2007年01月31日(水) |
若さ故・・大人と育ちの良さ |
ある時、友人がこう行っていました。 「本当に育ちのよい人は、他人に恥をかかせないように配慮する。」 本当にそうだと思います。 それと同時に、大人になったら「相手が返事に困ることを尋ねない」とも思います。
天然とか素を指示する人も多い世の中ですが 思ったまんまの事をそのままスパっと口に出す事はなっちゃいないよね。
そういう私もまだまだ出来てない。 今もまだ思ったことをズバズバいうからだ。 この場合、割と計算していってるので素ではないのですが。 それでも、相手が嫌だと分かってるのに言うのだから 私は育ちは悪いは、子どもだは、ひどいもんだ。
でも今から10年前はもっとひどかった。 親子ほど離れている職場の同僚をあからさまに 罵倒したり、目に見えて悪い態度でした。
その時は相手が悪いんだ!私は正しい〜!と思っていました。 でも現在は、友人から聞いた言葉で 私は、相手の人格も尊重せずに、ひどい恥をかかせていたのだな〜とわかる。 確かに相手が悪いのは、間違いのないことでしたが 他にやりようがあったのではないかと、今反省しています。
それがわかるようになっただけ、私も余裕ができたんだと思います。 よいことを教えてくれてありがとう。
それにしても今日は非常に疲れた1日でした。 でもドラマ「ハケンの品格」を見て、まるで水戸黄門のようなわかりやすい 勧善懲悪?ですっきり癒されました。 疲れたときは、こういうわかりやすいドラマがいいのです。ホント
2007年01月30日(火) |
斜め読み「文藝春秋」 |
文藝春秋2月号 「ノイローゼ、部下による斬殺説の真相 検証 栗林中将衝撃の最期 硫黄島 映画で話題沸騰の総指揮官、ついに明らかになる死の全貌」 梯久美子
映画を見た後ですし、映画の栗林中将が好漢だったので、気になるところ。 栗林中将は、アメリカに赴任していた経歴を持つ人です。 あの状況下で戦うということはどういうことなのか。 ひたすら、私の想像力を総動員しても、なんと書いていいのかわかりません。
戦争関係の作品を見ると、必ず「なんで戦争をすることになったのか」 「どうして早く終わらせなかったのか」などと考えてしまうのですが それは、今、私がこの時代にいて、こうして客観的に物事を見ているからです。 戦時中ならかなりヤバイ愛国主義者になっていたりして・・と思わないでもない。(本当に単純に出来た人間なので)
戦争を知ってる親戚の人も「あの時は、戦況をよく知る知人が日本が負ける」と言ったことにも怒りを感じた」と語っていた(そんなタイプではないのに)ことからも、そんな「たら、れば」など無意味なのだ。
やはり「思ったことを口に出していえない世の中」であり、もし言えたとしても、 命を奪われる可能性が高い環境なのだから。 でも、それは一般市民や情報など与えられない人々に当てはまることでもあると思う。
しかし、国や人の運命を変える力をもってるかもしれない人が、万が一にも 情報がないか〜らなんてことあってほしくないし 知性も教養も寛容もないだなんて、論外だと思う。 それが手に入れられない人なら、人の上に立たないで欲しい。資格ないよ。
でも、そんな理想的な人物がいったいどれくらいこの世に存在しているのかと思う。 それこそ、この映画を見る価値がある世の中とわかるってことくらいでしょうか。
そんな疲れた脳をつかの間でも癒す、 「大アンケート&カラーグラビア 昭和の美女ベスト50」も掲載されています。 いまどきの若い女性の造られた感等とは違う、美しさをもった女優さんたちが沢山見られます。
2007年01月27日(土) |
映画「硫黄島からの手紙」 |
公開前から行こうかどうしようと迷ってて 公開後は行かなくちゃ・・と思っていて 体力が回復してきたので、行って来ました。 行って良かったです。
今もとてもよい世の中とはいえないのですが
あからさまに、やさしさを否定はされない世の中ではあると思うので (私の周囲では)それでもいい方なんだと思えました。
嫌なことは、嫌といって、通常は、命を奪われることは少ない・・はずだろうと。
と後ろ向きな書き方ですけど、これがはっきりと そうだ!と安心して言える世の中になってほしいと心から願っているのです。
映画館は初老の夫婦が目立ちました。 皆さん、とても感じのよいカップルでした。 エレベーターで開閉を担当する立場になったのですが 乗られた方全てが、出て行くときお礼を言ってくれました。 全員というのは、なかなかなかったと思います。 和みました。
