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Written by なお。
◆日記『心地よい孤独。』◆
孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。
しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである。
byバルザック
2004年10月30日(土)
気持ちよく暮らす、ということ。
(以下、Mixi日記より転載。)
最近、“暮らす”ということについてしみじみ考えるようになった。まぁ、こういうコト考えるようになった直接のきっかけって多分、前々からの家族の要望だった家を建て代えるという件がかなりの割合で明確化してきたってだけなんだけど、それに伴って、家という“場”にまつわる様々なコト、特に、“気持ちよく暮らす”ということについて考えるようになった、ってコトなのかなぁと思う。
っうか、私、こう見えて(どう見えてるか知らないけどそう見えないってよく言われる。)長女なんだよなぁ。。。親が定年するのももうすぐだしなぁ。。やっぱ、バリアフリーでエコ設計で2世帯住宅にするしかないよなぁと思い、何だかやる気になってきて、とうとう資料請求したよ昨日、10社くらいに。
あぁ、何というのかなぁ、この気持ち。。。今までにない種類の気持ちなんですよなぁ〜〜〜〜。こんなこと書くと、「あんたその程度でそれは言えないだろーに」と言われるかもしれないリスクがあるのを承知で書けば、自分の将来や仕事やその他の何とかとかをどうこう考えるっていうレベルの時代を抜けそうな感じなのよ、ホント。(正確に言えば、まだ抜けてないし、抜けかけてる感じ。)
地理的に離れた経済的に恵まれない子供たちのために何かしてあげたいとか考えてボランティアとかしちゃった大学時代の思い出もあるけれど。けれど、やっぱり誰かを守りたいとか助けたいとか大切にしたいとかっていう気持ちって、まずは一番身近にいる人たちに対して向けるのが健全だよなぁと思う。そして、身近な人たちが笑顔でいてくれると、自分自身も頑張れるものだよなぁ。。単純だけど、気持ちよく暮らしたいならば、今目の前にいる人を大事にするのが大事ってことですよなぁ。ってそう思いますし、そうするように日々努めておりますよ最近しみじみと(笑)
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以下、頂いたコメントと私の返信をメモ。
1)Yさんからのコメント。
”まずは一番身近にいる人たちに対して向けるのが健全だよなぁと思う”
って本当にそうですよなあ。なおさんもたまには真面目に良いことを言うものだと思いましたよ僕は(笑)
2)なお。
ああ、Yさまに言われて気づいたけど、ここって30人しか見れないんだよね。。では次回からはもっと弾けることにしまする(笑) それと、「相手代える以前に自分が変わるべき」というのは正にそのとおりですね。相手を代えたって、今そうである&そうみなされている自分自身が問題の本質ですものなぁ。まぁ、何はともあれ、人や対象へと逃げるんじゃなくて、自分を鍛えるのが基本ですね(笑
3)ちいさいの。さんからのコメント。
「身近な人たちが笑顔でいてくれると、自分自身も頑張れるものだよなぁ。。単純だけど、気持ちよく暮らしたいならば、今目の前にいる人を大事にするのが大事ってことですよなぁ。」
これって私も最近痛切に感じていることだよ〜。
シンプルだけど精神的にとても豊かで共感できますよ。
よく言うけど『人を救うことで自分が救われる』的なことを最近よく実感します。はい......
4)YUMIさんからのコメント。
「やっぱり誰かを守りたいとか助けたいとか大切にしたいとかっていう気持ちって、まずは一番身近にいる人たちに対して向けるのが健全だよなぁと思う」私もそう思う。
ボランティアだなんだかんだといって、大義名分だけがご立派で、自分の周囲の人を大事にすることができていない人が結構いたりする。偉そうな目標よりも、身近の人を大切にしてみようよ!とね。大きな目標で、自分に酔っている感がいなめない・・・
5)なお。
ちいさいの。サン、そしてYUMIサン、っうか、こばサン&まつサン(笑)コメントどうもで〜す♪君たちならそう思ってくれると思ってましたよ、あはw
で、さっき見つけたやつなんだけど、これとちと関係あるので貼っておくわ。つまり、“幸せとはハーモニー”ってことなんだろうね、きっと。
http://blog.ameba.jp/randy/archives/000196.htmlより。
『生き物はみんなハーモニーの幸せを感じながら生きてるんじゃないかなって思うときがある。何かとうまくシンクロしたときに感じる、快感。
声がうまくハモった時の、あの鳥肌の立つような喜び。
心と心が通じ合ったときの、エクスタシー。
いろんなものが、ぴたっと、ジャストな感じで、うまくいった瞬間。
そういうとき、私は一番、幸せを感じるんだ。ああ、生きていてよかったなあって。存在していてよかったな。私がここにいてもいいんだ、おっけいなんだ、って。今ちゃんも、そういう一日を過したんだなあ、と思ったら、そう思うだけでうれしくなってきた。うん、これもハーモニーの幸せかな。
ただ、相手の幸せを感じるだけで、自分も幸せになってしまう。なんてお得なんだろうか。この幸せは……。』
2004年10月27日(水)
中学生のときの夢。
(以下、Mixi日記より転載。)
この前、中学時代の友達と遊んだときのこと。
友曰く、「わたしさぁ〜、あんたが中学時代の文集に書いた“夢”、いまでも覚えてるんだけどさ〜」
え?私、一体何て書いたっけなぁ?、もしかして“何はともあれ金持ち♪”だっけかなぁ? と一瞬思ったんだけれど、それは大学時代に入ってからだよなぁと思い出し、彼女に聞いてみた。ら、
「“眼がいい人になりたい!”って書いてたよ、あんた。あんたの箇所だけ微妙に違うオーラ出てたから、よく覚えてる♪」
だってよ。あぁ、なんて小さくも重要な“夢”なんだろう。。医学が発達した現代ならば、こんなのお金で解決できる♪あとは少しの“勇気”があればOKOK。
ということで、レーシック受けようかなぁと再び真面目に考え始めた今日この頃です。(ちなみに、私の視力はコンタクトなしだと、どっちも0.03くらいで強度弱視です、はい。。)
関連リンク
LASIK を考えるページ http://lasik-049.web.infoseek.co.jp/
レーシック研究所 http://www.lasik-lab.com/
2004年10月23日(土)
狂った人ほど戦力になるもの、なのだなぁ。
(以下、Mixi日記より転載。)
http://planbiz.info/blog/archives/000235.html で紹介されてた塚本昌彦氏(大学教授サン)とかの話を読むと、やはりマトモに生きてるとダメだよなぁ〜としみじみ思う。っうか、どう頑張ってもマトモになれないと悩んでいたわたしの過去って何て無意味だったんだろうと思う。。“狂気じみた人”が受け入れられる世の中になってよかった、よかった。(生きやすい世の中バンザ〜イw)
