最近、密かに、「山田詠美氏の作品を再読する」という目標を、睡眠前の1時間に着々と進めている私。ほとんどの作品は持っているし数回読んだ作品もある(「アニマル・ロジック」とか「チューイング・ガム」とか)。
けれど、引越しで失くしてしまっただろうものや、実家の本棚のどこかにあるはずなんだけど何処にあるのかわからないものもあり、今、目に見えない位置にある作品は、思い切って、昨日すべて注文してみた。なので、今年中に全部再読できるかも。で、上手くいけば「山田詠美氏の名言集を作成する♪」という次なる目標にも着手できるかもしれず。。
で、今日はエッセイ「セイフティボックス」を読了。1992年に文庫として出たやつでその数年後に買っただろうから、おそらく記憶によると、16歳〜17歳の時に読んだんだと思う、私。
中でも、激しく同感した部分があったので、以下、引用&感想。
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「女友達って、とてもいい。だけど、男に対して許せることでも、女に対して許せないということは数知れずあって、段々と疎遠になって行く友達も多い。特に旅行などすると、今まで好きだった女友達が我慢できなくなったりする。
女友達を選ぶには、一緒に旅行してみるべきだ。私はそう思う。男の場合もそうかもしれないけれど、男と一緒に旅行すると、恋が先走ってしまって、私の場合、あばたもえくぼになってしまうので、冷静になることは難しい。」
(以上、「セイフティボックス」p76より)
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ホント同感だわ、これ。旅行に一緒に行ける友達は、ホントに真の友達だと思いますなぁ、実感として。(なので、YUMIサンとちいさいの。サンは、素晴らしく素敵な友達だと思っておりますよ、ホント♪)
相手が男性の場合であっても、まさにそうだなぁと思いまする、はい。女友達でも男友達でも恋人でも、実は、私、「一緒に旅行できるかどうか?行きたいと思うかどうか?」という判断基準を密かに適用しているんですよなぁ、やはり。。
最初は無意識でやってたんだろうけど、この本を読んで、そういう基準を自分が持っている、というのを“事実”として再発見し再確認しましたなぁ。。やはり、1回は一緒に旅行してみないと(=一定期間のあいだ生活をともにする、ってコトかなぁ?)、お互いの本当のリズムってわからないモノなのかもなぁ、と思う。っうか、上手くまとめられない。。けど、まぁ、単なる1人「ほざき」ですので、「旅行と友達ってのは、かなり関係あるよね、やっぱ♪」ってところで終了しまする。。
(以上、Mixi日記2004年11月26日を少し修正したもの。)
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以下、頂いたコメント。
*Yさんよりコメント。
山田詠美氏の名言集、楽しみです!
彼女の文章好きですので・・・私もこの前トラッシュ、再読してみましたよ。
確かに、旅行に一緒に行ける友人って真の友人ですね!この前、知り合いが、初めての海外旅行で友人と2人で行ったのですが・・・良くなかったみたいで・・・日本で普段遊んでいる時には、わからないものだねぇと言ってたなぁ。2人で行っているのに、会話した時間が、周りの旅行客の人の方が多かったって言ってたよん。2004年11月26日
*なお。(返信)
ですよなぁ♪やはり、1回は一緒に旅行してみないと(生活をともにする、ってコトかなぁ?)、お互いの本当のリズムってわからないのかもしれないですなぁ(笑)Yサン、またご一緒してくださいな(笑)
2004年11月27日(土)
どれを選んでも良い自由。
数日前、山田詠美著『PAY DAY』を昨夜再読。これ、改めて読んでみたら、わたしという自分の成り立ち(?)について理解が深まりました、はい。山田氏の小説は高校時代から読んでいたけれど、今でもわたしが氏の読者であり続けているのは、単純だけど、彼女の描く世界のなかに、私の破片みたいなモノがあったからなんだなぁ、と。まぁ、要するに、わたしにとっては自分を重ねられる要素が強い作品が多いのかも、山田氏の小説って。
