今日のタイトルは、ドナルド・ウィニコット氏という精神分析家サンの論文『独りでいられる能力』(Donaid W.Winniott,"The Capability to be Alone",1969)から頂きました。
というか、大晦日だというのにテレビも観ずに本なんて読んでる自分も何だかなぁ〜、とは思うものの、今日の夕方くらいに、野獣くん(→うちのダリンの愛称、しのぶサンに命名して頂きました、あはw)が書籍『孤独―新訳』アンソニー・ストー 著(原題"Solitude - The School of Genius" by Anthony Storr)を「これ、日記のネタにでもしたら?」とプレゼントしてくれたので、じばし読んでいたのでありました。(→ちなみに、野獣くんはこの日記も読んでいます。。)
では、いつものように気になった箇所を長々と引用してみますわ。
(中略)独りでいられる能力は、個人が自分の真の内的感情と接触し、それを明確に表出するという能力とも関わっている。
子供が母親のそばで、その次に母親から離れて、独りでいるという満ち足りた心のゆとりを経験したときに初めて、他者が自分に期待しているものや押し付けようとしているものとは無関係に、本当に自分自身が要求するもの、望むものを見つけ出すことができるという確信を持つようになるのである。
独りでいられる能力は、このようにして、自己発見と自己実現に結びついていき、自分の最も深いところにある要求や感情、衝動の自覚と結びついていく。
(中略)自分の最も深いところにある考えや感情に触れることができること、その考えや感情が自ら新しい形や組み合わせを作っていくための時間を与えること、この2つは、緊張を和らげ、精神的健康を増進させる方法であるだけでなく、創造の過程の重要な側面である。
したがって、独りでいられる能力の発達は、脳がその最良の状態で機能するためにも、個人が最高の可能性を実現するためにも、必要なことであると思われる。
人間は容易に自分自身の深層部にある要求や感情から遊離してしまう。学習、思考、革新、そして自分の内的世界との接触を維持すること、これらはすべて孤独によって促進されるのである。
書籍『孤独―新訳』アンソニー・ストー 著;p35-53より引用。
要するに、“独りでいられる能力”は心の健康、創造性、そして、自己発見と自己実現のためには必要不可欠、ということらしいです、はい。
また、“独りでいられる能力は、幼い時期を通して築き上げられてきた内的な安定感の1つの側面である”とか、“安心感を持った子供は、成長するにつれて母親または他の愛着を感じる人がその子のそばに物理的に存在し続ける必要はなくなり、より長い時間不安を感じないで独りでいられるようになる”、という記述もあり、その箇所を読んだとき、私って幸せな子供だったのだなぁと、しみじみ思いましたわ。
引用文中にあるような“他者が自分に期待しているものや押し付けようとしているものは無関係”な人=私という人、ですので。(→まぁ、単に自由奔放かつ我がままとも言うけど。。)
で、思わず両親に「放任教育受けさせて頂きどうもでした♪」とお礼を述べてしまいましたわ。だって、もしも私に他者に勝るような何らかの能力があるとしたら、まさに“独りでいられる能力”くらいしかないし。。
でもまぁ、それがあるからこそ、メンタル的にも健康だし、マーケットという抽象的な空間で創造性を発揮することもできているのだろうし、また、そう考えると、“独りでいられる能力”がいわゆる自己実現に繋がっていて、今があるとも言えるし。それに何よりも、内面的にかなり満たされた生活しているよなぁって自分では実感してもいます、はい。
なので来年も、“独りでいられる能力”を発達させる、と同時に、適度なレベルに保持するためにも、この日記『心地よい孤独。』を綴っていきますわ。
ちなみに、来年のスローガンは以下♪
負けたフリして諦めない。
逃げてるフリして攻め上げる。
常にたったひとつのテーマだけを執拗にあらゆる角度から凝視め続ける。 by 橘川 幸夫
というコトで、来年は「さらに泥臭く♪」を目標に、がんばりますわ。
では、貴重な読者の皆さま、来年も引き続き宜しくお願い致しますw
良いお年を♪
2004年12月29日(水)
孤独だからこそ愛が成り立つ。 - bring out the best in me and in you too -
そういえば以前、私はこの日記で下のように書いたことがありました。
同時に同じものを見た、としても感じ方の差異がありその伝え方にも差異がある。主体が違えばクオリアの差異がある。どこまで寄り添ってもこの差異は消えることはない。どこまでも消えない”私”と“彼”の間にあるこの薄い膜。この膜こそが“心地よい孤独”(Solitude)の正体なのかもしれないね。
2004年10月01日『私のクオリアを教えて。』
って、過去の自分の文を読むのって、この上なく恥ずかし〜い、んだけど(苦笑)、実はこれ、現在、認知科学等の領域で取り組まれております
クオリア(Qualia)について考えている時に書いたのでありました。。
というか、自分の拙い過去文をわざわざ引用した理由は、ここ1年で学んだコトで一番収穫があったのは、今思えばコレだったのかもしれないなぁ、と思ったからですなぁ。
皆さんもそうだと思うのですが、いくら日々平和に暮らそうと自分で思っていても、どうしても人間関係などで色々と迷うことって多いですよね。。で、私も結構、人間関係に悩むというか、正確に言えば、“気を散らされる”ことが多かったのですが、今年よくやく、長年のあいだ疑問に感じつつも言語化できなかった人間関係にまつわる謎が、クオリア問題を知ることで解明かれた、という感じがしたのでありました。
もう少し噛み砕いて表現すれば、「相手と理解しあうことは難しい」とは一般的にもよく言われているし、それは私個人の主観的な体験を通しても理解していたつもり。なんだけど、今年は、その「相手と理解しあう」「相手と同じ感覚を共有する」というのは気の遠くなる程難しい、というその“困難さの程度”に気がついた、という感じがしたのです。
相手と自分との相互理解を困難にさせる、と同時に、わたしが「わたし」であり、相手が相手であるのを保証する「膜」。その、人、そして人と人との間にある「薄い膜」の“存在”と、その膜の“厚み”に目眩を覚えたと同時にまた、希望を見出したような、そんな感覚がしたのでありました。
以下、参考までに、書籍
『僕、9歳の大学生―父・母・本人、「常識」との戦い』矢野 祥 (著)より引用すると、
人は皆孤独であり、孤独だからこそ愛が成り立ちます。
「孤独だ。自分をわかってほしい」と思うなら、なおさら他人に思いやりを持って生きていかなければなりません。そうすれば、人は想像もできないほどにすばらしい人間関係を築けるようになるはずです。
『僕、9歳の大学生―父・母・本人「常識」との戦い』矢野 祥 (著);p86より引用。
というような、相手と自分自身の「孤独さ」を尊重するからこそ「愛」が成り立つ。そういう境地に、今年やっとのことで至れたのかもしれません。
例えば、
『いわゆる法的な結婚制度について私見』(←20041011の過去日記)の流れで言えば、友達や恋人や夫婦という「枠」を外す必要性を相手に理解してもらうのは確かに難しい。
けれども、私個人は、それでも『役割の意味する内容を共有化』することは十分可能だと思っているし、やはり努力、というか、関係を幸福なものにしていこうというような、「主体性をもてるかどうか?」がポイントなんだろうなぁ、と最近思ったりもします。
たぶん、一番良いのは、相手の「膜」と、自分の「膜」が重なった“関係性”の「枠」となる領域で、お互いが納得する「枠」(「枠」のない「枠」も含む。)を選択することなのかもしれないですなぁ。(→と、これは、ことサンとのメールのやりとりで言語化することができました♪ことサン、ありがとうございました♪)
で、これもまた過去文に書いたけど、
「愛と呼べる瞬間」(←20041018の過去文)というのは、下の歌詞にあるように、私(=主観の存在)を忘れている&失っている瞬間(=I love you when I forget about me)にこそ在るんだろうなぁと思う。また、「私とあなたは違う存在だ」という事実から出発した上で、"bring out the best in me and in you too","I want to make you feel better"、そして"I want to make you feel free"って思える状態を「愛」って呼ぶんだろうね、きっと。
I am on a lonely road and I am traveling
Traveling, traveling, traveling
Looking for something, what can it be
Oh I hate you some, I hate you some
I love you some
Oh I love you when I forget about me
I want to be strong I want to laugh along
I want to belong to the living
Alive, alive, I want to get up and jive
I want to wreck my stockings in some juke box dive
Do you want - do you want - do you want
To dance with me baby
Do you want to take a chance
On maybe finding some sweet romance with me baby
Well, come on
All I really really want our love to do
Is to bring out the best in me and in you too
All I really really want our love to do
Is to bring out the best in me and in you
I want to talk to you, I want to shampoo you
I want to renew you again and again
Applause, applause - life is our cause
