星降る鍵を探して
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2003年06月30日(月) 星降る鍵を探して3-3-4

「無駄だよ。さっきからずっとその調子だ」
 少女を取り囲んでいた一人の男がそう言った。高津は意に介さなかった。この少女が反応しようとするまいと、今の彼にはあまり関係がなかった。要は憂さ晴らしが出来ればそれでいいのだ。
 その時、部屋の隅にいた男が、「ん?」といぶかしげな声を上げて腰を浮かせた。彼は少女を取り囲む輪には加わっておらず、侵入者に備えてずっとモニタを覗いていたのだが、何かを見つけたのだろうか、椅子を回して高津を振り返った。
「おい、今――」
「こっちを見ろ。聞きたいことがあるんだ」
 高津は男の声には構わずにそう言った。少女は全く反応を見せていなかった。あまりの反応のなさに舌打ちしたとき、先ほどの男がまた言った。
「おい、高津、今な」
 高津はため息をついた。面倒くせえ、と彼は思った。何か気になることがあるのなら、もったいを付けていないで早く叫べばよいのに。
「何だよ」
 振り返りざまに少女の体を投げ出すと、彼女は椅子を巻き込んで床に倒れた。無防備に四肢を伸ばして首をこちらに向けたその子の姿は本当に壊れかけた人形のように見える。

   *

「な……」
 梨花は細く開いた扉越しにその光景をのぞき見て、息を飲んだ。
 信じがたいものを見た、と彼女は思った。あの高津という男が、マイキの髪の毛を掴み上げている。マイキの小柄な体がほとんど宙に浮きかけるほどに容赦のないつかみ方。マイキの表情は変わらなかった。でも、許されていい行為ではない。
 ――あんの野郎、マイキちゃんに何すんのよ……!
 消火器をぶっかけたことは少し悪かったかな、と思っていたのだけれど、とんでもなかった。どうして消火器本体でめった打ちにしてやらなかったんだろう。
「おい、今――」
 部屋の隅から男の声がしたが、梨花の意識には入らなかった。
「こっちを見ろ。聞きたいことがあるんだ」
 高津が低い、舌なめずりするような声でマイキに話しかけている。梨花は周囲に目を走らせた。相手は大勢だ。扉の隙間から見えるだけでも五人はいる。比べて梨花は一人きりで、武器になりそうなものは何もなかった。消火器攻撃を再び考えたのだけれど、それではマイキを巻き込んでしまう。
「おい、高津、今な」
 端から投げられた声に、高津はため息をついた。
「――なんだよ」
 そして高津はマイキの体を無造作に床に投げ出した。椅子を巻き込みながら、彼女は四肢を投げ出して床に叩きつけられる。痛そうな音。
 ――こんの……!
 梨花は思わず我を忘れた。一人だけで飛び込んでどうなるのだという冷静な考えも頭から消えた。梨花は立ち上がるやためらいもせずに扉を蹴り開けた。仁王立ちになって、叫ぶ。
「マイキちゃんになにすんのよこの大馬鹿者!」
 高津を初めとする男たちが驚いたようにこちらを振り返る。一際高い場所から高津の鋭い視線が梨花を射抜き、そして、
「……そんなところにいたのか」
 嬉しそうに微笑んだ。なんて醜悪な笑顔だ、と梨花は思った。まっとうな人間ならこんな顔はしないだろう。
「やっぱりこいつの仲間だったんだな」
 高津はゆっくりと歩み出てくる。その背後で、
「あのな、地上のな、落とし穴にな」
 一生懸命高津に語りかけている男がいたが、高津も梨花も彼を無視した。
「今日は不審者が多い日だよ。記者ってのも嘘だろう。一体何者なんだ」
「あんたなんかに答える義理はないわよ」
「……そうかな?」
 高津はニヤリと笑った。
 そして、床に転がったままだったマイキの、
「……やめて!」
 体を蹴飛ばした。すごく厭な音がして、マイキの体が床を滑った。梨花は一瞬呆然として、そして叫んだ。
「何やってんのよこの唐変木! 変態! 無抵抗の子を蹴飛ばすなんて!」
「人にいきなり消火器を浴びせるのもどうかと思うが。……おい」
 高津が周囲の男たちに合図をした。それで今まで呆然と成り行きを見ていただけだった男たちが我に返る。彼らは今の状況がほとんどよくわかっていないようだったが、とりあえず梨花を拘束するためにかこちらに向かって来ようとする。梨花はマイキに駆け寄ろうとしていたが、たどり着く前に行く手を男たちに阻まれてしまった。その梨花の目の前で、男たちの体の向こうで、高津がマイキを拾い上げた。
「お前たちが何者なのか、早めに話したくなった方がいいぞ」
 拾い上げた、としか言いようがないようなぞんざいな手つきだった。高津がマイキの襟首を掴んで持ち上げると、マイキの唇の端から血が一筋流れているのが見える。
「落とし穴に! 誰か一人! 今落ちてくる最中なんだってば!」
 もはや悲痛な色を帯びた男の声が、梨花の耳に届いた。届いたが素通りした。高津も同様だった。
「さあて、どうしようかな」
 高津が嬉しそうにそう、言う。
 その、瞬間だった。
 高津の向こうの空間に、大柄な若者が降ってきた。


