくれるといいな・・・、と思っていた。

 が、とうとうその時がきたようだ。日本にはなかなか売っていないようなパンツだのカーディガンだのを色々と、私が最初にコーディネートしてきたのだが、それに触発されるように、自分でこういうのがいいとか、今までおしゃれすることを怠ってきたことに、覚醒してくれたのだ。これは本当に朗報だ。

 買ってきた洋服を、我が家で再び着てみては、鏡の前に行き、『これきて、どっか行きたいわーーーっ!!』と言い出し始めたのだ、わが母が。長いうつ状態からの解放が、本当にはじまってきたようだ。

 やる気のない人に、『どっかでかけたほうがいいよ』『おしゃれしたほうがいいよ』などと言っても逆効果。結局、当事者自身がその気になるまで、周囲のものは、じっと待たなければならない(サポートしつつ)のが常。待った甲斐があった・・・・。

 そんな勢いの中、この夜は、姑を我が家に招いて、4人でディナー。母にとっては、今回のパリ旅行・最後の晩餐でもある。姑と母がそれぞれお土産を交換したり、奇妙で面白い。そして、いつものくせで姑が息子に、『あなたが、私の言うことをもっとよく効いていれば、今ごろはもっといい生活ができていたのに・・・・』などという言葉に激しくキレて、怒る息子という、まあ、どこにでもある親子の光景を見ては、母はゲラゲラは笑いっぱなしだった。

 古今東西、母と子供の因縁の関係というものが同じように存在する、そんな母同士の共通点が、また一段を母を楽しませたようだ。また、それに対して、姑も非常に楽しんでくれた。

 母が、姑に『おしゃれで、きれいで、本当に素敵な方ですね』と誉め言葉を言うと、姑が嬉しそうに、『ありがとう、いつも息子達にはけなされてばかりだから、こういう誉め言葉は、たとえお世辞でもうれしいわっ!!』と言っていた。

 姑は、今回胸にカメオのブローチをつけて我が家にやってきた。それを見た瞬間、夫は『なんだよ、これ、ババくせえな。田舎のブルジョワもどきみたいな格好しやがって』と攻撃。これらのやり取りをつかさず母に通訳するのだが、なによりも、こういった親子の喧嘩すれすれのコミュニケーションが、母には一番楽しいものだったらしい。

 ディナーのあとは、夫が姑のワンルームマンションまで送り届ける。その間、私と母で、明日の荷造りをした。
 


2003年12月16日(火) 姑と母

 母は、すこぶる元気、そして明るい。先週の火曜日は、彼女の夜間譫妄で絶望的になっていた状況を考えると、ほとんど奇跡だ。レイキが効いたのか?。

 せっかく母がクリスマス・シーズンにパリにやってきているのだからと、シャンゼリゼ大通りのイリュミネーションを見学しながら、夕方からのんびり散歩。

 先週末、レンヌにいる姑に会いに行く旅行を、母の状況も考えてキャンセルした私達だったが、すべての事情をよく理解してくれた姑が、今晩、母に会いにパリにやって来る。

 夫がモンパルナス駅に迎えに行くとはきいていたが、時計をみると、シャンゼリゼから、気分転換に充分にモンパルナスに向かえることに気付いた私は、姑を驚かせる意味も含めて、そちらに向かうことにした。

 早めにモンパルナス駅に到着してしまった私と母は、腹が減ったので、近くのレストランに入る。たまたま入ったレストランだったが、雰囲気がよくて、前菜にスープ、そのあとにメインなどついつい調子に乗って注文してしまったため、肝心の姑が駅に到着するはずの午後8時40分には、ホームに迎えにいけなくなってしまった(汗)。

 慌てて、夫の携帯に電話して、事情を説明して、夫が姑ととりあえず合流して、そのまま私達のいるレストランにくることになった。時間に余裕のできたわたしたちは、飲んだり食ったり楽しんだ。

 ほとんど食べ終わって、やっと一息いれたころ、夫と姑がレストランに入ってきた。黒いコートに、ベージュのマフラー、頭には毛皮の帽子をおしゃれにかぶった、とても80歳と半年とは思えぬおしゃれっぷりと、元気さ。

 こうして、姑と母の初対面は、急遽レストランで行われ、私達の想像以上に愉快でいい雰囲気で展開していき、4人で笑いっぱなしになった。母は母で、日本の自分の家に娘の夫としてやってくる彼か、または今回、色々と親切にしてくれた大人の彼という側面しか見てなかったのだが、“ママン”という存在の前では、いくつになろうとも“ちいさなボク”になってしまう夫の姿を見て、腹をかかえて笑っていた。

 レストランを出て、バス亭に向かう途中は、母と姑が仲良く腕組んで歩いている・・・・。私にとっても、夫にとっても、奇妙な光景だった。


2003年12月15日(月) 太極拳

 うちのアパルトマンの敷地内には、スポーツ施設がある。プール、体育館、卓球場、サウナなどが完備されているのだが、それを母に案内している時に、夫がふといつもの癖で、ちょっと太極拳を始め出した。

 こりゃ、面白いとばかりに、運動不足な母に、色々とストレッチ運動をさせてみた。そうすると、わが母殿、どんどんやる気になってくるではないかっ!!。

 結局、鬱々とした感情というのも、血行が悪いというのが一つの理由。いかに頭だけじゃなく、身体とのバランスをとっていくことが重要か、と言っても、なかなか動こうとしなかった母だったが、こうして有無も言わせない状況に置いてしまうと、案外やるのだな・・・、と実感。

 また、パリへくる前から、落ち着いたら太極拳教室でも通ってみたい等と言っていた母だったが、ここに太極拳の師範がいる。それは夫だ。

 夫は、太極拳の大会で台湾で準優勝までしているツワモノ。10年ほど住んでいた中国では、中国人に太極拳を教わるだけでは留まらず、最後には中国人に太極拳を趣味であるとはいえ、教えていたほどなのだ。

 長いこと、自分の親に太極拳をやらせようとしても、極力無視されてきていた夫だったが、今回は妻の母がやる気をみせたことで、突然夫は熱血太極拳教師となり、母は、その忠実な生徒になったかのように、もくもくと練習がはじまった。

 姿勢や、コツなどは、私が同時通訳。気がついたら、3人で燃えてしまって2時間も経過していた。驚いたことに、太極拳を思いっきりやった後の母の顔は、ここ数年来みたことないように若返り、すっきりとしている、ということ。母自身も、肩があがるようになって、頭のモヤモヤ感がすっ飛んでしまって本当に気持ちいいと言う。それを聞いて、嬉しくてしょうがない夫。