When I think of your kisses
My mind see-saws
Do you see - do you see - do you see
How you hurt me baby
So I hurt you too
Then we both get so blue
I am on a lonely road and I am traveling
Looking for the key to set me free
Oh the jealousy, the greed is the unraveling
It's the unraveling
And it undoes all the joy that could be
I want to have fun, I want to shine like the sun
I want to be the one that you want to see
I want to knit you a sweater
Want to write you a love letter
I want to make you feel better
I want to make you feel free
Hmm, Hmm, Hmm, Hmm,
Want to make you feel free
I want to make you feel free
# "All I Want"(BLUE 1971) by Joni Mitchell
# I dedicated the song to YOU who dedicated the song to me. merci:-))
2004年12月28日(火)
ゆっくりとベストを尽くす。
以下、再び
『恋も仕事も思いのまま』ヘレン・ガーリー・ブラウン著(集英社文庫1988年)より引用。
とにかく新米のあいだは、中身の濃い人生を送ろうと思うなら興味の在ることをすべてやってみるべきです。“予定がつまりすぎ”“何にでも首をつっこみすぎ”ているくらいでなければ、人生から得られる楽しみの半分は見逃していることになりますよ。
(中略)はじめのうちこそゆっくりですが、仕事の上でも私生活でもやがて加速度的に効果をあげはじめます。そのうちとてつもないスピードになって。
わたしの場合、30代後半から40代にかけて、着々と成功していったわけだけど、いちばん華々しかったのは50台に入ってからね。ほしいものはすべて手に入るって感じ。
ときにはつまずくこともあるけれど ― 失職したり、社内の派閥争いで読みを誤ったり、私生活の中で恋愛、健康、お金などの問題がつぎつぎと起こったり ― 人間、年とともに強くなるものなのです。産毛の生えた桃みたいに初々しかったあなたの顔も、ひと皮厚くなって、それでもずっと美しく、セクシーになるはずです。
ほかの女性が夫や子供に捨てられて自信をなくしていくちょうどその時期、あなたはいまを盛りと咲き誇っていることでしょう。
『恋も仕事も思いのまま』ヘレン・ガーリー・ブラウン著(集英社文庫1988年);p45より引用。
ここ数日、今年を振り返りながら来年の目標や時間の過ごし方を考えておりました。のだけれど、上の引用文を読んでみて、“来年の”とか“3年後の”とか“5年後の”とか。そういうギリギリ想像可能な短い期間での目標、ではなくて、もっと遠い未来を見据えた上での目標を、ある程度具体化する必要があるなぁと思いましたわ。。
まぁ、長らくこの日記を読んで下さっている方はご存知の通り、私って、家族法(←民法の第4編親族と第5編相続を合わせて家族法と呼ばれることが多い)でで支えられています結婚制度を利用しない側の人なんですよなぁ。(→理由は色々あるけど、短く言ってしまうと、国に関係を拘束される&固定化されるような法的契約を“わざわざ”結びたくないから、ですわ。それに読んでみたけど、日本の家族法ってちと問題あるよなぁと思ったりするし。)
なので、民法上の結婚制度を利用する方々と比較しますと、居住地の選択や自由になる時間の量などという意味では、幾分自由度が高い生活が送れるというのはあるかもしれませんなぁ。(→というか、法律婚するorしないとかじゃなく、本質的には一緒に過ごす相手によるんだけどね、結局は。って、今は満足してますので変に勘ぐらないようーに。。)
よって、その点を考慮し、1週間くらいかけて、今ある「夢ノート」を再度書き直して、上の引用文の記述から連想できるようなライフスタイルよりも、もう少し自由度を上げたプランを作ってみようかなぁと思う。大目標である“ゆっくりとベストを尽くす”を可能にするような、長期的な視点に立った、ゆっくりとしたプランを。
2004年12月27日(月)
できるだけ“遠く”を見渡せ。― Driven by a relentless curiosity ―
今年ももうすぐ終わり、というコトで、今日は軽めに、今年嬉しかったことでも書いておこうかと思います。というか、今年1年は、わたしにとっては、特に大きな変化もなく、なだらかな年だったので、まずはそれに感謝ですね、ふむふむ。
で、嬉しかったこと、というか、励みになったのは、少し困ったコトがあったとき、具体的に言うと、人に流されて自分の目標を見失いがちになった時期に、下の文を送ってもらったことかなぁと思う。ので、かな〜〜〜〜り長い、ですが最後に引用しておきます。
下の文を何度も繰り返し読むことで、自分が今いる現在地点が認識できるようになり、気持ちが落ち着いたという感じでしたなぁ。どうなりたいか?、を考えるのではなくて、その前に、"Remember Who You Are"(=自分はいかほどの者なのかを思い出す&忘れない)のほうが大事、ということを教えられたように思います、はい。
つまり、「自分は小さい存在だ」という認識から出発するのが大事、ってコトなんだと思う。ということで、何はともあれ、送ってくれた某氏に感謝ですw
ポイントはやはり、
★感情が高まり欲望がみなぎるが、呼吸に集中し心を静める
★私はそこに座り、彼らが敗退していくのを見物し、そして水が描く黒い筋をたどりながらフェースの複雑さを見つめた。雲は薄れ始めている
★「登る」という最も力強い本能に完璧に没頭した。
★ハーフドームをソロでスピード登頂することは何年も考え続けてきたことだ。しかし手を伸ばし、ホールドを掴んだとき、私の心は全くの無だった。指が1つ1 つのホールドをしっかりと掴み、私は恐れることなく岩の上を移動する
★墜落というオプションは私の現実には存在しない
★私は目前に迫った「完了」の期待を押さえ、頂上を目指した
★「経験とは致命的でない間違いの連続である」という結論に私は至った
★できるだけ“遠く”を見渡せ
ですなぁ。クライミングやスポーツって、投資の世界に通じる要素があるんだなぁと思った。来年も"容赦ない好奇心を原動力に(=driven by a relentless curiosity)頑張りますわ。もちろん、マイペースで。呼吸に集中し心を静めて。できるだけ“遠く”を見渡して。
カラスの飛翔に魅了され、その影が金色に輝く花岡岩を滑らかに移動するさまに見とれていた。ただ生きてるだけのような人間がひしめく雑然としたこの世界の上空を飛翔する、その自由さに憧れを感じたのだ。最近の私は、過去のことや今後やりたいことに心を奪われている。
ハーフドームを見つめ、沈みゆく太陽がその切り立った壁画に急速に影を落としていく様子に見入った。冷たい空気が谷底を満たし、夜の匂いが私をピパークへ、そして眠りへと誘う。黒い鳥のイメージが夢の中でも舞い上がった。
朝、確信に満ちて目を覚ました。準備を終えたギアを掴み、ハーフドームの北西「レギュラー・ルート」へ向かう。頂の上空を雲が流れ、森の中にいる私は霧雨に包まれた。
感情が高まり欲望がみなぎるが、呼吸に集中し心を静める。水で磨かれたスラブへと足を運び、花盛りの過ぎたワイルドフラワーの原を通り、壁の基部へとたどり着く。
断崖のすぐ下まで歩み寄ったときには、その姿は霧に覆われていた。ルートの近くに立つと、あるパーティが壁の半分くらいの所を懸垂下降しているのが見えた。私はそこに座り、彼らが敗退していくのを見物し、そして水が描く黒い筋をたどりながらフェースの複雑さを見つめた。
雲は薄れ始めている。湿った岩の匂い、体内で上昇する熱、そしてそれが冷たい外気に触れて発する蒸気、岩壁を打つ嵐の音、そして「登る」という最も力強い本能に完璧に没頭した。
ハーフドームをソロでスピード登頂することは何年も考え続けてきたことだ。しかし手を伸ばし、ホールドを掴んだとき、私の心は全くの無だった。指が1つ1つのホールドをしっかりと掴み、私は恐れることなく岩の上を移動する。墜落というオプションは私の現実には存在しないからだ。
岩とのつながりのみに集中していた私は、6メートル横で懸垂下降している2人組のパーティにもほとんど気がつかなかった。彼らが発した聞きなれない言葉はそのまま宙に浮き、2人の姿は足下の霧の中に消えていく。好きな曲の歌詞「私は見えない、私は見えない、私は見えない・・・」を呪文のように繰り返し、心を静める。そして、大地を背後に置き去りにしていく。
壁の3分の2あたりにある日陰のチムニーから抜け出た。太陽が頂上を照らし、魔法のように雲が消えていくにつれ、私が抱いていた先行きの不安は消え去った。思わずカラスの鳴き真似のような叫びを喉から発し、そのまましばらく口を開けたままにした。
血管を通して生命が脈打つのを感じる。私は自信を持って不安定な核心部「ジグザグ」をよどろむことなく登った。シューズの裏は岩肌にぴったりと張り付き、指はどこに触れてもしっかりホールドを掴む。「サンク・ゴッド・レッジ」に這い上がると、私は目前に迫った「完了」の期待を押さえ、頂上を目指した。
ぐるりと周りながらできるだけ遠くを見渡した。沈む太陽の最後の光が背中を暖める。眼は自分の影に釘ぐけになった。そして、目の前の岩に映る自分の姿をたどりながら、翼のように腕を広げ、生きているという美しさの中に浸っていた。
ここから学ぶべき「賢人の知恵」とは何だろうか。
「経験とは致命的でない間違いの連続である」という結論に私は至った。できるだけ“遠く”を見渡せ。感情が高まり欲望がみなぎるが、呼吸に集中し心を静める、まずはそこから。
(以上"Entrance By The Flight Of The Raven",
by Dean Potterの日本語訳)
2004年12月26日(日)
優れた「頭脳」は「美貌」に勝る?