その後、商店街を歩いていたら、今時の若い男性が、先行するやはり今時の若い女性に対して 「落しましたよ!」と声をかけました。 大きな声なので、周囲の人が振り返ったのですが、とうの落とし主の女性たちは反応が鈍い。 そして振り返ったら「それ落としたんではなくて・・」とバツが悪そう。 落し物はその辺でもらったチラシか何かが丸まった感じです。 もちろん女性はすたすたとそのまま歩いていきました。 男性がわざと声かけたのかは謎ですが、その両人は同じ年ごろだったので、対照的だな〜と思えました。
またもや論座2月号 朝日新聞社 からです。
「コピペされる教養」の方を見ようとしたら、「蔓延するニセ科学」が目に入り読みふけってしまいました。
「ニセ科学を考える」という最初の頁が挑戦的です。 オノ・ヨーコのメッセージを引用して、次頁で記事を書いている方が「Dear Yoko」から始まる手紙を載せています。
私は「水からの伝言」て本を全く知らなかった。テレビで芸能人が紹介していたことも。 ここでこんな風に紹介するのもどうかと思うけど、こういう事から思考することって大事と思いあえて書いてしまいます。
「水からの伝言」が何で、何が問題かは、↓に記したサイトで紹介しています。 でも、私は「水からの伝言」という本自体を見たことないし、 本やネットでかかれたことを鵜呑みにして、バカをみたこともあるのでなんの判断もしません。
疑いを知らないピュアさが、「いいんじゃない」とされる現代で、 でも、それは危ないってことを学ぶチャンス到来て思います。
「水からの伝言」がもてはやされるのは、「人々のいい話」に対する耐性が低くなっている証なのだろう」 と最後の方にあるのですが、なるほどね〜と納得。
イイ話に弱い、泣ける話にも弱い。 それほど、イイ話に飢えてるってことは、やはりそんだけ潤いのある話がないんですね、身近に。 儲かる話、ウマい話にもとっても弱い現代人。 過去に、「ウマい話があるんですよ」と持ちかけられて、本当にウマかった試しはないはずなのに。 未だに、そういうのに乗っかってしまう人もいますしね。
納豆騒動だってその1つでしょうし。 納豆食べてるだけで痩せるなんて、そんなうまい話・・なかったんですよね。 テレビで実験・検証してるんだし、有名人が「あるある〜」て言ってるんだもん! と信じちゃいけないんだよね。(私は見ていませんが) ・・でも、納豆は普段から食べているものだし、食べすぎなきゃ普通の食品ですから 納豆自体には罪はないですよね。やせるからといって、値がつりあがったわけでもなし、 納豆を食べることによって、太りやすい食品を口にするのが1つ減ってやせることもあるかもしれないしw でも、納豆を作ってる会社からしたら、大変な災難ですよね。 納豆を良く食べている私としても、許せません。
私も占いの勉強しているし、風水ぽいこともやってるんで、こういう非科学的なことを否定するてのは矛盾と思われそうですが、う〜ん、難しい。 これで金儲けをしようとしてるわけじゃないし、付加価値はついていませんしね。 最終的には信じるものは救われるってことでいいでしょうか。
価値に合わない大金を投じたり、後で後悔するようなら、しなければいいと思います。 では後悔しないかどうかの判断は、自分の思考にかかってるのです。 ここで人のせいにするのが全ての間違いなのです。 とはいえ、いたいけな子どもや、弱ってる(痩せたくて)人を煽るのはやっぱり罪深いと思います。
水商売は過去にひかかってるな〜ウチ。 親戚から磁石で水を替えるとかいうのやってた気がする。あはは〜全く。
関連サイトが紹介されていました。 ニセ科学関連文書 ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/
「水からの伝言を信じないでください」 ttp://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/
水商売ウォッチング ttp://atom11.phys.ocha.ac.jp/wwatch/intro.html
The Skeptic's Dicthionary ttp://www.genpaku.org/skepticj/
斉藤環氏に聞くゲーム脳の恐怖 ttp://www.tv-game.com/column/clbr05/
物理学会シンポジウム 「ニセ科学とどう向き合っていくか?」 ttp://www.gakushuin.ac.jp/~881791/events/JPSsympo0306.html
2007年01月22日(月) |
本「マンガは欲望する」 |
ヨコタ村上孝之 筑摩書房 2006年