 ここまで、気分がよくなったところで、もう一度母を別の友人精神科医Eのところへ連れて行く。いくら母が回復したとはいえ、また飛行機に乗って、時差ぼけでおかしくなるとも限らないわけであり、いざということを考えて、すでにこの時点で母と同じ飛行機を予約していた私だった。

 が、あくまでもこれは母には内緒。というのも、呆け老人扱いする必要があるのか否か?、が焦点であって、逆に付き添って帰るということは、結果的には彼女に『こうまでしてもらわないと、私は何もできない』という絶望感すら持たせる結果を導くかもしれないからだ。

 その辺の状況を、私はプロである医師に相談したかった。それと同時に、母が日本に戻った場合の対応の仕方なども、相談したかった。それには、まず本人が医者ともう一度問診したうえで、色々と対応を練らねばならない。そんあ時、Eとの予約が取れたのだ。

 母としては、すっかり気分がよくなって通常に戻ってきているのに、ここで精神科医に連れて行かれるということは、ある意味ショックだったらしい。おまけに、また医師とわしら夫婦3人が、母のわからないフランス語でベラベラ話している状況は、一瞬、母に「娘夫婦に騙されて、このままではキチガイ病院へ入れられてしまうっ」とさえ思わせもしょうがないことなのだろう。

 先日の精神科医Gと同じように、友人としてはよく知っているEも、医者として働く姿を見るのは私達にとってははじめて。が、Eもスゴイプロ。話し方、声のトーン、質問の仕方、問診相手を言語が違うとはいっても、リラックスさせていく方法がよく心得ている。

 ところで、痴呆には色々なタイプがある。アルツハイマー、脳血管性痴呆(動脈硬化や、脳梗塞から引き起こされるもので日本人には、このタイプが多い)、そして、仮性痴呆と言って、うつ病から引き起こされるもの。

 11月の脳ドックの結果、初期の動脈硬化の兆しがあると言われている母ゆえ、母が痴呆であるなら、脳血管性痴呆か、うつ病から引き起こされる仮性痴呆(多くの医者ですら、仮性と真性の判断ができない)の可能性が考えられることになる。

 その点を今回Eは、こちらが言わずとも慎重に問診を進めていってくれた。Eからも、彼の言ったニュアンスを含め、一字一句、きちんと訳すことを私に言い渡し、また同じように、母の言ったことをすべて的確に伝えるように言われた。なかなか緊張する通訳業だ。

 Eの診断は、母は痴呆ではなく、カルチャーショックと、ショックをもともと引き起こし易い状況、つまりは愛犬の死などで、うつ病的であったことが原因ということだった。問診中も、自分のやりたいことを問われるとなかなか答えられない母というのが見受けられ、そうなると物忘れやいい間違えが増える。また、この傾向は、今年6月の私の里帰り以降、毎回母に電話するたびに、どういう状況で妄想のようなことを言うか?、ということを詳細にメモしてきた私も気がづいていたことだったゆえ、Eの判断はアル意味、私を元気ずけるものでもあった。

 また、Eは出来ることなら、今回の母の帰国には私が同行しないほうがいいということを伝えてきた。アル意味ビックリしたが、私自身ですら、一緒に帰って、色々と世話してしまうことで、もともとあった自律能力を奪うことが、現時点ではよくても、長期的視野でみたら、悪いのではないか?、という懸念があったため、この点についても、随分とEと議論させてもらった。

 また、親子であるため、不必要に喧嘩するような(時に無意識に互いに喧嘩をふっかける)ことがあると、一緒にいることがかえって母の状況を悪化させる可能性が大いにあること。

 それをするなら、まずは、脳ドックの再検査などをとりあえず母に進めておいてもらい、それと同時にときによっては、抗鬱剤などを処方して親身になってくれそうな精神科医を見つける手配などを私が進めていくということが先決とまで言われた。

 これも、私が考えていた方法だったゆえ、アル意味落ち着いた。E曰く、せっかくここまで母が元気になって、一人でやっていく自信を徐々に取り戻してきているところでのヘタな情と手助けが一番の命取り、というのはキモに命じておく。

 そして、ある程度、こういったことが済んだときに、ふと私一人で里帰りをすることが大切だ、ということも。

 最後に、このEとの問診のほとんどを母にも話したが、このことで母はまたもっとリラックスすることができたと、嬉しそうに何度も私に語り、本当に元気になってしまった。


2003年12月14日(日) シルバーシート

 日中は、ギャラリー・ラファイエットで買い物。買うだけかって、ヘロへロに疲れた私たちは、そこからメトロを使わずバスで帰ることにした。バスは満員だったが、シルバーシートに座っていた若い黒人女性がすかさず母の姿を見て、すぐに席を譲ってくれる。

 母はそこに納まり、しばらくたってのこと。母の向かい席(これもシルバーシート)には、若い巨漢デブ女が座っていた。彼女はひっきりなしに一人で喋っているように見えるが、実は携帯で誰かと会話しているのだ。携帯を直接耳に当てず、イヤフォンみたいなのを耳にはめ込んでいる。

 彼女は周りも気にせず、ベラベラ話す。本当に相手が存在しているのか?、というほど彼女だけが話しているように見える。そんな彼女に、しばらくすると周りの人がいやでも注目するようになった。

 恐らく、彼女は下級公務員。疲れたという理由で、一週間の病欠を取ったなどと楽しそうに話している。そんな彼女の目の前に座っている母は、会話はわからないが、とにかくひっきりなしに話している彼女を、ビックリしたような目で見ている。

 そんな母を見て、こちらもつられて笑い出すと、私の隣に立っている人までつられて笑い出した。で、お互いに“たまんないですねぇ・・・”というようなジェスチャーで応答。

 そんな時、次のバス停から高齢で白髪の女性が乗ってきた。彼女はシルバーシートなどに優先して座れるカードを持っている。そしてそのカードを延々と喋りつづける無神経デブ女に見せるが、デブは無視。

 そこでカチンときた高齢女性は、「そこに、年寄り優先って書いてあるの見えないの?。」と詰問。

デブ「ああ、私近眼だから見えないわ」

高齢者「でも、あんためがねかけてんじゃないのっ」

デブ「あたし、貧乏だからめがね作りかえられないの」

高齢者「でも、なんでもいいから高齢者の私に席譲ってちょうだい」

デブ「あたし、つかれてんのよ。あたしの目の前にいる彼女(つまりは私の母)の席でも奪ったらどお?」

高齢者「いつまでも、そんな戯言いっていると、あんたの膝の上に座るわよ」

デブ「どうぞお好きなように」

 ここで、誰もがデブがなんだかんだ言って交渉に勝ったと思った。が、本当に高齢者は、デブ女の膝の上に座ってしまった。交渉内容がまったくわからない母は、突然、デブの上に高齢者が座ってしまったという事実しかわかるはずがなく、ますます驚いている。