実はわたし、記憶によると中学生くらいから自分が新奇性探求性格だということに“薄っすら”と気づき、大学に入ってから“はっきりと”確認し、どうしたものかなぁと思ったのであるが、最近何も気にならなくなったのは世の中の変化のおかげが大きいよなぁと、しみじみ感謝していたりもするのですよ、はい。以前は、えらめの人たちと話すと、「なんでそんなことまで知ってるの?」とか「なんでそんなに興味もてるの?」と面倒臭い質問を投げかけられることが多くて、正直ホントに苦痛だった。んだけど、最近はシンプルに「新奇性探求性格なので、外側は日本人ですし、性格と思考様式はヨーロッパ系ですが、“気質”はアメリカ人だと思ってくださいね♪」と返答することでストレスを大幅軽減することに成功した。やはり“シンプルは最強”ですよなぁ。。
ちなみに新奇性探求性格(ノベルティー・シーキング)の理解普及のため(つまり、私と私の仲間のアホ臭い行動を温かく受け入れてくれる心広き人たちを1人でも増加させるため)、新奇性探求性格についての説明を少々。。
「人間は新しい強烈な経験を積極的に求めるタイプと,安定を求め環境の変化を嫌うタイプに分かれます。前者のような気質をノベルティー・シーキング(新奇性探求)と呼びます。衝動的で気まぐれ,短気で浪費家といった行動特徴をもっています。
大人であればスピードを好み,バンジージャンプなどをやりたがるタイプでしょう。ちなみに凶悪犯罪者も大学教授もこのタイプに属します。片方が大胆で片方が神経質というような性格の異なった夫婦であっても,このノベルティー・シーキングは非常によく似ていることがわかっています。 」
でも、私の場合は平和的な場所(つまり自然豊かな田舎)で暮らすよう心がけているし、メントレもしてるので“衝動的で気まぐれ”な度合いはかなり抑え目。また、経営系の専攻だったことも良かったのか上の説明にあるように“浪費家といった行動特徴”も見られない。むしろ買い物は嫌いなんだよなぁ。それと“凶悪犯罪者”系ではないので安全ですので念のため。あ、でも、短気ではあるなぁ、やはり。
で、ちと古いけど、下のも結構な割合で狂人じみているように“一般的な文脈ではそう見える”サンプルかもしれないなぁということで、肥やし化を目標にメモ。
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001639.html
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001644.html
2004年10月22日(金)
気負わないために。
(以下、Mixi日記より転載。)
(日記を読んでくださっている方はご存知の通り)いつも心情を限界を超えて表出化しようと心がけている私のような人であっても、たまに“気負ってしまう” 場面や瞬間というのがありまする。で、これもさっき巡回してるとき発見したやつで、肥やしになりそうだったので引用$メモしとく。
(自分自身の中の「一流」を認める/ビジネス書でまた元気がでた、より。)
http://blog.goo.ne.jp/keisukeita/e/675c352b9c24aef048179ad1d17c1eee「実はタイキブリザードは前年にも海外遠征をしたものの、惨敗していたのです。そのときの敗因として馬の体調等もあったものの、スタッフ全員が外国のホースマンたちと対峙して「負けてたまるか」「恥ずかしいところは見せられない」と気負ってしまったことが挙げられるとふり返っています。
一般論として、海外の競馬は日本より数十年も進んでいるなどと言われます。そのような考え方の罠にはまってしまったのです。だからこそ、同じような気負いをしないために、意図的にこのような言葉を使ったんだそうです。
○一般論に従うのではなく、自分なりの確固たる基準をもつ
○他人によく見られようとするがために、自分の仕事のペースを乱さない
○一流の仕事をやっているという誇りをもつ
こういったいろんな意味のこもった言葉だと思いませんか。」
以下、業務的なひとりほざき。。
○の最初の2個はどうにかできてると自己評価。っうか、これできてないと何もならないってしみじみ理解してるしなぁ。いかに“適度で”“冷静な” 認知回路を保持し続けられるかがポイントだもんなぁ。最近このブレは少なくなってきていると思う。が、あ、でもどんなにやっても足りすぎてるっうことはないので継続あるのみだよなぁ〜。
でも、最後の○はできてないよなぁ。まず、一流目指してないしなぁ。これってもしや問題なのかなぁ?っうか、一流ってどのへんからそう言えるんだろうなぁ。(基準はどこ?って思う。)ただ世の中には明らかに一流な人たちがたくさんいるのは事実だし、そういう人たちの行動や考え方を“上手く吸収する”という心がけは続けることにしよう、ふむ。(ほざき終了。毎度ながら失礼しましたわ。)
2004年10月21日(木)
“意味を問う”、のではなくて。
(以下、Mixi日記より転載。)
さっき、ごはん食べて暇次いでにブログ巡回していたら、作家の田口ランディ氏のブログで、たま〜に疑問に思っていたことに対する一定の答えを発見。
何と言うかなぁ、たまに書籍や偉い人の話の中で、「意味を問え」という趣旨のことが言われているのを眼にしたり聞いたりする。「意味を問え」という言葉を向けられる対象は、たとえば、“人生”と呼ばれる一定の期間内での行動や思想についてであったり、企業内部での“改善”やシステムの“導入の是非”であったりする。
でもなぁ、これをはっきりと発言するのって多分初めてだと思うんだけど、正直、私も田口氏と同じく「意味というものを問うことが、私は苦手です。」なのですよなぁ。いや、別に「意味を問う」ことそのものを非難しているわけではないですよ、哲学とかもちょっと学んだことあるし、「意味を問う」行為そのものでご飯食べてる人がいることくらい知ってますし。
ただ、私のような一般ピーポーが、幸せに暮らしていくのに必要なことってのは、「意味を問う」ことではなく、より生活に密着したレベルで言えば、むしろ「“意義”を問う」ことであったり、単純に「“幸福”を問う」ことなのかもなぁと思ったりする。ということで、いつも通り中途半端だけれど、以下http://blog.ameba.jp/randy/archives/000158.htmlより引用して終了。
「意味というものを問うことが、私は苦手です。生きる意味を考え始めると、すごく矛盾にブチ当たるから。
(―中略―)
ただ、目の前にその人が苦しんでいたから。ただ、そのことをしたくなったから。ただ、偶然にそのことに関わってしまったから。そういう、とても無意味な、偶然のようなもので人は動かされていくし、意味付けは後からされるけれど、だからって、意味のために生きているのではないと思うのだよね。
でも、意味があることの方が正しいことのように、思い込まされているし、意味とはつまり、ある価値観にのっとった合理性であるのだけれど、社会には価値観がありそれにのっとった合理性は善とされるので、意味について考えないわけにはいかない。