もうじっくり一冊を読み通す時間がない。斜め読みシリーズです。 でも、こういう本はもともと自分の興味のある部分だけ読んだらいいのかもしれない。
第4章の「逆転するジェンダー少年愛もの考」があるが、これはまあそうかな〜てことで、 上野千鶴子さんらの議論である「自分のジェンダーを否定したい女性の読者のファンタジーで、 現実とは関係ない恋愛・性愛を距離をおいて眺めるための装置」から 読者は積極的に主体的に物語の中の恋愛に参画している〜と読み解いている。 私もいろんな本を読んできたけど、ま、いろんな解釈があって、どれもそうかもしれないね〜と しかいいようがない。深いですw
デビルマンの話やらも面白そうなんですが、漫画批評もさんざん読んできてそろそろ食傷気味かもしれません。 そんな中で楽しく読めたのは、「パロディーとパスティーシュ」作者対読者共同体
懐かしいな〜「すすめ!!パイレーツ」が沢山引用されています。 ああそういえば、私ってこの漫画が大好きだったな〜 でも不思議とコミックスは買おうと思わなかったなあ。 なのに、参照されているコマとかキャラクターとかしっかりと心に残ってる。 (好きでもない漫画も結構よく覚えているが) 江口寿史の漫画は大抵好きでした。でも手元に残ってるコミックスって 「ストップ!ひばり君」くらいかな。(すすめ!とストップ!て対照的ねえ、そういえば)
今のアニメとかドラマとかでも、面白さが共有できるのってどこまでなんだろうな〜と思う機会が増えている。 私が今まで見てきた本、漫画、アニメなど文化的なこと全般と社会事情。 同じように楽しんでみているようで、その笑いや悲しみは実は視点が全然違うのだと思う。当たり前だけど。 映画の「木更津キャッツアイ」を見に行って、結構若い人たちが見に来ていて、大笑いしてるんだけど不思議に思えた。
同じものを見て、同じところで笑う。 でも、同じタイミングで笑っていても、実は違ってる。 何を評価するのかは、人それぞれでいいから関係ないと思うけど・・・
どんどんジャンルや作品自体がどんどん細分化されていて、もっと複雑になってきてる。 すごく狭い狭いところでしか楽しめなくなってきているので、これからどうなるのかな〜とは思うけど。 でも、昨日の本を読んでも思ったけど、人間てなんとしても仲間を探し出す力が備わってるのかもしれないから どんなに細分化されても、なんとしてでも仲間を見つけるのかもしれないわ〜
私自身、何を選ぶにしても、単に好きか嫌いかでしかないから、全く深みなどはないのだけど 好きなものはとにかく好きで、嫌いなものは嫌い。 それがどんなに名作ですばらしいからといっても、読めないものは読めない。 これって普通のことよねえ??違うの?? こういうこと書いても意味がない気もするけどね。
今日、ダヴィンチで勧められていた漫画のあらすじとか書評を読んで、そりゃ読めたら読んでみたいけど あまりにも恐ろしい内容そうだし、その作者のほかの漫画も多少知ってるけど、いつも社会的な問題を扱っていて すごい取り組みなのだろう・・と。 しかし読むといつもものすごく気持ちダウンで辛かった。 (読んでいた週刊誌に連載されていたから読んでいたのだけど)
でも、同じく厳しい現実とか恐ろしい描写とかが出てくる漫画あるいは小説でも読めるものもあるしな。 これは、本当に個人的な好き嫌いなのよね。ひょっとしてここでも相性があるのかもしれないけど 不思議ねえ〜。
なんだか、本の感想から全然違う話になってきてしまいました。
伊藤文学 九天社 2006年
タイトルだけ見てて、文学作品かと思っていたのですが、改めてよく見ると全然違うじゃん!(笑) (「薔薇の名前」という本を連想してしまってのでした)
私の学生の頃、比較的仲良くしていた同級生たちが萩尾望都、竹宮恵子など今で言うボーイズラブが描かれた 少女マンガを愛読し、さらにその方面を集めた雑誌なども集めていた人もいて、 この本の元である雑誌「薔薇族」という雑誌があるのを知っていました。
しかし、本・漫画はとりあえず何でも読んでみる私であっても、それらの面白さは、長らくわからないままでした。 さらにわざわざ、男性のための同性愛者の雑誌を買ってまで読むというのは、全くわからないのでした。 しかし、今回この本を読んで、とても面白いというか、興味深いので、もしかして学生時代からこの本を読んでいた人たちは とても大人だったのかもしれないと思ったりしています。 読者の投稿というか人生相談みたいな手紙がそれは深いのです。 (と真面目に書いていますが、不謹慎で申し訳ないけど、人生相談の回答とか無理すぎてちょっと笑えます。 それも時代のせいなので仕方ないのですが・・・)