 こうしてデブをクッションとして座りはじめた高齢者が、周囲の人に話し掛けるような大きな声で、

高齢者「これがデブじゃなくて、若いキレイな男だったらいいのにねえ」

と発言し、ここで私は笑いが堪えきれなくなって、一番に大爆笑をしはじめると、ほぼバスの乗客全員がそれにつれられるようにして、大爆笑をしはじめた。

 バスを降り、一通り今車内で起こったことを母に説明すると、時差はあったとはいえ、内容を知った母は、爆笑していた。


2003年12月13日(土) ちょっと変わった場所

 日中は、ずうっと母と喋って過ごした。覚醒してきた母は、ほぼ普通に戻ってきていて、こうなってくると、お喋りが一段と楽しくなるものだ。

 母にとっては、17年と半年一緒に過ごした愛犬マルチンの死があまりにも強烈だったため、その状況からいかに回復すると同時に、あたらしい生活習慣を築き上げていくか?、というのが今後の焦点になる。9月下旬にマルチンが天国へ旅立ち、喪に服すように鬱状態になり、このままじゃヤバイと母も思ったところで、「パリに来る?。」と誘ったところ、これに飛びついてきた母親。

 落ち込むだけ落ち込んで、意識が混濁するだけ混濁したとしても、この旅行次第では、喪の終わりと、新しい生活のスターと地点にもなりえる訳で、こういった親子だけでの話し合いというのは、非常に重要。

 こんなことをしていると、あっという間に日が暮れてしまった。このままただ一日をどこにも行かずに終えるのも惜しいので、ちょうど家に戻ってきた夫を誘って、3人でモンマルトルのサクレ・クール寺院へ行くことにした。雨が降っていたが、そんなことはお構いなし。

 石畳の道を、夫に手を引かれ歩く母の姿が妙におかしかった。モンマルトルのレストランで食事したあと、バスにのり、ピガール界隈まで出る。このあたりをフラフラ散策していると、ふと、エロティズム美術館があることを夫と私が思い出す。

 ここでイタズラ心がもう抑えきれなくなってきているわしら夫婦は、母には“夜でもあいている美術館があるから行ってみようっ!!”とだけ伝え、そこに母を連れ込む。とりあえず私達にくっついてきただけの母だったが、実際入場してみて、そこに飾られているものが、セックスオンリーであることにヤット気付き、大変ビックリしている。もう、私達はおかしくて笑いが止まらない。

 ビックリして、こういうものを見るだけでも罪悪感を感じるなんぞほざいていた母だったが、とはいえ見るものはちゃんと見ていたりする(笑)。表情も妙に明るい。そんな様子を、夫が写真をパチリ。被写体となった母の背後には、おっぱい丸出しのオブジェなどが並んでいる。うーーーん、いい記念写真だ。

 デジカメゆえ、さっそく撮った写真を母に見せると、「あんたたち、だましたわねっ!!」と文句いいつつも、笑っている。

 色々な作品だとかを見ているうちに、母がふとこういった。

母「うちのお父さん(つまりは私の父)も、私にかくれてこういうところきてたのかしらねぇ?!?!?!」

私「・・・・(爆笑して答えられず)、夫に聞いてみなよ」と言いつつ、母の言い分を訳すと、夫が爆笑しながら、

夫「そりゃそうでしょうね。男なんてそんなもんです。」と答える。で一同大爆笑。


 そんなわけで、本日は母到着当日には想像できなかったほど、色々と楽しく過ごせた一日だった。


2003年12月12日(金) 現実

 だいぶよくなってきている母だったが、それでも時おり、まだ自分が日本にいるような錯覚に陥ることがある。

 私は、日本にいる母と、ほぼ毎日、じゃなくても、週に数回は電話している。ゆえに、母にとっては、電話口での存在が私であり、電話の向こうから、私達の生活を想像するというのが、彼女にとっての日常になる。

 ゆえに、突然、自分の生活圏を脱出して、本物の娘のところにきても、どうもいつもと違うという感じが抜けないのか、夕方になると、『ああ、ゼロに電話しなくちゃ』と言い出すのだ。時には、私に『ゼロの電話番号しっている?。』と尋ねてくることもある。

 最初の頃こそ、こういった母の言動にピリピリしていた私だが、今ではもう笑ってしまうレベルになったので、母が上記のように尋ねてくると、以下のように答えるようにしてみた。

母「ゼロに電話しなくちゃ」

私「電話してもいいけれど、多分目の前の人が答えると思うから、糸電話でも作ってあげようか?。

母はここで、ハッと気付き、しまいには大爆笑をしだす。

じゃなかったら、

私「これから糸電話を渡すから、電話かけてみなよ。私は向こうの部屋からそれに答えるからね。でも、大きな声ださないとならないから、私の咽がかれちゃったら、のど飴でも買ってくれないことには、困るな・・・」等というと、
笑いながら(決して非難するわけではなく)母が覚醒する、ということが多くなってきた。


 昨日ぐらいから、夜ぐっすり寝たにもかからわず、昼もちょっと時間があるとソファーで昼寝するようになった母は、すっかり時差呆けもとれてきた様子で、上記のような会話はあるものの、パリ出発直前から到着した直後のような人相や性格まで変化するような、妄想などはなくなった。

 夜は、11区であった友人の日本人画家Y氏の展覧会のオープニングにフラッと夫と母を連れて出かけてみた。母には、フランス人だけじゃなく、パリでこうして活躍している日本人達の姿を見ることが、それはそれでいい刺激になった様子。特に、Y氏は在仏37年という人。それでも、日本人らしさを持ち合わせ、いい作品を日々生み出しているという現実を、目の当たりにすること、これこそ、旅行の醍醐味として、母が実感してくれることを祈るのみ。


2003年12月11日(木) パリ症候群

 昨日の夜は、友人MJの家でディナー。ゼロの母がパリにやってきているのなら、是非、我が家に来て欲しいということで、これが実行された。もちろん、今、母の微妙な状態ということもすでに彼女には話しておいた。

 MJは長いことパリで習字を習っている。私の母は実に高校の時から習字を趣味として続けており、私が日本へ戻った時は、MJに色々と習字関係のみやげをあげてきた仲でもあった。前回の里帰りの時は、母の師範が書いたという掛け軸をMJにあげたら、強烈に喜んで、それを見た私は、逆にひいてしまったほど(笑)。

 MJと夫の計らいで、そこには指圧をやっているフランス人なども数人招待されていた。その中には、プロのマッサージ師として、芸能人から政治家までを客としているDもいた。かれらが、さりげなく母の背中をマッサージ。本当は私がやればいいのだろうが、いかんせん、母のどこかで“まだ娘の世話にはなりたくない”という思いが強いので、ここでは私は手をださず。