以下、女性向け自己啓発書の元祖でもある
書籍『恋も仕事も思いのまま』ヘレン・ガーリー・ブラウン著(集英社文庫/1988年)より、引用。著者は雑誌『コスモポリタン』US版の元編集長さんです。
モデルや女優を別にすれば、ここ(*注:実際の仕事や交友関係のこと)では美貌も役には立ちません。
しかも、最近では映画の世界でも容姿があまり重要でなくなりつつありのです。
それに、人生の大半はひとりで生きるもの。
ひとりになって綺麗な顔していても、面白くもなんともないわね。ところが頭を使うこと ―読んだり書いたり考えたり― となると、話は別です。
他人にとってのあなたの容姿がどれほどの意味を持つか、ですが、友達や恋人はそのうちあなたの顔を見慣れてしまい、悩みを親身になって聞いてくれる心の優しさだけが印象に残るようになります。
危機に立たされたとき、美人の顔を見てもたいして励みになりません。ほしいのは理解と助力なのです。たとえ直接の手助けができなくても、面白い話をしてあげるだけで、気がまぎれるものです。(・・・中略・・・)
美貌と頭脳、どちらか一つを選ばなければならないとしたら、わたしは迷わず頭脳をとります。どんなときでも。
書籍『恋も仕事も思いのまま』ヘレン・ガーリー・ブラウン著
(集英社文庫/1988年);p112より引用。
結論から言いますと、私も著者のブラウン氏と同じく、
“美貌と頭脳、どちらか一つを選ばなければならないとしたら、わたしは迷わず頭脳をとります。どんなときでも。”派、ですわ。というのも、ホステスのバイトをしていた頃、色々な方を観察させて頂いた上で学んだことは、「美貌に頼り過ぎる女は必ず道を間違う」「要は、会話が8割、顔は2の次、3の次」ってコトだったので。。
また、以前
ココにも引用しましたとおり、
“美貌の奥には悪意が含まれているかも知れない、という考え方そのものが男達の中に存在しない"らしい、という主張がありましたなぁ。。
でも、この主張、真実と言える程度には真実性を含んではいると思われるのですが、その一方で、はっきり言ってしまいますと、実際の生活(仕事なども含めて。)においては、美貌だけではどうにもならないコトって、(美貌の奥の悪意を読めないタイプの)男性が上下関係の“上”ではない場面では、たくさんありますよね、ふむふむ。。
そういえば、私も10代後半から20代前半までは、化粧品や美容に凝ったりもしたし、それなりにお金を使ったりもしたけれど、院に進学したくらいから、あまりしなくなりましたなぁ。。でもまぁ、その代わり、以前と比較すると論理性が身に付いたのは確か(→この前、論理性を計るテスト受けたんだけどハイスコア出て驚いたw)ですし、トントンって感じかもしれません、ふむふむ。。(→まぁ、「どっちも頑張りたまえ、きみ♪」って話なんだけどね、結局は。。)
あ、でも、全く美容に取り組んでないワケではないですよ、念のため。使用してる化粧品とか一々説明するの面倒なので「何もやってないね、あはw」だけで済ますコトは多々ありますが、その言葉そのまま信じて変な噂流さないでくれよ、Mちゃん。。(←高校時代の友達。)
というか、何よりも、上の引用文にあったとおり、長いスパンで人生という期間を眺めなおしてみれば、1人で過ごす時間のほうが絶対的に多いんですなぁ。というコトで、この点を考慮しますと、やはり、
“優れた頭脳は美貌に勝る”になるのかなぁ、と、孤独好き(loner)の私は思ってしまいましたわ、ふむふむ。
■□■「美しいことは損か徳か?」■□■
今日の日記との関連で、心理学の視点から、「美しいことは損か徳か?」について明らかになっている事柄には以下のようなコトがありました。
ので、とりあえず箇条書き。
・私たちの社会では、綺麗な子には甘くそうでない子には厳しい。
・男女ともに、容姿の美しい人は能力が高いとみなされることが多い。
・容姿が美しいと金銭面でも恵まれる。というのは、能力が同じ程度なら普通の人に比べて外見的な魅力に溢れる人のほうがわずかながら給料が高い、という研究結果があるので。
・美人や美男が犯した犯罪が詐欺に関するものだと、そうでない人に比べて重い判定が下される傾向にあり、犯罪が詐欺以外のものであれば、むしろ軽くなる傾向がある。
・容姿の美しい人は異性からは好ましい先入観をもたれるが同性からは悪印象をもたれるという研究もある。この種の嫉妬は女性よりも男性のほうが強い。
・容姿の魅力は長続きするものではない。というのも、人は誰かと喧嘩すると、たとえ相手の容姿が美しくても喧嘩をする前に比べてあまりその容姿を魅力的に感じなくなるので。
2004年12月25日(土)
コンテクストを離れた、その先に。
以下、
“アンケートおじさん”【茂木健一郎 クオリア日記】より引用。
おじさんが電話を切り、やっとアンケートかと思ったら、また電話が鳴る。おじさんは例によって何も言わずに電話に出る。
「うん、その件ね。わかったよ。うん、これから行く。えっ、今? 新橋。新橋。うん・・・・」
その間、女の子は寒風の中、横に立っている。
私はいたたまれなくなって、席を立った。
コメディーの1シーンになりそうなディスコミュニケーションの瞬間で、もう少し観察していたかったが、そのままそこにいたら、おじさんに、「お前、なにエラソーにしているんだよ。とっととアンケート答えろよ、このタコ!」と怒鳴りつけそうだった。
歳末のトラブルは避けるべし。
コンテクストの中で、弱い立場にいる人に対して傲慢な態度をとる人間の性根は、理解したこともないし、これからも理解しようとは思わない。ひょとしたらそういうやつらが日本をダメにしているんじゃないのか。
“アンケートおじさん”【茂木健一郎 クオリア日記】より引用。
例えば、現在流行中のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)って、リアルな社会での人間関係(=コンテクスト)をウェブに乗せることで可視化しようとする試みでもありますよなぁ。
要するに、「誰が誰と知り合いか」がウェブ上で地図化されることで把握しやすくなるワケですわ。私も参加してるSNSあるけれど、実感としてもそうですし、
こちら(SNSの日米比較を詳しく知りたい方はどうぞw)で説明されているように、日本では現在のところ「遊び」という感覚が強い感じがします。
で、アメリカの事例などを見てみるに、ビジネスの場面では有益ではあるにはある、んだけれども。それが行き過ぎてしまうと、逆に、コンテクストに縛られて“不自由”になってしまう可能性もありますよなぁ。。
私自身、これ言ってしまうと何なんだけど、上で引用した文の中での、“女の子”の立場になった経験、何度もあるんですよなぁ。。単に、そういう上下関係や顧客志向というコンテクストを含むバイトや仕事だからそうしている、ってだけなのに、何を勘違いしているんだが知らないけど、「人間としての尊厳まで危ぶまれてるよなぁ、コレ。。」というような状況へ持ってく人もいるにはいるワケで。。
だからまぁ、出会った当初に所属団体や肩書きや経歴や年収(またはそれらをほのめかす発言。)を述べなければ、人として対等に尊重してくれない、話してくれない、そういう人たちが世の中には多々いるってコトを実感してはいるにはいる、んだけれど。
けれど、最近特に、他人に理解されやすい属性やコンテクストを離れたその先に、ちょっと大袈裟に言ってしまうと、“自由”な状態、または人間関係、があるような気がしますわ、はい。
■□■その他のほざき。■□■
・と、今日の日記に書いたように私が思ってしまうのは、おそらく根本的に私自身が自由主義者だからなんだろうなぁ。って、この件については、今日、このエンピツ日記に転載しました以下を参照くださると嬉しいですわ。
あ、それと、“リベラル”と“保守”という政治的立場について、誤解している方も読む価値あるかも?、しれませぬ。。
★
2004年12月22日(水) 「私」を語るということ。・悩んだ末、
来年の手帳もクオバディスにしましたわ。やはり、継続しなくちゃですよな、ふむふむ。
・それと、
トップページが変わりましたのでお知らせ♪ かちゃサン、デザインありがとうございました♪
http://loner.fc2web.com/ですので、ブックマークしてくれている方々、変更よろしくお願いしますw
2004年12月24日(金)
クリスマスと宗教。
どうやら世の中はクリスマス・イブらしいですね、ふむふむ。
え?「なおサンは何してるの?」って?
(まぁ、興味ない方のほうが多いでしょうが。。)
あ、あのですね、別に変な理屈並べたいワケではないのですよ。。
事実として、私、カトリック系の学校には通ったコトもありましたし、キリストの演劇などもやったコトありますし、家の造りも洋風ではあるのです。
が、実はうちの実家、真言宗(仏教)なのですよ。空海(弘法大師)が神様なんですわ。なので、ホントに関係ないんですよね、クリスマス。。
というコトで、今日は、もちろん通常通り、普通に過ごしておりまする。
で、今、上に書いた文を読み直してみたのですが、このままの話の流れですと、またしても心理学&経営学の視点からクリスマスと商人の心理について“理屈”を並べてしまいそうなので、今日はちと、うちの実家の神様である
「空海」(←wikipediaの説明にリンク。)さまについて、少しだけ書きますわ。
実家がそうだから、というワケではないんだけど、私個人も、空海が体系化した「真言密教」は魅力的だと思いまする。書籍
『空海の思想について』(梅原 猛著)にあったのと同じく、私もまた世界肯定の思想が密教の思想にあると感じますし、また、マルチ人間であり、静と動のバランスが素晴らしい人、としての「空海」その人に興味があり尊敬もしているのです。
もっと言ってしまうと、空海の“脳”と“認知プロセス”に興味があるんだよなぁ、だってホントにすご〜〜〜い脳の持ち主なんですよ、「空海」って。もしもまだ生きておられたならば、ぜひとも脳内スキャンしたいものですよなぁ。。例えば、以下、いつも通り長いですが、参照下さいませ。。
真鍋: 人間の脳には右脳と左脳があります。右脳は独創的な「胎蔵界」、左脳は計算的な「金剛界」に当てはまります。両方の脳を調和よく使わなければいけない。曼荼羅は、現代人一人ひとりの心の中に投影されていると考えています。
さらにアナログは「胎蔵界」、デジタルは「金剛界」に当てはまります。最近のコンピューターグラフィックスなどを見ていると、デジタル的で固い。近年は女性的原理である「胎蔵界」が切り捨てられているように感じます。両方が手を取り合って融合する必要があります。
石田: 現代社会は、西洋のイエスかノーかの価値観にも侵され過ぎているような気がします。イエスかノーかだけの世界を超えたもの、それが仏教です。
空海さんはイエスもノーもすべて包み込んだ。それぞれの価値をそれぞれの価値として認めた。民族、宗教、国家がそれぞれのエゴで対立する今日、この総合性と融和性は、空海さんから大いに学ぶ必要があると思います。
(・・・中略・・・)
石田: 空海の文字に示される「海」は、非常に多くの物を自分の中に取り込みます。宇宙観そのものが自分だという発想が、空海さんには潜在的にあったのではないでしょうか。
みんなが違っているけどそれぞれに存在価値がある。そういうおおらかで和らぎのある考え方が、二十一世紀に向けてのわれわれの一番の課題だと思います。
国宝・弘法大師空海展・空海展特別フォーラム「現代・空海に学ぶべきもの」より引用。
空海と“脳”が同じ文脈で書かれていたのは(ウェブ上では)上のしかなかったのでこれを選んだんだけど、その他、空海の凄さを知るには、以下などがいいかもしれず。
★
日本のグローバリズムは空海に始まる【空海スピリチュアル内】★
空海アートホロニクス【空海スピリチュアル内】★
書籍『空海曼陀羅』夢枕 獏 (著)★
書籍『空海の夢』松岡正剛 (著)★
書籍『空海の風景』司馬 遼太郎 (著)というコトで、全くクリスマスっぽくない日記になってしまいましたが、
以前ココに書いたように現在、私『思想研究週間』なのですわ。
まぁ、要するに、あれですよね、「不易流行」(←芭蕉の言葉。「流行」に撤すれば自ずから「不易」に至り、また真に「不易」を得ればそのまま「流行」を生ずる、という意味。)ともいいますし、世の中の流れに乗るのも大事ではあるのですが、その場合は“乗る”のではなく、流行に“徹する”のが大事なんでしょうなぁ。結局のところ、“わが道を行け”というか、「わが道しか“在らず”」ってことかもしれません、ふむふむ。