2003年06月29日(日) 星降る鍵を探して3-3-3

   *   *   *

 地下への階段は、狭くて暗くて長い。
 高津は飯田梨花にぶっかけられた消火器の痕も生々しいスーツ姿のままで、地下への階段を急ぎ足で降りていた。彼のはらわたはぐつぐつと音を立てそうなほどに煮えくり返っていた。顔と目と口と鼻の中まで洗ってようやく人心地がつけたが、当然のことながら、視界を取り戻したときには梨花は既にその場にはいなかった。
 記者というのも嘘だったのだろう。
 逃げるのはやましいことがあるからに決まっている。
 考えながら高津は延々と続く階段を下りていく。今彼が地下へ向かっているのは、地下にある尋問室にとらえられた少女が連れてこられた、と連絡が入ったためだった。高津の携帯電話は誰か――恐らく須藤流歌だろうが――に奪われたままだが、奪った者はどうやら電源を切っているようで、それをいぶかしく思った仲間は気を利かせて無線連絡に切り替えてくれたのだった。ともあれその無線連絡で、仲間はこう言っていた。
「まだ幼い女の子だ。髪が長くて日本人形みたいに見える。身元を表すものは何も持ってないようだし、話しかけても反応がない。どうしたらいいかと思ってね」
 聞かされた少女の外見に心当たりは全くなかった。しかし飯田梨花に続いて二人目の不審者である。ここまで来れば何らかの関係があるはずだとしか思えなかった。こんな日に何人もの不審者が入り込んで、それが個々に独立した組織から来ているなんて偶然が起こり得るはずがない。それならば、と高津は唇を歪めた。自分を気絶させて逃げた須藤流歌と、自分に消火器を浴びせて逃げた飯田梨花への、出頭を呼びかける餌に使えるというものではないか。
 そう思うと少し胸の支えが降りたようだ。折良く地下にもたどり着いた。高津は足を早めて、最後の数段を降りた。
 がちゃり、と扉を開ける。
 中はがらんどうだった。何度来ても殺風景なところだ。ここは大規模な機械を設置するために建設された地下室なのだが、途中で研究の方針が変わり、機械は別の場所に移されたため、この部屋はがらんどうのまま放置されているのだった。研究の質が特殊であるため、この地下室の存在を知る者は研究所内にもほとんどいない。知っているのはほんの一握りの職員と、所長、そして桜井が率いる護衛部隊だけである。
 地下の空洞には煌々と明かりが灯され、中央の辺りにいくつかの机と椅子が設えられている。
 高津の同僚たちがひとつの椅子を取り囲むようにして立っており、その椅子には黒髪の少女が一人、ぽつんと座っていた。
「おう、高……津っ?」
 研究所の守衛として入り込んでいる男の一人が振り返って、高津の姿を見て驚きの声を上げた。高津のスーツは無残にも、消火器の泡――というか粉というか――に塗れていた。頭髪も洗ったばかりのために濡れている。
「どうしたんだ、それ」
「なんでもないんだ」
「なんでもないって……お前」
 高津はじろりと男を睨んだ。高津は仲間内では年下の方だが、桜井の直属であるということとその体格の良さとで、周囲の声を黙らせるくらいのことはできる。男は高津に睨まれて、まあいいさ、と肩をすくめた。
「それより、この子だ」
 彼が身をずらせたために、座っている少女の姿がよく見えた。高津は仲間を押しのけるようにして少女の前に立った。か細い体だな、と高津は一瞬で値踏みをした。ほっそりして華奢で、本当に日本人形のようだ。顔立ちは驚くほどに整っていて、こちらも人形めいた雰囲気を醸している。彼女は本当に無表情で、周囲を取り囲んだ男たちが口々に話しかけたり脅したりしているのに一切反応を見せていない。
「階段の途中で座り込んでいたんだ」
 と、先ほどの男が後ろで言った。
「初めから話そうか。六時頃、門をすごい勢いで駆け抜けた道着姿の男がいてな」
 何だそれは。高津は男を振り返った。冗談を言っているのかと思ったが、男はまじめな顔をしている。
「……道着姿の男だって?」
「そう。それがすさまじい勢いでな、気がついたら門を通り過ぎて後姿が見えていたというほどだった。まるでイノシシだ。猪突猛進を絵に描いたようだった。まだ職員が帰る時間だったから門も開いたままだったし、いきなり物陰から飛び出してきたものだから、止める術が何もなかったんだ。で、その男の肩の上にこの子が乗っていた。同一人物だ。多分間違いない」
 畳み掛けるように言う男の額には、どうやら汗が流れているようである。そういえばこいつは正門守衛の責任者だった、と高津は思った。不審人物にまんまと門を突破された言い訳をしたいものらしい。
 ふん、と高津は鼻を鳴らしたが、今はこの少女が何者かということの方が先だ。高津は少女に視線を戻した。
 少女は呆然と座り込んでいる。
 その目は何も見ていなかった。ちょっと気後れがするほどに整った顔立ちに加えたその忘我の表情は、彼女を人間離れした存在に見せている。しかし高津には彼女がいかに華奢で小さくて可愛らしくても、容赦する気は全くなかった。
 何しろ若い女性には、今日はひどい目に遭わされ続けているのだ。
 加えてこの少女はおそらくあいつらの仲間だ。とすれば遠慮なんてする必要は全くないということじゃないか。
「……おい」
 高津は少女のつややかに長い黒髪を掴みあげた。少女の小柄な体が半ば宙に浮きかけるほどにしたのだが、少女の表情は全く変わらない。


2003年06月28日(土) 星降る鍵を探して3-3-2

「罠って、どういうのかな」
 卓は辺りを見回した。真っ暗で何も見えない。
 真っ先に思い浮かぶのは吊り天井だとか、落とし穴だとか、矢が飛んでくるだとか、そういった物騒なものばかりだった。しかしまさかこんな近代的な研究所の中にそんなものがあるとも思えなかった。やはりここは、どこかに触れると警報機が鳴って警備員が飛んでくるというようなものなのだろう。卓は心を引き締めた。再びマイキと会うまでは、捕まるわけには行かない。
「あ、卓。……そこは」
「え」
 兄の声に反応しかけたが、踏み出した足は止まらなかった。押しつけた足の下で、がちり、と厭な感触。
「あ」
 と思った時には体が宙に浮いていた。足下にぱっくりと漆黒の闇が口を開けている。落とし穴だ。……そんな馬鹿な。
「死ぬなよー」
「先に行くぞー」
 薄情な二人の声が頭上で聞こえ、卓は黒い闇に吸い込まれるようにして穴の中に落ちていった。