で、昨日気づいたんだけど(っうか、今更気づくなよ、ってコトなんだけど。。)、私が、いわゆる"Up or Down"の世界に慣れ親しんでいて、かつ、心からそういう世界が好きである大きな理由の1つは、高校時代にあったんだなぁ、と思った。
この小説は、海外を舞台にしているのでこのまま当てはめるのは、もちろん無理ですよなぁ。(っうか、こういう世界に自分を当てはめて堂々と“日記として書く”のって、ホント単なる「妄想くん」だよね、皆さん、そういう人には気をつけましょうね♪)
でも、これを日本のとある街へと移し変えてみると、私の高校時代そのままなんですよ、ホント。そして、そういう場が「もっとも特殊な区域である」ことを私も大学に入るまで知らなかった。「どれを選んでも良い自由」が確かに存在していて、私が選びたいものを選べた。選びたいのに選ぶ力が不足している場合には、選べるだけの力をつければいいだけだし、自分自身がくだらないって思ったものは選ばない自由もあった。
具体的に言うと、中途半端な私立の進学校だったからか、大学に進学するかという点についても、東大から海外の辺鄙な大学まで全部各自の力によって自由に選ぶ自由があった。それに、専門学校に行って映画やファッションなどを学んだり、就職したり、職人を目指したりする選択肢も普通にあって、各自の判断で、「自分にとって、何がUpで、何がDownなのか?」を考えて選ぶ、そういう自由があった。そういえば、今思い出したけど、高校1年の時のダリンはプロ・サーファー目指して高校中退し、いまやホントにプロですわ、尊敬。。(あぁ、またサーフィン教えてよ、って感じ。。)
うーーん、うまくまとめられない。。まぁ、つまるところ、"Up or Down"の世界って、ホントに最高だ〜〜〜、と思う。特に、投資の世界は"Up or Down"の究極、って感じで、ホント気持ち良い。高学歴なアホは3合目くらいで自爆していなくなってくれるし、それ以上の高さの場所に着くことができれば、そこは限りなく見晴らしの良い世界で、自由に動けるんだもんなぁ。
と、同時に、こういう世界で私が平気で遊んでいられるのは、大らかでリベラルな(自由主義の人は大歓迎ですよ、ホントw)家族や友達たち支えがあるからこそ。感謝しております、ホントにしみじみと。
以下、山田詠美著『PAY DAY』より引用。
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「父の教える生徒たちは、大半がアフリカ系であったが、彼は、自分の子供たちを、さまざまな人種の混じるダウンタウンの学校へ通わせた。そこにはルーツを学びながらもルーツに開放された子供たちが大勢いた。
ハーモニーもロビンも、その中で、自分は自分以外の何者でもないのだ、と意識しながら育った。自分のスタイルは、教えられるものではなく、自分で選んでいくものだよ、父は子供たちにそう論した。
どれを選んでも良い自由があった。つまり、ロビンとハーモニーは、典型的なダウンタウンキッズだったのだ。そこがアメリカで、もっとも特殊な区域である、のを2人は知る術もなかった。」
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以下、頂いたコメント。
*Yさんより。
なるほど。確かになおさんはリベラルの中のリベラルって感じかもと僕も思います。それとなおさんの元彼に会いたくなりました(苦笑)2004年11月23日
*なお。
Yさまこそ、リベラルの中央、って感じですよ、あは(笑)今彼にはすぐに会えますが何か?(苦笑)2004年11月24日
*YUさんより。
なお。さんには確かに山田詠美氏のテイストを感じます。それは別に山田氏の真似をしているとか感じるわけじゃなく、同質のものがそこはかとなく流れているというか。山田詠美氏は私も好きで熱心な読者ですが、いいですよね。いいですよね、ってそんな簡単な