2004年12月22日(水)
「私」を語るということ。
(以下、Mixi日記12月22日のやつを転載。)
「私は〜、」から始まる文は幼稚で最悪だ、という主張もあるにはあるけれど。。(文章教室ではそういわれがちらしいですね、やはり。)でも、その一方で、「私」を語れるほど強力なこともないですよなぁ。
だって、現在の企業社会って、「私」を語れなければ(=アピールできなければ)、採用してさえもらえないみたいですし、採用されたとしても、その後自分がしたいと考えている仕事(プロジェクトなど)に参画するためには、そこでもまた「私」を語る必要性が出てくるわけですし。
自己アピールを求める社会についての説明は、以下URL参照。経済学ならまだしも社会学は全く知らないので、自分で説明するのはパスしまする。。(経済学&経営学寄りの視点からの私の個人的な考えを言えば、現行の「成果主義」は反対ですなぁ、やはり。)
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=7172
http://www.asahi.com/job/special/TKY200412070204.html
で、そういう意味も含めて、最近「私」をより正確に語るためのに必要な、その前作業である「私を知る」というコトに、再び興味が湧いてきたように思う。
で、今日、思ったのは、「私」は、現存している「〜イスト」(例えば、リベラリスト・アナーキスト・フェミニストなど)という呼び名の中で、一体どれに当てはまる&当てはまってるように自分では思うか、ということでありました、はい。
まぁ、要するに、これらを明らかにすることで、現在の自分自身が、意識or無意識問わずに持っている思想体系を、自覚する必要があるのかなぁ、と思ったわけですわ。
まず、上の()内で例示した「〜イスト」の3つの例で言うと、「私」はそれらの言葉が表す意味範囲の中では、“適度に”どれにも当てはまる、とは言える。
んだけど、一般的に知覚されている(イメージされている)言葉の「意味」とその「内容」が異なる場合が多々あるわけで、やはり、正確な言葉の意味を調べる、という面倒な作業から開始しなくちゃ、ですよなぁ、ふむふむ。(→これについては、かちゃさん、昨日はお話ありがとうございました♪おかげさまで思考がまとまりました〜w)
ということで、年が明ける前に終了することを目標に、空き時間見つけて調べることにしまする。
これは思いつきなんだけど、前々から自分がリベラリストであるコトは自覚していたものの、こういう思想そのものが現在の関心(私の場合はマーケット。)へと向かわせた根本的な要因なのかもしれないし。やはり、自分を知る、って深いなぁ、ふむふむ。。
参考までに、勘違いされやすい「リベラリスト」の定義をメモ化。何が勘違いされやすいかというと、アメリカ型の"古典的リベラリズム”=“リベラリズム”だっていう誤った先入観だなぁと思う、以下参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
【自由主義】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
(リベラリズム から転送)
■自由主義(じゆうしゅぎ。リベラリズム)は、個人が自分自身の判断にもとづいて行動することを最大限に尊重する思想。政府をはじめとするあらゆる権力による個人の活動への干渉を排除する。市場経済を重視する。とくにアメリカ合衆国において、無視し難い重要な位置を占めている。
■リベラリズムという言葉の混乱
歴史的用語としてのリベラルという言葉と現在流布しているリベラルという言葉・或いは政治的立場は以って非なるものである。現在使われている"リベラル" の意味は社会民主主義的立場のことを主にさすが、アメリカの根幹にある、"古典的リベラリズム"とは自己責任の追求と権力の不干渉の意味で、またアメリカ人はそのために国を作ったのであるが、その思想の事を現在ではむしろ"保守主義"というふうに呼ばれている。
つまりアメリカ人は"古典的リベラリズム"を "保守している"のであってそれが封建制度の遺産のある、またはそこからの解放(リバレイト)を願ったヨーロッパや日本との違いである。
2004年12月16日(木)
男性の役割。 -Social role of the males-
ここ数日、生物としてオスとメスの役割、についてちと考えておりました。
が、考えれば考えれるほど、オスの役割につきましては本質から遠ざかってるような気が。。ので、今日は、基本に戻りまして、『男性の役割』について、生物としてのオスの役割をメインに考えるのではなく、社会的動物としての男性(→現代では一般的に人間のオスを「男」もしくは「男性」と呼ぶ。)の役割について、少々復習してみたいと思います、ハイ。
(→と言いつつ、生物としての役割というのは、社会的動物としての役割に含まれていますので、厳密に分類することはできませぬ。。)
あ、前置きが長すぎましたね。。では、2年ほど前のものではありますが本質を突いていると思われる記述がありましたので、まずは以下
『男と女、主役はどっちだ』(世捨てコラム/社会 34)【世捨て人の庵】より引用開始。
オスたる男の役目は3つ。種付け、金づる、用心棒。
これは人生で極めて重要なことだからよく憶えておくこと。
試験に出るぞ。(注:出ません)
女が男に求める条件に「三高」があるが、これも納得が行く。高学歴・高収入は金づるとして優秀でエサを豊富に運んでくれることを意味し、高身長はボディガードとして有利なことを意味する。
アッシー君、メッシー君は今に始まったことではない。
男は太古の昔からアッシー君(ボディガード)であり、メッシー君、ミツグ君(金づる)であった。
女とは寄生虫のように他力本願でナマケモノのように怠惰、金と愛と奉仕を求めてやまない貪欲な動物なのだ。
まさに主役である。
一方の男は、女からエライとおだてられてガンバッたり、金をばらまいたり、力を誇示して虚勢を張ったりする愚かな動物である。奴隷のように働き、女にどれだけ贅沢させられるかという基準でしか自己の価値を認識できない情けなーーい存在なのだ。
『男と女、主役はどっちだ』(世捨てコラム/社会 34)【世捨て人の庵】
というコトですので、通常通り、勝手にご報告。
ちなみに、上の引用箇所の最後の部分(男性とは女性ににどれだけ贅沢させられるかという基準でしか自己の価値を認識できない)につきましては、心理学の視点からは既に確証めいたものが出ていますので引用しておきまする。
どんな男でも、口数少ない美人から気の利いた挨拶をされるとついつい鼻の下が伸びてしまいます。
”美貌の奥には悪意が含まれているかも知れない”という考え方そのものが男達の中に存在しません。
人類の歴史が始まったばかりの時代から、こうした男達の凝り固まった考え方(ステレオタイプ)は進化すること無く現代に到っているようです。
500万年も変わらなかったのなら、ここ数年で変わることはまずあり得ません。男達は相変わらず骨の上の皮の様子に目を奪われて、本質を見失いながら生き続ける運命にあります。
それはおそらく、人類共通の進化という形ではなく、生まれてから死ぬまでの間に、自分の見る目を磨いた人にのみに与えられる能力として存在するのです。男が人間として成長してゆく過程で、いい女を見分ける能力も身に付いてゆくのではないかという考え方です。
おそらく、その成長の速度があまりに遅く感じられるために、多くの女性達はエステやダイエットに向かわざるを得ないのです。きっと。
「男には女を見る目が無いのか?」【xSUNx心理コラムのサン)】
まぁ、短くまとめますと、生物学でもなく社会学でもなく(→と言いつつ、厳密な意味ではどちらも含んでいる。)心理学の領域から眺めてみれば、人間のオスはメスにマインドコントロールの権利を先天的にゆだねている、と言ってしまってもいいのかもしれません。一体何のために神様はそういう風にお創りになったのでしょう、興味深いですね、ふむ。
で、上で引用させて頂いた男性の役割、つまり、
オスたる男の役目は「種付け」「金づる」「用心棒」の3つの真偽の程を確かめるため、今さっき、近くに居た父親(男性・52歳)に上のページを読んでもらいました。自分1人の主観だけで「これは真実だ」と“思い込んでしまう”(=客観的真実と呼ぶためにはある程度の“主観”の数が必要。)コトほど怖いことはありませんしなぁ。。
で、父曰く、「ほほぅ。素晴らしいキャッチだなぁ〜、コレ。才能あるなぁ〜、これ考えた人。」と、しきりに興奮した後、「確かに。論理的に3つにまとめるとそうなるな。ヒャッヒャッヒャ!」と支持の立場を取っておられましたので、再び勝手にご報告。
さらに、ここ最近、呼んでもいないのに何故か私の家にいる、客観一般では(→例えば、男女が街を2人で歩いていた場合、周囲の人々の多くは「恋人同士だな、あいつら。」と思い込みがちはありますが、実際どうなのかは本人同士に尋ねてみないことには判断できない、というような場合多々あり。)私と恋人同士なのだろうと勝手に推測されているものの、正確な意味ではそうではない男性、にも見せてみたら、素直に同意しておりました、ハイ。
ということで、サンプルが2つしか取れませんでしたが、今日のところは、
オスたる男の役目は「種付け」「金づる」「用心棒」の3つが、男の役割の本質(と呼べるほどの本質性と真実性が含まれている)と、とりあえず独断で決定させて頂きまする。
というか、私個人が常々感じていた男性の役割は、「気遣い」「召使い」「小間使い」だったのですが、
「種付け」「金づる」「用心棒」のほうが本質的で素晴らしい表現だなぁとしみじみ思いましたので、今後は、より適切なこちらの表現を使用させて頂くことにします、ハイ。次回までにはもう少し、人間のオスについての理解を深めておきたいと思いまする。では、おやすみなさいませ。。
(同日1:25 心理学の引用箇所を、より適切なページに訂正。)
2004年12月13日(月)
「おひとりさま」の時代。 - it's time that each of us is a decision-maker -
“30代独身OL急増のナゾ”【livedoor News】より以下引用。
ちょっと目をひくイイ女が飲み屋でひとりグラスを傾け、男性客が声をかけても知らん顔――首都圏を中心に、こうした「おひとりさま」が急増している。<・・・中略・・・>
「おひとりさま市場を牽引しているのは、30代の独身OLです。東京23区の未婚率は30代前半で40%以上、渋谷、目黒、中野、杉並区では2人に1人、30代後半でも3人に1人以上にのぼる。
男性独身者が年を重ねるごとに引きこもりがちなのに対して、女性はほぼ全員がひとりの時間を楽しんでいる。自分磨き、癒やし、ご褒美にとお金をジャンジャン使っているのです」(シンクタンク研究員)<・・・中略・・・>
「おひとりさま需要は以前からあって、女性の意識自体に変わりはありません。むしろ、女性ひとりは寂しいものという偏見がなくなってきたことが、ブームにつながっていると思います。
女だってひとりの時間を持ちたいし、食事や旅行も楽しみたい。男性は、そんな女心も理解していい頃だと思いますよ」
以上“30代独身OL急増のナゾ”【livedoor News】より。
何はともあれ、こんな『心地よい孤独。』だなんてふざけた名前の日記を綴っております私にとっては、この記事にあるように
“女性ひとりは寂しいものという偏見がなくなってきた”のは喜ばしいことですわ、ホント。
で、この記事でも紹介されていました
「おひとりさま向上委員会」のページを見てみたら、「おひとりさま」の定義は、以下のようになっておりましたので、いつも通り勝手にご報告させて頂きまする。。
「おひとりさま」の5つの定義
1 「個」の確立ができている大人の女性
2 「自他共存」していくための、ひとつの知恵
3 仕事も恋もサクセスするために身につけるべき生き方の哲学
4 individual
5 通常は、一人客に対する呼称
以上同委員会「おひとりさまの理念」より引用。
まぁ、一言でいいますと、
上の引用ページに記されていたように
“「おひとりさま」とは一人の時間を素敵にすごせる大人の女性のこと”というところに落ち着きそうですなぁ、ふむ。。
