星降る鍵を探して
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すみません今から新居に行って来ますので、今日の更新はできなくなってしまいました。ごめんなさい。 日記の方に詳しく書きましたので(下の方です)、そちらをご参照ください。今後の予定も書いてあります。 申し訳ありませんが、ご了承ください。 ではいってきます。ダンボール抱えて。うううう。
2003年07月30日(水) |
星降る鍵を探して4-1-2 |
――「先生」に会ったことで金縛りになったところを救い上げてくれたのは、清水さんだった。 思い返して流歌は剛を見上げた。 ――今更、金縛りになるなんて。 もう、あの時とは違うと思っていたのに。 先ほど桜井が自分の前に立ったとき、自分の胸の内に沸き上がった感情を、流歌は今更不思議に思った。会いたくなんか、なかった。これは、真実。でも。 ――会いたくて、たまらなかった。 これも、本当のことだ。 どうして? あたしは「先生」なんか大嫌いなのに。 そう、大嫌いだ。だから、「先生」があんな仕事に就いたと知ったとき、邪魔をしてやりたいと思った。一年先に大学に入って”怪盗”になった兄は、流歌が兄の助手みたいなことをするのを喜ばなかったけれど、無理を言って――半ば脅すようにして、出来るだけ「先生」の関わる仕事を選んで、兄について行ったのだ。「先生」は「人には言えない宝」を守るのが仕事だから、兄にくっついて荒稼ぎをしていればいつかは先生に出会うだろうと、出会って罵倒してやろうと、思っていた。……それなのに。 だからもう一度「先生」に会うことは覚悟していた。それどころか、自分でそれを選んで―― 「須藤流歌?」 剛が心配そうな声をかけて来、流歌は剛を見上げたまま、苦笑を唇に刻んだ。 ああ、そうか。 あたしは、やっぱり、先生に会いたかった、のかな。 だから、兄にくっついて助手の仕事をしたりしてた、のかな。 だから……圭太は、兄は、流歌がくっついてくるのをあまり喜んでいなかったのかな。自分でさえ把握していなかったこの心の揺れを、兄は、敏感に察していたのかな。桜井を前にしたいざというあの時に、まだあたしがただ金縛りになるしかないくらいに、気持ちの整理がついていなかったことを、……知っていたの、かなあ。 七年前から、あたしがちっとも進歩していないことを。 「どうしたのだ」 剛の言葉は力強くて、「先生」に会ったことでおぼつかなくなっていた流歌の足を大地につなぎ止めてくれそうな、不思議な引力を発している。 剛はことごとく桜井と違った。体格や性格はもちろん、気配でさえも。希薄で、目を離すともうどこにいるのかわからなくなりそうな、神秘的な気配ではなく。剛の気配はただそこに存在しているだけで自己主張をしているような、強烈なものだ。 もしあそこで清水さんが怒鳴ってくれなかったら、あたしは「先生」の気配に引きずられて大気に融けてしまったかもしれない。 簡単に「先生」に引きずられてしまうあたしとは違って、清水さんはたった一人だけでも、ちゃんと立っていられる。 「ありがとう……ございました」 剛を見上げて、流歌は、顔を微笑みの形に意識して変えた。悔しい、と思っていた。清水さんはあたしを助けに来たと言って――本当に、実際に、助けてくれたのだ。ただああやって叫んでくれただけで。大地に両足を踏ん張って怒鳴ってくれた剛の声が、流歌の耳に甦ってくる。あの揺らがない力強い声。ありがたいとは思う。でも。 ……悔しい。 微動だにしない彼の気配が、わけもなく悔しかった。この人はきっと、あたしみたいに、揺らいだりしないのだろうと思うと。 八つ当たりに近いものだとは、わかっているけれど。 「おかげで助かりました。あのままあそこにいたら、捕まっちゃうところだった」 悔しさを押し殺して、笑顔を浮かべて、流歌はそう言った。剛を傷つけたくないために、この悔しさを押し隠して笑顔を浮かべたわけではない。この笑顔は自分のためだ。ちっぽけな自分を、剛の前に、さらさないために、流歌は笑った。
2003年07月29日(火) |
星降る鍵を探して4-1-1 |
4章1節
酔いそう。 上下に動く剛の頭にしがみつきながら、流歌は必死でこの乗り心地に耐えていた。剛は今下へ向かう階段を駆け下りているところで、それはもう大変なスピードだった。下手な原付より速いのではないかと思われた。振動はさほどでもない。しかし人は、自分の意志に反した動きとスピード感だけで充分酔えるものだ。 「し、清水さんっ」 先ほどから何度か制止を試みているのだが、剛は聞く耳持たなかった。顔を覗き込むと剛は無表情だ。このような厳つい顔つきをした男が無表情で猛然と階段を駆け下りる様というのは、申し訳ないが、本当に申し訳ないのだが、怖い。それもすこぶるつきで。死ぬほど。やたらに。めちゃくちゃ。 「清水さんてばあっ」 いっそのこともう飛び降りようかと思った。涙声になっているのを自覚しながら、流歌は剛の首にしがみつく手にいっそうの力を込めて、そして揺すった。 「止まって、止まってくださいってば! ちゃんと走れます! 一人で走れますって!」 「いいいいい」 「いいいいい?」 「痛いではないか!」 剛は叫んで、そして急ブレーキをかけた。反動で空中に投げ出されそうになり、あわてて屈強な腕にしがみつく。我ながらダッコちゃんのような格好だ、と思った流歌に、剛が言った。 「首というものは鷲掴みにされると痛いのだぞ! 俺でも!」 どうやら人とはちょっと違う肉体を持っているという自覚はあるらしい。 「気分良く走っておったのに、なぜ止めるのだ!」 「人を肩にのっけて気分良く走らないでくださいよ……」 流歌はようやく反論して、そして、床に降り立った。ああ、硬くてしっかりした地面。なんてありがたい存在だろう。 この人なら翼をつければきっと空でも飛べると思う。 思わず床にへたり込んだ流歌に、剛が心配そうな声をかけた。 「大丈夫か? どうしたのだ。気分が悪いのか。一体何があった。あ、そうか、えーと、あのう、何と言ったか」 「……は?」 「女性は急に気分が悪くなることがあると聞いたことがある。今がそれか。えーと。そうだ。あれだ」 剛は自信満々に言い放った。 「つわりだな」 「……」 まじめな顔をして冗談を言わないで欲しいものだ。 流歌は気分が悪いのを押し殺して、床に座り込んだまま、剛を睨み上げた。冗談にしてもその冗談は冗談としてどうだろう。すると剛は慌てたように、あわあわと手を動かした。 「ち、違うのか。じゃあ何だ。えーと、あのう、あの」 「ただ単に酔っただけです!」 黙っていたら何を言われるかわからない。流歌は剛の的外れな思考を断ち切るように宣言して、とにかく立ち上がった。そうだ、とにかく今は座り込んでいる場合ではない。 しかし剛は本気で不思議そうに首を傾げた。 「なぜ酔うのだ。何があった? マイキは別に平気……いや待てよ……ああそうか、だから落ちたのか!」 何かに思い至ったように、ぽん、と剛が手を叩く。自分の他にもこの暴走列車に乗った人間がいたのかということにまず驚き、待て待て落としたのか、ということを内心で突っ込み、最後にマイキって誰だろう、と流歌は思った。どうやらこの男とはいろいろと話し合う必要があるようだ。 でも。 ――「先生」に会ったことで金縛りになったところを救い上げてくれたのは、清水さんだった。 思い返して流歌は剛を見上げた。
----------------------------------------- うっわあもうこんな時間…… ただいまです。……いやその。今日って……29日ですね? すみません。日付の感覚がっ(言い訳)。 そしてもう一つ言い訳。すみません、十日近く書いてなかったら勘を忘れておりました。は、話が進まないよう。
2003年07月17日(木) |
星降る鍵を探して3-6-1 |
6節
桜井が何も言わずに出ていくと、部屋に静寂が戻ってきた。 彼女は研究室の中程に佇んで、長津田は簡易キッチンとソファのある小部屋でラーメンを前にして、二人とも無言だった。 長津田の前のテーブルで、菓子パンはまだ山を成していた。少し崩れたいびつな山の前で、長津田は黙ってずるずるとラーメンを啜っている。 もうすっかりのびてしまっているだろうに、特にまずそうでもない。彼は今し方の大騒ぎになど全く気づかなかったとでもいうような顔をして、黙ってラーメンを啜っていた。 と、そこへ、彼女がくたびれきったと言うように戻ってきた。 「ねえ、敏彦」 彼女は、無表情だった。流歌が隠れていたソファにぼすんと身を投げ出して、彼女は長津田を見た。白衣がマントのように翻って、形の良いふくらはぎがむき出しになる。綺麗にマニキュアを塗った爪で思案するように顎を掻いて、彼女は呟いた。 「あたし、いかなきゃ」 「……どこに」 コトリ、と空になったカップと箸を机に置いて、長津田はそう訊ねた。その口調は普段通り、少しだけ間延びして聞こえる。彼女はかすかに息を吐いた。ため息のようにも、ホッとしたと言うようにも聞こえた。顔は壁の方に向けられている。しかし眼鏡の奥で、瞳がちらりと動いて長津田を見た。 「うん……」 少しだけ言いにくそうにしてから、 「……梶ヶ谷先生のところに」 「どうして」 「さっきの話が気になるの、ほら、ここでおかしな研究が行われてるって、言ってたでしょう、だから」 「俺も、行こうか」 言いにくそうな彼女の様子を少し心配してか、彼はそう言った。しかし彼女は首を振った。 「ううん、大丈夫。一人で行くわ。敏彦は、今日は、ここでずっと、研究を続けているのよね……?」 語尾がかすかに探るような色を帯びる。しかし長津田は全く気づいた様子はなく、うん、と素直に頷いた。 「予定より遅れてるからな。部屋を綺麗にしてもらえたし、はかどりそうだ」 そう言って部屋を見回した様子は、純粋に部屋が綺麗になったのを喜んでいるように見える。彼女は今度は顔を向けて彼を見、にっこりと笑った。 「今度は何日持つかしらね」 そして、立ち上がる。「じゃあね」と長津田にひらひらと手を振って、こつこつとヒールの音を響かせて歩き始める。長津田は黙って彼女の後ろ姿を見守ったが、彼に背を向けた彼女の顔が即座に無表情に戻ったことに、彼は全く気づかなかった。
--------------------------- 昨日は無理でした。すみませんでした……! これで3章が終了。で、旅行に行って来ます。連載再開は7/28の予定。……かな?