言葉じゃ説明不足なんだけど。。。でもなお。さんが好きっていうのは妙に納得です♪2004年11月24日
*なお。
YUさんもお好きだったんですね、新たな共通点を発見できて嬉しいですw 確かに、ひとことで表現できない良さがあるんですよね、山田氏の作品って。インタビューか何かで山田氏が、「1ページのなかに、格好良い言葉がひとつはないといやなんです」とか何とか(正確な表現ではないはず。。)言っていたのが、何だか今だに忘れられませぬ♪2004年11月24日
YUMIさんより。
学生の時に、私に「山田詠美」氏の本を勧めてくれたことを思い出したよ。彼女の本には、本当に衝撃を受け、それ以来大好きになったなぁと。そして、山田氏の本のテイストが、なおさんにはあるなぁと、当時から感じていたことを思い出したよん。
なおさんの「どれを選んでもよい」学校生活。なるほどです。だからかぁと思った。素敵な環境だなと思う。私の高校は、皆そのままに進学(主に大学)というかんじ。だからこそ、初めて入学式でなおさんに何かオーラを感じたし、話していておもしろかったなぁと。変なものに縛られていないし、今まで会った人とは明らかに違うものを感じていたわ♪2004年11月24日
*なお。
YUMIサン、コメントどうもです♪ たぶん、今振り返って思うに、高校時代に山田詠美氏の小説に影響を受けて、こうなってしまった部分も多々ある感じがしますわ、なんか。でも、あの本を発見した当時の自分自身を思うと、やはり、「似ている」何かを感じたからこそ、読んでたのかもなぁとも思う。
(あ、この話、前したかもねw)YUMIさんこそ、入学式のとき、上手くいえないけど、他の人とは違う雰囲気でしたよなぁw だからこそ、なんか興味もったんだと思う、わたし♪
高校時代は、当時の自分の印象ではホントに「何もなかった」って感じなんだけど(笑)、今思えば、あの学校を選んだ(選んだ基準=家から近い、制服がマシ、修学旅行が海外、土日完全に休み、それなりの進高校で自分がアホだったら塾行けばいいだけ、だと思って選んだ。。)のも、よかったのかもなぁと思えてきたよ、ホントに最近だけど♪
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■お知らせ■
あ、次いでに、ちょっとしたお知らせを。この日記のデザインを変更してみました、はい。字を大きくしたので自分でも眼が疲れなくて良い感じ♪ それと、最近出没していた“野獣のYくん”は、もうこちらには来ませんのでご安心を。混乱してきたので(「え?誰が混乱したの?」って、私が!だよ、おい。。)先ほど相談の上、誠にストレートかつギャグな解決策ではありますが
文通ブログ(?)を共同で作成しましたので、野獣くんに興味を持ってしまった変わった趣味の方は、ぜひご訪問してみて下さいなw(次いでに下にリンクもしといた。。)
2004年11月25日(木)
「嘘」と「目利き」
(#以下君の観察日記。この前のを手直しした上で勝手に更新)
君の物言いは的確で賢い感じがする。それを柔らかく相手に伝える独特の話し方と雰囲気の演出にも長けている。笑いを引き出すユーモア、そして前向きが過ぎる会話を冷静な位置へと引き戻す甘辛い皮肉を所々に挟む自尊心も忘れない。詰まり。僕以外の誰か”と話している時の君は知的な女性に見えた。昨日の夜、“僕以外の誰か”と話している君を少し離れた位置から眺めていた時、そんな事を思った。“僕”だけの時はもっと怠惰なのに何だかなあ(苦笑)。
“僕以外の誰か”と話している時の君。そして“僕以外の誰か”に向かって君が書く文章。公的な文章もそうだけれどウェブ日記で君が書いている文章のイメージは特に、目の前に居る君の実像とは少し異なるように僕は感じる。
その一方で、僕以外の誰か”と話している君を見ていても“僕以外の誰か”に向かって書く君の文章を読んでいても、共通して感じる事がある。人によって表現や感じ方は違うだろうけれど、僕の場合はどの君を目にしても「嘘」をつかないことの意味を考えさせられる事が多い。「嘘」とは会話や文章のディティールではなくて、人が漠然と感じる“目に見えない何か”に関係するような「嘘」。