著者も書いているけど、現代にこの手紙に書かれている苦悩や深刻さがどこまで通用するのかわかりませんが 今よりもっと何かが厳しかった時代を知ってる私が想像しても、それは本当に大変な事だとわかります。 病気ではないということが現代では一般に知られるようになってきたけど 昔は、情報も知識もなかったため、わけもわからず苦しんだだろうことは想像できますし 結婚や世間体の問題や犯罪にかかわる自分の性癖を苦悩する文章は迫力です。
同性愛者でなくても、一人の人を一生愛し続けること、配偶者に対して真摯であり続けることは難しいはずで。 でも、ここに書かれている人たちは、さらにややこしい輪の中にはいって苦しんでいるんだとわかります。 いい加減な人、自分や相手に向き合ってない人ならこんなに悩まないと思いますが、 女性に対して嫌悪感を持つ人が結婚して苦しんでる文章を読むとさすがにげんなりします。
彼らの時代や世間体に立ち向かえないのを責めるのも気の毒ですが、 一緒に暮らしてる相手が、自分のことを蛇や野獣のように思ってたら生きる気力も失いそうで恐ろしいと思いました。 長く一緒にいたら、そんな風に思われてる事に気づかないわけないとも思いますし・・ 真っ赤な薔薇は結婚してはいけない〜と書いている人がいましたが、本当にそうですよ。
そんな人たちの男だからよくて、女だから気持ち悪いってのは、私にはどうしても解せぬ・・と思ってしまいます。 そんなに長い間、寝起きをともにして、家族の情がわかないのかしら?と 実際、そういう愛情をもって暮らしている人もいたのですし、 もしかしたら、単純にその奥さんと相性が悪いのかもしれないのにとも思えます。 自分が同性愛だから仕方ないと錯覚していたのかもしれないのではないかと、そこにまた悲劇を感じます。
男でも女でも気持ち悪い人は気持ち悪い、って思うのですが・・ でもやはりそういう男性の気持ちがわかるわけないから、言っても仕方ない話なんでしょうね。
そんなわけで、人間とは、男女の分かれ目とは、などなど考えさせられる本でした。 そして今のある程度の自由さというのはすごい事になってるなと思うのです。
蛇足:それにしても、そんな厳しい状況下で、複数の恋人などをみつけてる人たちってすごいと思う。 やっぱり求める気持ちが大事ってことなんでしょうかねえ〜薮蛇?
蛇足2:三島由紀夫さんについて書かれている部分や掲載されている「愛の処刑」小説も興味深いのですがまだ読めていません。
蛇足3:世田谷文学館、蘆花公園へ行ってみたい。 ---------------------------- 論座2月号 朝日新聞社 コピペ化される教養〜という記事で気になったのでメモ。
・「知の職人をめざす人へ」熟練に向かう持続力と楽しみ 佐藤健二 じつはバレてる「ぐぐってコピペ」、「丸写し」が身体に刻む教養 ・エッセンスはどんどん真似ればいい しりあがり寿 ・現代の写経 宮沢章夫 ・コピーされなかった部分こそが、コピーされた部分を準備している 町田康 ・「これを勉強することが何の役に立つんですか」に絶句する私 内田樹 〜教育は本来ビジネスタームで語るべきではない〜
学生の論文やレポートがネットからコピペされているという話からいろいろ。 パソコンの普及で、写すことが簡単にはなったけど、その分バレるのも簡単ということか。 写経という言葉があるように、書き写す、真似することが上達のための手法の1つでもあるし 本を著す人が、まるまる他人の文章を引用して問題になったことも過去になんどもあるしな。 何の役にたつか、効率を重視したら、こうなったって表れかもしれません。
〜レコーディングで、コピーペーストの技術がよくなり 間違えなかった部分だけ切り貼りしてできあがったのは 歌の表情がちぐはぐで、気のおかしい人が歌ってるみたいになったから 従来の何度か歌った中で一番いいものを採用する方式にした〜 というようなことを町田康さんが書いていました。 「何度も歌った中でよい部分だけ切り貼りしても、ライブでばれる」とも そりゃそうだ。
しりあがり寿さんも書いていた、「どこかにあってほしい源流の一滴」
そうした誰にも真似できないそのコピーされない部分をもってる人こそが 常にコピーされ続けるのかもしれないとも思いました。
1月になると、ほぼ毎日阪神淡路大震災の話題が連日出る。 1月よりも12月からといってもいい。 で、ついに本日が来るわけです。
今日はタンスが倒れてきて、親子3人が助かった話をニュースで見る。 倒れてきたタンスが観音開きで、腕立て伏せの形になって、倒れてきた物から守ってくれたとのこと。