 母の首、背中を数人がかわるがわるマッサージするのだが、そのたびにみんなが、“すんごい、かっちんこっちんだよ”と私に言ってくる。そうだろう、と思ったよ。だって、全然最近運動などしてないし、不安と緊張でカチコチになっていて、意識混濁までなっているのだからっ!!。

 が、不思議なことに、こうしてマッサージされていくと、母の顔がどんどん活き活きしてくるのだ。さっきまで、眠いだの、疲れただの言っていた母が、『ゼロ、目が覚めてきたわよ、私』なんて言い出してくる。おおっ、思った以上の効果だ。

 そして、この晩、身体がほぐれた母は、再びクスリを飲んで熟睡。朝10時半まで一度も起きることはなかった。

 相変わらず、呆け発言は続いていたが、それでも肉体的には落ち着いてきた母。それらを見ていて、今週末に予定していたブルターニュ地方はレンヌに住む姑のところへ行く、という案をどうしようか?、と考え始めた。とういのも、こうして徐々に、それでいてやっと慣れ始めてきた我が家での生活から、また今度は、《娘の夫の母親》のところに2泊するという新たなストレスと環境の変化が、どうもいい結果をもたらすとは思えない。

 しばらく考え込んだすえ、本棚を見るとそこに昔買った『パリ症候群』の背表紙が私の眼に飛び込んできた。何もしないではいられない母には、たまりにたまった夫のワイシャツのアイロンかけを頼む。母は嬉々としてアイロンかけに励む。そして、昔彼女がよく聞いていた、フィッシャー・ディースカウが歌う、シューベルトの『冬の旅』をBGMにかけておいた。

 その間、私は『パリ症候群』を読み返す。在仏日本人で精神に変調をきたした例も書いてあるが、旅行者の例もたくさん書かれている。意識混濁を起こすには年齢は問わず、もともとの性格などが大きくかかわってくる等、色々書かれていて、思わず読み耽る。

 そこで、ふと思いついた。そうだ、この著者に電話してみよう。著者であるO氏は、パリで唯一といわれている、日本語での電話相談などをやっているかただ。特に、日本人旅行者の精神トラブルには強いゆえ、さっそく相談すると、私が思ったように、絶対に今週末に、母を再び移動させるようなことはしないようにと何度も念を押される。

 次に、この旨を夫に伝える。今度は夫がパニックになる。というのも、今週末のために、80歳と半年の姑は、一ヶ月も前から色々と準備をしていたからだ。姑も一生懸命になりやすい性格で、最高の思い出を私の母に作ってもらおうと、無理をして準備していたことは想像するに容易い。

 私の母は、この旅行をキャンセルすれば、もっと回復する。が、これをキャンセルすると、今度は姑がショックで倒れる可能性がある・・・・。

 パニクる夫となだめて、とにかく夫からもO氏に電話して直接話してもらうことにした。O氏が的確に説明してくれたおかげで、夫は予想以上に簡単にキャンセルに応じ、あとは、自分の母親の説得と、精神的サポートに半日を電話で費やしてくれた。

 姑は、これで一挙にガックリとしてしまったが、それでも色々と医学的にも説明して、ようやく立ち直った。

 その後、ルーブルの地下であった展覧会のオープニングへ夫と私と母の3人で出かける。姑の友人で78歳の女性画家がそこに出展しているからだ。彼女は、猛烈におしゃれで、元気。こういったいくつになろうとも、元気で活き活きとしている女性を見ることは、母にもいい機会だと思う。また、会場には、ヒトの眼も気にせず(これが日本人だと逆)好き勝手に着飾ったり、逆に汚い格好のまま平気でいたりする高齢者など選り取りみどり。

 こういった人たちを見ているうちに、また母の表情が和らいできた。滞在中にどこまで母が復活できるのか?、これが私の当分の課題になりそうだ。
 


2003年12月10日(水) カルチャーショック

 今まで起こったことをじっくり考えてみると、母にとって、環境の変化からくるショックは凄かったし、それもまだ続いているということが痛いほどわかる。

 例えば日常的なことでの環境の変化

《1》自分の家と違う

《2》人が自分の家に来るのには慣れているが、人のうちに行くことに慣れてない

《3》風呂に入ろうと思っても、洗い場がなく、溜まった湯の中で浸かったり洗ったりを一変にしてしまう西洋の習慣への戸惑い

《4》レディーファーストという扱いされることへの、激しい戸惑い

《5》気を使い、気を回すという日本の習慣とまったく違う人間関係

《6》朝起きたら、一番にする郵便受けに新聞を取りに行くという習慣が母にはあるが、それができない(フランスの多くの人は新聞なんぞ取ってないし、買いたい時に、お気に入りをキオスクで買ったり、時にはゴミ箱から拾って読む人もたくさんいる)

《7》日本の家にあるような、いわゆる玄関というものがない。それプラス家の中で靴を履いたままいられるということに対しての戸惑い。

《8》スリ対策で、外出する時は母には手ぶらで出かけてもらうように心がけていたが、母にとっては財布と家の鍵を持たずに生活するというのは、子供の時以外は、決してなかったので、その突然の生活習慣への戸惑い。

《9》自分の子供(つまり私)が、母の想像を越えて、以外に物事をやるこなしていることで、安心すると同時に、信じられないという戸惑い(失礼だ!!)

《10》人を夕食などで家に招いた場合、日本人の妻は厨房で一歩さがって準備しているという習慣に対して、フランスでは、招いた人をもてなし、会話につねに参加するという習慣に対する戸惑い。

《11》わしらの家にいる間は、何か役に立ちたいと思うが、どれをどういじっていいのかわからない・・・・、という焦燥感。

《12》フランスの水道、メトロのボタン、ドアの鍵など、日本のそれらとは違って、かなり乱暴に扱ってもぶっ壊れないような仕組みになっていることがあるが、母のように、そうっとそれらに触れる癖がついていると、何度押しても機能しないということが多々あることへの戸惑い。

《13》洗濯物を外に干せないということへの戸惑い

《14》日本の一軒屋住まいに慣れきっている母が、突然フランスのアパルトマンに滞在した場合の戸惑い。特に我が家は、道路からアパルトマンの敷地の入る時に暗証番号、そして、インターフォン、その上にエレベーターにまで暗証番号があり、それをきちんとしないと、我が家に決して到着できない。

《15》気の利いた一言を言いたいにも関わらず、それらが全然話せないという苛立ち。

《16》妻として、母として、人の世話をするのは慣れているが、人に世話されるのにまったく慣れていない。ようするに他人に自分を預けきれない性格であるのにかかわらず、パリにいる間は、“なんにもできない、だらしがなかった”はずであった娘である私に頼らなければいけないことへの苛立ち。