目に見えないから「嘘」をついてもいいような気がするのかもしれない。多くの人たちは結局は「嘘」をつく。まず、他者にどう見做されるかというリスクを考える。自分自身を曝け出して得られるリターンを想像する。両者を天秤にかける。そうしてみるものの、結局は「嘘」をつく。誤魔化す。ただ単に可愛い自分を守るほうが心地よいだろう、というだけの理由で。
でもまた、そんな「嘘」を見抜く“目利き”がたくさん居るというのも事実で。その種の人たちはどこにでも居て、どこからか何かを見ている。君はその事を知っている。自分を定義するのは他者ではなく自分自身だと認識してもいる。時々怖いなあと僕が思えてくる程に(苦笑)。
さっき君の日記を読んでそこまで考えて、当然過ぎて最近忘れていた事を、詰まり、そもそも君は“目利き”を職業としているという事を思い出した。君は「見せかけの知性では自己肯定も自己否定もしない特権意識も持たない」側の、“目利き”側の人でしたね、“僕以外の誰か”の前では。
(#以上、猛獣の(苦笑)Yより。猛獣使いの君が油断してるあいだにw)
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*以下、この文を読んでの私の返信、というか、思ったことをここにも転載。
先日、Y様からフィードバックを頂いたので、それを参考に、ちと自分を振り返ってみまする。あ、それと、私を指す代名詞は本名ではなく「なおさん」に変更。で、文の最後に、頂いたコメントを抜粋&引用。(*あ、それと、リアルお友達の方々、会ったときの私の印象、ホントに合ってるかどうか後で聞くから教えて、お。ね・が。いw)
うーーーん、まず、自分でも指摘されたこと、つまり「嘘をつかないこと・書かないこと」については、意識して取り組んではいる。だって、なんか、綺麗に自分を作ってる人と話したりそういう人の文を読むと(あ、小説とかエッセイとかじゃなくて普通の人の書いたノンフィクションの文ねw)、私自身読んでて気持ち悪いし。。それに、そもそも「ニュートラルな視点」を保つことを一番に心がけているから、自分を誤魔化したらもう終わりだってことくらい、自覚してる。
なんていうのかなあ、相手の目線を無視して、自分を語るのって、たぶん、Y様のような「目利き」から見たら、コーチする意味ない人に見えるのかもなぁ、とかも思うし。。うぅ。。うーーん。というか、正直、私、自己評価では、全然「目利き」とは言えないレベルなので、なんか、ちとこういうのって褒められすぎに感じるんだよなぁ、なんか。でも、3割くらい信じてみようかなぁ。。あ、今気づいたけど、「褒められる」ってことを、私、もしかしたら、ネガティブに捉えてる所があるかもしれず。うーーーん、これを、心理的にはニュートラルな感情で受け止められるようになれると、もう少し安定するかもしれない。ここらへんを、寝る前に、もう少し深く考えてみるわ、ふむ。
あ、それと、修正するの面倒だから、自分でコメントしてリンク&追記w
最近、こういう人や企業をによく目にする機会が増えたので、ちと気をつけないとなぁと思う、引き摺り込まれないようにしないとな、ふむ。。
■見せかけの「美」につきあってあげる
http://blog.livedoor.jp/cpiblog00039/archives/9427213.html
「内面は、ドロドロしているのに、見せかけだけは、本当に美しくしている人なり、組織がある。決して、悪気があって、そうしているわけでない。
相手に不快な思いを与えないようにとか、自分が自尊心を保てるようにとか、みんなの理想を壊さないようにとか、そんな思いが、根底にあったりする。
見せかけという言葉を使えば、偽善っぽくなるけれど、本人は、いたって「見せかけ」でなく、本心からの姿だと思い込ませている、自分に対して。」
2004年11月24日(水)
判断力。
(以下、Mixi日記より転載。)
(以下、ほざき。)