それから近所の人の話も聞く。 近所の人は娘さんが早朝スキーから帰ってくるから起きて、待っていた。もし寝ていたら、タンスの下敷きになっていたとのこと。
本当に人それぞれなんですよね。
うちの亡き祖父は暗闇で髪の毛にかすったものがあって、なんだろうと思ったらそれはタンスだったそうで あと数センチでもズレてたら大変なことになってただろうと。
私は、地震が収まった後から自室を逃げ出したんだけど、明るくなって戻ってみると 出入り口のドアの周辺には、書棚が倒れていた(ガラス付)。 なんで私が居たときは大丈夫だったかというと、エアコンの有線リモコンがブラブラしないように、書棚の脇にがっちりと取り付けていたから、そのリモコンの線がしばらく書棚をひっぱっていたらしい。 私が逃げた後、ぶちんと切れたんだと思う。
いろんな意味でスレスレな日だったんだと思います。
2:普段の態度が自然に評価されている。
自分にとっては当たり前でも、他人にはそれが珍しいことかもしれないということ。
例えば、私は時間は正確に、約束は必ず守ることは当然だと思っていました。 でも世間の人は意外とそうではありません。 私はきちんと守ってるのに、なぜあの人は守らないのか!と怒ってみても仕方ないと気づいたのは 自分の体験と、友人たちの経験談からでした。
友人の中にも、いつも待ち合わせに遅刻してくる子がいて困る。 どんなに怒っても治らないと不平を言う人が少なくありません。 この毎回、当たり前のように遅刻してくる人は、はた迷惑な人です。
運も強いかもしれないし、気も強いというか、人の気持ちに鈍感な人です。 そこまで文句言われても、全く凹まないで、常に遅刻してくるのですから、たいしたものです。 相手のことなど、全くお構いなしでいられるのだから、こんな人とは付き合いたくないものです。
待たされている側の彼女たちは、遅刻してくる子にとにかく遅刻しないでと要求するだけで 自分で能動的に変えようとはしていませんでした。
私も以前は「どうして遅刻してくるのかしら?失礼な人ね」と思うだけで一緒に怒ってたクチでしたが もともと私はあまり待たないタイプなので、そんなに待たされた覚えはありません。 昔からそういうところはドライだったのです。 15分くらい待ってもこなかったら、帰るか一人で用事を済ませて帰ってしまうようなタイプでした。
だから、なんで待たされる彼女たちは、文句を言うだけで、いつまでも待ってるのかしら?と疑問でした。 自分を全く大切に扱ってくれない、失礼な人と付き合うなんて、時間が無駄だわ、と思っていました。 待たす側の人に、それだけの価値があるなら別ですが・・・ そうです。自分でも不思議なことがありました。同じ待たされても苦痛でない人と苦痛な人がいることです。
そして、さらに象徴的なことがありました。 遅刻魔だと思われている友人が、私との約束には時間通りやってきたこと時のことです。 その子は「あなたは時間を守る人だからちゃんと来た」といいました。 彼女はちょっとルーズだと思われていたけど他、人に対してあまり怒ったりすることはない美点もありましたし 実は臨機応変に相手に合わせて上手く立ち回っていただけなのかもしれません。 そして、ちょっと報われてると思えた瞬間でした。
そんな事があって、私もいろいろと考えた結果、 私の場合、待てる人としか付き合はない事がイライラの最大の解消法だと思いました。 待ってでも、会いたい人ということです。好きな人と会うのだから、苦痛は少ないです。 それに、そういう気持ちでいる人は、無断でイライラしてくるくらいの遅刻してくることなんて 今まであったためしがありません。
あまり付き合いたくない人、遅刻しがちな人とどうしても待ち合わせをするのなら 待ち合わせ場所を本屋とか喫茶店にするとか、そのほかいろいろ工夫すると思います。 絶対に遅刻してくる人なら、いつも遅れてくる時間だけ、その人には待ち合わせの時間を早く言うのです。 (そうアドバイスしたら、本当は12時なんだけど、あなたは11:30に来てねとバカ正直に約束したツワモノがいますが それでは、全く効果がないことは言わずもがななことです)
-------------------------------- 仕事場で、友人関係で、私は以前は気になって、あるいは疑問に思ったり、怒っていたことが そんなにイライラしなくなり、ほとんど気にならなくなってきました。
この気持ちの変化ってなんなのでしょうか。 私の性格が丸くなったのか。それもあるでしょう、 イライラしないように知恵を働かせられるくらいに頭がよくなった。それもあるでしょう。