 あげるときりがないので、このくらいにしておくが、特に《4》レディーファーストという扱いされることへの、激しい戸惑い、というのが私の想像以上に凄かった。例えば、夫と私と母の3人でレストランに入る。すると、夫は習慣で、母や私が脱いだコートを持って、コートをかける場所まで持っていったりすることがある。つまりはエスコートの一貫。

 が、これが、母を激しく混乱させる。どうしても信じられないのだ。母としたら、男性に働かせてしまって申し訳ない・・・・、ということになる。そこで最悪感にかられて、今度は、爆弾ゲームのように、その罪悪感を私にふってくる。『ゼロっ、ちゃんと夫に働かせないで、自分でやりなさいっ!!』というわけだ・・・・・・

 いくら説明してもだめなのだから、たちが悪い。人を呼んで我が家でディナーなどという時も同じ。夫がホストとして、シャンパンを注いだりしているのを見て、横から私に『あんたがちゃんとやってあげなさいっ』と言ってくる・・・・。とほほ・・・・。

 習慣とは、本当に恐ろしいものだと思った。日本の習慣がいいとか、いや、フランスのそれがいい、という議論ではなくて、分析するまでもなく身体に染み付いたモノということを、人間はそう簡単に変えられないということを、いやというほど思い知った。

 それと同時に、なんで私はそれほどギャップというものを感じずにここで住んでいられるのだろうか?、と考え込んでしまったほどだ・・・・・。わからん・・・・。考えすぎて、今度は私が夜間譫妄になりそうだ。


2003年12月09日(火) 夜間譫妄

 ディナーを終え、3人でソファーに座ってリラックスしはじめた頃から、母がしきりに我が家のキレイになっていない部分を見つけては、そこを掃除しようとし始める。

 確かに、私達にとってはこれでも充分キレイとはいえ、キレイ好きな人にとったら、まだまだ汚いのは百も承知。それにしても、到着した途端に、あそこが汚いだのなんだのが始まり、私は逆ギレ寸前。おまけに、夫は書類だのなんだのをバラバラと置いておくのが好きなのだが、これすらも片付けようとする母。

 私達の「触らないでくれっ!!」という悲鳴に対し、母はもっと意地になって片付けようとしているように見えた。ちょっとでも目を離すと、ソファーなどの下の奥のほうに溜まっていたほこりなどを取ろうとする。なかなか取れない場合は、四つんばいになったりもする母。

 四つんばいになってまで床掃除しようとする習慣があまりない、フランス人の夫にとっては、もうわけがわからない。夫もビックリしているし、私はイライラの頂点。母は母で、こんな汚い家と怒リ狂っている。

 そんなわけで、むやみに掃除しようとする母に対して、それを阻止しようとするわしら夫婦の攻防戦が始まった。「今日はとにかく長旅で疲れているのだから、ぐっすり寝て、疲れがとれたら思う存分自分のしたいように掃除してもいいから・・・」と母を説得するのだが、この時点で、母の“夜間譫妄”のスイッチがオンになっていたということを知るのは、この数時間後のことだった。

 夜間譫妄とは、痴呆のはじまりでなることもあるし、精神的ショックで突然始まることもあるとは知っていたが、まさか・・・・・。

 それでもとりあえず、居間に母用のベッドを設置して、とりあえず彼女にパジャマを着てもらい、寝る準備をしてもらうところまでは、事を進めることができた。この時点で午後11時。母も「わかったわよ、じゃ、寝るわね私」と床につく。

 ほっと一息つくように、世話になった母の妹一家にメールを書こうと思い、書斎に入って、メールソフトを立ち上げて、しばらくボーっとしていると居間のドアが開く音がする。何事?、と思ってそちらを見ると、母がパジャマのまま、床のゴミ(髪の毛一本)を持って、ゴミ箱を探しているではないかっ!!。思わず、「何やってんのよっ!!」と怒って母に言うと、こんな髪の毛の落ちている家には寝られないと、怖い形相で答えてくる。

 そこでとりあえず、争っても無駄なので、ゴミ箱の場所を教えて、それを母に捨ててもらい、また彼女をなだめてとりあえずベットに入ってもらう。そして再び書斎に戻る私・・・・・。が、今度はその30分後、電気も消しておいた居間から再び物音がする。どうも隙間風が気になったらしく、きちんと絞めなくてはと思った母が、極寒の中、窓を全開にして、パジャマ1枚のまま窓の工事をするのだと言い張ってやめないのだ。

 おまけに、彼女は隙間風があっても部屋が寒くならないように、つけておいたヒーターの何もかも電源を切っている。挙句の果てに、雨戸がないと雨戸を探し始める。夜間譫妄に陥っている人に対して、理屈を通そうとするのはかえって症状を悪化させるというのは、この時点でわからなかった私。

 思わず切れてしまった私は、「フランスのアパルトマンに、日本の一軒家のような雨戸なんかあるわけねーだろっ!」と怒鳴ってしまった。そうすると、もっとムキになる母。今度は、ひとつだけ金具の取れているカーテンを直そうとソファーの上り始め、カーテンを修理しようとトライする。金具がなくて、ちょっとだけズレテイルところを直したいらしい。でも、そんなに簡単に金具など夜中にみつかるはずはない。すると母は、我が家の戸棚などを開けはじめて、針金が必要だと言いながら、探し回る。

 寝室で寝ようとしていた夫もそこに飛んできて、つたない日本語で「ボクノモノ、サワラナイデ」と母に説得する。「ゆっくりと寝てください」ときっと夫は母に言いたかったのかもしれないが、夫の口から出てきたのは「ネテ、アリマス」・・・・。

 母は身体の疲れに反比例するように、精神的に異様に興奮している。このまま寝ないでいたら、ヤバイと思い、睡眠薬を水にまぜて飲んでもらう。が、これが大失敗だった。夜間譫妄には、睡眠薬は逆効果なのだということを知ったのは、やはりこの数時間後。なので、これでようやく母にゆっくり休んでもらえると思い、私達もそろそろ寝る準備でもしようか?!?!?!、などといって寝室で二人でボーっとしていると、再び居間から物音がっ!!。

 睡眠薬が全然効かないという驚き。ますますパワーアップしていく母。この時すでに午前2時半。今度は、夫の書類を勝手に片付けはじめる。それを阻止しにきた私に対して、怒りまくる母。とうとう、どうしようもなくなって、母の腕をぎゅっと掴むと、パワーアップしている母は、私を突き飛ばすようにそれを払いのける。

 寝るわよ・・・、と言いつつその20分後に起き上がり何かをし始める母と、それを見張るようにしている私達の夜は、こうして午前5時半まで続いた。午前3時過ぎには、確かにきっとこれは“夜間譫妄”だろうと確信を強めてきた私。それを夫に教え、今度は夫がそれをネットで調べ始め、それと同時に友人精神科医数人に緊急メールを送る。