あぁ、もう久々に「判断力」が限りなーーーーく、無いヤツに遭遇してしまい、気が散った、って感じ。あんなに「判断力」ない人間ってのも、ホントめずらしいと思った。まぁ、長い人生のなかでは、誰にでも付き物の、単なる“事故”みたいなものですよなぁ、こういうのって。1年ぶりくらいに「呆れる」という感情を存分に味わったよ、ホント。。
結局、人は自分自身の“主観”でしか物事を判断できない。“客観”を求めたところで、その人本人の認知の枠組みが狂っていたら、その狂った認知フレームをベースに“客観”(この“客観”だってさ、正しい相手を選ばないと意味ないし。)に耳を傾けるわけだから、まぁ、結局は、ダメなものはダメだよ、それじゃあ、っうことですよなぁ、ホント。あ、この件については、素晴らしくまとまっている文がありますので、以下のリンクをどうぞ♪(かちゃさんの、こういう論理的なところ、大好きだわ♪)
http://kacha.csidenet.com/diary/nicky.cgi?DT=20041124A#20041116A特に、こういった“文字”が主体のコミュニケーションでは、相手の声や動作・表情を“感じる”ことができないぶん、より慎重にコミュニケーションをはからなくてはなりませんよなぁ。
まぁ、私を例にすると、“文字”ベースでは、私はこういう「書き方」してるけど(ですよなぁ、とか、でありまする、とか書いてるけど、会話では使わないからさ、当たり前だけど。。)、それだって、「ほざき日記」「普通の日記」「論文」「雑文」では違いますし。そもそも、「書き方」は“客観”(=読み手)の属性とその文で求められてる“目的”によって、当然異なるわけですし、もちろん書き分けておりまする。
それに、文章と違い、電話や対面での印象は“客観”である相手の感度と位置によって当然違いますよなぁ。(あ、ちなみにさ、実際は、自己評価でも他者評価でもそうだけど、特にウェブ日記での私と、対面での私、はだいぶ違うと思うよ。会うとわかるだろうけど、迫力あるからさ〜〜〜、わたし♪あ、でも、プライベートで仲の良い友達とはホントこういう感じですね、ふむw)
そういった意味で、私個人は、可能な限り、読み手である皆様という“客観”が、ヘンに頭を使って誤解したり妄想してしまわないように、率直に、できるだけ一般的な言葉を選択して書く、というのを心がけておりまする。
それと、妙な「余白」を作らない、つまり、読み手の皆様が「この人って、ホントはどういう人なんだろうねぇ?」とか「これ、ホントなのかなぁ?」とか、そういう「行間を読む」作業を最低限度まで下げるように書く、というのも、もう1つのポイントでありました、はい。(そういった意味では、書いたこと=嘘はない=そのまま受け取れよ、おい、って感じなんだけど、たまーーーーに、妙に捻くれた「解釈」してくださる方がいて、ちと面倒だよなぁ、って正直思う。)
あ、最初の「判断力」の話にいきなり戻すけど、「判断力がある」と“思い込んでいる”人(=「自分自身の常識を普遍の客観的前提条件にしてしまっている相手」)って、ホント怖いですね。。むしろ、「判断力はない」という前提で始めないと、相手の話に“耳を傾ける”ことなんて不可能ですし、相手の話を聞いたところで、そういう“思い込み”があることで既に認知フレームはぶれているワケですから、単に、最初からあったその“思い込み”を補強するような話しか、脳は選択しなくなってしまいますから。(脳科学勉強してメントレしてくれよ、判断力ないヤツってホント困るよなぁ。。)
あ、一応さ、面倒だからはっきり言っておくけど、私、“浅い知識”や“中途半端な経験”でこういうコトを“平気で”書くような「判断力のない人間」ではないですし、少なくとも、断片的ではなく「体系化された知識」をベースとして書いてますので、その点は信頼してくださいなw
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以下、頂いたコメントとその返信をメモ。
#Yさんより。