   *

「悪趣味な奴だな」
 克は弟を飲み込んだ穴が音もなく閉まるのを見て呟いた。先へ行っていた圭太が振り返った。怪盗の衣装を着た圭太の姿は闇の中にほとんどとけ込んでしまったようで、気配だけが怪盗の存在を示している。
「……それ、どうしたんですか」
 呆れたような圭太の声に、克は顔に手を当てた。この闇の中だというのに、圭太には克が今何を付けているのかが見えるのだろうか。怪盗の目の良さに感嘆しつつも、克は簡単に答えた。
「赤外線ゴーグル」
「……どこで手に入れたんです、そんなもの」
「こんなもん、今時おもちゃ売場で売ってる」
「……そーですか?」
 いぶかしげな答えが返ってきたが、圭太はそれいじょうは何も言わずに肩をすくめた。見えないが気配でわかる。深く追求しないところがこいつらしい、と克は思った。克の目にはぽつぽつと張り巡らされた赤外線の筋がうっすらと見えている。しかし先を進む圭太の動きを見ていると、それを全て避けているようなのが不思議だった。
「……怪盗ってのは赤外線まで見えるのか」
「見えるわけないでしょう」
「じゃあ超音波で」
「蝙蝠じゃあるまいし」
「どうやってるんだ」
 克の問いに、圭太はうーん、と言った。首をひねったようである。しかしそうしながらも、マントの裾が赤外線に触れそうになった時、寸前でその裾を持ち上げた。これで見えてないと言われても到底信じられない。
「……勘、かな?」
 冗談はよせ。
「じゃなきゃ運がいいんだ」
 運の問題か。
 克は呆れてしまった。超音波を出してると言われた方がまだ信じられそうだ。しかし結局、克も先ほどの圭太の真似をして肩をすくめた。ここで追求しても仕方がない。

   *

 何度か悲鳴を上げようかと思った。
 しかし悲鳴というのは一度出すタイミングを逃すとなかなか出てこないものである。
 卓は今はつるつる滑るチューブの中を滑り落ちている真っ最中だった。先ほどから何度か壁に手を突いてスピードを緩めようとしているのだが、あんまりつるつるなので手のひらが火傷しそうになった割にはあまり効果はなかった。スニーカーの底を強く押し当てるとやや速度が緩んだが、それもあまり功を奏したとは言えない。卓は猛スピードで滑り落ちていきながら、終点に槍ぶすまでもおかれていたらどうしようかと考えていた。以前映画か漫画で見たことがある。闇の中できらきら光る槍がこちらを向いていて、白骨死体が突き刺さっていたりとかして。
 ――あれ、どうして片づけないんだろうな。
 白骨化するまで放っておくなと言いたい。
 チューブはどうやら螺旋を描いて地下に向かっているようだった。ずいぶん長い間落ちているような気がするが、研究所の地下にこんなに広い空間があったなんて驚きだった。圭太の妹、確か流歌と言ったような気がするが、彼女はどこに捕まっているのだろう。それに、梨花は? 梨花は一体何をしてるんだろう。
 考えていると唐突にチューブが終わった。卓は再び虚空に投げ出された。


2003年06月27日(金) 星降る鍵を探して3-3-1

  3節

 その頃の新名卓。卓と、克と、圭太は、ようやく研究所にたどり着いたところだった。
 こちらは正面から突破するという手段は当然のことながら取らなかった。卓としては剛が連れていったというマイキがとても心配で、まどろっこしい手段など取っている気分ではなかったのだが、急がば回れという格言もある。素直に塀を乗り越えて裏庭を突っ切り、裏口にたどり着くと、やはり鍵がかかっていた。兄は手袋をはめた手でしばらく鍵の具合を探っていたが、圭太を振り返って闇の中でニヤリと笑った。
「こう言うときにはやっぱり怪盗のお手並みを拝見するべきだと思うね」
「そうですね。鍵のかかった戸口を開ける楽しみを他の人に譲るわけには行きません」
 圭太は冗談ともつかぬ口調でそう言って、扉の前に立った。卓はどきどきしながら辺りを見回した。人影はないが、やはり、こんなところを見とがめられたらと思うと。
 と、扉の前に立ったばかりの圭太がくるりとこちらを振り返った。
「開きました」
 きい、と扉が開く。
「……早っ!」
「どこで覚えたんだ、そんな技術」
「なにしろ怪盗ですから」
 圭太は事も無げに言って研究所の中に踏み込んでいく。しかし生まれたときから怪盗だったわけではあるまいに、と卓は思ったが、兄が納得したようだったので何も言わなかった。世の中にはそっとして置いた方がいい事柄というものが確かにある。

 しばらく、三人は無言で進んだ。
 辺りは真っ暗だった。先ほどからずっと暗闇の中にいるのでいい加減目は慣れているのだが、それにしても心細いことこの上ない。それにしても、と卓は思う。それにしても、これだけの規模の研究所だ。裏口とは言えれっきとした入り口の付近くらい、常夜灯をつけておきそうなものだけど。すると、卓の思考を見透かしたかのようなタイミングで、圭太が振り返りもせずに言った。
「この辺は一般には使われていない場所ですから、人は来ないけど。気を付けてくださいね」
「何に?」
「使われてない?」
 兄弟の言葉が見事に同時に放たれた。だが内容は全く違う。ちなみに言えば卓の問いは前者だ。圭太はやはり振り返りもせずに、言葉を継いだ。
「俺が狙ってるのは「人には言えない研究」だと言ったでしょう。この辺はそれが行われている区画でね、一般の職員は立入禁止になってる。……で、何に気を付けろと言うかと言いますと、罠があるかも知れないからね」
「罠?」
 研究所内に? と思った疑問をすくい上げるようにして圭太は肩をすくめた。
「この辺には一般の職員は来ないわけで、罠をかけても善良な人は引っかからないんだよ」
「だからって仕掛けなくても」
「何しろ相手は桜井さんだから」
「あー」
 納得の声を上げたのは兄だ。
「あいつならやりかねない」
「でしょう」
「どんな友達なんだよ……」
 卓は呆れた声を上げた。兄と桜井の関係は車の中で聞いていた。大学の同級生だったということだが、人をさらった上に研究所内に罠を仕掛けかねないなど……さすがは兄の友人だと言うところだろうか。