(―中略―)
イラクの少年の目を手術するために誰かが奔走したことは、それ以外の困っている人を切り捨てた行為ではないよね。ただ、メディアというものを通すと、価値と意味が付加されるので、なんとなく見ている側が釈然としなくなるのだ。
意味の内側の行為も、意味の外側の行為も、どちらも善でもなければ悪でもない。どちらもある。ただ、どちらもありだということが、いまはまだ共有されていない。まだ、意味の方がとっても強いのだ。それが、なんとなく苦しくてたまらないから、こうやって書いてもがいているのかもしれない。』
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以下、追記と頂いたコメント。
あ、自分でコメント。文中での“意味”と“意義”の違いについて。似てるけどちと違う感じなので誤解なされないように。
大きくまとめると、“意味”は“意義”を含んだ概念だけれども、ここでミスしやすいのは、“意味”=“意義”以外の“意味”として“意味”という言葉を解釈してしまう点。よって、上の文ではこの2つを分けて書いてみた。
以下、大辞林 第二版 (三省堂)より引用。
■いみ 【意味】<(名)スル
(1)言葉・記号などで表現され、また理解される一定の内容。
「単語の―」「この文は―が通らない」
(2)ある表現・作品・行為にこめられた内容・意図・理由・目的・気持ちなど。「―もなく笑う」「彼が怒った―がわからない」「感謝の―で贈る」
(3)物事がある脈絡の中でもつ価値。重要性。意義。
「ここであきらめては努力してきた―がない」「歴史的―」
(4)表現によって暗示的にほのめかされる深い味わい。含蓄。
「言外の―」
(5)ある表現・行為・物事などのもつ内容を表すこと。
「赤字はマイナスを―する」「あの微笑は何を―するのか」
■いぎ 【意義】
(1)ある言葉によって表される内容。特に、その言葉に固有の内容・概念。「言葉の形態と―」
(2)物事が他との関連においてもつ価値や重要性。「―のある仕事」
*Sさんから頂いたコメント。
意味を問う、というのはあいまいさに耐えられない二元主義の人がとりやすい行動かしら、と思ったり。うーん。考えます。
*なお。(返信)
Sサン、コメントどうもです♪
それありますよね。たとえば、仕事とプライベート、というような2つの軸で「意味を問う」ことをしてしまうと、その元にある2元主義自体に問題があるがために、苦しくなるのかもしれないなぁとたまに思ったりします、はいw
2004年10月19日(火)
Redundancyという発想。
(以下、Mixi日記より転載。)
*完全なる1人ほざきです。よって本来ならばすべて()に入れたいところですが、あまりにも長いほざきになりそうなので削除。本当にどうでもいいことしかほざいませぬ。よって読む意義はゼロでしょう。=免責事項。
この前、ある人に「ヨーロッパ人だよなあ、君は。」としみじみ言われた。うーん。確かに。確かにそうかも。。確かに洋菓子ばっかり食べてるし。毎日パンで平気だし。日本生まれの日本人だけれど中身は日本人ぽくないとよくいわれているらしいし。(伝聞が多いんだよなぁこれ。思ったら噂じゃなく本人に言えよボケ。直で言えないなら、言・う・なー。)相手の人種がどうであれ普通に話すし喧嘩するし。結構平気で長期間休むし。自分のペース(でもその集団の平均値よりはハイペースを意識して保持)で物事を進めるし。
というか、そもそもいわゆる日本的な育てられかたをしてこなかったし。っうか、うちの親は日本的でこんな娘がいるとは思えないほどマトモだけど私が日本的な子ともじゃなかったからどうしようもなくてこう育てるしかなかったらしいし。明らかに保守じゃないしむしろかなりリベラルだし。新奇性探求ぎみだし。一般的には無駄と分類されていることばかりしている割には「忙しい」とか「時間がない」とか言うのかっこ悪いから嫌いだし言わないし。っうか、そもそも「忙しい」とか「時間がない」っう状態に陥ったら私すぐに鬱になりそうだから耐えられないだろうし。っうか最初鬱ったきっかけってのはヨーロッパ系の思考してるクセにどう考えてもどの角度から見てもアメリカン過ぎる某企業の足踏み入れたからからだし。。あぁ、はっきり言っとく。差別だって言われてももうかまわな〜〜〜〜〜い。アメリカ人大嫌いなんだよんーーーーーーーーーーーーーーーーー。
君らは「忙しい忙しい」言うけどさ、無駄なこと多いんだってば。時間埋めて安心して偉ぶってるだけなんだってばさぁ〜。
ああ、ちとすっきりした今。。ふぅ。。
でも、何故か“主観的には”(=自己満足としては、と言い換えてOKOK)幸せな時間のほうがだいぶ多いよなぁ。。とか考えていたら、その根本的な理由ってこれかも?ってのを発見したので引用しとく。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2004/10/bar_radio.html
より引用。
『かの国の文化には「見えざる手」のアダム・スミス、「進化論」のチャールズ・ダーウィンらを始祖とする経済性原理の思想が脈々とある。「余剰人員」という意味でもあるredundancyという言葉は、科学的概念としても用いられ、いかにredundancyを減らすかということが人生の一大命題であると硬く信じる人たちがいる。
しかし、こう忙しくなってみると、redundancy節減の原理というのは、実は人生を美しく生きるための原理でもあるなと痛感する。やらねばならないことを最大効率でやる。効率に美が宿る。そして、仕事が終われば親しき仲間との懇談の時間がある。』
あぁ。。っうか、ヨーロッパ人といよりは、もともとのそれに経済学がこびりついて強化されただけなんじゃないのか、おい。やっぱり染みついてるのかなぁ、経済学。。“学部選びはより慎重に♪”、だよなぁホント。。まぁ、いいや。面倒だからこのままの基準でいくしかないなぁ。ふむ。っうか、今気づいたんだけど、私が主観的に幸せな理由って、いわゆる“世間の常識”っうのをredundancyしてるだけかもなぁ。ってまたいつも通り無駄なことほざいたけど、主観的にはすっきりしたので自己満足して終了しまする。ではアニョ〜ン♪
(同日18時33分 ほざき不足だったので加筆修正。)
注記*あ、誤解されるとナンなんで、「アメリカ人嫌い」の部分に一応注釈しとくと、”生粋の”アメリカ人は苦手だ、っうことですわ。以上♪
2004年10月18日(月)
“愛”と呼べる瞬間。
(以下、Mixi日記より転載。)
(休息日ということで、最近自分なりにまとまりかけている、いわゆる“愛”なるモノについて考えてみる、ことを予定しているが現時点ではどうなるか不明、ふむ。。なのでちと変でも怒らないでね、みなさんw=免責事項。)
ではまず、自分は以前はどう考えていたかを知るため、過去日記から拾ってみるわ。(去年の9月くらいのやつ。)
“私なりの愛。たぶんそれは「私は、あなたではない。」という事実から出発する感情。と同時に相手に限りなく同化しようとする感覚。”
“自分は相手と異なる存在だということを嫌というほど認識している人は限りなく他者に優しくなれる。他者を、そして自分自身を尊重できるものだ。”