僕の経験上の話なので以下その点を差し引いて読んで下さいね。所謂、なおさんが上で書いている「判断力があると“思い込んでいる”人」についてだけれど、過去、僕はそれってその人の職業と相関が高いのかもなあと思った事がありました、そういえば。「判断力」を求められる仕事は数多くあるけれども、その「判断力」を求められる“程度”や“深さ”や“時間の長さ”が、その職業についての一般的なイメージと異なる場合が多々あるので、そこらへんで本人と他者との間で何か変な勘違いが起きる事が多いように思います、最近特に(苦笑)
#なお。(返信)
なるほど。確かにそれあるかもw。最近私も思ったんだけれど、例えば、“医師”や“弁護士”や“コンサル”という職業でも、その内容とYさまがご指摘下さった諸所の要素はかなり違うのに、“違う”という前提と“どう違うのか”という知識がない人にとっては、ホントに “同じ”ように“見える”らしい、と、今更ながら最近、気づいたりもしました、はい(苦笑)。特に、日本だと、職業というよりも、会社名や役職などを前面に押し出してコミュニケーションをはかろうとしてくる方がどうしても多いので、最初の出だしで、正直、面倒だなぁと感じたりすることもありますよね、あぁ(苦笑)
2004年11月23日(火)
野性の品格。
(注意*以下、無駄に長いのでお忙しい方は飛ばしてもっとマシな文章を読みませう。)
言葉にしていかないと感情は風化していくだけ。時間の経過は人を楽にする。けれどその一方で、大切な何かを葬り去ってしまうというのもまた事実。なので、今すぐできることの1つとして、今日は、いつもの感謝を込めて私が書いてみることにしますわ。
最初に、私が一番言いたいことを書いておくと、あなたは、あの場にいたすべての人たちに対して、ただ誠実であろうとしただけ。だから妙に責任を感じることもないし、いつもの気楽な雰囲気を崩す必要も全くないのですよ(苦笑)。それにそもそも、あなたは、あの場であなたが吐いた暴言が意味する人たち(→というか、余分な装飾がなく正直でメタな表現ってだけ、と私は感じたけど、そういう感覚で捉える人ってすごく少ないのは知ってるから「暴言」って書いとくw)の対極にいる人。
だからああいう言葉が出てくるのって仕方ないと思うし、あなたがあの種の人たちを嫌悪するのもよくわかる。だって、私もああいう人たちって苦手だもの。「意思」とか「努力」とか「偶然を必然化する」とか偉そうに言うだけで自分では行動せずに、他者をコントロールすることばかり考えている人たちなんだもん。。コントロール可能なことを超えて、コントロールできない目に見えない物事に心を砕く、私たちみたいなのとはホントに対照的。。
あなたはどうかわからないけれど、私は、あの人たちに、自分を律することで品のよさを獲得したような、そんな“努力の跡”を感じた。だからなのかなぁ、一言で言えば“極端”。極端に禁欲的になったり、極端に欲望にそのまま身を任せたり。私は、お互いの“劣情”を交換し合って「ビジネスだ」「投資だ」「愛だ」「友情だ」って勘違いして騒いで周りに迷惑かける人たちが大嫌い。あの人たちは、お互いの半分を引き受ける余裕なんて無いくせに(→あの人たちは保守だから、「完全なる個」じゃなくて「半分」っていう発想しかないみたい。)勝手に空回りして、周囲を呆れさせてただけ。限りなく客観的であれる位置にいた私からは、そう見えた。
というか、私たちに、興味関心の志向性や今までに既知となった要素以外で共通点があるとしたら、正に「努力で獲得した“気品”や“品性”なんてくだらなーい!」って思ってることかも(苦笑)。自分がどう見えてるかは主観のみでは絶対にわからない。けど私から見ると、貴方は明らかに、あらかじめ自分自身に染み込んでいた品格を故意に崩してきた人、って感じ。要するに、初期にあったであろう恵まれた環境の次に続く環境を、自分自身の判断で選び続けることで、自分で自分を伸び伸びと育ててきた、って感じ。「余分なものがないところがいい。」ってあなたは私に言ってくれたけれど、私もあなたのそういう「余分なものを綺麗にそぎ落としてきた感じ」、すごくいいと思う。一緒いると、心が軽くなる感じがする。