 私もだんだんと状況が読めてきて、母が何を言おうとそれを否定せず、彼女が彼女なりに落ち着いて寝るまで、話につきあうことにした。この時点で、母にとっては、「なにもしないでリラックスしていて」という言葉が、一番ツライということがわかった。

 私だったら、何もしないでリラックスしていてなんて言う言葉、喜んで飛びついてしまいそうなモノだが、なにせ昭和一桁世代の女性、どこかでじっとしていることに罪悪感を感じやすいうえ、他所の家に泊まり、世話になってばかりでいて申し訳ないという極度の罪悪感、それプラス、“なにもしなくていい”=“用無し”のように母が受け取っていた・・・・、ということをひしひしと感じ取った。

 午前5時半すぎに、ようやく眠ったかのようにみえた母だったが、それでもまた起きだす可能性も捨てきれなかったので、この時点で夫にはとにかく寝てもらい、私は午前8時すぎまで居間の隣の書斎で、調べモノをしながら起きていた。

 母が午前10時半に起きたのにあわせ、私達も起き、何事もなかったように(母にいちいち昨日のことを知らせても、かえって別の罪悪感を持たせるだけなので)3人で朝食をとる。まだ母はボーっとしているようだったが、早朝までの興奮&攻撃性は消えていた。

 夫は、精神科医らとのコンタクトを取りつづけている間、だんだんと落ち着いてきている母と私で色々とお喋り。同時にどういった点(話題)で意識混濁があるかなどを注意して観察もする。

 ようやく、友人の精神科医Gと連絡が取れ、本日の午後5時に診察をしてくれることになったので、午後3時くらいから、近所のレストランで3人で食事を取って、ブラブラとパリを散策しながら、Gのいるバスティーユ界隈まで行く。Gは、救急精神科医としても活躍している。ゆえに、急激なショックを受けた患者を診ることにかけては彼の専門。

 例えば、外国旅行をして、旅先で環境に合わず、突然精神状態が不安定になったフランス人をその国まで迎えに行き、現場でひとまず治療して、母国に戻すというようなことをよくやっている。それ以外にも、Gの携帯電話にはひっきりなしに、SOSの電話がパリのあちこちからかかってきて、落ち着いた声でそれに対応して、現場に助けに行く、というようなことを主にしている。

 母は、早朝までしていたことをハッキリ覚えてないが(これが夜間譫妄の特徴)、とはいえ、どこかでそれを覚えているということと、そのことで精神科医に連れて行くとなれば、逆に彼女の罪悪感と自己嫌悪を刺激してしまう可能性が大きいので、あくまでパリの散歩をしたあと、友人の家に行くのだが、たまたま彼が医者でもあるので、ちょっと身体の疲れを見てもらおうという理由だけ述べておいた。

 母が出発前に得た脳ドッグの診断結果を全部メモしておいたことがよかった。それを全部フランス語に訳し、またここ数年の彼女の生活態度、愛犬の喪失、持病のことなどを、私が説明。説明しながら、もし2年前だったら、ここまで充分にニュアンスを含めて同時通訳できていただろうか?、などと思った。

 私の説明と、母の表情、そして母のGが提示した質問に対する答え、そして今日の早朝までの事情説明などをやりとりとしていて、私はちょっと感動してしまった。というのは、友人としてのGは頼りなくて、いじめたくなるようなタイプなのだが、プロの医者として働くGの姿を見るのは、夫も私もはじめて。それが、本当に今まで、馬鹿にしていて悪かったと思わせるほど、Gは名医だったのだ・・・・・・・・。すまん、Gよ。
 
 一方、母のほうは、私達3人の会話がまったくわからないゆえ、問診中もかなりの不安をかかえていたようだが、それでもGの医者として、それらの不安を取っ払うような眼差しなどで、自分の状況がそれほど悪くないということを実感することができたようだ。

 Gの診断としては、やはりこれは激しいショックであり、症状を引き出した根底には、うつ病的要素も見受けられるが、とにかくゆっくり寝てリラックスしないことには、何事もはじまらないゆえ、軽い精神安定剤を処方してもらう。母は、母で、素人ではない医者に診断してもらったことで、自分でも想像しなかったほどの安心感を得たと嬉しそうに語っていた。

 そして、この夜は、昨晩とはうってかわって、寝る前にクスリを飲んだ母は、翌朝の午前10まで深い眠りについた・・・・。


2003年12月08日(月) 母、パリに到着

 夕方、パリの空港に到着する母を迎えにいくために、早めにRERに乗ろうと北駅に向かう。が、私も気分がソワソワしていたのか、RERのB線にのるはずが、気がついたらD線に乗ってしまっていて、途中下車して、そこから空港へ向かうはめとなってしまった。

 10年前に一度だけ、団体旅行でパリに来たことのある母は、現在71歳。9月の下旬に17年と8ヶ月一緒に暮らした愛犬マルチンを失い、どんどん覇気をなくして行く彼女。

 今年の5月下旬から6月下旬に日本に里帰りしていた時も、すでに相当老いてきている愛犬マルチンとの、淡々とした生活からの影響か、母の物忘れも目立ち、私自身“???”と見受けられる点がかなりあったので、パリに戻ってから、色々と調べて、脳ドッグを一度受けてみないか?、と母にすすめてみた。

 母は、最初は予想通り、脳ドッグという言葉に拒絶反応を示したものの、パリからどんどん検査の手配をして、あとは申込書に本人が記入してサインするだけ、というところまで準備すると、すんなりとそれを受け入れてくれた。

 が、現在脳ドッグは多くの希望者がいるため、7月の下旬に申し込みしたのにもかかわらず、検査は11月の上旬となった。呆けのはじまりなのか、それとも脳病気(脳梗塞等)なのか、それともうつ病なのか?、それらを知るためにも検査は欠かせない。

 そして、11月の下旬に検査の結果がきた。記銘力の低下と、初期動脈硬化のようなものが見受けられるというもの。母は、パリ出発前にこの結果を受け取り、激しく落ち込む。電話口で検査結果を母に読んでもらい、私がそれを細かくメモする。そしてその後ざっとネットで色々調べて、その後、脳ドッグを受けた病院に問い合わせ。母自身も担当医に問い合わせとすると同時に、帰国後一番早い再検査の予約をする。

 その結果、母と二人で話し合い、それでも、気分転換にパリに行ってみようかな・・・、という彼女の気持ちを尊重して、彼女はパリにやってくることになった。

 彼女は、ここ数年、愛犬マルチンのこともあり、一泊すら家をあけたことがなかった。そのくらい、自分の家とその近所、そしてたまに出かける場所というように、日常生活のリズムが決まっている。そんな性格になっていた彼女がたとえ10泊11日といえ、家を開け、フランスに来るということは、かなりそこでストレスを感じていたのだろう。