う〜〜〜ん、青いなぁ(笑)でも基本的にこれは今でも変化していなそう。つまり、「相手は自分とは違う存在だ」(=違う人なワケだから、今までの経験も考え方も癖も脳も違う、って感じかなのかなぁ?)という前提の上で、理解し合うことを志向する、という感じかもしれず。ちなみに記憶によると、これ書いた時に読んでた本はカルロス・ゴーンの「カルロス・ゴーン 経営を語る」とか何とかだったはず。これ読んで感動でおお泣きしたんだよなぁ確か。(もしかするとタイトル微妙に間違ってるかも?なので注意。)
で、これ以上この箇所を考えても進まないので、前から疑問に思っていたことが最近少し解りかけたので、そのことをまとめまする。。で、疑問に思ってたのは、辞書的な意味での“愛”、ではなくて、「いわゆる“愛と呼ばれる感情って、どういう瞬間の感情なんだろう?」ってこと。
で、一番私の経験と認識に近い文、というか歌詞があったので、以下引用。Joni Mitchellの"All I Want"から。(私のレビューにある“Blue”というCDの1曲目にありまする。)
“Oh I hate you some, I hate you some
I love you some
Oh I love you when I forget about me
・・・・・・
All I really really want our love to do
Is to bring out the best in me and in you too
・・・・・・
I want to make you feel better
I want to make you feel free ”
http://www.jonimitchell.com/Blue71LyricsHome.htmlに全歌詞あり。
私の不正確な訳ではどうにもならんよなぁと思いつつも自分でやるしかないのでやってみると、「愛と呼べる瞬間」に該当するのは、つまり、最初の引用個所で「嫌いな部分もある。ちょっと嫌いなトコもある。大好きな部分もある。自分の存在(=意思とか主観なのかな多分)を忘れた瞬間、私はあなたを愛している。」という部分。(あぁ、やっぱ訳下手だなぁ私。。)で、“make you feel free”、つまり相手を縛るのではなく“自由にしたい”という感情こそが私なりの“愛”なのかもなぁと思ったりする。
つまり、自分にとって徳とか徳じゃないとか考えてたりする瞬間ではなくて、何だか知らないけど相手のために「一肌脱ごう♪」って思える瞬間。そういうのって確かに存在していて、相手がいわゆる恋人ではなくても、家族や友達ではなくても、仕事関係者でなくても、起こり得る瞬間。助けたいとか助けてあげたいとか。そういう感情でもなくて。何ていうんだろうなぁ、あれって。。(あ、上手く説明できる人プリーズw)
あ、そうそう。今いいの思い出したわ。私の好きな言葉に、
「他者を道具としてだけでなく、同時に目的として扱え」という哲学者カントの言葉がある。
これをはじめて聞いたとき、身体が震えたんだよなぁ確か。それまでの私は、表面上は良い人を気取りながらも心の本質的な部分では、相手を“道具としてだけ”扱っていたように思う。で、この言葉を知ることで、高校時代の先生に言われた言葉「勉強とは自分のためにやる、のではなく、人のためにやることなのです」というのがすっきりと理解できた。(あぁ、その時に気づけよ自分。。気づくの遅いよなあ私・・。)
で、他者を“同時に目的として扱う”ためにはどうすればいいのか、を考えたとき、極端な言い方になってしまうけれども、まずは「自分が道具になる必要がある」って気づいた。
これもたぶん1年くらい前に思ったことだから最近過ぎるし、もちろん完璧にはできていないし、というか、もしかすると完璧になったと思いこんでしまった時こそが、一番「愛と呼べる瞬間」から遠いところにいるのかもしれない。そういう意味で、「愛と呼べる瞬間」を求め続けたとしてもゴールはなんて最初からないし、その瞬間に到達したところで、そもそもそれは“瞬間”でしかない。自分と相手という小宇宙の中でしかそうだと認知できない“瞬間”でもある。
けれど、その“瞬間”って人間の心(脳)にとっては麻薬みたいなものなんだろうなぁ。少なくとも私の脳は、それを求めているらしいですよ、あはw
(ってことで、後で修正するかもしれないけど一旦終了w)
(あ、やっぱり本のタイトル間違ってたので修正。。16:07)
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以下、追記。
#ちと参考になりそうなのをみつけたので自分でコメントw
書籍『9歳の大学生』から。(p86)
“人は皆孤独であり、孤独だからこそ愛が成り立ちます。
「孤独だ。自分をわかってほしい」と思うなら、なおさら他人に思いやりを持って生きていかなければなりません。そうすれば、人は想像もできないほどにすばらしい人間関係を築けるようになるはずです。祥もこれらのことを理解してくれているようで、あまり注意することもなくなりました。”
2004年10月20日
#さらにいいの見つけたので自己コメント。
上の文で「自分の存在(=意思とか主観なのかな多分)を忘れた瞬間、私はあなたを愛している。」=私が失われている瞬間、という部分に該当するかもしれない箇所。
“何かをやっていて、大変調子がよい時がある。何かにとりつかれたように、あっという間に仕事が終わることがある。しかし、そんな時は「私」が失われている。むしろ、「私」が感じられるのは、うまく行かない時、失敗した時ではないか。このことを哲学的にどう思うか。そんな話をしていたら、塩谷が突然止まって、うーんとこけた。”
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2004/10/post_20.html
2004年10月17日(日)
ホステスに憧れた高校生。
(以下、Mixi日記より転載。)
(今日は休息日。なので、暇に乗じて日記読み日記。。)
「ホステスという職業にあこがれたことがあります。正直に言えば、今でも多少は、あこがれています。何があこがれると言って、容姿と愛想のよさが売り物になる、ということにあこがれるのです。売り物になるほどの魅力がある、ということにあこがれるのかもしれません。」
(ttp://www.ccv.ne.jp/home/noko/olddiaries/0410.html#15より引用)
うん、これわかる。でも、ホステスへの憧れってあるんだなぁ、他のひとにも。私はまさに、ホステスという職業、というか正確には、その職業が内包する雰囲気やスキルに憧れてホステスになった、という過去がありまする。(MIXIお友達の半分くらいはすでに知ってるので大々的に書いてみました〜w あはw)
高校時代から憧れ初め、「大学に入ったら絶対やってやるぅ♪」と思いつつ受験勉強したくらいに、ホントにやってみたかったんですよなぁ。。で、大学入学後の6月に面接に行った。今考えると、信じられないくらい勇敢な行動。。