では、どうして丸くなったり、頭がよくなったんだろう。 年をとったから?でも私と同じ年齢になったからといって、みんながそうできていないでしょう。 経験を重ねたから、ともいえるけど、同じように経験したからといって、同じことが達成できることはありません。 全部がたまたま重なったからだとしかいいようがありません。 それは一言でいって、運がよくなったといえないでしょうか。
今まで、いろんな人と出会い、いろんな人が抱えている悩みやとらわれているものをじっと観察してきました。 私が人より少し恵まれていたのは、いろんな年齢層の人といろんな話をできる環境にいたことと 分析することが嫌いでなかったことでしょうか。
自分をついてない、不幸だと思ってる人は、自分がその思いにとらわれていることが多いです。 常に問題を抱えている人も、やはり強い拘りや思い込みに支配されています。
それが自意識なのだと思います。
2007年01月15日(月) |
強さと自意識。そして器。 |
運が強いという表現がある。 強いという表現が正しいかどうかはわからないが、一般の人にわかってもらうにはなかなか言葉を選ぶのが難しいのでした。
問:強いは良いことか?→答:微妙です。 問:強いとは気が強いということか?→答:違います。
運が強くて、気は優しい人はいると思います。 運が弱くても、気が強い人ももちろんいます。
--- 学校の先生になるには、免状がいるのですが、占い師は国家資格などはありません。 私はまだまだ勉強中ですし、うまくアドバイスできないことも多いなと思うのですが 師匠は、占い一般は人生相談なので、年をとり、人生経験が豊富になれば、それだけスキルアップといいます。 それに他人に教えるとかアドバイスするというのは、やろうと思えば誰でもできることかもしれません。 例えば、ひらがなを習ってかける人は、ひらがなを知らない人に教えられます。 でも、それしか知らなかったらあっという間に教えることもなくなるし、生徒だった人の方が漢字を習得して、 あっという間に立場が逆転することがると思います。 それでは、より多くを学び、知っている人が良い先生になれるというところでしょうか。 でも生徒がいなかったら、先生にはなれません。 逆に生徒がいたら、どんな人でも先生と呼ばれてしまいます。不思議な現象です。
繰り返しますが、私はまだまだ若輩者ですし、占いは本業ではありません。 あくまで友人や親しい方が困っている時などに、相談に乗る1つの方法と思っています。 このように、本業でなく、ごく親しい友人たちをメインに占いをしていても 数をこなせば、知識も増え、経験も積み重なり、自然にわかってくることがあります。 そういう意味で昨年は、驚く程の実りがありました。
そんな話を長くなりましたが書きたいと思います。
-------------------- 1:強いことは本当に良いことなのか?
強いというのは、気が強いという事などではありません。
例えば、強引に事を推し進めようとするのですが、誰も賛同してくれないし、事態を悪化させ、評判を落とす人がいます。 この人は単に、我が強いだけで、他人に譲ることを知らない器の小さい人ということになります。 自分の器の大きさを知らず、自分の能力や徳以上のことをしようとしても、人は付いてきません。 悪循環を起こします。でも、こういう人はなかなか自分の欠点に気づきません。 自分の欠点に気づけない人ってのは、本当に運が良くない気がします。 (逆もいえます。自分のことを欠点ばかりでいいところがないと思い込んでる人も運がよくないと思う。 他人はそれほど欠点だと思っていないのに、思い込むような人。悪い意味での自意識過剰)
運は強い人が我が強い場合はどうでしょう。 いろんな運の強い人を見てきて感じたのは、運も強くて、我も強い人ははた迷惑な人です。 全て自分の思い通りに事を運ぼうとして、実際にその通りにさせてしまいます。 その人より運の弱い人は、従わずにはいられなくなるのです。 その人のすることが間違っていても、どんなにその人が嫌いで、それをしたくなくてもです。
病気で寝ている奥さんにいつものように家事をさせる人なんてのは典型的かもしれません。 聞き分けのない子どもにいつも根負けして、ついついいう事を聞いてしまうのもそうでしょう。 奥さんが旦那さんと負けず劣らず強い星なら、「しんどくて寝てるのに、なんでせなあかんねん!」と一喝できる場合もあります。
それは単に「思いやりがない」とか「相手の身になって考えられない」といわれる性格でもあります。 こういう事は、教育とかしつけによって変わる事もあるかもしれませんが、運が強く自分のしたいようにする人というのは 他人にとやかく言われてもあまり気になりませんし、周囲も言ってもムダだと諦められることも多く(根負けする) 結局、運がそうさせるのか、性格のせいなのか、本当にどん底を味わうまで、自分の至らなさには気づきません。 でも本当のどん底を味わう時には全て遅いのかもしれません。