2003年07月15日(火) |
星降る鍵を探して3-5-4 |
*
梨花が出ていくと、狭い石造りの部屋の中に、空調の立てるごうんごうんという音が充満した。 背中に当たる壁がひんやりと冷たい。普段なら全く気にしないでいられる程度の冷たさなのに、今は何故か、冷たさが体の芯にまでしみこんでくるような気がした。体中が鈍く痛んでいて、少し熱を持っているような気がする。そのせいなのか、それともこの暗闇のせいか、あまり現実感がなかった。真っ暗な空間に漂っているような、寄る辺のない不安定な気分、でもここはちゃんとした地面なのだとわからせてくれるのは、マイキの小さな体の感触だけだった。 マイキの体は小さいくせに、ひどく暖かい。 彼女は卓のすぐ脇に寄り添っている。その暖かさが石の壁や床に吸い取られてしまわないように、卓は体をずらせて、マイキを包み込んだ。体を動かすと空虚な浮遊感が少し薄れ、代わりに胸に鋭い痛みが走る。やはりあの大落下が良くなかったらしい。せっかく治りかけていたのにな、と思いながらマイキを抱き上げると、マイキが卓の身を気遣うように遠慮がちに、でも嬉しそうにすり寄ってきた。 ――生きてて、よかった。 マイキの体を抱えたまま、背中を壁に預ける。 さっき、あのおかしな風体の男の腕にマイキがつり上げられていたことを思い出すと、胸の奥が灼けるような怒りがまだ収まっていないことに気づく。そしてそれ以上に卓の怒りを煽ったのは、マイキが無抵抗だったことだ。ぴくりとも動かなくて、卓のところからはマイキの顔は見えなかったけれど、あの空虚なまでの無表情を浮かべていたのだろうということは容易に想像が出来た。 ――せっかく、笑顔を見せるようになったのに。 またあの、世界中の全てに怯えて縮こまっているような――哀しい状態に戻ってしまったのかと、思った。 「マイキ、大丈夫か……?」 腕の中に包んだ小さな体に囁くと、こくり、とマイキが頷いたのがわかる。 マイキは今どんな顔をしてるんだろう。大丈夫だろうか。またあの、無表情に、戻ってはいないだろうか。 「どこか、痛くないか」 ふるふる、と首を振ったマイキのしぐさは、普段と変わらないような気がするけれど。 卓は先ほど、あの地下室で、我に返ったときのことを思い返した。気がついたら自分があの変なスーツを着た男の胸を盛大に踏みつけていて、その自分の周囲を取り囲んだ男たちがこちらに銃を向けていた。「撃て」と足下で男が言っていた。そう、あそこで暗闇が落ちなかったら、無事では済まなかっただろう。 でも、あの暗闇の中で。 梨花が、悲鳴を上げたのだ。 マイキの声は聞こえなかった。でも梨花の言葉はよく聞こえた。 『マイキちゃん、お願い、落ち着いて――』 梨花には前科がある。前科というか、実績というか。梨花の中にはマイキの感情が音を立てて流れ込むのだと、言っていたのは克兄だっただろうか。 暗闇の中で、マイキは何を「見」たのだろう? 「……」 聞こうかと、よっぽど思った。 でも周囲の暗さと胸の痛みが、卓にそれを許さなかった。先ほどと同じ暗闇の中なのに、今は、マイキは安心しきっているように卓に寄り添っている。マイキに思い出させたくはなかった。マイキが何を「見」たかはわからないが、卓は「そんなこと大したことじゃない」という様子を、少なくともマイキの前だけでは見せなければならない。未来を知ることでどうしても生じてしまう罪悪感を、少しでも減らしてやらなければならない。 でも、今は、ダメだ。マイキの言葉を聞いて、動揺しないでいられる自信がなかった。
2003年07月14日(月) |
星降る鍵を探して3-5-3 |
そう思って気が乗らないまでも後を追おうとした。見た目には本気を出しているように見せかけて手加減をすると言うのは結構骨が折れる。 しかしそれは杞憂だった。全身全霊を込めて追いかけるふりをし始めた克を、梶ヶ谷が呼び止めたのだ。 「君、一人じゃ無理だ。怪盗は他のものに任せて、ちょっと手伝ってもらいたいんだが」 「はい」 克は簡単にきびすを返した。梶ヶ谷という男はすっかり克を味方だと思い込んでいる上に、白衣を着ている。つまり、この研究所内で「人には言えない」研究をしている男だと言うことである。そんな男が「何か手伝ってくれ」と言い出した。これはチャンスだ。このチャンスに乗らずにいられる探偵がいたらお目にかかってみたいものだ。圭太はあまり気にしていないらしい(?)研究内容だが、克は何とかここで何が行われているのかを探り出したくてたまらなかった。
* * *
ようやく、階段の一番上までたどり着いた。 梨花は先ほど高津の後を付けて来たときの記憶を辿りながら足早に歩を進めた。先ほどは高津の背中に全身の神経を使っていたために、あまりよく覚えていないのだが、高津が辿ってきた廊下に交わる一本の暗い廊下があったはずだ。人の気配が全くなくて、おまけに真っ暗だったから、身を隠すとすればあの廊下の方にしかないだろう。 程なく、その廊下が見つかった。先ほど通り過ぎたときと同じように、暗く闇に沈んでいる。 「卓くん、先に、マイキちゃんと一緒に帰ってた方が……」 その廊下に足を踏み入れながら、梨花は押し殺した声でそう言った。卓の呼吸音は階段を上がりきったためにか、先ほどよりもだいぶ落ち着いてきていたが、階段を上がるだけで卓が息を乱すと言うこと自体が異様なのだ。 マイキも高津に痛めつけられたところが痛むのか、動きにいつものようなはつらつさが感じられない。 しかし卓は首を振った。 「それは出来ません」 「どうして? 大丈夫よ、克さんも須藤さんも清水さんもいるんだし、」 「違うんです」 卓の口調が苦笑をはらんだ。 「さっき俺がどうして天井から落っこちたかと言うとね、落とし穴に落ちたんですよ」 「……落とし穴?」 「裏口から出るとしたら、どうしてもまたあそこを通らなきゃならない。……今度は、ちょっと。マイキが一緒だし」 「……」 「どこかで隠れてますよ。梨花さん、済みませんけど、脱出するときに迎えに来てくれませんか」 梨花は暗闇の中、くるりと卓を振り返った。 卓の巨体も、マイキの体も、闇に紛れてほとんど見えない。様々な感情が梨花の胸の中で渦を巻いた。卓がこんな弱音みたいなことを吐くなんて、という気持ちと、それほどに怪我が痛むのだろうかという気持ち――そして一番強いのは、卓とマイキに頼りにされて、すごく嬉しい、という気持ちだった。 梨花は、頷いた。 「わかった。任せて」 程なく暗い廊下の途中に、ごうんごうんとくぐもった音を立てる小さな扉が見つかった。どうやらボイラー室のようで、鍵を開けてみると中は程良く暖かくて、騒音さえ気にしなければ結構居心地良く過ごせそうだ。卓が中に座り込むと、マイキも嬉しそうにその隣に寄り添った。壁に背中を預けて卓が大きく息をつく。そんなに痛かったのか、と思ってちょっと怖くなる。もしこの二人をここに置いていって、誰かに見つかったりしたら……? 「大丈夫ですよ」 きっぱりと、卓が言った。 「携帯も持ってるし。しばらく寝てたら良くなりますから。それより梨花さんの方こそ、気を付けてくださいね」 「……うん」 梨花は頷いて、マイキの方に視線を移した。ここは本当の暗闇だから、床に座り込んだ二人の姿はひとつになった黒い影の固まりでしかない。ここに二人を置いていくことにえもいわれぬ不安を感じながら、梨花はきびすを返し――そして、あることに気づいて、ポケットに手を入れた。がさり、とビニール袋の硬い感触が手に触れる。 「マイキちゃん」 ポケットからビニール袋を引っぱり出して、梨花はそれをマイキのいるとおぼしき場所に差し出した。 「これあげる。美味しいわよ」 闇の中でどこにいるのかはっきりわからなかったマイキの小さな手が、梨花の差し出したビニール袋を確かに掴んで、梨花はすこし安心した。いつも食べきれずに捨ててしまうマシュマロだが、今日は食べきれなくて良かったと思えた。マイキちゃんはマシュマロを食べたことがあるだろうか。あの不思議な触感の菓子を口に含んだとき、この子がどんな顔をするのか、見られなくて残念だ。梨花は萎えそうになる心を叱咤するために、わざとそんなことを考えた。
2003年07月13日(日) |
星降る鍵を探して3-5-2 |