ふむ。。こういう世の中の動きは喜ばしいことだとは思うものの、個人的な感想としては、(引用した上のページにあるような意味での)“女磨き”という言葉が嫌いなこともあり(→うーん、詰まり“磨き”の前に“女”を付ける必要性ってあまりないよなぁと思うだけ。)、何といえばいいんでしょうなぁ。。まぁ、短くまとめますと、「そもそも、ひとりで過ごすのって基本なんじゃなかったっけ?」という感想を持ってしまいますなぁ、なんか。
メッセ友達のかちゃさんとも話したんだけど、やはり、あれかもなぁ。。これ言ってしまうとお終いなんだけどさ、日本ってやはり独特ではありますよなぁ、自分や相手、というか、“人”は1人の独立した存在だ、という認識が不足しているという意味で。島国根性(insularism)は根深いよなぁ、って最近しみじみ思いますわ、私。。
あ、上の引用だけだと2コとも“女性”の視点で書かれたものになってしまいますよなぁ。では、公平をきしまして、“男性”が“男性”について書いた「おひとりさま」についての記述を、最後に少々引用しておきたいと思いまする。(→毎度長くてすみませんね、単に主体の違いを軸とした偏った主張が嫌いなだけなんですよなぁ。。)
男性は女性に比べて1人で居ると不快になり、直ぐ退屈する傾向がある。妻を支配したがる男性もあり、妻が自分の意思で遠くへ行ったりすると不安になる男性もいる。
女性にはショッピング、読書、車をメンテに出す、といった「非稼動時間」が必要だ。男性はパートナーが四六時中自分と過ごすことを望まないからといって不機嫌になってはいけない。一人で居ることがどれほど重要かを分かっている男性は少ない。
女性が1人で居る時間を取るとき、彼女は愛情が無いのではなく、自立性の必要を表明しているのだ。そしてなお一層良いパートナーになろうとしているのだ。
以上
『結婚の科学』(木下栄造著、文春新書2002年);p48-49より引用。
あ。あぁ、引用してみたものの、結論は、最初の記事と同じになってしまいましたなぁ、ふぅ。。まぁ、仕方ないのでまとめますと、どっちにしろ、結局は、「男性はそういうのも理解しておきましょうね♪」ってことになりそうです。
ふむ。。、以上。
2004年12月11日(土)
男でも女でもなく。- Communication necessary to enjoy full of stimulating life -
以下、
“女性のコミュニケーションスキル向上が未婚化を防ぐ”【Simple】より、引用。(→“愛ある真実”を含むが故に、人によっては毒にも“見えてしまう”バランスの良い論理を好む私が愛読させて頂いているサイト様の1つであります、はい。)
女性の男性とのコミュニケーションスキルを向上させることが重要である。男性だけの問題ではない。
“女性のコミュニケーションスキル向上が未婚化を防ぐ”【Simple】より。
私もこれ同感です、はい。だって、男性と女性という生物学的差異を根拠とした“二項対立”的な思想で以って“どちらか一方の問題だ”というように結論付ける、のって、すごーーく簡単で単純だけど、十中八九は間違ってますもんなぁ。(→この発想でいったら修論さえも通りませぬ。。)
要するに、“論理”の手前にある“根本思想”(→ここでは二項対立であり二分法であり、“どっちか”思考。)そのものが、もはや現代では効力ないんですよなぁ。こういう論理のベースとなる思想分野に関しては、明らかに修行が足りてないので、年明け前に「思想研究週間」(1週間から10日くらいかなぁ。)を設け基礎力強化しようと思いまする。。
で、上の文章での結論を読ませて頂き、思い出したのが、つい先日再読し、この日記にも引用した
書籍『贅沢に、美しく大人の女』(安井かずみ著/1991)の記述でありました。
日本の男の大半は、女の友達を望んでいない。
気があるかないかで女を二分して、ない場合はセ・フィニ・・・・・、といった低級思想の御人が多いからだ。
しかし、大人文化の確立している欧米諸国では、男も女も友人として求め合う、つまり男友達は素敵に成立する。なにゆえ、日本男子が女の友達を要らないというのか?
それは、女が魅力的ではないからだ。
さらに、話してもつまらないからだ。だから、口説くか、恋するか、所有するかの対象にしか考えないのだ。
これは以っての他、一大社会現象である。大人の女こそ、男と友情できる付加価値をもつべきである。
書籍『贅沢に、美しく大人の女』(安井かずみ著/1991)p32より。
上の書籍の引用部分は
Simpleサマの今回の主張の基になっている“結婚”についての“データ”、というのではなく、あくまで“著者の経験”に基づいて“異性と友達として上手く付き合う”ことに焦点を当てて書かれている章ですので、その点だけ注意してくださいな。
「気があるかないかで女を二分する」ような「低級思想」の男性(つまり二項対立的思想を持つ御方。)がまだ存在していることは私も知っていますし、実際にお目にかかったことも多々あります、はい。。
が、この書籍の発売当初1991年と比較しますと、もうすぐ2005年をも迎えようとしております現代日本社会におきましては、少なくとも日々減少している(→1日2人〜5人くらいの割合かなぁ。)と、信じたいものですね、女性のみなさま方。
(→っうか、「口説く”のがマナーだ♪」と勘違いしている男性って、ホント迷惑ですよぁ。。でも、その、とりあえずの“マナー”に過剰反応して、勘違い“自慢”する女性にも問題あるよなぁ、と正直思う。。もっと違う話できないのかね、君たちは。。)
というか、今、上の引用文読んでたら、なんか私、男友達っていうとアジア系の人が多いから(→やはり、ビジネスネタ話すなら中国人が一番ですしなぁ♪)、もっと視野を広げ世界へと足を伸ばし、人材発掘しなくちゃならないような気がしてきた。。(→やはり修行と巡礼が足りてないですよなぁ、私。やはり叶姉妹を見習って頑張ろう、ふむ。)
まぁ、要するに、あれですよ。つまり、男性が悪いと言ってばかりいると、どっちみち道を踏み外しますので、貴重な人生を楽し〜〜〜く過ごしていくためにも、コミュニケーション・スキルを磨き続けたほうがいいらしい、ってコトですなぁ、ふぅ。。
っうか、長々と書いてしまいましたが、結局は、コミュニケーション関連の問題or課題設定って、男でも女でもなく、“人間同士意識”をベースにやるモノ、、詰まるところ、いわゆる「人間力で勝負♪」っていう無難なところに落ち着いてしまいますよなぁ、やはり。。
では、気を取り直して、たるみがちな日常に少々カツを入れるため、最後は、時代を超えて普遍的な“厳しくて泥臭い”大先輩サマの引用で締めたいと思いまする。
(異性との)友達の関係は、目を閉じてキスするわけではないから、会話こそ友人の主たる手段である。
いわゆる女のお喋りレベルでは失格、最も男たちがわずらわしいと思う、嫌がる内容である。時事、スポーツ、旅、アート、比較文化論などが適当であろう。
その場合、女はそれらのテーマを常から勉強していなければならない。そして、会話の際は、それらに対して自分の意見を持っていたい。
つまり、受け売り、読み売り、聞きかじりをオウムのごとく(ならまだよいが)、あたかも自分の意見のごとく話すのは、まったくのところ、嫌われる女となる。
(・・・中略・・・)
そして男友達を得るためには、女の程よい気軽さも条件になる。
重苦しい女はダメ。また、気取っている女、美人を鼻にかけている女、金や育ちの良さを鎧にしている女、自分を用心深く守る女、上品ぶっている女、男を意味もなく警戒する女、もてる意識過剰な女には、よき友情は成立しないだろう。場合によっては、人間同士意識も必要かもしれない。
書籍『贅沢に、美しく大人の女』(安井かずみ著/1991)p33-34より。
あぁ、何だか最近、銀座ホステス養成講座みたいになってきてしまいましたね、。。では、とりあえず、おやすみなさいませ。。
□■□その他のほざき。□■□
・昼間食べたごはん、美味しかったですわ。Yサマ、毎度どうもありがとうございました〜♪
・以下、コミュニケーションとマネーとの関連についてリンク&引用。要するに、ファイナンスとの関連で、コミュニケーションや心理・認知科学系分野に私が拘ってる理由の1つって、まさにコレなんですよなぁ。
財貨とサービスのコミュニケーション【ちはるの多次元尺度構成法(日記)はてな版】
金を払うということも、また、金を払わない(金を払うのをやめる)ということも、コミュニケーションの始点と終点をきっちりと決める目印になっている。金を払うことで、共同作業を始め、金を払うのをやめることで、共同作業を終える。金を払わなければ、いつまでたっても始まらないことになる。
同様に、金を払うのをやめなければ、いつまでたっても終わらないことになる。したがって、お金の動きは、最も明白であり、誰にでも意思表示できるコミュニケーションの目印という意味で重要なのだ。
2004年12月10日(金)
「昇華」を目指して。 ―愛される秘訣?―
ぼ〜〜〜っとしながらブログ巡回してたら、いいの見つけたのでご紹介。要するに、“幼少期に学んだ&授けられた「役割」(role)が大人になってからも潜在意識下では固定化してしまっている”、という典型的過ぎる事例、ではあるけれども、自分の行動を振り返るためには時々こういうのを読むのも必要だなぁ、と思った。
「尽くしすぎる」「いい人」を演じすぎてしまう心理【カウンセリング・スタイル】より以下引用。
家族の中でいい子を演じなければならなかった人達は、大人になってからも、良い彼、良い夫、良い彼女、良い妻、良い人を演じすぎて失敗してしまうことがあります。そんな彼らの中には自分らしくあることを禁止してきた、我慢しなければならなかった過去の体験が隠されている場合もよくあります。
そういう方の中には、「尽くしすぎる人」になってしまうケースもとっても多いのです。例えば、「尽くす女」は「良い女」と一般的に思われていますが、尽くしすぎて敬遠される女になってしまうこともあるのです。なぜなら、そういう人があまりにも「良い女」過ぎると、彼も「良い彼」にならないといけなくなってしまうからです。
(・・・中略・・・)
こういうパターンを持つ人は、家族の中や身近な人に「ワガママで迷惑をかけていた人」や「そんなふうになっちゃいけませんよ!」って教えられてきた人が多いんです。
すると、自分の感情や欲求がワガママのように感じて、それを出しちゃいけないように思ってしまうんです。つまり、抑圧して禁止してしまうわけです。それが両親から愛される秘訣になるからですね。
でも、「抑圧した感情は外から出るという法則」にあるように、あなたの周りの人達が、あなたの抑圧した欲求や感情を教えてくれます。
男女関係ではパートナーですね。あなたが欲求や感情を我慢して良い子である度合いだけ、彼は欲求や感情を我慢しない悪い子になってしまいます。あなたがワガママを抑圧した度合いだけ、彼がワガママになるわけです。
「彼女は我慢しているのに、俺は我慢していない・・・」
そんなふうに思うと、彼は「罪悪感」を持ち始めます。でも、誰も罪悪感を感じたくありませんから、罪悪感を感じてしまう彼女との距離を取っていく、もしくはケンカばかりになるというような流れになってしまうんです。
逆に言うと、こういうタイプの人は自分の欲求や感情を認めて受け入れていくと、パートナーにも我慢させなくてよくなるわけです。
以上「尽くしすぎる」「いい人」を演じすぎてしまう心理【カウンセリング・スタイル】より。
あ、引用長くてすみませんです、はい。。でもまぁ、中途半端に引用すると意味が通じなくなったりするコトが多々あるので、今後もこのくらいの長さでいきますのでよろしく〜♪
私個人のコトを書くと、自己評価でも他者評価でもそうだけど、上にあるような、いわゆる「いい人」でも「尽くしすぎる人」でもないですなぁ。。だって、そもそも放置主義かつリベラルぎみな教育を云十年受けてきたんだし、こうなるの当然といえば当然といえる。。まぁ、はっきり言ってしまうと、私=「わがままな人」です、はい(苦笑)。
そりゃあ、家族や友達や恋人に対しては、その他のあまり知らない人たちに対してよりは「いい人」だろうし「尽くす人」ではあるだろうけれど(→あ、それでも「わがままな人」には変わりないけど。。)、それは幼少期に学んだ「役割」に基づく行動、というのではなく、あくまで相手との個々の「関係性」を維持する&発展させるために必要な行動だからですよなぁ。