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現在3時。三時間も遅刻しました。同居人を高田馬場まで迎えに行って来たのです。夜の東京は空いてて好き。


2003年06月26日(木) 星降る鍵を探して3-2-5

「どこへ運ぶのだ」
 袋に詰め込みながら剛は訊ねた。男はぼーっとしたまま剛が手際よく袋に詰めていくのを見つめていたが、ややあって、答えた。
「すぐそこなんだが、ドアを開けられなくてね」
「そう言うときには一度床に下ろせばよいのだ」
「なるほど」
 男はまじめに頷いた。
「一理ある」
 一理も何もそれしかないと思うのだったが、剛は黙って作業を続けた。それにしても膨大な量だ。
「一人では食べきれないだろう」
 気がつくとそう訊ねていた。カップラーメンならまだしも、菓子パンやおにぎりのたぐいはそう長持ちするものではない。もってせいぜい三日というところだろうが、これだけの量だ。腐らせずに一人で食べきるのは無理だろう。
 男はまじめに頷いた。
「お客さんが来ていてね」
「お客さん……?」
「女の子だ」
「女の子?」
「女の子がどれくらい食べるものなのか、知らないんだ。俺なら一度に食べるのはカップラーメン二つとパン五つというところだが」
 カップラーメン二つにパン五つ。
 剛は頷いた。自分もそれくらいは食べる。男は剛の同意を得られて安心したような顔をした。そして、「けれど、」と呟く。
「珠はカップラーメンをひとつか、パンを二つ。どちらかだ」
「たま?」
 猫か? と思ったが、猫がカップラーメンなど食べるだろうか。男はああ、と呟いて、わずかに目尻を下げた。
「彼女だ」
「そうか」
 くそ、幸せそうな顔をしおって。と思ったがもちろん口には出さない。
「彼女は小食なんだ。カップラーメンとパンと両方は食べられない。だが、彼女が飛び抜けて小食なのかどうかがわからないんだ。あの子は恐らく二十歳前後だと思うんだが、二十歳前後の女性がどの程度食べるものなのか。データを取っていなくてね。足りないよりは多い方がいいだろうと」
「ひとつ、言って良いか」
 剛が口を出すと、男は重々しく頷いた。
「なんなりと」
「いくらその女性が大食いでも、こんなには食べないと思うぞ」
「そうだろうか」
「一般的に言って、女性は俺たちよりも小食だ。体格を見たらわかるだろう。つまり、その女性の分は貴様が食べる分と同じ程度買ってきたら絶対余る。そういうものだ」
「……」
 男はまじまじと剛を見つめている。剛は散乱したパン類を全て袋に詰め終えて、顔を上げた。男はなにやら考え込んでいたようだったが、感嘆しきったという口調で、呟いた。
「君は頭がいいなあ」
 ……いや、それほどでも。剛は身じろぎをした。こんなことで誉められては何だかいたたまれない。
「そういうことが俺はどうも苦手でね。珠に言わせると、俺には一般常識というものが欠けているそうだ」
 言って男は恥ずかしげに笑った。
 剛は袋を二つ男に渡した。男が深々と頭を下げる。
「どうもありがとう。おかげで助かったよ。自分で詰め直していたらきっと三つくらいはダメにした」
 それはそうだろう。拾うために屈もうとするだけでパンの上に足を乗せる男だ。
 剛は残りの三つを自分で持ち上げた。男は剛の意図に気づいたのか、嬉しそうに顔をほころばせた。
「ありがとう。助かるよ。あとの難関はノックだけなんだ」
 ……ノックごときを難関だと言う人間は初めて見た。
 呆れた剛の前で、男は嬉しそうに、すぐそばの扉に向かった。

   *   *   *

 ――協力するわよ、って。
 流歌は宮前さんを前にして少しの間悩んだ。協力するわよ、と言われても……一体何を協力してもらえばいいのだろう? それに、そう、この人に事情を話すのはいいけれど、この人が「敵方」じゃないという保証はどこにある?
 ――でも、今は一人だけだし。
 そう考えて、流歌は心を決めた。目の前にいるこの女性は、到底強そうには見えなかった。いざとなったら逃げればいい。となれば長津田さんが戻ってくる前に話して見極めておくべきだろう。
 もう遅いかも知れないけれど。
「あの……実はですね、えーと、追われておりまして」
「うん、それはわかってる。誰に追われてるの?」
「えーと」
 どこから話そうか、流歌は頭を探った。宮前さんが興味深そうに、流歌の顔を覗き込んでくる。
 と、そこへ。
 こん、こん。
 やけに間隔のあいたノックの音がした。宮前さんはぱっと顔を上げた。掃除機を放り出して、扉に駆け寄る。
「流歌ちゃん、ちょっと待ってね」
 いいながら、いそいそと扉を開ける。向こうに立っていたのは何故か誇らしげな顔をした長津田さんと、
「早かったのね……え?」
 扉の向こうにいたもう一人の人物をみとめて宮前さんが動きを止め、
「……」
「……」
「……」
 沈黙。
 息詰まる空白の中に数瞬が過ぎて、
「……す、」
 どさどさどさ、と袋が落ちた。
 そして扉の向こうの丸刈り頭が絶叫した。
「……須藤流歌ー!」
「わ、わああああああっ!?」
 流歌は反射的に悲鳴を上げていた。考えてみればひどい仕打ちだが、これはもはや条件反射というものだから仕方がない。扉の向こうに清水剛が立っていたことも全く予想していなかったし、その時の剛の形相と来たらなまはげもかくやというすさまじさだった。扉のところに立ちすくんでいた宮前さんを押しのけて剛は中に踏み込み、そして、
 跳躍した。
 ずしぃぃぃぃぃ……ん。
 流歌の目の前に巨体が着地する。飛びすさった流歌の背中が奥の壁にどんと当たって彼女は狼狽した。扉が閉まっている。逃げ場がない。立ちすくんだ流歌の目の前で、剛がゆらり、と体を起こす。
「……見つけたぞ」
 そしてニヤリと笑う。丸太のような腕がゆっくりと延びてくる。怖い。まるでホラー映画だ。どう対応していいかわからないまま流歌は何とか剛から距離を取ろうと試みた。どうして剛がここにいるのか、いったいどこから湧いて出たのか、どうして長津田さんと知り合いなのか、数々の疑問が頭の中でぐるぐると渦を巻いて流歌の四肢を縛り付ける。
 と、
「くせ者おっ!」
 がこん。剛の背後から延びてきた灰色の棒が剛の脳天に直撃した。見やると宮前さんが掃除機のホースで果敢にも剛に攻撃を仕掛けている。
「流歌ちゃん、逃げなさい! こいつに追われてたのね、このあたしの目の前で流歌ちゃんを捕まえようったってそうはいかないわよ、この、この!」
 えー、と。
 ……誤解だ。
 思い至って流歌は慌てた。なるほど剛のこの悪人顔と巨大な体に加え、先ほどからの自分たちのやりとりを見ていたらそう取られたとしても仕方がない。そう悟る内にも剛の後頭部に加えられる果敢な攻撃は続いており、ついに剛が振り返った。
「痛いではないか! 何をする!」
 それだけか。
「叩いてるんだから痛いに決まってるでしょ! 流歌ちゃん何やってんのよ、さっさと逃げなさい! こいつから逃げてたんでしょ!?」
「いやそれが、違――」
「なにいっ!」
 剛がこちらを振り返った。風圧で吹っ飛びそうになった流歌に、剛はすさまじい形相でつめ寄ってきた。
「俺から逃げてたのか!?」
 なんで清水さんまでそういう結論に達するんだろう……
 思わず遠い目をしてしまう。流歌の目の前で、混乱はしばらく続いた。扉の方では、長津田さんが散乱した菓子パンの山を黙々と片づけている。