最上階にはどこまでも続く白々とした廊下があった。 ここにいる二人には知る由もないが、流歌や梨花がこの階に来たときに立った廊下とはまた別のものだ。見た目で一番違うのは扉の数だろう。今克と圭太が立っている廊下には、見える範囲には扉がひとつしかなかった。左手の前方にその扉があり、右手の壁には何もない。消火器も窓も扉もないつるりとした白い壁は、ひどく無機質な雰囲気を醸していた。 圭太は迷わずにすたすたと歩を進めて、ひとつだけ見える扉の方に向かっている。 克は耳を澄ませた。何か妙な音がしていた。ブ……ン、というような、冷蔵庫の稼働音をもっと低くしたような音だ。それに混じってリィリィという、何か鈴虫じみた不思議な音がしている。 ――厭な音だな。 克は周囲を見回した。 急き立てられるような音だ。鈴虫の鳴き声と決定的に違うのは、それが人間の神経を恐ろしく逆撫でするということだろう。耳の底にこびりついて離れなくなるような不快な音色、はっきりしないようでいて確かに存在している、緩やかなリズム。 と、音に気を取られている内に、圭太がひとつきりの扉の前にたどり着いていた。 扉には押して下げる式のノブがついており、鍵らしきものは見あたらない。だがノブの上に薄い切れ目が走っていて、どうやらそこにカードキーを入れるらしい。ここではあの怪盗の華麗な開錠術は使えないなと思ったとき、圭太が懐を探って一枚のカードを取り出した。 テレホンカードと同じくらいのサイズだが、やや厚みがある。カード自体に特殊なコーティングがしてあるようで、表面がきらきらと七色に光っている。それを圭太が差し込むと、カチリと音を立てて扉があっけなく開いた。 「……それは?」 「この建物内で自由に使えるセキュリティカードというやつです」 「どこで手に入れたんだ、そんなもの」 「金時計と一緒に拝借してきたんです。備えあれば憂いなしって、ね」 言いながらも圭太は部屋の中に足を踏み入れている。扉が開くと先ほどの、リィリィいう音が更に大きく聞こえてきた。そこはかなり広い部屋だった。いくつかのブースに隔てられているので、何か雑然とした雰囲気である。話し声は全くしないが、人が数人いるらしい気配は伝わってくる。克はともかく圭太のこの怪盗姿はこのようなところではひどく目立つ。もし誰かが立ち上がったらすぐに大騒ぎになるだろう、と思う内にも圭太はすたすたと歩いて、部屋の隅に設えられたスツールの方へ向かっている。何か探しているものがあるようだ、と思ったとき、唐突に話し声が聞こえてきた。 「玉乃は? ――どこへ行ったんだ、全く」 年輩らしい男の声だった。苛立っているその声は存外近くから聞こえてくる。 玉乃? どこかで聞いた名前だ。克は眉をひそめた。玉乃。玉乃。どこで聞いたのだったか。つい最近聞いたような。 「いいか、見つけたらすぐに俺のところに連絡を入れろと言え、いいな?」 どうやら電話で話しているらしい。克は辺りを見回し、その声の出所を突き止めた。少し離れたブースの中に、白髪混じりの頭が見えて、話し言葉に合わせてかすかに揺れている。玉乃、か。克の頭の中に、ようやくその情報が浮かび上がってきた。そうだ、桜井が、あの芸術館のタワーの中で、電話をかけていた相手だ。 ということは、この白髪混じりの男も、桜井の仲間だと言うことになる。 白髪混じりの男が電話を切った。 そして、盛大なため息をつきながら、立ち上がった。そして顔を上げる。「教授」という単語を擬人化したような白衣姿の男の鋭い目が克に向けられた。 目があった。 あってしまった。 まずいな、と冷静に考える。前の仕事をしていたときにもこれくらいのことは良くあったから、取り乱すような克ではないが、しかし一体どうしたものか。男が電話で誰かを呼んだりする前に、即座に行動不能にしなければ、と息を一瞬詰めたときだ。白髪混じりの男は「ああ君」と言った。 「ああ、君、ちょっといいかね」 「は」 はあ? と間抜けな声を上げそうになるのを半分で打ち切る。白髪混じりの男は克を桜井の部下だと誤解したのだと、返事をしながら即座に理解した。何しろ克は芸術館のタワーの中で桜井の部下から奪った服を未だに着ている。僥倖だった、と思ったとき、しかし白髪混じりの男がきりきりと目をつり上げた。 「か、怪盗! どこから入った!」 「今晩は、梶ヶ谷先生」 涼しげな圭太の声がする。圭太はスツールの前で手に入れたいくつかのものをポケットにねじ込み終わったところだった。くるりと振り返った圭太は、怪盗マスクの向こうで意味ありげに笑った。 「玉乃さんが来る前に失礼しますよ。あの人は怖いからねえ」 「ま、待て! そこの君! 捕らえろ!」 梶ヶ谷先生、と呼ばれた白髪混じりの男はすっかり克を味方だと思い込んだようである。どうしようかと迷ったのは一瞬のみで、克は梶ヶ谷の言葉に従って圭太に手を伸ばした。しかし圭太の姿は一瞬で消えた。克の頭上をひらりと――何と助走もなしに――飛び越えた圭太の動きは、克の目でもようやく追えるかどうかというほどの速さだった。 「後で会いましょう」 頭上を飛び越えた瞬間に、小さなささやきが上から降ってきた。 とん、と圭太が自分の後ろに降り立ったのを確認して、一拍置いて、振り返る。何しろ捕まえてしまうわけには行かないのだ。振り返ったときには圭太の姿は既に入り口付近にまで移動している。一歩踏み出す内に扉が開き、もう一歩踏み出したときには黒いマントが扉から滑り出て行くところだった。素人の目には黒い風が吹きすぎたようにしか見えないだろう。なるほど怪盗として荒稼ぎをしながらも、今まで一度も捕まらなかったというのは頷ける。
2003年07月12日(土) |
星降る鍵を探して3-5-1 |
5節
その頃の新名克。 克と怪盗は、ようやく赤外線の罠の仕掛けられた暗闇を抜けて白々と照らし出された階段を上っていた。圭太曰く「ここも一般には使われていない区画」だそうで、なるほど人の気配が全くしない。もう十数階分は上がったはずだが、何度踊り場を経由しても一向に進展がない。景色もそっくり同じものだから、何だか同じところをぐるぐる回っているような気になってくる。 克は前をいく怪盗の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、こいつと桜井は一体どういう関係なのだろう、と考えていた。そう言えば克は桜井のことはもちろん、この怪盗のこともほとんど良く知らないのだ。I大学の学生で怪盗研究会の会長であるということ以外には。何しろ妹がいるということも、今日初めて知ったのである。 桜井はこいつのことを『圭太』と呼んでいた。『怪盗』でも『須藤』でもなく名前で呼ぶというのは、何か親しさを感じさせる。なのに、 『見つけたら、もう殺していい』 楽しそうにこちらを見ながら、電話にそう言っていた。 そのことはもちろん、ここへ来るまでの車の中で既に圭太に伝えてあった。助手席に座っていた圭太は別段取り乱さなかった。「そうですか」と言っただけだった。あとはとにかく黙り込んで、自分の中だけで何か考えていたようである。そのあまりにあっさりした様子に後部座席の卓が驚いて、身を乗り出して「心配じゃないんですか」と訊ねた。すると圭太は事も無げに言ったものだ。 「あいつは流歌を殺したりしないから」 それは推測を話しているという様子ではなかった。厳然たる事実を話しているという口調に、卓が更に身を乗り出した。 「なんで、わかるんです?」 「なんで……?」 圭太は一瞬言いよどんだ。こいつにしては珍しいこともあるものだ。克はずっと黙って前を向いて、二人のやりとりを聞いていたが、圭太はちらりとこちらを見て、口ごもったことを悟られたかと探ったようだった。その視線には気づかない振りをしたので、少し安心したように、呟く。 「桜井さんはそれほどバカじゃないからね。金時計はまだ俺が持ってる。流歌を殺したら手に入らなくなるだろ」 なるほど、筋は通っている。卓はそれで納得したようだったが、克はごまかされなかった。
「桜井とは」 呟くと、圭太の背中がぴくりと反応した。一拍置いて振り返った圭太の顔は、マスクに隠されてほとんど見えないが、いつも通り平静な顔をしているようだ。 「何ですか?」 「どういう関係なんだ」 「……」 圭太は答えず再び前を向いて昇り始めた。その後ろを追いかけながら、独り言のようにして呟く。 「金時計を盗んだ怪盗と、金時計を盗まれた男というだけの関係にしては、ちょっと変だよな」 「……何でそう思うんです?」 訊ねた声は笑みを含んでいる。『面白いことを言いますね』と言わんばかりの声音は、あくまで会話を楽しむという風情を装っている。 「『圭太』って呼んでたからな」 「うげ」 うげ? うめき声を上げたあと、圭太は冗談っぽくわざと憤ってみせた。 「うっわあ冗談じゃねえぞあのくそオヤジ」 「……オヤジ」 「うわーやだやだ。呼び捨てにしないで欲しいなあ。そりゃ昔は呼び捨てにされてましたけどね、……と」 今気づいたように振り返る。怪盗マスクの向こうで、目が笑っていた。 「傷つきましたか」 「……同い年だからね」 「お兄さんはあんまりオヤジって感じしませんね。桜井さんはなんていうか……こう……老成してるって感じでね」 「フォローしてくれなくてもいいけどね。で、昔ってのはいつ頃だ」 「七年前」 即座に答えが返ってくる。七年前というと、克も桜井もまだ大学生だった頃だ。 「妹の家庭教師だったんですよ」 簡単にそう言って、圭太は階段を上がりきった。振り返って踊り場の壁に掲げられた階数表示を見ると、「25/24」と書かれている。圭太の後からその階に上がると、階段はそこで尽きていた。なんとこの建物の最上階まで上がってきてしまったようだ。25階の廊下に足を踏み入れながら、圭太が振り返った。そして、 「息も切れてない。やっぱり若いですね、まだ」 ニヤリと笑った。何か悔しい。