 出発が近づいてくると、検査結果の精神的ショックもそれに重なり、極度の不安と緊張なのか、呆けといえる“つじつまの合わない”ことを言い出すことが何度かあった。それに自分でも気付いたのか、母は成田に行く前日は、母の妹の家に一泊して、その妹の好意で成田まで見送ってもらって、飛行機に乗るほうが気分が楽だ・・・・、ということになった。

 さて、母はまず彼女の妹の家に宿泊したのだが、恐らくこの時点で相当意識が混乱していたと思われる。そんな母を見て、妹の家族は、とうとう母が痴呆になったと思って、このまま旅立たせてよいのか?、と強烈に心配したことだろう。本当に申し訳ない。

 そんな母に付き添うように、彼女の妹は成田一緒にきてくれて、搭乗手続きをする際に、何かあったら、母に注意をはらってくれと言い残しておいてくれた。



 さて、パリの空港の到着ゲートのまん前にあるカフェに早々と陣取っていた私。しばらくすると、母と同じ便に乗ってきた人たちがゲートからゾクゾクと出てくる。そしてその中に、係員につれられて母がゲートから出てきた。

 親切な係員(日本人)に丁重にお礼を言い、母に長旅お疲れ様と言おうとするやいなや、母は
「なんで、ゼロがここにいるの?、どうして成田にいるの?」と驚いている。

驚くのは、こっちだ。とりあえず立ち話もなんだから、今まで私が陣取っていたカフェに再び戻り、母が落ち着くのを待ってみる。が、いっこうに自分がパリにすでに到着しているということにピンと来ていない母。それでも注意深く彼女の話を聞いてみると、彼女の日付は12月7日の午前中で止まっていることに気付いた。

 母は12月7日の夕方から、彼女の妹の家に一泊世話になって、ここまでやってきているのだが、妹の家に向かった時点からの記憶がぶっ飛んでいるということ。母は、家を留守にするために、念入りに戸締りをしたそうなのだが、それに対しての記憶はあるが、何のために戸締りをしたのか?、というのを忘れてしまっている。

 おまけに、「今日は何日?。」と尋ねてくるので、「12月8日月曜日だよ」と答えると、「あら、大変。12月8日にパリに行かなきゃならなかったのに、どうしようかしら・・・・。もう私の航空券、無効になちゃったわね・・・」というような会話が続く。

 こうして、一時間ほど到着ゲート前のカフェにいた私と母だが、これ以上ここがパリであって・・・・等、彼女の執拗に説明しても彼女の混乱をもっとひどくするだけだし、私もだんだんとイライラしてきて、母を叱責しかねないので、とりあえずタクシーに乗って、家に戻ることにした。

 たまたま乗ったタクシーの運転手は、自称親日家でお喋り好きなフランス人。ついつい、いつもの私の癖でタクシーの運転手とベラベラお喋りしている光景を見た母は、「日本のタクシーの運転手とは違うわねっ!!」と楽しそうに私に話し掛けてくる。

 なんだ・・・・・、どこかでちゃんと自分がパリにいる、ってことは認識してるんじゃん・・・・、と少しホッとする。

 自宅に到着すると、一足早く家に戻っていた夫が、はじめてフランスまでやってきた“義理の母”に手厚い歓迎をする。近所のスーパーに3人で買い物に行く途中、犬をみるや、満面の笑みでそれに近づいていく母。買い物を終え、夕食の支度をして、3人で母の歓迎ディナーをした。

 母が呆けてようがどうだろうが、とにかく、空港からタクシーに乗って、ディナーを終えるまでは、“あたかも普通”に事は進んでいった・・・・・・。続く。

 


2003年12月07日(日) 二つの椅子の間に座る

 10月10日〜12日にかけて、ノルマンディーのMG別荘でうけた霊気の第一段階イニシエーション。そして、12月6、7日と再び私たちは友人Pと一緒にノルマンディーに出向き、今度は、第二段階のイニシエーション。

 土曜日の早朝にMG宅へ3人で到着すると、MGがいつものように笑顔で迎えてくれる。他の参加者は?!?!?!、と周りを見渡すと、クルマがない。MG曰く、奇妙なことに、私達のほかに参加するはずだった3人は、昨夜同時に急用ができてしまって、来られなくなってしまったとのこと。

 そんなわけで、今回はMG、P、そしてわしら夫婦の4人だけの週末になった。参加者が7人もいると、会話が盛り上がってそれはそれで楽しい。が、4人となると、会話が盛り上がると同時に、どんどん色々な話題を掘り下げて話すことができるので、非常に感慨深いものがある。

 知っていたつもりのMGや、Pの新たな側面もわかるし、議論の進み方次第では、夫の新たな側面を発見できるし、夫も私の新たなソレを発見したようで、なかなか面白い。4人のメンバーは、それぞれが独立して議論進行役になれるというところが拍車をこの楽しさに拍車をかけているのだと思う。

 実は私、最近色々と気分的に解放されてきている。長年堰きとめられていた何かと和解できたかのように、気分がいい。パリにすみ始めて5年と半年でようやく、本当の意味で自分に自信が持てることができたような感覚。

 恐らく、今まででも色々と出来ていたのだが、それでも頭ではまだ自分をどこか否定していた・・・・、といえば伝わるだろうか?。とにかく、頭と感情がバラバラになることが多々あった。

 フランス語で書く、という仕事をしていながら、実はフランス語で日本語のようにバンバンメールを書くことをしたくなかった。というより、気分的にできなかった。今までも、議論や何かに参加して、たくさん発言してきたが、それでも自分の中では、まだまだだ・・・・・、とそれを否定するところがあった。

 それなりにたくさんいる非日本語兼の友人・知人達。しかし、夫はもっともっと“異様な”ほど社交的。それはそれでいいことだ。が、そこに、私としての友人なのか、それとも夫の妻として、私は彼らと友人なのか?、と時に浮かぶ疑問・・・・。要するに、アイデンティティーの問題。

 母国で暮らし、母国語を介して、思う存分楽しんだり、苦しんだりしている夫にしばしば嫉妬に似た感情を抱いたりしていたこともあった。

 私のように、夫と知り合ったからフランスで暮らしている、という人間にとって、それ以前の人間関係は、フランスにはない。すべてが、夫に導かれて始まったものなのだ。夫といるからできるものなのか、一人でも可能なのか?、そのあたりの境界が、いまひとつ自分のなかでしっくりきていなかった。