くつろぎながらも礼儀正しくて屈託のなさそうなあなたの様子は、まるで苦労を知らない人のそれに見える。けれど、実際はむしろその逆。あなたは、周囲の人たちの困難を一手に引き受けてる。だって駆け出し経営者なんだもん仕方ないよね(苦笑)。。それなのに、一見するとそう見えないのは、あなたが実はすごく誇り高い人だからなのかも、なんて褒めすぎかもしれないけど、ホントに時々そう思う。
だからなのか、「自分の何かを他人に証明する」という発想自体、あの人たちの対極にいるあなたには、そもそも存在さえしていない。あなたは、他人に何かを証明するために、自分の誇りやプライドを使ったりする人じゃない。それは本当の意味での自信と余裕があるから、なのかなぁ、なんてことも時々、ホントに時々だけど、薄っすらと思う。
あなたの周囲に広がるあの雰囲気。全く気取った表情も動作もしていないのに、逆に、だからこそ、今まで積み上げてきた濃厚な“背景”が色彩豊かに浮かび上がってくるような、あの感じ。説明不足かもしれないので改めて言うと、私の好きな「背景を選ばない美」って、まさにそれのこと。そして、私の心を疼かせるその美は、あなたのこの前の文をより正確に直すと、「付属品、つまり、高度資本主義社会そして消費主導社会が積極的に“意味”を付加している“何か”、ではなく、そういった過剰な接地が奪われた無重力空間で、裸の魂が向くその先にある“何か”」。
つまり、あなたの持つ、場所や背景を選ばない“野性の品格”みたいなもの、って、かなり貴重だと思う。だからこそBetした、つまり、投資と言えるかどうかのギリギリの、そのリスキーな線を超えてまで賭けに出た、ってコトですよ、この合理的経済人の標準モデルになれそうな、冷徹な私のメタ認知がすっ飛んだ、って意味で、あなたは素晴らしく美しい野獣でありコロンブスであり美術品である、ということは確かですよ(苦笑)。褒めすぎちゃった感はあるものの、嘘偽りの感情はなくニュートラルな視点で書いたつもりですので、ご本人様、ご理解下さいねw。(以上、8割以上、私信を兼ねての日記でした〜♪)
***************追記。*********************************
ちょっと褒めてばかりだったから、こうしたほうがいいかも?っていうのを足しておく。うーーん、「謙虚」なのはすごく良いんだけど、ああいう、経営も投資も心理も芸術も何も解ってない「虚像の品性」でそれらを語るアホな人たちには、あなたは自分の学歴とか職歴とか年収とか、そういう「付属品」を積極的に示しても良いと思う。そういうのをあなたが出し始めたら、ああいう人たちは、もう黙るしかないんだから(苦笑)。
2004年11月11日(木)
人の気持を推し量る、ということ
以下、Mixi日記より転載。
(ちと思うことあったので一応ほざいときまする。)
よく人は、人の気持を推し量ろうとする。まぁ、私の感じたままのことをそのまま書けば、ベタな日本人同士の組み合わせになると、どうしても相手の気持をその“言葉”だけではなく、その裏、もっと言えば裏の裏の裏くらいまで推し量ろうとするような場面が多くて、ちょっと見てて苦しいなぁと感じることが多々あるものです、はい。私って、そういうのダメって言ってしまうとお終いだからあんまり言わないけど、まぁ、言ってしまおう。何と言うんだろうなぁ、あれって気持悪い感じするよね、結構な頻度で。で、何でなのかなぁと考えてみた。
うーーーん、たぶん。自分が相手の気持を推し量ろうとした時、また逆に、相手が私の気持を推し量ろうとした時。それを“言葉の不足を補うための優しさ”だと相手と私自身とが認識できる程度の推量ならば、双方共に納得可能な程度の推量なのだと私は思う。けれど、その程度を超えて過剰に推量されると、相手の認識の程度は勝手に解釈するのも何なので不明と仮定しますと、私自身はそれって要するに“妄想”じゃないかい、と思ったりするんだよなぁ、なんか。で、気持悪くなる。