今、振り返って思うに、やはりやってよかったと思う。“やりたいことは、とりあえずやってみるべし!”ですよなぁ、正に。もしもあのとき、“やってみたい”という気持ちに自分で蓋をして、世間的には無難でもっと格好良さげなバイトをしていたら、今の私はいないはず。それに、ビジネスとプライベートで人ってこんなに変わるんだなぁとか、男ってこんなに弱いんだなぁとか(なので男が愚痴ったり泣いても何とも思いませんw)、華やかな舞台の裏では切羽詰った女たちのバックステージがあるんだなぁとか。。そういう、社会の表と裏をまざまざと観察できる良い経験だったなぁと今でも思う。また、色々な職業や考え方の人たちと出会えたことで、自分自身も心が少しは広い人になれたと思うし。(あ、でも、あくまで自己評価でw)
ただ、上の引用個所にあるように、容姿と愛想のよさ、だけではダメなんだよなぁ、あの世界って。それも経験してみてしみじみ理解できた。誤解を恐れずにいえば、もっと“テクニカル”な要素が大きい職業ですなぁ、ホステスってのは。
(と中途半端にほざいて終了。。)
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以下、頂いたコメントとその返信をメモ。
*Sさんからのコメント。
私は今になって1日でやめたことを後悔(笑)しておりますが、当時の自分のうつわでは1日が限界でしたね。今の性格で21歳のその当時にもどってやりたいですね。稼ぐ自信、あります。(笑)
>容姿と愛想のよさ、だけではダメなんだよなぁ、あの世界って。それも経験してみてしみじみ理解できた。 誤解を恐れずにいえば、もっと“テクニカル”な要素が大きい職業ですなぁ、ホステスってのは。
同感です。
2004年10月18日
*Tさんからのコメント
そうね。成績を出すと言うのはほとんどの場合においてはテクニカルな要素がかなりある。アルゴリズムが必要になると言うことね。もちろん例外はあるが、大部分を持っていける経験的アルゴリズムが有用。ホステスみたいに人間相手の場合は心理的アルゴリズム、と言ったところ。投資も何も、大体は同じだな。
2004年10月18日
*なお。(返信)
Sさん、コメントありがとうございます♪ホステスってホントにテクニカルな職業ですよね。私も最初はあのすさまじさに自分で耐えられるのかかなり不安でしたが、入店前の1時間はひたすらメントレを繰り返し、どうにか4年くらい(あ、でも週3・4回だったので実労時間はもっと少ないです)もちましたw 今思えば若さゆえの行動としか思えません。。(私はもうできません、はいw)2004年10月18日
*なお。(返信)
Tさま。
>ホステスみたいに人間相手の場合は心理的アルゴリズム、と言ったところ。投資も何も、大体は同じだな。
そうそう。まさにそのとおり♪ だから今でも役に立ってる経験ではある。(でももうできないけど・・・w)2004年10月19日
*Yさんよりコメント。
ホステスって私も絶対にやってみたい職業なんです。
仕事をしているとき、上司とともにホステスさんのいる店によくいったんですけど、上司が絶対に普段見せない顔をホステスさんに見せるんですよね。神秘だわ、マジックだわ、と思うと同時に、私もやってみたいと痛切に思っているところです。
2004年10月19日
*なお。(返信)
あはw それでは山川さんも同類項ですね♪
そうそう、普段と違う顔を見せてくださるのです、みなさんw
仕事の話ありの家庭の話ありの、色々なお話をしてくれるんですよね、なぜかあの場だと(笑
2004年10月16日(土)
ハンサムな彼女。
(*最近研究中心になっているので日記らしい日記が書けておりませぬ。。なので前回10/1の日記
“私のクオリアを教えて”に登場した、私自身を主観的ではなく客観的な視点でモニタリングしてくれている、まるでもうひとつの私の眼ような、そんな「彼」の日記をとりあえずアップ。もちろん本人様の了解済み。)
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『ハンサムな彼女』
この前。僕は君を評する表現として“Assertive”を選んだ。けれども今さっきそれって正確じゃないような気がしてきてあの時書いた文章とそれに対応する君の日記をさっき読み直してみた。結果、僕のほうに誤解を招く可能性が高い表現があったのでそれを補完するために書いてみる。(#と言いつつ単に君のこと書くの面白いし君が自分のクオリアを自覚する手助けになればと思うだけ)
誤解を招くかもしれないと感じたのは“捨て身”という単語。人によってはこの言葉だと「猛烈突進な人」というイメージを思い浮かべてしまうのかも。でも実際の君はそういうタイプではなく相手に与える印象をコントロールできる度合いがもう少し強い感じ。等考えつつ辞書を見ていたら良い言葉を発見した、“handsome”。
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#handsome
【発音】hae'ns(э)m【変化】《形》 handsomer | handsomest
【形-2〕〔女性が〕威厳のある
【形-3〕均整の取れた
【形-4】気前のよい、寛大な (アルクWeb辞書から引用)
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やはり一番しっくりくるのは“Assertive”。けれど“Assertive”に近づいていこうとする過程には当然ある努力や意思を相手には過度に伝達させない程度に制御できているという印象。つまり外から見ると〔【形-3】均整の取れた〕程よい感じ。よって“捨て身”は却下してこっちに訂正(笑)
うーん。よくよく考えてみると君のこうした特徴って、要はマーケットで勝ち続けるために必要不可欠な性格的な要素だよなあ...。つまり君は「完全なるその一点」を目指すが故に今のようなパーソナリティになった、といえるかも。(#君は認めないだろうが今しみじみ努力家だなあと思った。俺とは違うわやっぱり...w)
“言葉”と同じように〔【形-3】均整の取れた〕“アロケーション”のあの優美さはあまりにも瞬間的で崩れやすい。強弱を上手く付けていかないとすぐに壊れる。けれどパーソナリティはまずは強化あるのみ、そして他者から見える表面では“均整の取れた”を目指すで正解だと僕も思う。でもこういう志向の人だからなのかなあ、君は確かに“手間がかかる人”。だけど全然“面倒じゃない人”、なのかもしれない。
=======================以上。==========================
*コメント*
“「完全なるその一点」を目指すが故に今のようなパーソナリティになった”
というのは正にそう思う。でも“努力”というよりは“好奇心”が原点なのかなぁ「完全なるその一点」への。だから自分では“努力”という自覚はあんまりなくて、単に「マーケットに見合うようなパーソナリティってどんな配分なんだろう?」って考えてみたとき、いわゆる“Assertive”なのかなぁって思ったことはあるよ(とコメント返したのが今朝。) よって、とりあえずは近づいてはいるのかなぁ、自覚できたよ。(→Y様、今後もモニタリングお願いしますなw)