 そんなところで、夫がへまをしたりすると、心の奥底で“何一つ不自由がないくせに、こんなことしやがってっ!!”とカチンとくる自分もいたことをここで白状しておく。ようするに、自分が解放されてないと、相手にキツク当たってしまう(寛容になれない)という典型的な例。

 こんなふうに考えてやすい傾向がある一方、実際では私は色々とやってはいた。が、自分自身でこうやって否定、もしくは完璧主義を求めていると、そのジレンマから抜け出せられないのは自明。

 自分自身を取り戻すことに焦りを持ち始めた私は、その最終手段として、夫自体の存在を極端に否定するということを無意識にしはじめていたのだろう。

 そして、つい最近、本当にこれらのことが難なく受け入れられるようになった。それはある日突然やってきた。未だに自分でもビックリしている。『史上最悪の大喧嘩』というタイトルの日記でも書いたが。

 あなたがいるから、わたしがいる、相手の悪いところがあっても、そこは目をつぶるから、私の悪いところにも目をつぶってね・・・、とにかく二人で一緒・・・・、と聞こえはいいが、これを続けていくと、共依存(縛りあい)にどっぷり陥る危険性がある。私はこれがたまらやく嫌な人間だ。リスクがあっても、それぞれの存在の自由を尊重したかった。

 ただ単にバラバラに過ごすというのでもなく、だからといって縛りあうのでもなく・・・・・。その微妙な二つの境界線上にある関係。

 こんなことを考えているうちに、私は、未だにフランスに住んでいること自体、完全に受け入れてなかった、という衝撃の事実を発見した。今だからこそ非常に笑えるのだが、いつでも帰ってやる、という感覚でしか暮らしてなかったということ。ここに大きな矛盾がある。

 フランスでの生活を着々と築き、その一方で、そこからいつでも逃げようとしている私という存在。もうギャグでしかない。“しっかりと何かを築く作業”からいつも逃げようとしているわけだ。それは、夫婦のコミットメント問題にも、あきらかに悪影響を与えてくる。

 "être assis entre deux chaises"(直訳・二つの椅子の間に座る)という言い回しは、どっちつかずの不安定な状況を言い表す言葉だが、まさしくこれが私だった。日本語でも、腰がすわってない、等の言い回しがあるように、じつにフラフラしていた自分をこれらの表現に見出すことが出来る。

 これら諸々のことが解消された現在、今まで以上に、ノルマンディーでの議論も楽しむことができた。気持ちがよいほど議論しまくってきた。そして気持ちが良いほど、色々なことを学んでくることも出来た。



 霊気第二段階のイニシエーションが終わった時、どんよりとしたグレーのノルマンディーの空に、太陽が燦燦と輝き出した。


2003年12月03日(水) 史上最悪の大喧嘩

 気がついたら、長いこと日記を放置していた・・・・(汗)。

 部屋の模様がえをはじめてから、バタバタの連続で、あっという間に12月になっていた、という感じ。今までの積もりに積もった不要なものにはじまり、ゴミ、ほこりなど出るわ、出るわ・・・・・。

 同じく、夫婦の間で積もりに積もった“鬱憤”も爆発して、そりゃグチャグチャな日々だった。11月26日に日本で大地震が起こるなんつー、噂をよく耳にしていたが、なんと大地震はパリの我が家で発生してしまった。

 夫はどんなゴミを捨てない人間。そんな夫に内心イライラしながらも、夫のことをあれこれやったら、母親代わりになってしまうので、放置プレイを選んできた私。最初のうちはよかった。が、私の放置プレイもすざまじく、ただ、これを“いい理由”に、私も片付けをしなくて当然、というようになっていった。

 汚い家に住みつつ、どうやってキレイにするという意識を再びもつことができようかっ!!。まるでパリの路上だ。日本の路上はキレイになっているゆえ、嫌がおうにも人々が注意を払う。それに対し、パリの路上は汚いので、ものを“ポイ捨て”するにも、躊躇せずにできる。だって、どうせ汚いのだからっ!!。

 そう・・・・・、どうせ汚い・・・・・・。そんな投げやりな気持ちがどんどん私達の生活態度に拍車をかけていき、家の中はとんでもないことに・・・。ここまでくると、鬱になってくる。夫婦間のいい意味での活力を奪い、知らず知らずのうちに、鬱積する不満。

 私は、無意識のうちで夫のことをまるで家に“ゴミという不幸を持ち込んでくる男”として恨んでいたようだった。夫は夫で、家で私が仕事するとはいえ、最低限の家事までも当然として放置する“ぐうたら女”として無意識のうちに私に対して不満を抱えていたらしい。

 ここまでくると、どっちもどっちなのだ。が、どうしても不満のほうが大きいので、お互いに被害者の席を譲らない。また、鬱積した不満が、あらたな不満を呼び起こし、なんでもない会話がすぐに刺々しくなる。悪循環とは、こういうもの。

 そんな時、わしらが敬愛するMGにふと、SOSメールを送ってみた。この時、夫への憎しみは頂点に達していたと思う。すると、MGはおりかえしすぐ電話をくれ、非常にポジティブな声で私を励ましてくれた。ほんの少しの言葉だったが、それがまるで魔法のように、心に刺さりまくった棘をほとんど取り去ってしまったように思えてならない。

 憎しみの底にいた時、その一方では、こうしたほうがいい、ああしたほうがいい、自分も悪いのかな?、等と思いつつ、それでも、完全に恨みという執着を手放せなかったゆえ、いい案も実行できずにジレンマに陥っていた私。が、MGのたった一本の電話が、私の“負の執着”から解放してくれた。

 するとどうだろう、夫に対しても徐々に無理なく接することができるようになってくる。それが夫の心の棘を一本、一本取り除きはじめているのか、夫の態度も自然に柔らかくなってくるのがわかる。不思議なものだ。

 相手を受け入れ、許すこと、そんなことはあちこちで耳にしたし、本でも腐るほど読んだし・・・・。

 夫を許すことをはじめると、またまた不思議なことが起こってきた。今度は自分がハッピーになれることが徐々に増えてくるのだ。半ば諦めていたことが可能になったり、ゆったりと自分に自信が持てるようになってきたり・・・、すっきりと自然に痩せてきたり・・・等。その上、夫も自発的に片付けに参加してくるようになったのだ、奇跡だっ!!(笑)。

 そうなると、今まで眉間に皺を寄せていた時間がなんと無駄だったか?、ということにも気付かざるを得ない。

 何でも吐き出すつもりでいた自分だったが、そんな私でも、こうして“恨み”として腹に相当溜まっていたことにあらためて驚くと同時に、これらがいい意味でのエネルギーを奪っていたことをしみじみ体感した。



そんなわけで、急転直下で奇妙な日々を過ごしていたゼロでした。


Zero |BBSHomePage

My追加