2003年06月25日(水) 星降る鍵を探して3-2-4

   *   *   *

 清水剛はふと顔を上げた。一体ここは何階なのだろう。我に返ると体中がわずかに火照っているのを感じた。何がきっかけだったものか、周囲が音を取り戻し、視界に色が飛び込んできて、剛は我に返った。今まで全く意味のない情報の洪水だと思えていた風景が意味を取り戻した。そこは階段の踊り場だった。見上げると階数表示が見える。
『15/16』
 つまり次の階は16階と言うことになる。
「16階か」
 剛は目を見開いた。いつの間にそんなに昇ってきたのだろう。まだ走り続けていた速度をやや緩めつつ、現状を把握しようと試みた。
 1階から16階まで、ほとんど何も考えずに上がってきたこと。
 体はわずかに熱いが、息が切れていると言うほどでもなく、疲労するまでには至っていないこと。
 財布はちゃんと尻ポケットに入っているし、道着の懐、内ポケットに携帯電話が入っていること。
 そして、最後に。あのマイキという少女がちゃんと、肩の上に乗って。
 ……あれ。
「マイキ?」
 剛は肩を払った。肩の上には塵ひとつ落ちていなかった。しばし、剛は、頭をひねって自分の肩の上を覗き込むというややつらい体勢で、考え込んだ。マイキがいない。1階の時点では確かにこの肩の上に乗っていたのに、我に返ったらどこにもいない。周囲を見渡してみて、次いで階段から身を乗り出して下を覗き込んでみたが、マイキらしい人影はおろか人っ子一人見えなかった。
「落とした……?」
 剛は青ざめた。彼の浅黒く日焼けした顔は青ざめても顔色がほとんど変わらないのだが、とにかく青ざめた。初めに思うのは、あの華奢な体が全力疾走する自分の上から――しかも段差の多い階段で――落ちたらどのような怪我をするかということ、次に彼女はもはやつかまってしまったのではないかということ、最後に、「落とした」ことを新名卓が知ったらどのように怒るだろうか、と言うことだった。そもそもマイキをつれてきてしまったこと自体、卓に怒り狂われても仕方ないことだと覚悟していたというのに、あまつさえその大事な少女をどこかで落としたなど。しかもそれに気づかず走り去った俺。最悪だ――事態を把握するにつれ、剛は更に青ざめた。これ以上は想像できないと言うほどの悪い事態が頭をよぎった。つまり、マイキが大けがをした挙げ句敵に捕まりおまけに卓が怒り狂うという情景。卓がマイキをどんなに大切にしているか、先ほどの短い会合の間だけでもよくわかっていた。殺されるかも知れない。卓は穏和だが、普段穏和な人間ほど怒ると怖いというのはもはや常識だった。それに、そう、自分の身に当てはめてみて――もし須藤流歌を誰かが無理矢理つれていった挙げ句、肩の上から振り落として、あまつさえそのまま走り去ったりしたら。
「許せん」
 剛は想像だけで怒り狂った。そして即座に落ち込んだ。自分はそれをしてしまったのである。どうしよう。
「と、とにかく探そう」
 即座に回れ右をして、階段を下り始める。やや、早足になった。どの時点で落としたか覚えていないのだから、先ほどのような自動疾走モードに入ってしまうわけにはいかない。剛は階段を駆け下りながら、重い重いため息をついた。もともと彼の頭は二つ以上のことを一度に考えられるようにはできておらず、二つ以上の心配事を抱えるのは非常に重荷だった。流歌を助け出すと言うことが彼にとっては一番重要なのに、その目的を置いてまでマイキを探しに戻ると言うことは、自業自得とは言え身を切られるほどに辛い。こうしている間にも流歌がどのような目にあっているかと思うだけでいても立ってもいられない。当の流歌がのんきに魔窟の片づけをしているなどと、思いも寄らない剛だった。