2004年10月13日(水)
バトンを渡し続けるということ。
(以下、Mixi日記より転載。)
しのぶさん(Mymixi参照)が「僕、9歳の大学生」という本を先日薦めてくれた♪
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396410166/
今日注文したばかりでまだ読んでいないのだが「才能」についてちと思ったことを、というか、しのぶさんのブログを読んで前々からこの本読みたいなぁとは思っていたのだけれど、なんで読みたいと思ったのか、というその理由についてちとメモ程度に。。
以下、http://shino.que.jp/archives/2004_08.html#000214 から引用。
“「いくら一人の人間が特別な能力があるといっても、一人の力で偉大なことをすると思うのは、間違いだ。どんな偉大な発見や業績でも、社会的背景や先人の積み上げてきた業績の上にできるものだ」”(→これ本の内容をしのぶさんが引用した箇所)
そして以下、この本についてのしのぶさんの感想部分。
“何かに取り組むときに、失敗したときの自分の感情を媒介項にしてしまうことは多いけれども、そうではなく、取り組んだ何か自体から得ようとしなくてはいけないのだと考えた。それが前向きということの本当の意味なのだろうと思う。”
まぁ、つまりこの箇所を読んで「そうだよなぁ〜。やっぱなぁ〜。」と思い読みたくなったのですよなぁ。
短くまとめれば、「才能」というのは過去の先人たちが渡してくれたバトンを上手く受け取り、それを次へとまた渡すことによって成立していると思う。
上では「業績」と表記されているが「業績」の連続を「才能」と人はみなすという意味でここでは置き換えてみる(当初13日時点では)。
と最初書いたのだが、Tさんのコメントの方が正確なので修正w よって、「業績」の連続をだすための、不可視のアルゴリズムそのものを「才能」と人はみなす。(たぶん、バトンを“上手く受け取り”“次へと渡す”に相当するのかもしれず。)
これ言ってしまうと何なんだけれども、私の辞書に「才能」って文字はないんだよなぁ。だって私自身、自分に何らかの才能があると思ったことなんて今まで一度もないと断言できるし、才能を他の言葉で私なりにより適切に表現するとすれば、「才能=好奇心×メタ認知×持続性」というのが私なりの定義になるかもしれず。
で、以下はどうでもいいけど自己分析というか自己批判。
私は新奇性探求ぎみ。なので好奇心旺盛ってのは自他共に認めるところではある。メタ認知の強化というかメンテナンス(?)も一応こうして書き出したりメントレしたりして努力はしてる。(あ、でもその結果どうかっていわれるとちとね。。)やっぱり問題は「持続性」なんだよなぁ。あぁ、どうすっかなぁ。。筋トレ不足だよなぁ。そうそう体力だよなぁやっぱ。う〜〜〜〜ん。仕方ない。またやるわもう・・・。
(*10月14日 午前8時35分 恥ずかしい部分はそのまま。だけど何気に修正。。)
2004年10月11日(月)
いわゆる法的な結婚制度について私見。
(以下、Mixi日記より転載。)
しのぶさん(MyMixi参照)のブログで「結婚」についてのエントリーがあった。で、この件については、しのぶさんと先日メッセで話し合ったので、ココで中途半端ではありますが他で書いてる過去の日記も参考にちとまとめてみることにしまする。
【免責事項】
で、いつもの通り免責事項があります。結婚なる法的制度についてロマンを抱いている方は読まないように♪ (以上。)
では開始。。。
【本文】
「結婚」制度は、そもそも国家がその安定性を保つために作った箱であります。つまり、国家の安定性を一定の範疇で保つために、外から見るとロマンティックに“見える”結婚という法律的制度を発足させた、ということですな。(疑問に思う方は、法律がなぜ存在するのか、という根本的理由を考えてみてください。)時々、調査資料や報道などで「晩婚化」が「少子化」の原因であると誤解させるような表現があるのですが、そういう思考回路をしている以上、国家策略にハマっている証拠でありましょう。
っうか、どうでもいいんだけど「晩婚化」って表現もうなくした方がいいですよなぁ。この単語って日本国民は“いつか必ず”「結婚」するという誤った解釈(注:客観的可能性ではない。あくまで主観的解釈。)を混合していますよなぁ。変ですよなぁ?もしかすると「晩婚化」と名づけられている現象の内にいる方々からみれば、それは「晩婚化」ではなく「無婚化」である可能性も多々あるわけです、はい。
思うに、これは私の主観的な解釈だけれど、いわゆる「晩婚化」が進んでいる原因って、そもそも、過去ずっと繰り広げられてきた血なまぐさい「ビジネスとしての結婚」をしたくない個人が増えたから、とは考えられないのかなぁ?ホントはみんな、もっとロマンティックな関係性を求めていて、そしてまたそういう関係を持つためには何も政府が用意した箱なんて必要としていないように私には見えるのですが。。
っうか、この私の解釈は「その女性の考える結婚とその女性の所属する階層は関係がある」という言葉の前では跡形もなく散るのであるが、まぁ、私と似ている階層・属性・思考・志向を持つほかの女性もまた同じように、法的な結婚制度について疑問を持っているのだなぁと、しのぶさんとお話して思ったわけです、はい。
事実、人との“関係”は流動していく。絶えず動いていく。時の流れとともに相手も自分も変化していく。けれども“夫婦”や“恋人”という創られた記号に包まれた途端に“不自由”を感じることが多々あるらしい、というのもまた先人たちの経験から導きだされるある一定の事実でもあるわけですよな。
で、何故不自由になるのか。たぶん、それは“夫婦”“恋人”という役割は、“関係”が本来は保有しているはずの流動性を減速させ、固定化へと向かわせる性質を内在しているから、もしくは、当事者間でその役割の意味する内容が共有化されていないから、とか。になるのかもしれないよなぁと私は思う。
そういえば以前、社会学者の知人は“代替可能な自分”という概念を説明してくれた。うろ覚えだけど確か「自分という人間は誰かにとって特別でも唯一でもなく、常に入れ替え可能な存在である」ということを意識せよ、って感じの内容でありました。また、この知人は「相手を自分の幸せの道具にしている人」に注意せよ、ってなコトも言っておりました。
はっきり言っちゃうと、そういう人って周りに沢山いるものです。(もしや皆さんの周りにも?)こういう意味・背景を考慮すると、私は、別れてくれるコトも愛だなぁと思ったりする。時には、ずっと一緒にいるコトよりも別れるコトの方が愛情を示す決断であるなぁと。つまり、別れるもしくは離れる自由を内に秘めた関係がナイスだよな、と思うわけです。
また、『恋人』や『夫婦』という他者との関係性を表す記号、そして、この記号が表している関係性の距離と範囲の外にある『その他の人たち』が創造する人間空間は、そんなに変わらないんじゃないかなぁと。特別に“見える”関係と特別には“見えない”関係。それって、そうした名前があるってだけでその関係性が内包する“愛情” や“想い”は常に入れ替わる可能性があるよなぁと、思っていたりもします。