2003年07月10日(木) |
星降る鍵を探して3-4-5 |
*
危険だ、と、剛は思っていた。流歌が「先生」と呼ぶこの男は、剛の本能を逆立てるような雰囲気を発していた。今彼は扉の前に立っているから、剛にはほとんど背中を向けている。それなのに――この、威圧感は、なんだろう。 見ようによっては流歌だけに対峙して、剛のことなど頭から無視しているようにも思える。 しかしそれは誤りだ。「先生」は剛を警戒しているからこそ、流歌を剛の視界から完全に隠すためにその場所に立っているのだ。少なくとも剛にはそう思え、彼は拳を握りしめた。背後から攻撃するというのは彼の趣味に合わないどころか信条にも反することなのだが、この男に関しては、そんなことを言っている場合ではなかった。 けれど。 無防備なはずの背中に、剛は射すくめられていた。まるで背中にも目があるみたいだ。いや、「みたいだ」ではなくまさにそうなのだろう。目はないにしても、この男は剛の一挙手一投足に反応できるように神経を張り巡らせている。そして、流歌を剛の視線から隠しているのは、まさにそのためなのだと気づいて、剛は歯がみする思いだった。もし剛が動いたら、流歌がどうなるかわからなかった。どうしてこの位置に立たれる前に排除しておかなかったのだろう、と今更悔やんでみても遅い。 そして――最後に見えた、流歌の表情が。 あんなに危うい表情を、剛は今まで見たことがなかった。 ――その男は何者なのだ。 状況さえ許せば、叫びだしたいくらいだった。 「今まで、何をしていた?」 男はゆっくりとした口調で、流歌に訊ねている。返事をするなと言いたかった。これ以上、その男と、関わり合って欲しくなかった。言葉はもちろん、視線の一瞥すらも、これ以上その男に与えないでくれ、と――言えたなら、言える立場に立っていたなら、どんなにいいだろう。 その時だった。 流歌の様子を少しでも掴みたいと、全身の神経を張り巡らせていたからだろうか。剛の耳に、ある物音が届いた。それはまだかすかな音にしか過ぎなかったが、聞き間違えようがなかった。近くの階段の下の方から、どやどやと数人が駆け上がってくる音だ。 ――仲間が来たんだ。 上がってきてしまったら万事休すだ。剛は階段とは逆の方へにじり寄った。剛は、受験の時にもこれほど頭を使ったことはないというくらいの勢いで考えていた。階段の方から男の仲間がやってくる。捕まったら一巻の終わり、だから、階段とは逆の方へ逃げなければならない。だが流歌はまだ研究室の中にいて、異変に気づいていない。「先生」という男と向き合って、立ち尽くしている。 ――こやつに殴りかかるわけには行かない。 そんなことをしたら流歌がどうなるかわからない。何しろ男が払っている注意は、剛へ向ける方が遙かに強いのだから。 ――ならば、須藤流歌に、自力でこちらに来てもらうしかない。 だがあのような顔をしている須藤流歌に、自分の声が届くとは思えなかった。流歌の中では、自分はほんの取るに足らない存在でしかない。あのような目で、見つめられるような存在ではない。悔しかった。危険が迫っているのに、それを警告しようと声を出してはあの男が流歌を害するかも知れず、そもそも流歌は剛の声など聞かないだろう。今流歌は全身全霊を込めてこの男を見つめているのだ。もし、危険を告げるのが剛ではなくせめて圭太だったなら、流歌の耳にも届くかも知れないのに。 思い悩む内にも、足音は迫ってくる。 ――くそ……! 剛は、やけくそになった。俺の声が届かぬと言うのなら、と剛は思った。届くようにしてやればいいのだ。簡単だ。俺にしか、言えない言葉がある……! 「須藤流歌ー!」 剛は精一杯の銅鑼声で叫んだ。 「『警邏会』の怒れる孫悟空! 俺は……!」
その声は、いつも通り、大変な威力を発揮した。
叫ぶや、目の前にいた男がぎょっとしたように身を引いた。その隙間から、流歌が、弾丸のように飛び出してくる。 「……だれが、孫悟空ですかー!」 次いで繰り出された蹴りはいつも通りすさまじかった。普段ならばかわすことなど絶対に出来なかっただろう、だが、今は、悠長に蹴りなど食らって昏倒している場合ではなかった。普段でも昏倒しているのはほんの数瞬のことなのだが、今はその数瞬すらも惜しい。切羽詰まったら人間結構何でも出来るようで、剛は流歌の壮絶な蹴りを紙一重でかわした。すばらしい。快挙だ。これがいつも出来るなら、全国大会での優勝も夢ではない。 自分の鼻先をかすめて、思い切りの良い蹴りが行き過ぎていく。 剛はその細い足を鷲掴みにした。してから再び驚いた。飛んでいる蠅を箸で捕らえたという剣豪も、今の剛の身のこなしには驚嘆するに違いない。少なくとも流歌は驚嘆したようで、「え?」と可愛らしい声を残してバランスを崩す。 「ゆくぞ」 流歌をひょい、と体ごと肩の上に担ぎ上げて、剛は一目散に走りだした。
--------------------------- 引越しと旅行のため、しばらく更新がまちまちになります。 少なくとも明日はお休みです。実家帰って犬に会ってきます。
2003年07月09日(水) |
星降る鍵を探して3-4-4 |
しかし宮前の前で、流歌に、その疑念を話すわけには行かなかった。何しろ流歌は今、剛よりもよほど宮前に近い方に立っている。万が一にも宮前が流歌を害することがあってはならない、そう思った剛は、流歌を自然に促すために先に部屋から出た。廊下に出、そして部屋の中を振り返る。顔にこそ出さないが、祈るような気持ちだった。 「早く来い」 これ以上、彼女をこの危険な研究所の中へ、留まらせておきたくない。宮前にこれ以上心を許して欲しくない。人を疑うのは厭なものだが、流歌を無事に連れ出すためならどうということもない。 流歌の肩越しに見える宮前の顔は、眼鏡に光が反射していてよく見えなかった。 「行くぞ。来んのか」 「あ、はい。行きます。すみません宮前さん、すっかりご馳走になって」 流歌はくるりと宮前を振り返り、ぺこり、と頭を下げた。 「すっかり片づいたら、お礼に来ますね。あたし、行かなくちゃ」 そして流歌は再びくるりと身を翻した。剛はホッとした。剛の突飛な行動に、疑念は持ったにしても、素直に従ってくれたのが嬉しかった。自然に顔がほころぶ。こちらに向き直った流歌が、軽やかな動きで、こちらに向かってやってくる。 しかし。 「――そうはいかない」 出し抜けに、声が響いた。 初めは長津田の声かと思った。男の声だったからだ。この場にいる男は、剛を覗けば彼しかいない。しかし長津田ではなかった。彼の声にしては、高い。 男の声にしては、どちらかと言えば高め。だが全く耳障りではなく、わずかに喉に引っかかるような―― 剛の視線の先で、流歌が硬直している。 流歌の視線を追いかけて、剛は自分の左を見た。 開いた扉を押さえるように、いつの間にか、見知らぬ男が出現している。 一体どうしてこんなに近づかれるまで気づかなかったのだろう。剛は本気でいぶかしんでいた。男は剛よりも背が低く、中肉中背と言ったところだろう。やせすぎもせず、太ってもいず、顔立ちもごく普通だ。茫洋とした雰囲気の男だ、と剛は思った。もし、この男と別れてしばらく経ったら、顔も思い出せなくなりそうな。 しかし、その目は、剃刀のように鋭い。 「せ……ん、せ、い……」 流歌の口から、喘ぐような声が漏れた。
*