 階段を駆け下りていく。
 15階に人影が見えた。
 剛は行きすぎた。そして今見たものが紛れもなく人影であるということに気づいて足を止め、ひょい、と頭を戻した。
 15階の廊下に、大柄な白衣の男が佇んでいる。
 白衣の男はぼーっとしていた。両手にコンビニの、大きく膨らんだビニール袋を四つ抱えていた。いや、五つだ、と剛は思った。ひとつの袋は男の腕から滑り落ちてしまったらしく、今は床に様々なものを散乱させて横たわっている。
 男はぼーっとしている。
 何だか、危なっかしい男だと剛は思った。見ているだけではらはらする。大柄で、背が高い。高いが、幅は細いので、なんだかひょろりとした印象だった。長い手足をやや持て余し気味で、末端神経にまで上手く命令が届いていないのではないだろうか。男はどうやら、落としてしまった荷物をどうやって拾おうかと悩んでいるようだった。悩んでいる内に左手がおろそかになったらしく、傾いた袋からメロンパンがおちる。ぼとり、と。
「あ……」
 男はしまったという声を上げた。そのとたん、左手が更にゆるんだ。袋がひとつ落下した。どさり、と落ちた袋から大量のメロンパンがこぼれ落ちる。
「あああ」
 狼狽の声を上げて男は為す術もなく立ちすくむ。しかしこの男、こんなに大量のメロンパンをどうする気なのだろう。思いながら、剛はほとんど何も考えることなく廊下に足を踏み入れていた。男が驚いたように顔を上げ、手にしていた袋を全て取り落とした。
「ああああああ」
「しゃんとせんか、馬鹿者」
 剛は低い声で男を叱咤した。ひとつのことに気を取られると周りのことがおろそかになってしまうという性癖は剛も持っているから、男が難儀しているのをどうしても放っておけなかったのである。別に他意はない。メロンパンは剛の好物だったが、別に手伝うふりをしてくすねようなどと思ったわけではないのである。断じて違うのだ。……腹は減っているが。
 ごちゃごちゃ考えながら、剛はその巨体を丸めて床にしゃがみ込んだ。散乱しているのはメロンパンだけではなく、ジャムパン、カレーパン、チーズの入ったパンなどに加え、カップラーメンやいなり寿司やおにぎりと言ったものまでたくさんあった。この男はこんなにたくさんの食料を一体どうする気なのだろう、と剛はもう一度思った。
「だ、誰だ君は」
 男がいぶかしげに訊ねてくるのをじろりと見やって、剛はあ、と声を上げた。
「そこ! 踏むんじゃない!」
「あ、ああ、すみません」
 どう見ても剛より年上の髭もじゃの男は、目尻の下がった悪漢と言った風情であるのに、ひどく素直な性格をしているらしかった。しかしとろい。とろすぎる。


2003年06月24日(火) 星降る鍵を探して3-2-3

 宮前さんはてきぱきと動く。その手腕はとてもなめらかで、まるで魔法を見ているみたいだった。流歌がようやくひとつの本棚を埋める内に、宮前さんは残り二つを全て埋めた。床に落ちていた本を全て片づけ、散乱した書類を整える。まるで本や書類が我先に定位置へと滑り込んでいくような鮮やかさだ。先ほど片づけたばかりだったから、見た目に反してその作業はそれほど大変ではなかった。見る見るうちに部屋が綺麗に整えられていくのを横目で見ながら、変なところで凝り性な流歌は、本をアイウエオ順に並べ替えたくてうずうずしていた。が、今はそれどころじゃないと自分を戒める。
 しかし、やりたい。うずうず。
「流歌ちゃんさー」
「は……はいっ?」
 背筋を伸ばして振り返ると、掃除機をがたごとと出してきた宮前さんは、机の下を覗き込んでいた。
「ハウスダストのアレルギーとか、ある?」
「いえ」
「そっか。良かった。じゃあ、これ、広げてくれない? あたし掃除機かけるから」
 そう言って机の下から埃まみれの寝袋を引きずり出してきた。先ほど流歌が潜り込もうかと悩み、その埃のひどさに一瞬で諦めたあの巨大な寝袋である。
「机の下まではね、一人じゃとても、気力が湧かないのよね。始めたら最後までやらなきゃどうしようもないじゃない? だからつい放っておいたんだけど、でもずっと気になってたの。たぶん何も生えてないと思うんだけど」
 生えてない、って……?
 キノコとか? 想像して流歌は身震いした。恐ろしい。
 おそるおそる手を伸ばして、寝袋を引っぱり出してみる。灰色だと思った寝袋は実は黒だった。埃が積もって灰色に見えていただけで、広げると、ぼあっ、と……
「きゃー」
 悲鳴が棒読みだ。
「すごい」
「……やっぱ捨てようか、それ」
「それがいいと思います……」
 舞い上がった埃を宮前さんが吸い取ってくれる。息を止めて寝袋を丸めてゴミ袋に突っ込み、埃が出てこないように口を縛り終えると、二人はようやく息をついた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 やれやれ、と言った様子で宮前さんはかがんでいた身を起こし、掃除機のスイッチを入れた。邪魔者がなくなった机の下に、丹念に掃除機をかけていく。見る見るうちにふわふわした埃の固まりが吸い込まれていき、最後に満足げなため息を残してスイッチを切った。
「任務完了。お疲れさま」
「お疲れさまでした〜」
 流歌はすっかり美しくなった部屋を見回して、思わず顔をほころばせた。先ほどと同じ部屋とは思えないほど、部屋中がぴかぴかになっている。そんな流歌を振り返って、宮前さんはニヤリと笑った。
「やっぱりね」
「……何が、ですか?」
「その目はお人好しだと思ったんだ。何があったか知らないけど、逃げてる最中じゃないの? あたしにつきあって、こんな魔窟をのんきに片づけてる場合じゃないでしょうに」
「……」
 そう言われればその通りだ。流歌は少し考えたが、あなたが手伝えって言ったからでしょうが、ということに思い至った。反論を試みる。
「だって、手伝ったら、黙っててくれるって……」
「拳銃持ってるでしょ。あたしを脅して下まで人質にして逃げればいいじゃないのよ」
「だ、だって、人を呼ばれたら」
「だーかーらー。まず予備の白衣を持ってこさせて、自分はそれを着る。で、ポケットに拳銃を入れてね、そこから撃つぞって脅しながら、端からみたら研究者が二人歩いているように見せかけて、買い物行くふりして門を出て、周りに人がいなくなったらそのまま逃げればいいわけよ。その方がよっぽど簡単よ? 今頃はここから出てバスにでも乗れていたはずだわ」
「……」
 そ、その手があったか。流歌は口を開けてしまった。そんなこと考えもしなかった。宮前さんが流歌を見てにっこりと笑う。
「あたし、お人好しって大好きなの。ね、何があったの? 悪い子じゃないってことは充分わかった。出来ることなら協力するわよ」