こうした差は、周囲の人間模様や私自身が周囲から受ける態度の変化から感じたことです。 仕事をしていると、楽しいことばかりではありません。どちらかというと辛いことのが多いです。 しかし、そんな職場でも、気楽に楽しそうに過ごしている人がいます。 好きな時に有休を取って、好きな時に休憩して、好きな仕事しかしない人がいます。 私などは、有休取るにしても、職場の状況や人員の状況を考えて、遠慮しながら取っていました。
この違いはなんなんだろうと思ったのです。 私の方が仕事を一生懸命して、周囲に気を配ってやっている(つもりな)のに いえ、やっているからこそか、どんどん仕事は増えて忙しくなっていきます。 そして首が絞まるように自由も無くなっていくのです。 そしてそんな勢いで仕事をしているせいか、信頼はされていてもどこか孤独でした。
仕事は適当で、自分勝手にやってる人は、どんなに陰口たたかれても気にしていません。 でも、普段はその適当な仕事ぶりに文句言ってる周囲も、仕事以外では仲良くしていて楽しそうです。 なんてバカバカしい!と思いつつも、急に自分勝手に適当になんてできるはずもなく今に至るわけです(苦笑)
そんなこんなで長い間仕事をしていると、年も取るし、だんだん自分でも冷静に見られるようになってきました。 私は結局、どんな職種、職場にいっても、いつも変わることのないポジションでした。 真面目に堅く仕事をこなして、本当の事をズバズバいうので、一人浮いている。 その反面、周囲に気を使い自由がない。
どこへいっても変わらないということは、周囲が悪いわけではなさそうです。 自分が悪いというか、自分を変えなくては、何も変わらないと気づき始めたのです。 他人を変えるより、自分から・・と先達にさんざん教えられてきたけど、それが本当にわかったのは最近です。
でも、気づき始めてから、意識して、必要以上に気を使う事、他人に要求することをやめてみました。 するとだんだんとラクになってきたのです。やりそうになったり、やってるのに気づいてストップをかけるのです。
例えば、いただいている有休を使うのに、必要以上に気を使うことはないのです。 以前は「休んだら迷惑がかかる」と思って、周囲に気を使い遠慮しながら、取っていました。 他の人は年中、自分の好きな時に、遠慮なく休んでいるのに、 私はスケージュールをにらめっこして、本当に忙しいかどうかは、その日になってみないとわからないのに その辺りは忙しいかもしれないからと避けてみたり、誰かが後から同じ日に休みにしたら、 私は休みを取るのをあきらめたりなど、かち合わないように努力しました。
でも、私一人が休んで困るような職場であるほうがおかしいのです。 だって、他の人は堂々と休んでいるのですから。 これは私の自意識が過剰ということになります。 本当に困るようなら、職場で問題提起して変えていくことが肝心です。 それに、困ったからこそ、考えるチャンスもできるというものです。 (そうはいっても、やはり普段仕事をこなす量やポジションもあるので 一概にはいえないのですが、この場合、私はちょっと考えすぎでした。)
自分の職場の中心でいたければ、別ですけど、私はそんなこと望んでいませんでした。 私がいるからこの職場はもってるのよ!というような喜びを感じるような人間にはなりたくなかったのですから。
仕事の取り組み方も、周囲のヌケだらけの仕事を真似する必要はないけど 自分の仕事さえきちんとやっていれば、他人がどうであろうと良いと思えるようになりました。 もちろん、私に関わってくる仕事は目を光らせていますが。
相手に要求するということは、自分もそれだけのことをしなくてはならないのですし 誰もが自分と同じようにできるなんて思うのは傲慢だと気づいたからです。 自分が優れていると思うのも傲慢ですが、自分と同じようにやれというのも同じことだと思います。
私の職場は、ほとんどがのんきな仕事ぶりで、おかげで私の仕事ぶりがかなり評価されています。 比較対象の問題です(転職したら、普通か普通以下くらいの仕事ぶりだと思います) 周囲の無能ぶりを嘆いたり、腹を立てたりせずに、 「ああ彼らがさぼってるおかげで私が光って見えるわ。引き立て役を買って出てくれてありがとう」 と思うようにしました。 世の中には、自分の有能ぶりをアピールするために、高下駄を履いたり、誇張したりと忙しいそうですが 私は無理なく、普通に仕事をして、高い評価を受けられるのです。驚きです!