先生。 流歌は戸口に佇む男に気づいて立ちすくんだ。 いつの間にそこにいたのだ、とは、思わなかった。桜井は昔からそうだった。足音を立てないばかりでなく、気配が本当に希薄なのだ。剛のように、立っているだけで自己主張をするような強烈な気配とは全く質が違う。 「久しぶりだな」 桜井は、にこりともせずにそう言った。そして静かに位置を変えて、戸口の前に立った。流歌は後ずさった。いつかこうしてまた会う日が来るのだと、わかっていたはずなのに。覚悟も、していたはずなのに。唐突に過ぎて、心の準備が出来ていない。 ――先生。 「元気そうで何よりだ」 何よりだとは全く思っていない口調。言葉に感情がこもっていないのも相変わらずだった。先生の真意を探るのは、微分積分を解くのより遙かに難しい。 ――先生。 「見つかって良かったよ。お前はすばしっこいからな」 桜井の声音が、麻痺したような流歌の頭の中を滑り抜けていく。体中が硬直していて、指一本すら動かすことが出来ない中で、心臓だけがものすごい勢いで打ちまくっていた。どくどくどくどく脈打つ心臓が、恐れているのか、それとも踊っているのか、自分のことなのに判断が出来ない。 ――先生、先生、先生…… 頭の中でただ、繰り返すことだけしか、できない。
会いたくなんてなかったのに。 会いたくて、たまらなかった。
2003年07月08日(火) |
星降る鍵を探して3-4-3 |
宮前さんは、ため息をついた。全くどうしてラーメンのことになると見境がないのかしら、などと、ぶつぶつ口の中で呟いている。 その時だった。 ずっと静かに食べ物を詰め込んでいた剛が、コトリ、と箸を置いた。 そして、こちらを見る。 「須藤流歌」 重々しい口調に、思わず背筋が伸びた。 「は、はい?」 「もう、食わんのか」 言って顎で流歌の手の中のラーメンを示した。見やるとこちらのラーメンはまだ半分以上残っていて、剛のラーメンは既に汁もない。綺麗に食べるんだなあ、と感心してしまう。 流歌の返事を、剛は黙って待っている。もしかして欲しいのだろうか。そう思って流歌は首を振った。 「いえ、もうだいぶお腹が一杯で。……いります?」
*
いりますか、と聞かれて剛はぐっと言葉に詰まった。別に欲しくて言ったわけではない。言ったわけではないのだが、流歌があっさりと自分の分を差しだそうとする、その気安さに、剛はそんな場合ではないと思いつつも感動してしまったのだ。 ――ま、まるで仲の良い友人のようではないか……! ももももしくは恋人のよう……いや、そこまでは言い過ぎだろうか。い、いやしかしひとつの鍋からものを分け合うというのは人間関係を一挙に親密にすると言うし……! 今まで目があっただけで即座に逃走されていたことを思えば、並んで食事を取ると言うだけで天にも昇りたいような気持ちであるというのに。 いや、落ち着け、俺。剛は舞い上がりそうな自分を戒めた。今は非常事態なのだ。須藤流歌の差し出したラーメンを嬉しく啜っている場合ではないのだ。ないのだ。……ないのだが、この期を逃してはこんなチャンスは二度と巡ってこないかも知れない。ラーメンの半杯ごとき食べるのにそれほど時間もいるまいし、ここはいっそ……いやまて今はそれどころじゃ……! 苦悩のあまり剛はそのグローブのような右手を握りしめ、 「し、清水さん?」 挟まれていた箸がばきりと音を立てて折れた。流歌が驚いたようにちょっと身を引いた。それで我に返る。 「い、いや、おおおお俺ももはや腹がくちくなっておってな」 「……そうですか」 流歌は剛の異様な様子を少しいぶかしんだようだが、素直にもラーメンのカップを引っ込めた。剛はホッとした。ホッとしたが、かなり残念だった。やっぱり欲しいと言い出すのもおかしいし。ああ、我ながら、 「女々しい」 「はあ?」 「いや何でもないのだ。とにかくだ。もう腹ごしらえは済んだな」 「はい」 流歌が頷く。ああ、須藤流歌とこのようにまともに顔をつきあわせて会話が出来るなんて、と幸せの世界に入り込んでいきそうな自分を引き戻し、 「ではゆくぞ」 剛はきっぱりと言って立ち上がった。そして長津田と宮前という風変わりなカップルに、体育会系の礼をした。両足を広げて立ち、背筋を伸ばし、腕を後ろで組んで、言うのである。 「世話になりました!」 腹の底から響くような大音声で口上を述べるのが本式なのだが、今は大声を出せるような事態ではない。宮前はぎょっとしたように顔を上げた。恐らく言葉の内容に驚いたのだろうと簡単に察しを付けて、剛は言葉を継いだ。 「全てが片づきました後にこのご恩を返しに参ります!」 「え、ちょっと待って――」 「先を急ぎますので今日はこれにて! 須藤流歌! 立て!」 「は、はい!」 つられたのか、流歌がはじかれたように立ち上がった。 「ゆくぞ! 続け!」 号令をかけてくるりときびすを返す。しかし今度は流歌は続かなかった。 「え、ど、どこに?」 「清水くん、ちょっと待ってよ」 宮前が慌てて立ち上がる。剛は構わずにずかずかと部屋を横切り、綺麗に整った研究室の中に入り込んだ。立ち止まらずにそこを突っ切って扉を目指すと、背後から慌てたように流歌が追いかけてくる。 「待ってください! そんないきなり」 「いきなりじゃない。よく考えれば今は呑気に飯など食っておる場合ではないのだ。そうだろう?」 「そ、そりゃあ」 「俺は一人で助けに来たのではないのだ。早いところ奴らと合流して脱出せねばならん」 言った時、流歌を追いかけるようにして宮前が扉から顔を出した。前を開けた白衣がマントのようになびいている。そう、白衣だ、と剛は思った。白衣を着ている。と言うことは彼女はここの職員だ。研究所内の職員はみんな敵だと考えた方がいいこの時期に、一体どうして一緒に飯など食べる気持ちになったものだろう。 もし彼女らが「敵」なのだとしたら? だいたい、同じ研究所内で行われている研究に、全く気づかないことなんてあるだろうか? そうだとしたら……流歌を油断させてこの中に留めておこうと、食事を振る舞ったということだって考えられるではないか。
2003年07月07日(月) |
星降る鍵を探して3-4-2 |
*
ゆっくりと食べ物を消化しながら、流歌はどのように説明しようかと思案を巡らせていた。事情は果てしなく込み入っている。それに、兄が”怪盗”で自分が”助手”であるということまで話していいものか、判断が付きかねていた。 兄は「悪い奴がしこたま貯め込んでいるお宝をいただいて何が悪いのだ」と事も無げに言ってくれるけれども、それにしても怪盗という者はそれほど高らかに自分の仕事を叫べるものではないと思う。 剛は気持ちいいまでの食べっぷりでメロンパン、ジャムパン、チョココロネなどを消化している。 宮前さんはゆっくりと、いなり寿司を食べている。 四つ並んだカップラーメンを前に、長津田さんは真剣な顔をして腕時計を睨んでいる。 と、 「流歌ちゃん」 いなり寿司を飲み込んだ宮前さんが、口を開いた。 「あなたをさらった人というのは、この研究所内の人なの?」 いや、いきなりそう言われてもですね。 反射的にそう答えそうになって、流歌はカレーパンと一緒にその言葉を飲み込んだ。宮前さんの表情が、何か気遣わしげなものに見えたからだった。宮前さんは流歌を見ていない。いなり寿司に注がれた視線は物思わし気で、何か心当たりがあるのだろうか、ともう一度思う。 「えーと、桜井さんという人です。この研究所の人じゃないと思います。この研究所で何らかの研究が行われていて、それを外部に漏らさないために護衛するのが仕事みたい。どこかから派遣されてきたのかな、そこまではわからないけど」 「何らかの研究……ねえ。人をさらってまで守らなければならない研究……」 宮前さんはお箸を置いて、机にひじを突いた。いなり寿司がまだ三つ残っているトレイを、長津田さんの方に押しやっている。長津田さんは腕時計を睨んだまま微動だにしない。いなり寿司を差し出されたことにも気づいていないようだ。どうやらカップラーメンができあがるのを、固唾を飲んで見守っているようなのである。 「……もう一つ、聞きたいな」 物思わし気な目のままで、宮前さんはそう言った。 「ど、どうぞ」 「梶ヶ谷先生に、見覚えは?」 「へ?」 梶ヶ谷先生? って、誰だっけ。何だか今日はいろんな人に次々に巡り会うものだから、頭が上手くついていかない。すると宮前さんは机の上に身を乗り出してきた。 「さっきさ、階段で会ったでしょ。ほら、あなたの携帯電話を奪って「うるさい」って怒鳴りつけた人よ」 「あー」 思い出した。あのヒステリックなおじさんだ。声を上げると、宮前さんは更に身を乗り出してきた。 「見覚えは? あるの?」 「い、いいえ」 この熱意は何だ。ちょっとたじたじとなりながら、流歌は首を振った。 「さっき初めて会いました。見覚えはないと思います」 「そう……それじゃ、あなたをさらった人たちとは関係ないのかしら」 宮前さんは乗り出していた体を元に戻した。心なしか残念そうに見える。梶ヶ谷先生かあ、と先ほどの階段での一幕を思い出して、流歌は声を上げた。 「……あ、でも、あの人と「先生」って知り合い……みたいだった」 そうだ。あの人は「先生」を知っていたんだ。 電話越しに聞こえた「先生」の声。