2003年06月23日(月) 星降る鍵を探して3-2-2

「大丈夫?」
「だ……大丈夫です……」
 涙目になりながら、何とか答える。覗き込んでいた宮前さんは、流歌に並ぶようにして、ソファの外に寝そべっていた。大人びた顔立ちが、流歌を見てにっと笑う。その体勢と笑顔が、ずっと年上に違いない彼女を同級生のように思わせた。
 宮前はしげしげと流歌を見ながら、不思議そうに訊ねる。
「何、してるの?」
「……」
 寝てたんですが。とはもちろん言えなかった。宮前が聞いているのはきっとそういう意味じゃない。
 流歌が言いよどんでいると、宮前は身を起こした。床の上にぺたりと座り込んで、手招きをする。
「まあ、とにかく出てきたら。あ、でも、待って。まさかとは思うけど、敏彦がここに隠したわけじゃないわよね?」
 不安そうな言葉に笑みが漏れた。なんて素直な人だろう。先ほどのやりとりが少し聞こえていたから、あのぼさぼさ頭の、育ちの良さそうなギャングのような男の人と、この宮前さんという女性が、親しい関係にあるのだろうと言うことは予想できる。流歌はいいえ、とはっきり口に出して答えた。
「違います。隙をみて潜り込んだの」
「そう、よかった」
 宮前がにっこり笑う。その屈託のない笑顔につられて、流歌ものそのそと這い出しながら微笑んだ。
 しかし、
 ごとり。
 這い出した流歌の背中から重くて固いものが落ちて、宮前さんが目を見開いた。その表情を見て、すっかり存在を忘れていた拳銃を落としてしまったことに気づく。全くもう、この拳銃を持っているとろくなことにならない。ごとりと落ちた拳銃をそのままにして硬直していると、宮前さんはやや考えていたようだったが、流歌が手を出さないのを見て、ふっと笑った。
「落としたわよ。それ、あなたの?」
「ち、違います」
 しかしまさか、自分を見張っていた男を昏倒させて奪ってきたのだとも言えない。
「わけありなのね」
「そうなんで……す」
 答えながら、はたと気がつく。一体何をのんきに話しているのだろう。この人はさっき、拳銃を落としたあたしを見て、「銃を持った不審者がうろついている」と通報したのではなかったか。そう思って身構えた流歌を見て、宮前さんは困ったような顔をした。
「さっきも会ったわよね」
「ええ」
「自己紹介もしてないわ。あたし宮前珠子。あなたは?」
「す、須藤流歌です」
「見学者じゃないわよね。どうしてここにいるの?」
 この人は――。
 流歌は思案を巡らせた。純粋に考えれば、この人は、流歌が連れてこられた研究所の一員なのだから、「敵方」に分類できる。しかし流歌が迷うのは、高津ができるだけ研究所内の普通の人たちに接触しないように、と、指示を受けていたらしいためだった。ここで行われている研究はもちろん、人に大っぴらに言えるようなものではない。だから、研究所内でも知っている人はごく限られるのではないかと予想はついていた。
 さっきの梶ヶ谷というヒステリックなおじさんは、「先生」を知っていた。だから、たぶん「ごく一部の人間」というわけなのだろう。
 でも、この人は……?
 この人はあたしを知らなかった。だから、もしかしたら、何にも知らない人なのかも知れない。
「あのう」
 意を決して打ち明けてみようか。思案しつつ流歌は口を開いた。
 しかし言葉を紡ぐ前に、隣の部屋で、がしゃーん! という派手な音が響いた。音はそれだけに留まらず、『がん』だの『ごん』だの『どさどさどさっ』だのといった破壊的な音が続いて、宮前さんがぱっと立ち上がった。
「敏彦ー!」
 叫びながら身を翻して、扉を開ける。開けて彼女は立ちすくんだ。
 そして、叫ぶ。
「今片づけたばっかりだってのに一体何してんのよあんたはー!」
「ご、ごめ」
「ごめんじゃない! あ、待って動かないで! ……きゃー!」
 どーん!
 隣の部屋で再び派手な音がして、宮前さんはほとほと呆れたというように額に手を当てた。長津田さんというあの男の人が、部屋を魔窟にする過程がよくわかった……気がする。宮前さんはため息をつきつつこちらを振り返り、そして、苦笑いをした。
「お願いがあるの」
「……何でしょう」
「手伝ってくれないかな。……交換条件。あなたがここにいることと、それを持っていることは、誰にも言わないから。お願い」
 もちろん流歌に否と言えるはずがない。
 しばらくの熟睡で体力を取り戻した流歌は、宮前さんと一緒に、破壊のあとを片づける羽目になったのだった。