個人的には、「基準」を知るためにこういう“典型的な”事例を「知っておく」のは大事だと思う。けど、それを過度に自分や身近な人のケースに「重ねすぎる」(→過度なステレオタイプ化。)のも問題だよなぁと、心理学の典型事例に自分や他者の人生重ねてロマンティックなドラマに浸ってる人を見ると思ったりしますなぁ、正直な話。。個人の生き方に深く関わる心理学のような分野こそ、冷静に現実的に、取り組まなくちゃならないんですよなぁ、ホントは。。(→だよねぇ、かちゃさん♪O先生、そういう意味でステキw)
引用箇所にあるのは、心理学の文脈で使われている、いわゆる
「ピグマリオン効果」(=期待することによって相手もその期待にこたえるようになるという現象。)と「抑圧」(repression)が根本的な原因になってるんだろうけど、理由はどうあれ、結局は、文中にあるように“自分の欲求や感情を認めて受け入れていく”しかないんですよなぁ。
一般的に言って、過度な「抑圧」や「代償行動」(substitute behavior)を過去に何度も重ねてしまうと、当然のごとく「自己効力感」(self-efficacy)が低下してしまいまする。その結果、自分自身を愛せなくなってしまいますし、自信を失くしているワケですから、そんな自分を好きになってくれる(or 認めてくれる)相手をもまた、上手く愛せなくなってしまう、という悪循環になってしまうんですよなぁ。。
誰にでも、多かれ少なかれコンプレックスや「役割」(role)意識はあるもの。だけど、「自分の欲求や感情を認めて受け入れていく」ことで、それらを「昇華」(sublimation)させていく。それが結局は、自分を大事にし、他者を大事にする、というコトなのかもしれませんなぁ、ふむ。。
■□■関連ある過去の日記。□■□
日常における、実践的な解決方法としては、
「アサーティブ・トレーニング」になるんでしょうなぁ、やはり。ということで、過去日記にリンク。
2004年10月10日(日) Assertiveとはなにか。■□■使用した心理学用語。□■□
心理学用語辞典より、今日、日記で使用した心理学用語をメモ。
http://nao.main.jp/blog/archives/000535.html
2004年12月09日(木)
華やかさの原点。 - The basic idea of elegance -
あぁ、何だか今日はすごいタイトルを付けてしまいました。。
理由は、昨夜から暇を見つけつつ
書籍『贅沢に、美しく大人の女』(安井かずみ著/1991)を再読したからなのですよ、あは(笑)。
この本、数年前ホステスのバイトをしていた頃、美しい大先輩のEサン(すごーーい美人、でも化粧品は全部
ちふれ御愛用の経済美人でもあるお方♪)に頂いたモノなのである。この本が、言ってみれば、当時の私の“業務マニュアル”の1つだったんですよなぁ、ふむ。
これ、いわゆる
“女性の生き方”(参考までにアマゾンの同カテゴリーにリンク。現在第1位は
『小悪魔な女になる方法』w)と分類される本だし、正直、ビジネス書ばっか読んでいますと、この種本の内容を含む記述が多々あるので(自己啓発本そのままの箇所多々あるし。)、
プレジデントを読み1人感動の涙流しているオヤジぎみの私には、もう必要ないように思っておりました。。
んだけど、「この本って知られざる名著だよなぁ〜。」と、久しぶりに読んでみてしみじみ思いましたわ。「かっこいい女になろう♪」「あらゆる男を夢中にさせよう♪」(苦笑)というような「今風の」“女性の生き方”本ではお目にかかれない「厳しくて“泥臭い”」表現が多々ありましたよ。
たとえば、
「私、絵のことはわかりません」などどは死んでも言ってはいけない。それは美しい大人の女の資格と教養と美しさを放棄することになる。
以上『贅沢に、美しく大人の女』(安井かずみ著/1991)p155より引用。
とか。。「〜死んでも言ってはいけない」とは私は思わないけど、基本的にこれは同感。いつかこの日記にも書いたけど、私は幼い頃がら絵画好きになるような(=させられるような、とも言う。。)環境で育ったこともあり、今だに美術館大好き人間でもあるのですよ(“そう見えない”ように努力してるけど。。)
だからなのか、「絵とか音楽とか全然わからないから。」と言う人よりは、美術を一緒に楽しめる人を自然に友達や恋人にする傾向がある、というコトは自覚しています、はい。音楽できる人は無条件に尊敬していますし。
で、こういった“キツい表現”を目にする度に苦笑しつつ、「やっぱりこの“泥臭さ”が大事だよなぁ〜♪」と、妙に地に足の着いた感情を味わったよ。で、結果として“励まされた”という感じ。読後感は至ってさわやかでありました、はい。では、タメになった箇所を長くなるかも?だけど、引用してみますわ。。
(・・・大人の女には華やかさが重要、と説いた後で・・・)
土台は、その女の人生観が、生活の仕方が、考え方が常に前向きで、愛に満ちていることである。そうすれば、その女がたとえ絹のブラウス一枚でも、華やぎをかもし出せるのである。
逆に、その女の人生観が諦めで、生活が手抜き、考え方が図々しく、愛なんて今更アホらしいなどど、開き直っていれば、たとえ豪華な宝石を身に着けて華美していても、それは私の言う華やぎでは逆の、暗い存在になる。言うまでもなく大人の華やぎとは、ケバケバしさではないし、ヴィジュアルだけではないからである。
華やぎの原点は、コミュニケーションにある。その相手と、あるいはその場において、優しい、いい感じの関係をつくり出せることが、華やぎに最も大切なことである。相手を認め、相手の言うことに耳を傾け、相手を理解しようとする心遣いが、微笑みや、優しい眼差しに現れる。よい感じこそ、よいセンス、よい人柄と相まって、よりよいコミュニケーションになる。
「あの人、いい人ね」という、お人好しとは微妙にして、かなり違うところが、華やぎというソフィスティケイションなのだ。それは内面と外見の総合ムードであり、派手すぎず地味すぎないバランス感覚であり、自分を確かに打ち出しながら、他との調和をも成し得る知性である。
以上『贅沢に、美しく大人の女』(安井かずみ著/1991)p51-52より引用。
ふむ。。無理やりまとめますと、つまり女性にとって大事なのは「なにはともあれ“会話”♪」ってコトになりそうです、はい。でも、これシンプルだけど、ホント“原点”だよなぁと思う。
だってさ、私みたいな(→頭脳も外見も特段優れていない人。)が、当時何とか業務をこなせたのは、会話の仕方や振る舞いを先輩方の仕事を盗み見ながら(OJTですよなぁ、これ。。)どうにか最低限のマナーを教えてもらえたお陰だよなぁ、とホント思うし。
というか、こういうスキルって固定的なものではなく変動し続けるものだし、この終わりのない修行はどこまでーーも続きますよなぁ〜。その覚悟はできているものの、何だか気が遠くなってきたので、今日はこれにて終了。。
■□■そのほかのほざき。□■□
今、アマゾンさんの
“女性の生き方”カテゴリーにあった書評を読んでたら、「これぞ真実ですわ♪」というのがあったので、勝手にほぼ全文コピー&ご紹介。。
結局は、
2004年12月08日(水)
孤独は友達。 - Solitude Is A Best Friend -
夕方、この日記のタイトルにも入れている、“孤独”(=Solitude)について久しぶりに調べ物をしました、はい。で、海外サイトさんのほうが、こういう件についてはかなーーり進んでるんだなぁとしみじみ思ったよ。。
そもそも、日本語だと“孤独”という言葉の意味は、実質上、ほぼ1種類しかない。(英語で言えば"Lonely"に収束してるよなぁと思う。)だからなのか、この言葉によって人が促されるイメージもまた、やはり「暗い」とか「寂しい」というようなマイナスのイメージになってしまうのかもしれないですよなぁ。
ってなコトを
"Solitude: A Writer's Best Friend"【VanRamblings.com】を読んで考えたりした。このエントリーに引用されている詩が、結局は、私が使用している&イメージしている“孤独”(=Solitude)ってコトだよなぁ、ふむ。ってコトで、詩の部分だけ引用しときまする。
... it becomes clearer and clearer that fundamentally solitude is nothing that one can choose or refrain from. We are solitary. We can delude ourselves about this and act as if it were not true. That is all. But how much better it is to recognize that we are alone; yes, even to begin from this realization. ― poet Rainer Maria Rilke
っうか、私、訳下手なんだけどさ、今、私1人しかいないし。。仕方ないから軽めに「下訳」やっておきまする。。(→あとで直すかも。。)
「っうか、基本的に“孤独”というのはさ、自分から積極的に選んでいくものでもないし、主体的にそれを避けるというものでもないんだ、ってコトが年々解ってきたように思うんだよなぁ〜、俺さぁ〜。
結局はさぁ、みんながみんな“孤独”なんだよなぁ〜。
僕たちは自分自身を騙して、みんながみんな“孤独”なんだ、という事実を真実ではないように見做して振舞ってるだけなんだよなぁ〜。これが全てだよ。でも、僕たちはみんな基本的に1人なんだ、ってことを認識する、つまり、みんながみんな根本的な意味では“孤独”である、という現実認識から出発する以上により良い方法、なんてないよね、あは〜♪。”
と、偉大な詩人の
Rainer Maria Rilkeサマの世界中のファンの方々には大変失礼な「下訳」になってしまいましたが、まぁ、意味は通じているでしょうし、ここは単なる日本の片隅にある“ほざき日記”ですので大目に見てくださいな。。
あ、それと、ステキな格言を発見したのこのページの上部に付けてみました。で、その他にも「これもいいなぁ〜。」と思う格言がたくさんあったので、一部引用しておきます、はい。
☆人生とは孤独であることだ。(by ヘッセ)
☆意志もまた、一つの孤独である。(by A・カミュ)
☆孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の”間”にある。(by 三木清)
☆最高のものを求める人は、つねにわが道を行く。
人間は最高のものを決して共存しない。
幸福になろうとする人はまず孤独であれ。(by ハーマーリング)
☆孤独でいかに暮らすかを知らない者は、忙しい群集の中でいかに忙しく暮らすかも知らない。(by ボードレール)
☆自由に呼吸することは人生を孤独にしない。(by ゲーテ)
☆私が孤独であるとき、私は最も孤独ではない。(by キケロ)
☆真の幸福は孤独なくしてはありえない。堕天使が神を裏切ったのは、天使たちの知らない孤独を望んだために違いない。(by チェーホフ)
☆孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。
しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである。(by バルザック)
☆・世間一般の考えに従って生活することはごく易しい。
また、自分の事だけ考えて孤独の生活を送る事もごく易しい。だが悟りを開いた人間とは、群集の真っ只中にありながらも、自立の醍醐味を心ゆくまで味わうことのできる人間である。(by エマーソン)
☆私は大部分の時を孤独で過ごすのが健全なことであるということを知っている。最も善い人とでも一緒にいるとやがて退屈になり散漫になる。わたしは独りでいることを愛する。わたしは孤独ほど付き合いよい仲間を持ったことがない。(by H・D・ソーロー)
特に、ゲーテとエマーソンの言葉は、マーケットそのままズバリを思い起こさせますなぁ。デスクの前に飾ることにしますわ、はい。
(翌日1:20 ちと訂正。。)
■□■その他のほざき。■□■
さっき、
「あなたは本当は何人?」という占いをやったのですが、その結果をメモ&発表しまする。
「なお。さんは【 アフリカ人 】です!