「先生」は『その声は、もしかして、梶ヶ谷先生ですか?』って……訊ねてた。知り合いだった。間違いない。 宮前さんが再び身を乗り出してくる。 「どういうこと?」 「電話越しに向こうの声が聞こえたの。梶ヶ谷先生と、せんせ……あたしをさらった人とがね、知り合いみたいな会話をしてた。間違いないと思います」 「それじゃ……やっぱり」 宮前さんは、そう言うなり、乗り出していた体を戻してソファの背に預けた。眼鏡の奥でややつり上がったその綺麗な目が虚空を見つめている。何か目まぐるしい勢いで考えているみたいだ、と思ったとき、ずっと時計を見ていた長津田さんが顔を上げた。 「時間だ」 やけにきっぱりした口調。 「できたぞ」 言って、ラーメンをひとつずつこちらに押しやってくれる。今まで一言も話さず、ずっと時計を睨んでいたのだろうか。 礼を言って受け取って、ふたを開く。ほわ、と湯気が顔に押し寄せてくる。ラーメンは少し延び気味だったが、熱めのスープが美味しかった。 「ねえ、敏彦」 ソファに身を預けたままだった宮前さんが、顔を上げて長津田さんを見た。 「最近、梶ヶ谷先生に会った?」 問いに、長津田さんはラーメンから顔を上げた。 「……いいや?」 「そう。最近おかしかったの……怒りっぽくなった。怒鳴るのは相変わらずだけど、何だかずいぶん、ヒステリックになったなって思ってたの。何か、関係が」 言いながら、宮前さんはひどく重苦しい顔をしていた。流歌には想像するしかないが、先ほどの様子を見ていると、梶ヶ谷先生というのはどうやら宮前さんの上司であったらしい。上司を疑うのにはやはり少し抵抗があるようで、とても歯切れが悪かった。 「珠」 長津田さんが、重々しい声を出した。 宮前さんがぎくりとしたように口を閉じる。 「……何?」 「延びるから」 「へ?」 「話は、食べてから」 「……」 「……」 「……」 ずずずずず、と、長津田さんがラーメンを啜る。 宮前さんは、ため息をついた。
---------------------------------- 情報の出し方って難しいですね……! というか帰ってきたら午後11時40分。もー!(泣)
2003年07月06日(日) |
星降る鍵を探して3-4-1 |
4節
混乱を収めなければ、と、流歌は思った。 宮前の方は剛の反応に、どうやら敵ではないらしい? とクエスチョンマーク付きではあるにせよ思ってくれたようで、掃除機のホースを構えたままではあるが一歩下がってくれたので、まず、ショックを受けた(らしい)剛を宥めなければならない。 流歌としてはどうして剛がショックを受けるのか、が第一の謎だった。冷静に考えれば、この研究所の中で流歌が剛から逃げ回るなんてことがあり得るはずがないではないか。まあ、大学構内ではそれは日常茶飯事だったから、剛が混乱してもしょうがないのかも知れない……と思ってみてから流歌は即座にそれを否定した。そんなバカな。 それにどうして、流歌が逃げるということがここまでショックなのだろう。 「清水さん」 「……おう」 「どうしてここに?」 そう、まずはそこから聞かなければならない。どうやら流歌を助けに来てくれたらしいのだが、流歌にしてみればどうして剛が? という疑問が先に立つのだ。助けに来てくれるとすれば、兄と梨花くらいだろうと思っていた。 しかし剛は事も無げに言った。 「助けに来たのだ」 「……」 いや、それはそうだろうけれども。 「元気そうだな。何よりだ」 言って剛はにかっと笑った。大学構内では見たことのない笑顔だった。流歌にとっては清水剛という男は「『拳道部』に入らねばお前を取って食う」と言わんばかりに追いかけ回してくるはた迷惑な先輩でしかなく、剛の姿を見れば一目散に逃げるのが常だったから、こちらを追いかけてくる悪鬼のような形相以外の顔を見たことはあまりないのである。見ていたとしても記憶に残らない。だからこちらの身を案じてくれた挙げ句、嬉しそうに笑った顔が、とても人間らしく見えることにまず驚いた。 「それでだ」 と、剛は笑顔のまま言った。 「なぜ俺から逃げるのかの理由を教えてもらいたいものだが」 笑顔なのに、頬の辺りが不安そうにひきつっている。 流歌はため息をついた。 「逃げてませんて。驚いただけですよ。あたしが逃げてるのはあたしを捕まえた人たちからです」 「捕まえた?」 と、宮前さんが割り込んできた。 「どういうこと? この所内に、あなたを捕まえた人がいるの?」 流歌は宮前さんを見た。彼女は純粋に驚いた顔をしている。本当に知らないのだろうか。 一瞬で覚悟を決めて、流歌は頷いた。 「そうなんです。昨日の晩、ここに連れてこられて、さっきようやく逃げ出せたの」 宮前さんは目を見開いた。眼鏡の奥で、ややつり上がった綺麗な目が不思議な光を放った。何か思い出したことがあるのだろうか、綺麗に紅を引かれた唇がやや開いた。 と、その時である。 「……そこ! 踏むんじゃない!」 流歌の隣で唐突に剛が叫んだ。叫んだばかりでなくのしのしと扉の方へ歩いていく。扉の方では長津田さんが気弱気な声を出した。 「あ、ああ。すみません」 「食べ物を粗末にすると男が廃るぞ。……だから! 踏むなと言うのに!」 「あああ、すみません」 「いいから退け! ……だからどうして踏むのだ!」 何だか仲良くなっている。遙か年上のはずの長津田さんの方が年下に見えるのは何故だろう。宮前さんはそちらを振り返って、苦笑した。 「全部ダメになる前に食べた方がよさそうね。お腹、空いてるでしょ?」 「え? ……あ、はい」 言われてみると自分が空腹だと言うことに気づいた。一度気づくとその空腹は、もはや耐え難いほどになっている。宮前さんは先ほど流歌が眠っていた方の部屋の扉を開けて、流歌を差し招いた。 「さっきカップスープ見つけたの。大したものはないけど、一緒に食べましょう。……悪いけど頑張って食べてね? あの人、五人家族が一月は生き延びられるくらいの買い物をしてくるのよ、いつも」 ややして散乱した菓子パンのたぐいをまとめ直した剛が長津田さんを先導してこちらにやってくる。 こうして、人間もメニューもとても珍しい取り合わせの会食が始まったのだった。
2003年07月05日(土) |
星降る鍵を探して3-3-7 |
*
四つあったスイッチを一斉に切ると、地下室は一瞬で闇に落ちた。 「!」 「……なんだ!?」 「停電か!?」 あちらでうろたえた声がする。発砲音もして、暗闇の中に火花が散った。卓くん、大丈夫かな。反射的に身をすくめたが、別にうめき声もしなかったので大丈夫だと思うことにする。梨花は背負っていたマイキの体を背負い直した。卓を呼ぶために、息を吸って―― その時だ。 今まで人形のように動かなかったマイキが、唐突に悲鳴を上げたのだ。 「――!」 いや、それは恐らく声にはなっていなかっただろう。悲鳴は梨花の頭の中で鳴り響いた。脳を直接揺さぶるような衝撃に梨花は思わず悲鳴を上げた。 あの時と、同じだ。 マイキの体と一緒に倒れ込みながら、梨花は思った。 この感覚は、以前にも感じたことがある。 倒れ込んだ拍子にドアノブに体をぶつけたが、痛みを感じる余裕もない。前はあまりの衝撃にあっけなくも意識を手放してしまったのだけれど、今度はそんなわけには行かなかった。こんなところで呑気に気絶している場合じゃない。 前はマイキの中に引きずり込まれてどこまでも落ちていきそうな気がしたけれど。 梨花はぎゅっと目をつぶって、崩れてしまいそうな自我を立て直そうとした。頭がくらくらする。息が上手くできない。マイキの悲鳴はまだ続いていて、脳の細胞のひとつひとつをばらばらにされて虚空に融け出されているような気がする。 ――星が…… マイキの声が、響いた。 ――星が、落ちて…… 星が? 「マイキちゃん」 梨花は必死で声を出した。 「マイキちゃん、お願い。落ち着いて」 声を出すと、少し感覚が戻ってきた。自分の体が自分のものじゃなくなってしまいそうな喪失感が少し薄れた。梨花は再び息を吸った。肺が膨らむ感触と、喉を滑っていく冷たい空気の感触が、喪失感を更に押しのける。底の知れない深い空虚な穴の中に落ちかけていたのが、かろうじてどこかに引っかかった。引っかかったところを手がかりに、少しずつ、少しずつ、その圧倒的な穴の底から体を引き上げようと、する。 暗闇だからか、周りには何も見えない。 でも、マイキの細い手が梨花の体に必死でしがみついている感覚が甦ってきた。その手は震えていた。怖がっている、と梨花は思った。でも何を? さっきまで死んでるみたいにじっとしていたのに。辺りが真っ暗になったのをきっかけに、何かを思い出したのだろうか? 何を? 何を恐れている? 