“愛情”や“想い”に人は名前を付けたがる。そうしたければそうするのも良し。そうすれば安心かも。けど、その名前に縛られるのもまた事実。『恋人』『夫婦』そして大きくカテゴライズすれば『それ以外の人たち』。その違いは、もしかしたら、“愛情”や“想い”の有無やその程度、ではなく、単にそうした“名前があるかどうか”かもしれませぬ。
理解し易い“ラベル”が見える位置にあるかどうか。普通の洗剤をファンデーションの『パフの汚れ落とし』というラベルへと付け替えることで儲けた○○化粧品の成功は、要するに「理解し易い名前を付けた」ということに尽きる。あぁ、ネーミングって深いですなぁ。。
と、色々書いてみたけれど、過去も現在も、私は異性愛者としてオトコと恋愛し、ミミッちい恋愛から大恋愛なるものも経験し、結婚を3回事前中止したりもした。(あぁ、恥ずかしい過去をまた書いてしまった。。あ、でももういいや、カミングアウトw)
けれども、法的な結婚制度についてこう考えるようになったのは、ここ何年かの間に『恋愛よりももっと楽しいコトはたくさんある』というどうしようもない認識に到ったらしい、っうのが本質的な理由かもしれん。。たとえどんなに良いオトコが恋人でも(ご存知の方、やんちゃでアホ可愛くて良いオトコだと思うでしょ?あはw)私には常にその人の存在を超越する対象があったりする(まぁ、要するにマーケットなんだけれども。)
つまり、凝縮してまとめると、人は他者に「役割」を与えたがる。けれど、むしろ、その「役割」以外の部分、大袈裟に言えば「あるがままのその人そのもの」を認めてくれる誰かを、心の友、友達、恋人、というような名称で呼んでいるだけなのかもしれないってことかもしれず。(あぁ、ネーミングってやっぱり深いですね、ふむ。。)
っうコトで、当初予想したとおり、意味不明な文になってしまいましたが、とりあえず失礼w
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以下、頂いたコメントと返信をメモ。
#Iさまより。
どこまでスクロールが続くのか怖くもあり、快感でもあり(笑)
あ〜、ラベリングして安心したかっただけなんだなぁ。
今の関係でも十分楽しいのに。2004年10月12日
#Mさんより。
いろいろと共感する部分はありますが、ひとつだけ・・・。
>“愛情”や“想い”に人は名前を付けたがる。そうしたければそうするのも良し。そうすれば安心かも。けど、その名前に縛られるのもまた事実。
感情や関係性への名付けについては、かつて大澤真幸の『恋愛の不可能性について』を読みながらウンウンと考え、今も継続して考え中です。
たとえば、ある人の「彼女」になると、周りからも「彼女」として見られ、自分でも「彼女」役割を遂行しようとしてしまう。その拘束感がとても息苦しいんですよね。だから、今のところ「彼氏」はいらないと思っています。相手のことがどんなに好きでも「彼氏-彼女関係」にはなりたくないので、築くのは「名前のない関係」。
「名前のない関係」は上手くいくかどうかわかりません。そのうち気が変わったら、一事例として変化の様子をお知らせします。しばらくは変わらないと思いますが(笑)2004年10月12日
#Sさんより。
>「晩婚化」ではなく「無婚化」である可能性も多々
> あるわけです、はい。
晩婚化は国家の都合のいいラベリングではないかとも思います。「少子化」も出産グラフを見る限り、少子化が問題ではなくて第3次ベビーブームがくると思っていたら当てが外れ、その読み間違いの責任を誰も取らなかっただけではないか、と。私は昔、事実婚でいこうとしてそれに相手が耐え切れず(笑)
解消となりました(笑)。
事実婚を心配していた私の親は籍をいれさせようとしました。親が私に言ったのは「子供がかわいそうじゃないか」。で、いってしまいました。
「かわいそうというのは差別を前提にする言葉だよね」。
「世間様」は崩れているのに「世間様」以外ににすがるものがないからだと鴻上さん(第3舞台の)は言われてましたが、それに同意する私です。2004年10月13日
#なお。(返信)
Iサン。
過去日記を編集しただけなので、長いかなぁと思ったのですがやはり・・・(笑)ラベリングってホント微妙ですよね。そうしたところで安心できる箱に入ったことなるのかなぁ?っていうのが私なりに納得しきれていない問題かもしれません。
Mサン。
役割名を付けられることで不自由になるというのはよくわかる感覚です。ただ私の場合は、私以外の他者が彼をいわゆる一般的な意味での「彼氏」と認識していたとしても、私と彼が関係性の中でお互いの役割を時間の変化とともに工夫して最適化させていけばいいだけなのかもしれない、と思っています。他者からどう認識されようが、少なくとも自分たちの関係の中でだけは「名前のない関係」でいられたら最高ですねw
Sサマ。
>「かわいそうというのは差別を前提にする言葉だよね」。
その通りですよね。最近、意識というか認識の成立過程について考えていたのですが、いわゆる「世間様」にすがることで自分で考えることをせずに楽をする、ってのはやはり長期的に見ると危険だよなぁとしみじみ思ったりしておりました。事実婚については、やはり相手次第ですよね(笑)私もまぁそんな感じで解消、みたいな(笑
2004年10月10日(日)
Assertiveとはなにか。
(以下、Mixi日記より転載。)
(久しぶりに内省的な日記をダラダラ書いてみる。ふむ。。)
Y様が「Assertiveとは言い切れないがAssertiveになる予感がした」と3年くらい前の私を評してくださった。Assertiveになる予感、ってかなりの褒め言葉だよなぁ。当時23歳くらいだったんだよな私。(あぁ、若かった。。)正直かなり照れた。同時に、今現在もAssertiveとは言い切れない自分について、なんだかなぁと思ったりもした。で、なぜなりきれないのかなぁと、過去の自分へと意識を戻して、次にそこから戻って今現在の自分の成り立ちをちと考えてみた。以下、いつもどおりダラダラ考えながら書く。
うーん。。3年前の自分。。
まず、恥ずかしいけどひとことでわかり易く言ってしまうと、ストイック過ぎたと思う。当時は無理してたように思うんだよなぁ。。あの頃の自分について書くのって恥ずかしいけれど、まぁ、そんなこと言ったって私という人は書いてしまうんだよなぁ。。(まぁ、つまり、自分をごまかすってのが苦手なのよ、だってまず気分的に落ち着かないし、自己批判なしでごまかしていたら投資関係の諸所の仕事・研究なんて不可能。)
自己評価では、他者に対して優しくなかったと思う。というか具体的にいうと、他者に対する要求が厳しすぎて(あ、仕事というか研究の面で。人間関係は昔から甘甘。。)相手にストレスを発生させていたように思う。