つまり、過剰な推量が行われる時って、“理解”じゃなくて“解釈”になってるように実感として思う。過度に“理解”する&される、ならまだ解るけど、過度に“解釈”する&される、ってのってコミュニケーションじゃないよなぁもう。。コミュニケーションって、理解し合うための主体的な行為の連続を言うんだと思ったけど、これって私の勝手な“解釈”なのかね、ふむ。。まぁ、もしも、ホントに気持悪くて暮らしずらくなったら移住するしかないですな、その方が早いし賢い選択かもだよね、ホント。。
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以下、頂いたコメントに対するわたしの返信をメモ。
Pさん、コメントどうもです♪ 相手の言葉をそのまま受け取る、というのが私も基本だよなぁと日々思っています、はいw(特に最近は頻繁に・・・w)ホント、本当の意味で気をつかう、ってのは難しいですわ、ふむ。。相手の考え方にもよるし、自分だけではなんともいえませんよなぁ、ほんと。。修行は続きまする(苦笑)
Sさん。コメントありがとうございます♪
もしかすると「毎日顔をつきあわせる」こと自体、また言葉の不足を補う行為なのかもですね。新しい気づきを得られました。どうもありがとうございますw それと、私個人は、解釈=手抜き、とは考えてはおらず、なんと言いますか、誤解を恐れつつも言ってしまえば、心理学の正当な知識の裏付けなしに、素人考えて相手を“解釈”してしまう、というようなニュアンスかなぁと思います。と、あくまで私側の実感としての認識なので、さとるさんがご指摘して下さった場合もありますよなぁ。。わたしも引き続き考えてみます、はいw
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2004年11月09日(火)
“〜だと思う”と“〜である”
(以下、Mixi日記より転載。)
*今までどうでもいいと思い込もうとしてたけど、「どうでも良くないなぁ、これはさぁ〜w」としみじみ思ったので、念のため、ちとほざいとく。
“〜だと思う”という文の締め方を見ると、たまにムカムカしてくることがあるんだよなぁ。というのもね、書き手が記述している内容とその文脈からして、そこで“〜だと思う”っていう締めをするのって、ごまかしてるよなぁとか、わざと曖昧にしてるよなぁとか、そういうこと感じるんだよなぁ、なんか。
まぁ、私自身、言葉に正確性を求めるほう(というか、正直に言えば“かなり”求める人だよ、わたしは。)だからこう思うんだろうけどさぁ。けれど、“〜だと思う”と“〜である”は、世界共通ポリシーの1つとして、ぜひ基準を作り、みんな書き分けて欲しいなぁと思ってしまいますなぁ。
だってさ、これ言ってしまうとお終いかもしれないけど、“〜だと思う”という主観的感情で締めたとしても、既に明らかになっている事実として“〜である”と客観的に言い切ること(=断定)が可能であるのに、既知となっているその事実を書き手が知らず、もしくは知ろうとする努力を怠った上で、とりあえず“〜だと思う”を安易に使う、っうのは、ちと誤解を招かせるよなぁ、読み手に。と思うのよ、最近すごく頻繁に。。
それと、次いでだからこれもほざいとくけど、“主観的な”“主語”(→IとWeのこと。この2重の過剰な表現も正しくはないものの、こう書かないと通じない場合多いんだよなぁ、最近。)が無い文章って、あれ怪しいんだよなぁ〜〜〜〜。なんか知らないけどさ、最後の締めの文が万人受けするような綺麗な表現で終わってるんだよなぁ〜。“事実”(=根拠と読み替えてもOKOK)の所在と事実の確からしさの程度(→これを表現するために“副詞”があるんだ、っぅの。)がどのへんにあるのか示さずに、どこをどうやって理解してもらおうとか、信じてもらおうとしてるんだろうなぁと不思議に思う、ああいうの書く人って。
世界平和のためにも儲けるのは大事だし基本的にはいいことだと思う。けど、そういういう不誠実なアプローチで人だまして儲けるのって、最近の出版業界では大流行してるよね、ホント。。皆さん、本は気をつけて買いましょうな。ふむ。。
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