一体、何を見たんだろう――? その時、梨花は、すぐそばに誰かが走ってきたのに気づいた。 逃げようと思った。でも、体が動かなかった。その人はまるで目が見えているかのように、この暗闇の中を一直線にこちらに走ってきて、そして、過たず梨花とマイキの体をすくい上げた。 「――!」 「梨花さん、ちょっと我慢してください」 耳元で卓の声がした。梨花は目を見開いた。卓は梨花とマイキ、二人の体を軽々と抱え上げ、すぐそばにあった扉に手をかけた。すごいじゃないの、と梨花は思った。先ほどの身のこなしと言い、卓は普段はあの兄に翻弄されっぱなしのように思えていても、いざとなったらずいぶんと頼りになる存在であるらしい。 気がついてみると向こうの方の混乱はまだ続いていて、暗闇の中右往左往している音が向こうで聞こえる。マイキの感情の流れに引きずられていたのはほんのわずかな間のことだったんだろうか、と思ったとき、卓が地下室の扉を探り当てた。開くと廊下の淡い光が射し込んでくる。向こうで騒いでいる男たちが「待て!」とか叫ぶ声を尻目に三人は地下室から滑り出た。 バタン、と扉が閉まる。 はああああ。 と、大きく息をついたのは、卓と同時だった。 ああ、こわかった。 よく無事に出てこられたものだ。 先ほどのマイキの感情の爆発がまだ尾を引いていて、頭がくらくらしていた。でも、やはり二度目だからなのか、以前ほどひどくはなかった。明るい光が目に突き刺さってくるような不快な刺激もすぐに薄れてくる。まだ卓に抱えられていることに気づいて、梨花は身をよじって卓を見上げた。 卓はこめかみの辺りを切ったらしく、血が一筋頬を流れていた。先ほど暗闇の中で誰かが発砲したのがかすめたのだろうか。しかし卓は別段痛そうでもなく、梨花の視線に気づくとにこっと笑った。 「無事でしたか。怪我は?」 「あ……うん。大丈夫」 「さっき悲鳴が聞こえたから、驚きましたよ」 卓の言葉に梨花は曖昧に頷いて、そして卓の腕を外して地面に降りた。一瞬よろけたが、大丈夫、すぐにちゃんと立つことが出来た。卓の腕の中にマイキが残る。マイキはまだ震えていた。でも、卓を見上げて顔をくしゃくしゃにした。髪の毛がほつれ、唇の端が切れて、血が流れている。 「マイキ、大丈夫か」 うん――というようにマイキは頷き、手を伸ばして、卓に抱きついた。 さら、と黒髪が流れてマイキの顔を隠すと、卓は複雑な顔をした。マイキをひどい目に遭わせた奴への怒りと、マイキが死んでいなくて良かったという安堵とがごっちゃに入り乱れている。そういう顔をすると、数段大人びて見える、と梨花は思った。数段男前にも見える。 さっきのキレ具合と言い、よっぽど大切なんだなあ。考えて、梨花はにっこりした。こっちが照れちゃうじゃないの。 「とにかく、逃げよう」 「そ――そうですね」 卓は頷いて、マイキを抱え上げた。マイキはしっかり卓の首にしがみついている。
あの地下室の天井はずいぶん高かったから、階段を上るのも大変だった。かくかく曲がった作りになっているから、追っ手に背後から狙撃されると言う心配が少ないのはありがたい。下は大騒ぎになっていた。慌てて追いかけてくる音が遙か下から聞こえてくる。応援が上から来たら挟み撃ちにされちゃうな――と思いながら、梨花は振り返った。マイキを背負った卓が少し遅れている。 見ると驚いたことに、額に脂汗が浮いていた。マイキも卓の異常に気づいたのか、身を乗り出すようにして心配そうに卓を覗き込んでいる。梨花は慌てた。 「だ、大丈夫?」 「はい」 返事はきっぱりしていたが、息が乱れている。梨花は駆け戻った。卓が脂汗を流すなんて異常事態だ。マイキもそう思ったのだろう、卓の背中からすべり降りた。小さな手で卓の巨大な手をぎゅっと握る、と、卓は息を乱しながらも少し笑った。 「大丈夫ですよ。最近怠けすぎてたから」 「……痛いの?」 そうだ。卓の肋骨はまだ治ってなかったんだ。治ってないのにあんなところから落っこちて、あんな大立ち回りをやっては、脂汗くらい浮かんで当然だ。しかし卓は首を振った。 「大丈夫。行きましょう、下から足音が」 「……うん」 梨花は頷いて、階段を見上げた。さっき高津の後を付けながら降りてきた時にも思ったのだが、あまりにも長い階段である。とにかく一階までたどり着かないとどうしようもない。 走りだすと卓とマイキもついてきた。一階にたどり着いたら、この二人には先に帰ってもらうか、それが無理ならどこかに隠れていてもらった方がいいのかも。梨花は走りながらも不吉な予感に身をすくませた。卓がこんな痛そうな様子を見せるなんて、不吉以外の何ものでもない。 ――星が。 マイキの悲鳴が脳をかすめる。 ――星が、落ちて。 何を見たって言うんだろう。何だか、すごく……厭な、予感がした。
---------------------------------- あー。 よーやく3節が終わりました。もー進まないったら。 しかし恥ずかしいなあ、こーのバカップルめえー(棒読み)。
2003年07月04日(金) |
星降る鍵を探して3-3-7 |
しかし発砲したとき、卓はそこにはいなかった。
*
「な……」 上げかけた声を、高津は最後まで言うことが出来なかった。目の前にいたはずの、若者の姿が消えていた。第一撃は銃を持った腕に来た。衝撃。あまりの速さに感覚がついていかない。はじかれた腕が消失したような錯覚。 ――なんだ、こいつは……! 目を剥いた。いつの間にか、若者の顔が目の前にあった。 若者は、助走する素振りも見せず、発砲する一瞬前に、高津の懐に飛び込んだのだ。懐に入り込まれたら銃はもう何の役にも立たない、と思ってから、既に自分が銃を持っていないことを思い出した。 銃はがんごん音を立てながらはじき飛んでいく。 高津の脳に様々な情報が明滅する内にも若者の動きは止まらない。第二撃は腹に来た。若者は左腕で高津の銃を払い、右腕の拳をためらいもなく突き出してきたのだった。 重い衝撃が襲いかかってくる。 衝撃が高津に届く寸前に、彼は後ろに飛んでいた。意図した動きではなかった。本能的なものだ。踏み込みが充分でなかったため動けたのはわずかな距離で、拳を完全によけることはできなかったが、その威力のほとんどはやり過ごすことが出来た。危なかった、と後ろに移動しながら高津は思った。あんなものがまともに当たったら戦闘不能どころの騒ぎじゃない。 それでも衝撃はかなりのものだったようだ。 後ろに下がりながらも、高津の体は意志に反してよろめいた。圧倒的な脅威を前に、痛みは感じなかった。体勢を立て直さなければまずい、と思っただけだ。 しかし若者の動きは洗練されていた。一連の動作に全く無駄がなかった。うしろに流れた高津の体を追いかけるようにもう一歩踏み込んできて、その足が高津のかろうじて立て直しかけた軸足を払った。すげえなあ、と倒れながら高津は思った。高津も腕っ節の強さには自信がある方だったが、これは桁違いだ。 どだん! 重い音が響くと同時に胸の辺りに容赦のない一撃が来た。仰向けに倒れた自分の胸を若者が踏みつけたのだ、と判断している余裕はない。心臓に直接響くようなショックに息が詰まる。高津の目は見開いていた。覗き込んでくる若者の目がつり上がっていた。その顔にはただひとつだけ、ひどくわかりやすい表情が浮かんでいた。冷徹な、一片の甘さもない、ひどく純粋で冷え切った――怒り、だ。 純粋に過ぎて、理性など立ち入る隙間がないほどの。 殺される。 やけに冷静にそう思った。そしてその予想を肯定するように、若者がこちらに腕を伸ばしかけた、その時。 四方から伸びた手が、若者に突きつけられた。じゃきっという金属音が響きわたる。高津の仲間たちが、ようやく我に返ったのか、手にした銃を若者に突きつけたのだった。 「う、動くなあ!」 やけにうわずった声。若者はその音に反応したように顔を上げる。高津は胸に載っていた若者の体重が少しずれて息を吸い込むことが出来るようになり、即座に叫んだ。 「撃て! 警告を聞く相手じゃない!」 叫んだ――つもりだったが、肺が痛んで声が上手く出ない。全くこいつらはなんという間抜けなのだ、と高津は舌打ちしたい気分だった。のんきに警告している暇があったら撃てばいい。それは先ほどの自分にも言えた。どうしてこいつが檻の中に入っていたときに撃ち殺しておかなかったんだろう。桜井ならきっとそうしていた。床の上に叩きつけられるなんて無様な真似はしなかったに違いない。 しかし若者は動きを止めた。先ほどまでの冷徹な表情に、わずかに、理性の色がひらめいた。彼は瞬きをして、高津を見て、そして、自分に突きつけられている四つの銃口を見回した。少しずつ、その表情が変わる。信じられない、と言った表情。 「あ……れ?」 我に返った―― 高津は跳ね起きようとした。動きが止まった今こそ排除しておかなければならない、と思った。こんな化け物じみた人間、しかもあの女の仲間であるような人間を、捕らえるだけで済ませるなんてそんなことができるわけがなかった。周囲の仲間は全く役に立たない。動かなければと思うのに、先ほど食らった衝撃がまだ尾を引いていて、もがくことが出来ただけだった。若者が自分が高津の胸を踏みつけていることに驚いたと言うように、わずかに足を上げる。 と。 唐突に、暗闇が降ってきた。