● アフリカ人さんのあなたは、自分をあまり飾らず、ありのままの姿を表現するタイプ。嫌いなものは嫌いだし、怒りたいときは怒る。打算的に行動することが出来ない、いわゆる世渡り下手。しかし逆にそういった態度が大物っぽくもあります。軽い流行に乗るのが好きではなく、しっかりと自分の好みを持っています。表現力を求められる芸術的な分野で力を発揮できます。
● なおさんの前世は、赤血球です!」
だそうです。以上。。
2004年12月07日(火)
サヨナラの基準。
“なんとかしてあげたいと思われる人になりたい”【未完の男偏屈男】より以下引用。
今後この人と付き合って、発展性があるのかどうか。
それとも、今回限りのおつきあいで「はい、それまでよ〜」とお互いに使い捨てなのかが大切な判断基準になる。
ビジネスもプライベートも、一回ぽっきりの使い捨ての関係はどこか虚しいものである。
どうせ一度きりの人生ならば、この人のためなら何とかしてあげたいと思われる人に私はなりたい。
未完の男偏屈男より引用。
この文章を今日偶然目にして、私なりの「サヨナラの基準」なるモノを考えた。基本的に、出会った人とは付き合い続けたい、とは思っているものの、どうしても“関係を継続する意味が見出せない相手”、というのが誰にでもいるよなぁと思う。
で、私にとっての“関係を継続する意味が見出せない相手”の特徴を、少し考えてみました、はい。以下、中途半端だけど出てきた分だけを書きまする。
まず、「時間潰しのために他者を使おうとする人」かなぁ。これってかなーーーーーり大迷惑ですよなぁ、なんか。人とのコミュニケーションを主体的な努力なしに(かつ「無償」で。。)得られると“思い込んでいる”人っているんだなぁ、こんなに情報資本主義化した日本にも、って、たまに思ってしまいますなぁ、私。
それと、「一方的に話してすっきりして去っていく人」(苦笑)。これもまた迷惑なんですよなぁ、ホント。。あ、でも、こういう人は、あまり長時間話さなくてもすぐにわかるので、あまり私は被害被ってないなぁ。
あ、けど、ちと頭痛くなるのはさ、面倒だなぁと思って私が「話を流す」と、相手サマが思いのほか(冷静になるどころか。。)調子付いてきて相手サマの「自慢話へと転化する」パターンかなぁ、と思いまする。
これに関しては、「下手に出ることが侮辱だということを、高学歴の人は知らない」という言葉を、この前とあるエッセイで発見し、「なるほど〜!そうだったのか♪」と唸りました、はい。。(*「流す」=「面倒だから」=「侮辱」って意味でやってるのに、通じてなかったんだなぁ、ってしみじみ思った。。)
もう1コ無理やり挙げると、上の2コと部分的に被るけれども、「人の足を引っ張る人」かなぁと思う。私、基本的に、というか、99%の割合くらいの勢いで、人と付き合うときはマイナスの感情をベースとするのではなく(→うーん、例えば劣等感の発生源が似ている、とか。)、あくまで“プラスの感情”に基づいた付き合いをするように心がけていまする。ので、
向上心のない同姓たちは、
他のみんなも同じであって欲しい、
それによって安心感を感じていたい。
食べたい、買いたい、身につけたい、
そういう共有できる価値観だけで、
ふれあい、生きていたかったのかもしれません。
いい言葉ねっと>コラムより引用。
というような、妙な安心感を共有したがる方々とは、積極的にサヨナラするようにしておりまする、はい。。
まぁ、とりあえずまとめますと、引用したエントリーにあるように、可能な限り「今後この人と付き合って、発展性がある」と思える人と付き合いたい、付き合い続けたいと思いますよなぁ、やはり。
そのためにも、「今後この人と付き合って、発展性がある」と思われるに値する人になりたいものです、はい。以上♪
☆写真は
"bite"【westvillage funny pictures】(同日22:40 少しだけ加筆。)
2004年12月05日(日)
いつから「強い」ということが貶し言葉になったんだろう。
以下、作家の柳美里氏のブログ
『名づけえぬものに触れて』の、ちょっと古いけど
2004年11月22日のエントリーより引用。
勝ちたいとは思わないけど、敗けるのはイヤだ。
自分のことを「敗者の美学」だなんて言葉で正当化するのはイヤだし、
他人のことを「負け犬の遠吠え」だと嘲笑うのもイヤだ。
生きている限り、闘いたい。
わたしは、参加することに意義がある、
なんて言葉は大嫌い。
努力した、がんばった、辛かった、疵だらけ(ほら、見て、この疵!!)、
なんて泣きごとをいったら口が腐るし、耳が腐る、
とまではいわないけれど、
そんないいわけを聞く耳は持ち合わせていない。
てなことをいうと、
「柳さんは強いひとだから……」
とみんなあとずさっていく。
でも、いつから、強い、ということが
貶し言葉になったんだろう。
みんな、弱さに魅かれるから、
わたし、弱いの、ほら、こんなに脆いのよ、
とわざと羽を引き抜いてうめいて見せるひとが増えていく。
わたしなら、羽を1本残らず毟りとられたって、
全力で助走して、断崖の上から飛んでみせる。
で、見事落っこちたとしても、敗けたことにはならない。
ファイト!!