周囲を自分と同じように揃わせることなんて、絶対に無理なことで、 でもだからといって、自分を悪いほうに合わせる必要もない! それを知りつつ、平静でいることは、ちょっと難しいけど、できないこともないのです。
2007年01月04日(木) |
本「女教皇ヨハンナ」 |
ドナ・W.クロス 草思社 2005年
やっとこさ読めましたよ。 思ったより、さくさく読めたのでこれだったらもっと早く取り掛かればよかった。 外国文学で宗教だから、とっつきにくいかと思ったけど、そうでもなかった。
物語は、日本の少女漫画のお手本だったかのような壮大なお話。 とりかえばや物語とかベルバラとかオルフェウスの窓とかetc.
フィクションでありながら、真実なのかも!とミステリアスでドラマチックです。 ただ結末は、私が願ったものとは全然ちがって、哀しいものでした。 仕方ないだろうけど。
少女漫画や宝塚で上演したのなら、絶対にヨハンナとゲロルトは手に手をとって逃げて、幸せに暮らしたとさ。 で終わるはず!!
でも、そんな甘い話ではないから、本当に仕方ないんだな。 読み始めてすぐに、またもやこんなダメな男が次々と出てくる話を読んじゃっていいのかしら?と思った。 しかも宗教がらみで・・一番私はもうおなか一杯ですと思ってるキーワードですよ。
そして、今もお世辞にも良い世の中とはいえないけど、このヨハンナが生きた時代を思ったら今の方が絶対にいい! だって女性が本を読んでも怒られないし、勉強するのも、働くのも当たり前になったんだもん。 (ヨハンナや過去の勉強したくてもさせてもらえなかった女性たちのことを思うと、いくらでもチャンスを与えてもらっていたのに、きちんと勉強しなくてごめんなさい、といつも思う。) 男に口答えしても、ムチでぶたれたりしないもん。 もしぶたれたなら、警察に訴えることもできるし。
でも、日本だって少し前はそんな風なところあったしな〜 今もDVとかあるしね。宗教の被害もあるし。
本当にヨハンナの父親が憎いです。 でも、そんな父もそのまた父にそういう風に育てられたんだろうし その世界しかしらないから仕方なんだと思う。 やっぱり教育は大事だな。
ヨハンナが愛する男性の胸に素直に飛び込めないのも無理は無い。 私のようなもんですら、悩むことだもん。
ヨハンナが実在したかどうかは別にしても こんな時代があって、多くの女性が苦しめられてきたことは間違いない。 女性だけじゃなくて、指導者の考えがたりなくて、見殺しにされた罪のない人も。 歴史を習っても、学習能力ないんだね、人間て。
ヨハンナが、人を救おうと一生懸命働き、知恵を絞っても、 自分より目立つのがハラタツとか、今までそんなことしたことないとか 神様がなんとかしてくれる〜とかいって却下するんだもん。
でも全然、現代と変わってないや〜 ウチの職場もそんなもんスよ〜ww
あけましておめでとう!今年もよろしくお願いします!!
今年の抱負は・・・ 病気無し!怪我無し!と決まりきったことで。
昨年と比較してみた。 >病気無し!怪我無し! まぁまぁ大丈夫だったかも。 アトピーは沈静化(油断したらダメだけど) ひどい風邪はひいてない(でも今日、喉痛いの、風邪かも。実家帰って油断したよ) 怪我もないしね。といいつつ ツライのは腰痛と坐骨神経痛かな。あと火傷と爪の凹みが辛かった。 でも、歯の悩みが解消しました。10年越しに〜やった! バレエはスクールがイマイチ行きたいところがないので、見送っています。
本はあまり読めなかったな〜 年末にラストスパートしたけど、3冊しか読めず。
でも、占い、カラーセラピーと後輩に助言することで、 より一層自分のことがわかる1年でしたので 今年はさらに探求して行きたいです。
そういえば、忘れていたけど、昨年はお見合いがきっかけで もう結婚しなくてもいいや!と踏ん切りがついてよかった。 コレは大きいよ!すごく楽になったもん。 今年もマイペースで行こう。
英会話もあと1クールです。よく続けられたもんだ。 お休みも数回しかしてないし、自分でも驚いた。 残りも気を引き締めてやります。
今年こそよい年にしたいです。
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