2003年07月03日(木) |
星降る鍵を探して3-3-6 |
「――追えっ!」 高津が怒鳴った時には梨花はモニタのそばにまで来ていた。必死になっているからか、マイキの重さは全く感じなかった。モニタの置かれた机のそばには、先ほど卓の出現をわめいていた男が、でくの坊のように立ち尽くしている。邪魔な椅子を蹴飛ばして、梨花はそこからわざと卓の方を向いて、叫んだ。 「卓くん! 鍵を見つけた! 今開けるわ!」 「え――?」 男の戸惑ったような声がして、ほんのわずかにだけ男の視線が梨花を離れて揺らいだ。それは彼自身意識もしていないくらいの反射的な動きだった。梨花は目の隅でそれを見ていた。男の視線が、モニタのそばに置かれた小さな籠に注がれる。あそこか――とはっきり考える間もなく、用の済んだ男にためらいもなく体当たりを食らわせた。ここまで走ってきた勢いと二人分の体重で男を押しのけて、籠に、手を伸ばす。 籠を開けると果たして鍵が、むき出しのままぽろりと置いてあった。 マイキの体を片手で支えてそれをつかみ上げる。 と、 バン! 耳をつんざくような破裂音が響いた。振り返ると高津が黒いものをこちらに向けているのが見えた。あれは。たぶん。拳銃だ――うわあ、と梨花は思った。撃たれちゃったよ。初めての経験。 そこまでだ、と高津の低い声が聞こえる。 だが梨花は高津の言葉に対しては何の感想も抱かなかった。そして実際は撃たれてもいなかった。床を見れば、梨花の足の数センチほど隣にこすれたような痕がついているのがわかっただろう。こすれたような痕だけで、床そのものが抉れたわけでもない。そこまで硬い素材を使ってこんなだだっぴろい地下室を作ったのか、と、勘のいい梨花ならそこまで推測することも出来ただろう。が、あいにく梨花は床を見ていなかった。高津の姿も一瞬だけで視界から外した。梨花はマイキの体を、モニタの載っている机の下に押し込みながら、卓の方を向いて右腕を振りかぶった。 視界の隅で、高津がきょとんとした。 「動くなって――え、あ?」 「卓くん! いくわよ!」 鍵はゆっくりと、綺麗な放物線を描いて、起きあがっていた卓の手元へ飛んだ。 卓の爪に鍵が当たる、ちり、というようなかすかな音が聞こえた。
そして、鍵が開いた。
それと同時に銃声が数発、梨花の体の周りで響いた。高津が発砲したのだ。梨花がマイキの体を庇うように机の下に縮こまると、机の脚に弾が当たって甲高い音と振動が響いた。当たったら死ぬかな、死ぬんだろうな、そりゃそうだよな……などとぼんやり考えながらも、梨花は良かった、と思っていた。卓に渡した鍵がもし違う鍵だったら、万事休すと言ったところだった。いや、今だって窮地には変わりがない。何しろ今撃たれている真っ最中だ。だが先ほど蹴飛ばした椅子がちょうど高津との直線上にあるものだから、少し狙いにくいらしい。拳銃って結構当たらないものなんだわ、なんて考えている内に、きい、と鉄格子の扉が開いた。 ゆっくりと、卓がそこから出てくる。その顔はここからは見えない。どうしてあんなにのんびりしているのかしら、と思いながら、梨花はこちらへの発砲が止んだのに勇気づけられて、机と椅子の間から少し顔を覗かせた。 机の上のごたごた越しに、卓と高津がよく見える。 「止まれ、撃つぞ」 高津の低い声が聞こえる。恐らく先ほどこちらに向いていた銃口は、今は卓に向けられている。が卓の前進は止まらなかった。まっすぐに高津を見据えてゆっくり歩いてくる様は、普段の卓とは思えなかった。その、作りは厳めしいくせに妙に人好きのする顔からは、今はその優しげな雰囲気が全く抜け落ちていた。 ――うわあ……怒ってる…… 卓は普段は穏和である。穏和の上にお人好しだ。でもそう言う人間ほど、一度切れたら恐ろしいものなのである。高津の恫喝にも全く反応を見せることなく前進を続ける卓の迫力に気圧されたように、高津の周りの男たちが身じろぎをする。高津は周りの反応に腹立たしさを感じたのかひとつ舌打ちをして、出し抜けに発砲した。銃口は下を向いていたから、恐らく足を狙ったのだろうが、それにしても二人の間はもはや二メートルと離れていない。高津は射撃はあまり上手くはなさそうだったが、いくら下手でも外す距離じゃないだろう。
2003年07月02日(水) |
一日お休みのお知らせ。 |
こんばんは。現在22:00ですが、まだ職場におります。 くっそう、法人化め……!(泣) 大変申し訳ありませんが、本日中に帰れないので、今日の更新はお休みということにさせていただければと思います。敗北だわ。悔しいわ。ぐす。 明日は休みなので頑張ります!
卓が得票しておりますね〜(笑)。ありがとうございます。ぶちっと切れた彼を書くのは初めてなので緊張します(笑)。
2003年07月01日(火) |
星降る鍵を探して3-3-5 |
「新名くん……?」 梨花は呆然と呟いた。 それは恐らく卓だった。 恐らく、というのは、その人物が、黒ずくめの服を着込んでいたからだった。いつものジーンズとTシャツといったラフな格好ではなく、体の動きを阻害しないことを一番に考えて作られたと言うようなデザインの。とても高価そうなのは見ただけでわかった。軽くて薄くて動きやすそうなのに、とても丈夫そうだ。 黒ずくめで大柄なその人影はずいぶん高いところから落ちてきた。どうして落ちてきたんだろう、と梨花は考えていた。あんなところから落ちたらいかに卓といえども無事ではすまないのじゃないだろうか、いや江戸城に比べればずいぶん低いし、卓なら死にゃしないだろうけど、でも今卓はまだ肋骨の治療中だったはずで――それに、卓が今落ちてくるその真下には、恐らく侵入者を捕らえるためなのだろう、頑丈な鉄格子でできた巨大な箱が、ぱっくりと口を開けている。 やばいな、と梨花は思った。あそこに落ちたら鍵を使わないと出て来れない。
*
卓は重力に身をゆだねて、来るべき衝撃の瞬間に備えようと全身から力を抜いていた。 真下にはぱっくりと口を開けた四角い鉄格子が見えている。真下にクッションなどといった親切なものは置かれておらず、先ほど落ちてきたチューブの壁と同じようなつるつるすべすべした床しかない。固そうだ。痛そうだ。そう言えば俺今肋骨折れてるんだよな、まだ完治もしていないと言うのにまた落っこちなければならないなんて。理不尽だ。 周囲は明るかった。鉄格子から少し離れた場所には、ちょっとした人垣が出来ている。中心になっているのは大柄な男と、その男にぶら下げられている、小柄な―― ――マイキ? 小柄な人影が、襟首を掴み上げられるようにして男の腕の先にぶら下がっている。 ここからでは顔は見えない。でも卓には一目でわかった。見間違いようがなかった。わかった瞬間に脳が煮えた。どこかで音がした――ぶつり、と。 卓の体は大きな音を立てて鉄格子の中に落ちた。でも、痛みなど全く感じなかった。
*
その場にいた全員が卓の出現に気を取られた隙に、梨花は行動を開始した。 とにかく鍵を手に入れないとどうしようもない。 鍵はどこにあるんだろうと一応辺りを見回したが、当然探してる暇なんてなかった。先ほど高津と対峙していたときに、「落とし穴に落ちた人がいて今落ちてくる真っ最中だ」と何とか伝えようとしていた男がいたことを思い出す。てことは落とし穴のモニタがどこかにあるはずで、落とし穴の出口はあそこなんだから、あの鉄格子を開ける鍵はきっとモニタのそばにある。あるはずだ。……あって欲しい。 などと、筋道立てて考えたわけではない。鍵がどこにあるかというのは切羽詰まった梨花の頭に反射的にひらめいたという方が正しい。どすん、と大きな痛そうな音がして卓が床に落ちた瞬間、梨花は高津に飛びついた。ジャンプして、マイキの体を宙づりにしている腕に、思いっきり、がぶり、と。 「……!」 高津は悲鳴は上げなかった。が、不意をつかれてマイキを放した。落下したマイキの体を抱き留めざま、高津の脇を駆け抜けながら、梨花は行儀悪いと思いつつも唾を吐いた。なんて固い腕だ。
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