つまり、モチベーションが高い(というか日本基準では常に高すぎる)というのが私の特徴であり、相手によっては美点でもあり欠点でもあるということなのだよなぁ、たぶん。要するに、当時の自分を現在の自分と比較して相対評価すると、自分のモチベーションを基準にして他者を評価していており、典型的な“認知の歪み”が見受けられる。(まぁ、自分勝手、ってことだな、こりゃ。。)
ちと脱線するけれども、投資と認知科学の過去知識からの私の解釈では、“認知の枠組み”が適切である、つまり、過大でも過小でもなく、“その人にとって”ニュートラルな状態に保持することができたなら、いわゆる精神病にはならないし、投資で損しても過剰に打撃を受けることもない。さらに、人間関係の変化が起こった場合でも、心理的に過剰なストレスを受けることもない。そういう意味で、自己批判、というか、自分に正直になる、自分を知る、というのは大事だよなぁと思うわけですな、ふむ。
で、この問題に関しては、自分以外の他者もしくはある分野に属する他者、と単純に括って“他者”とネーミングしてしまうのではなく、個々の“他者”をそのまま個々として、ひたすら“見つめる”という方法へを転換することで、今現在ではどうにか改善できているように思える。つまり、自分を基準にするのではなく相手を基準にする、ということ。(あ、でもあくまで自己評価で。。)
あと何だろうなぁ。。(5分間コーヒー休憩。ちと考えてみる。。)
うーーーーん。考えてみたけど出てこないので、Assertiveの定義をとりあえず見てみるわ。。以下、アサ-ティブ ジャパンHPより引用抜粋http//www.assertive.org/01/01_nani.html
『「アサーティブネス(Assertiveness)」の訳語は、「自己主張すること」。しかし、アサーティブであることは、自分の意見を押し通すことではありません。自分の要求や意見を、相手の権利を侵害することなく、誠実に、率直に、対等に表現することを意味します。" また "権利は、自己責任を伴っています。自己責任を欠いた自己主張は決してアサーティブではありません。自分の権利と責任をしっかり認識した上で、はじめて対等で誠実なアサーティブなコミュニケーションは成り立つのです。』
で、具体例としてはこのページがいいかもしれず。
http://www.niji.or.jp/home/toku-f/essay2.html
あ、わかった♪ 再び、アザーティブジャパンのページから引用。 http://www.assertive.org/01/02_houhou.html
『自己信頼感が高いということは、自分のありのままを受け入れられるということです。それは、一人で何でも我慢するのではなく、つらいときには「つらい」と言い、時には人に「助けて」と言えることです。』
なるほど。。課題発見!!!そうしようと意識的には試みてはいるけれども、意識的に、ってことは、まだ完全にできてないってこと。でもこれさ、難しいんだよなぁ。。
『つらいときには「つらい」と言い、時には人に「助けて」と言える』ってのは。。3年前の私の一番の問題点は、まさにこれだったかもなぁ。。と今日、振り返って気づいたので、改善に向けて出発しませう、とりあえず。(注*「つらい」「助けて」を意識的にしばらく連呼するかもしれないので、お友達の皆様、イヤかもしれないけど宜しく♪)
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以下、頂いたコメントとその返信をメモ。
#Yさん
「つらい」「助けて」と私は最近連呼していますが(笑)、かなり楽になりました。楽になればいいというものじゃないけれど。。。ではまた♪2004年10月11日
#Yさま
僕も過去は大分ストイックでしたよな? 先日なおさんにご指摘され改めてそう思いましたわ(笑) でも今は、この前お伝えしたとおり“the greed is the unraveling ”なので自分でも驚いてます。あははw2004年10月12日
#Tさま
俺今でも結構ストイック 2004年10月13日
#なお。(返信)
Yサン。そうですよなぁ。言ってしまうと楽ですね確かにw一回楽な状態になってから、落ち着いてまた始めるってのがいいのかなぁと最近思っております、はい♪
Yさま。お互いそうでしたね(笑)確かにあの頃は私もgreedがメインだったのです。でも今そして今後は、お互いもっと大きな視点からアプローチしていきましょうなw
Tサマ
あはw それ何となくわかるかもw
2004年10月01日(金)
私のクオリアを教えて。
数年前。
Steven Pinkerを読むあの人の横顔を見たあの瞬間の、あの気分。さよならを決めてからそんなのないよって感じ。Pinkerなら私も好きだしもっと早く言ってくれたら色々話せて楽しかったのに。あ、でもしかたないか。お互いそんなの読まないふりしてた。そういうの抜きで恋にだけに集中してた。だって恋愛”だったのだもの。けれど。今でもちょっとだけもったいなかったなって思うのは何故だろう。何故“楽しさ”を追求するあの関係性だけじゃ足りないと私は感じるのだろう。
恋愛とそれ以外の役割を、まるで異なる小部屋のように扱い整理整頓して納得できる私、は今はもういない。だから私のクオリア(Qualia)を教えて。あなたの心の中の表象を構成する私という要素の持つ独特の質感を、私の主観とあなたが感じる私という人のクオリアとのズレを知りたい。というようなことを頼んだのはほんの2週間くらい前のこと。まず驚いたのは“クオリア”だけで通じたこと。それと、あっさりいいよと言ってくれて今のところほぼ毎日某所で私の観察日記を書いてくれてること。それと文章書けたんだなぁとしみじみ感心。(私より大分文章力あるって知った。。)
自分でこうして書くときは、私は私の主観に従って書くしかない。たとえば、同じ時間に同じ場所で同じものを見た、としても、私は私の眼、つまり私の仮想を通してみえるものしか描くことはできない。彼は彼の仮想を通してみえるものしか描くことはできない。同時に同じものを見た、としても感じ方の差異がありその伝え方にも差異がある。主体が違えばクオリアの差異がある。どこまで寄り添ってもこの差異は消えることはない。どこまでも消えない”私”と“彼”の間にあるこの薄い膜。この膜こそが“心地よい孤独”(Solitude)の正体なのかもしれないね。
(注1:本来の意味でのクオリアとは主観的体験が伴う質感。よって“私のクオリアを教えて”は、あなたという主観が感じる私の“らしさ”みたいなものを教えて、って感じなのかもしれず。まぁ意味どうにかは通じてるのでこのまま。)
(注2:さっき言われて気づいたけど、昔の男と寄りを戻したという話ではないので注意。お友達の皆さん誤解なされぬよう・・・。)
(10月17日0:30 少し修正)
■参考URL
http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0713.html
http://www.sony.co.jp/SonyInfo/QUALIA/about/qualia_general.html
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