私もこれ、つまり、「いつから、強い、ということが貶し言葉になったんだろう。」って、日常のなかでたまーーに感じますなぁ。
うーーん、自分よりも「弱い」存在に惹かれるのって分かるけど、だからって、自分よりも「強い」(もしくは「強く」“見える”人)人に対して、「○○さんは強いひとだから……」というような言葉を不用意に投げかけるのも、何だかなぁって思ったり。
あんまり長く書くのも何なので、突然まとめてしまうけど、「弱い」人の演技をしている人こそ貶められるべき、というか、より正確には、“自分で自分を貶めている人”、だよなぁ、って最近思う。
“一面的な”「強さ」でも「弱さ」でもない、自分の、相手の、“多面的な”「強さ」と「弱さ」に興味があるなぁ、私。
それにさ、そもそも、「弱い」ってそれが許される環境にいるからこそ「弱くあれる」だけであって、所持金ゼロでヒッチハイクしてて車止まってくれなかっとしたら....。今日の写真みたいに、ブラ見せくらい出来ないと死んじゃうもんね、あはw♪(→そういう“状況”になったとき、「弱い」「強い」って言っていられる余裕も時間もないよなぁ、ホント。。)
☆今日の写真は
“berlin_or_bust”(ソースは昨日と同じくwestvillage funny pictures。)
■□■お知らせ&メモ。■□■
・今月に入ってから、アクセス拒否に引っかかってしまった方、ホント失礼しました(汗)。先ほど、今後は失礼のないように、この日記に関しては対象外としましたので、以降も宜しくお願い申し上げます。
(→ことサン、ご連絡ありがとうございました♪)
・とりあえず今日、
文通ブログにリンクしといた。別に何も面白いコト書いてないし、私とあちらさま以外が読んでも何も通じないだろうし、読むだけ無駄だと思われます。。
が、まぁ、誰も見てくれないと、ホントにどこまでも文が荒れていくだろうコトが容易に予測できるので、クローズではなくオープンにしてみるコトにしました、はい♪
・以下、今日、Mixi日記からコピーした7月のほざき日記をメモ。
*
07月27日 ラブ・フォー・ディスタンス。*
07月26日 ストイック、を超えて。*
07月24日 市場で勝ちたきゃサーフィンすべし。*
07月19日 自由という感覚。*
07月8日 Want to be*
07月1日 7月の短いほざき、まとめ。
2004年12月04日(土)
幸せになるシンプルな定理。
土曜の晩。帰宅後すぐに
Skypeで女友達と長電話1時間弱。
久しぶりに話せて楽しかった♪けど、うーーん、何と言いますか、恋愛相談の手前の「付き合うかどうか?」相談、って何回乗っても慣れないなぁ、って思った。。
というのも、結局は、“好きになった人”と主体的かつ積極的な気持ちで付き合う、のが一番なワケだし、付き合う以前の段階で「相手のココを妥協すべきかどうか?!」を私に尋ねられても、「うーーーん。。」って唸りつつ、「それはあんたの価値観次第でしょ♪」って言うしかないですよなぁ。。
っうか、「妥協すべきか否か?」という“問い”の“質”は横に置いといて、どんな“問い”でもそれに対応する、ある程度正確な“回答”を出すには、その“判断基準となるもの”が必要ですよなぁ。
つまり、この場合は、「どういう相手とどんな関係を形成するのが自分にとって最良なのか?」を考えてみる必要がある、というコトになるのかなぁと思った。なので、今書いたこのまま、いつも通り率直かつ迅速に回答(苦笑)。
それに、“相手”と“関係の形”(=判断基準。)を思い描く以前に、“恋愛特有の熱さ”ばかり求めるのもどうなのかなぁ、って思ったし。どうして自分と同じ生身の人間に、“熱さ”を一方的に求めることができるのか疑問に思うしなぁ。
熱さを相手に求めるならば、自分も熱くなくちゃ恋愛特有の熱い「関係」にはならないだろうし(→自分+相手=関係のクオリア、が基本の形ですものなぁ。)、また、平和的な関係を求めるならば、自分もまた平和的な愛情を注げる人にならなくちゃならないよなぁ。
だよなぁ〜、そうだよなぁ〜。というか、私、そうしてるよなぁ、何気なく最近。平和的な、冷静な熱”みたいなモノで包まれた関係を築きたい、と心から思えるようになったらしいよ、遅まきながらそういえば私。。
身近にいる人たちを大切に尊重しつつ、その輪をマイペースに広げていけばいいだけなのかなぁ、って最近思う。ただそれだけで、お手軽に幸せになれる。こう書くとシンプルな定理だなぁ、なんか。。(→単純な定理すぎて馬鹿にされそう。。けど、効きますよホント。)
あ、それと、今日みたいな「付き合うかどうか?」(もしくは「結婚するかどうか?」)相談を受けたとき、いつーーーーも思うんだけど、何でまた皆さん、そんなに相手の“懐具合”を評価の主要部分にするのかねぇ。。
いや、別に、それが良いとか悪いとか言いたいのではなくて、結論から言いますと、「長期的に見ると、結婚すると男女共に貧しくなる」(注:一般ピーポーの場合。)、っうコトは、既に経済学の文脈では明らかになっておりまする。
まぁ、これだけでは根拠が弱いにしても、とりあえずは、「付き合う」「結婚する」という主体的な行為(後者は法律行為。)によって得られると予測することができる妥当なもの、というのは、やはり「心理的な安らぎ」ということになるよなぁ、っうコトは言い切れるかなぁと。
ですので、まぁ、ホントに、自分自身の判断力に限りなく自信が無い場合を除いて、「好きな人」と付き合う(もしくは結婚する。)、ってのが、一番だと思いますなぁ、私は。って、あくまで経済学ベースの考察と私の主観的感情論のみで構成された主張なので、怪しさは拭い去れないものの、まぁ、それが一番ですよなぁ、やはり。
っうか、今改めて思ったけど、私って、こういうコト考えたり悩んだり相談したり人だよなぁ、ホント。考えなさすぎかもしれない、もしかしたら。。(→どうしてだか1回考えてみるわ。。)
☆今日の写真
“heartcoffee”(westvillage funny pictures)は海外の面白い写真サイトさんで発見♪
2004年12月03日(金)
書くときの、わたしなりのルール。
うーーん。とりあえず不完全ではあるけれど、最近ときどき考えていた、私なりの、日記を書くときのルールについて、いきなりではありますが、思いつくままに書いてみますわ。
まず、今まで1年以上この日記を書いてみて気づいたのは、気持ちが落ち着いてから書く、ってコトだけは、ちゃんとやってらしい、ってコト。
なので、「日記」ではあるけれど、その日にあった出来事について、自分自身で冷静に書けないと判断した場合は、しばらく期間を置いて、ちと客観的になれてから書く、という感じでありました、はい。
よって、もしかすると、とある日に書いた日記は、昨日のことかもしれないし、1年前のこと、3年前のことかもしれない、ってコトは、十分に有り得るよなぁ。って、例えば、昨日の日記も、たぶん1週間前まではいってないけど、5日くらい前のだしなぁ。。
うーーん。だから、読み手のみなさんが「この人弾けてるなぁ〜。」と“認識”したとしても、実際の私はいたって冷静な場合が多いですよなぁ、やはり。だって私のなかでは既に過ぎ去ったことになってるワケだし。もしも冷静になる手前で何か書く場合は、ノートとかに書いてるしなぁ。。
それと、進行中の恋愛については書けない。どう頑張っても書けない(苦笑)。だって、そもそも現在進行形の恋愛について、冷静になれるはずないし。。だから、これはパス。でも、過去の終わった恋愛については、書いてますよなぁ、だいぶ。(→あ、でも、書いてるかもなぁ、ちゃんと人物名と関係を明記してないだけかもなぁ、ふむ。。)
あとは何だろう?あ、そうだ。
出来事やその出来事にまつわる私の感情の“表現の程度”についてだけど、
それらを「過大に書く」ことは無いですなぁ。
「過小に書く」ことはあっても、過大に表現することは無い、
と言い切れるよなぁ。
なんか私、「平凡を描く」ということがしたいのかもしれない、
もしかしたらだけど。
うーーーん、中途半端だけど、とりあえず3つ出たし、まぁ、足りない部分や後で気づいたのはその時書くとして以上のルールを今後も守っていきますわ、ふむ。 あぁ、久しぶりに朝から書いてすっきりした〜、では以上♪
***********追記。*******************************************
さっき、思い出したのでとりあえず追記。
そういえば、今まで、「今日は○○にいきました♪」というような、“場所”は明記してなかったかも。。「今日は何処に行った」もしくは「誰と会った」の“どちらか一方”は書いてたはず。だけど、両方書いたコトって少なかったかも。ココだけ読むと移動してなさそうだけど、結構色々なところから、コレ更新してたんですよ実は。。
けど今、こういうのって、基本的にスケジュール帳に書いてることだし、まぁ、日記には書かなくていいかなぁと思った。。
まぁ、要するに、今後も「平凡な日常を描く」というコトを主眼にする、ってことになるのかなぁ、ふむ。
ということで、今後の日記の基本方針を、ひっそりと練り直していた私でありましたが、おそらく今後も何も変化はなさそうですなぁ。。
***********公開私信。。*******************************************
ミクシイ日記からコピーしたのは、かんげんさんとは全然関係ないのでご心配なく(笑)
私は、書く場所によって、表現する自分を変えるということはないので、
というか、そういう必要性もなく、ただ単に「楽しみ」として書いているだけなので、今後自分が後から見やすいように1箇所にまとめとこう、と思っただけで〜す、はいw
それと、確かに山田詠美氏の本は、中途半端なフェミニストの方々には読んでほしいなぁと思います。最近よく思うんですけど、「女性はすばらしい」とか言う男性もまた「短小」ですよなぁ、心が(苦笑)。。では、山田詠美氏の作品について、次回は講義させて頂きますね、あは♪
2004年12月02日(木)
安心して派手に転ぶ、ために。
(以下、いつも通りのほざき日記。)
「きみが躓きそうになってた時には、いつも、おれがそこにいてあげる。
だから、安心して転んで。
派手に転んでみっともない格好をさらけだしても、
きっと、きみは美しいままだよ」
(以上『PAY DAY』山田詠美著より引用)
この本、私気に入ってるんだけど、最近、この本の上の部分を引用してメッセージをくれた人がいた。っうか、この箇所だけ読むと、かなーーーり恥ずかしいんだけど(→だって日本人向きじゃないでしょ、このセリフ。。)、無駄な表現が付加されていなかったのも良かったのかなぁ、、、その人の思惑のまま、何か励まされてしまった。
認知回路はちゃんと定期的に調べてもらわないと何とも言えないけれど、感情の回路(→というか、感度とその表出化かなぁ。)については、私は単純で素直なつくりなので(→自己評価・他者評価ともに。)、ホントそのまま単純に励まされやる気になったらしい、私。(→あ、でも、今日は風邪で熱が出て寝てましたけど。。)
が、熱にうなされながら、ベットで何気なくこの本をパラパラと見ていたら、上の引用箇所の次にはこんな文が続いていた、というのに気づいたのでありました、はい。
「それは美しくならなきゃいけないってことね」
「そう。美人は、何をしても許される。
駄々をこねても、泣き喚いても、
皆、彼女が美しいのを知っているから、何も気にしない。」
(以上『PAY DAY』山田詠美著より引用)
ということで、みっともない姿が許されるのは、「美人」だけらしいので、「美容」も同時にがんばりまする。
あぁ、今月は美容月間だなぁ、ふむ。。
■□■ほざき&お知らせ。■□■
・この前しばらくの間(3日間。。)リンクしてた「文通ブログ」は移転しましたわ。理由は、使用してたAmeba blogサンの使い勝手が今ひとつだったので。。画像がたくさんアップできるのは良かったんだけど、逆に言うと、それしか他のとこと違いないなぁと思って。。(→なので画像置き場となりました、はい。。)
・で、移転し終えたのですが、最近、文面が弾け過ぎてきて「検閲」するのが面倒になってきました、正直。で、しばらくはクローズでやることに。
あちらがプライベートでやっているページにはリンクするかも?らしいけど、共通の知人に読まれてかなりウケられたので(→だって「です。」「ですよね。」「でした。」とか、無駄に丁寧な表現使ってたし。。)、こっちは落ち着くまでしばしリンクなしにします、はい♪
・それと、おそらく、アクセス拒否されてしまった方がいたと思うのですが、マイエンピツから来られた1名サマ、ホントに失礼しました。海外の怪しいところからのアクセスを拒否するよう設定したのですが、どうやら設定が甘かったようで違う方まで拒否されてしまっていたようです。。悪意はありませんでしたので悪しからず。ホントに失礼しました。
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