   *

 流歌を見た長津田敏彦さんは心底驚いたという顔をした。自分の部屋に流歌が忍び込んでいたことに全く気づかなかったのだろうと流歌は想像した。長津田さんが何か言いかける前に、宮前さんがスリッパを渡してくれた。そして、長津田さんを睨む。
「そこにいて。動かないで。流歌ちゃん……って、呼んでも?」
「ええ」
「本は全部本棚に入れてね。書類はあたしがさっきまとめたばっかりだから、ほとんど順番通りになってると思うの。ひとまとめにしてあの箱に入れて。敏彦」
「はい」
 長津田さんは神妙に返事をする。宮前さんは長い黒髪をひとまとめにして戦闘態勢を整えていたが、それを終えると腰に手を当てて彼を睨んだ。
「食料、まだどこかにある?」
「いいえ」
 何で丁寧語だ。と思ったが、宮前さんの迫力はすさまじく、大柄な長津田さんは申し訳なさそうに身をすくめていた。このカップルの勢力図がよくわかる。
「じゃあ買ってきて。売店はもう閉まってるから外まで。何か飲み物と、菓子パンと、お菓子と、おにぎり」
「種類は」
「何でもいいわ。ゆっくり買ってきてね?」
 それはつまり、片づくまで帰ってくるなと言うことだろうか。長津田さんは全て心得ているのか、細かいことはおろか流歌が何者なのだと言うことまで聞かずに身を翻した。しかし危なっかしかった。床にものが散乱しているのをまともに踏みつけてよろけ、倒れそうになって危うく隣の本棚に寄りかかる。しかし手を突いたところが悪かった。かろうじてわずかに残っていた本を全て床に落としてしまい、本棚はついに空になった。
 沈黙が落ちる。
 やがて長津田さんはばつが悪そうに宮前さんを振り返ったが、彼女は何も言わなかった。にっこり笑って、訊ねる。
「お金、持ってる?」
 こ、これは怖い。
「……はい」
 長津田さんはしょんぼりして頷き、再び移動を開始した。また何か落とすのではないかと冷や冷やしたが、それほど広い部屋でもないので、本棚を伝っていけばすぐに扉につく。ようやく扉にたどり着いた長津田さんに、最後に宮前さんが、今気がついたと言うように声をかけた。
「あのね、この子はあたしの友達なの。でも人に知られたら、六時を過ぎてまだ残してたのかってあたしが怒られるから、誰にも言わないでね。お願い」
「……わかった」
 長津田さんは頷いて、大丈夫だ、というように流歌にも頷いて見せた。扉を開けて、外に出ていく。彼が無事に外に出たことに宮前さんはホッとしたような息をつき、苦笑してこちらを振り返った。
「ごめんね。ホント、困った人なのよ」
 確かに困った人だ。流歌は部屋中を見回してそう思った。宮前さんが片づけたばかりだというのに、部屋の中は流歌が先ほどここに忍び込んだときとあまり変わらない惨状だった。あんなに短期間で全てを床に投げ出すなんて、一体どうやったらそんなことが出来るんだろう。しかし宮前さんが本当には困っていないことがよくわかったので、流歌は笑って首を振っただけだった。
 時計を見ると、はやくも六時半だった。二時間近く眠っていた計算になる。


2003年06月22日(日) 星降る鍵を探して3-2-1

 2節

『一年……』
 呟くように言ってから、自分の声が震えているのに気づいた。手を挙げてみると包帯がぐるぐると巻かれていた。ああ、そうか、事故に遭ったんっだっけ。考えることはやけに他人事なのに、声が震えているのが自分でも不思議、だ。
『……』
 何か、言わなきゃ。
 流歌は自分の頭の中を引っかき回して、言うべき言葉を探した。ベッドの隣に立ち尽くしたままの父と、座り込んで流歌の包帯まみれの手を握ってくれている母は、どちらも悲痛な顔をしていた。
 そんな顔をしないで欲しいのに。
 ひどい事故だった。死ななかっただけでも幸運だと言われたのだ。だから、入院とリハビリのために一年学校を休まなければならないことくらい、どうということもない。自分が助かったのだとわかったとき、父と母はとても喜んでくれた。流歌も嬉しかった。だから、そんな顔をしないで。あたしなら大丈夫、リハビリだって頑張るし、二度と学校に行けないってわけじゃないのだ。
 そう、思っているのに。
 震えた声を出したら、泣き出してしまいそうで。
 父と母の向こうに、双子の兄が立っている。流歌は言葉を発することができないまま、兄を見た。
 昔はよく似ていると言われた顔だけど、今ではもう自分に似ているなんて思えないほど、兄は整った顔立ちをしている。その顔は無表情だった。今なら、兄が、悲痛な感情を必死で押し殺していたのだと言うことは理解できる。でも、あのときの流歌には、圭太がその時何を考えているのかがわからなかった。双子の片割れが、今何を感じて、何を思っているのか、わからなくなったことに愕然とした。
 圭太の感情の色をいつも読むことが出来たことが、どんなに自分にとって大切なことだったのか、ということにその時初めて、気づいた。
 一卵性じゃないけど同じ時に生まれてきて、それからずっと一緒に生きてきた。圭太とも、これからは一年ずつ、ずれた時間を歩んで行かなければならないのか。
 ――ああ、そうか……
 それこそが、今感じている不安の正体なのだと気づいて、流歌は無理矢理微笑んだ。
『大丈夫、だよ』
 そうだ、これからは、今まで通りではいられないのだ。
 双子だからっていつまでも同じ道を歩んでいけるとは限らない。いつかはこのような日が来るってわかっていたし、他の子たちは初めから一人で生まれてきていたんだ。同じ学年に自分の片割れがいない、ということは、他の子たちにとっては当たり前のことなのだ。だから。
『お父さん、お願いがあるの』
 流歌は父にと言うよりは、兄に向けて微笑んだ。
『家庭教師、つけて欲しいな。今年はどうせ、受験だったし。そうしたら、受験勉強が他の人の倍できるでしょう』

 やがてやってきた「先生」は、なんと江戸大学の4年生だった。
 でも、流歌の想像していた「江戸大学の学生」のイメージからはかけはなれていた。茫洋とした顔立ち、茫漠とした雰囲気。でも話してみると、その雰囲気とは裏腹に、とても鋭い人だと思った。
 そして彼は、一言も、流歌の遭った事故についての同情の言葉を漏らさなかった。

   *

「おーい」
 ――先生が卒業してからこんな仕事をしてたなんて。
「ちょっとー」
 ――授業はスパルタだったなあ。怒ると怖いんだ。すごく。
「……こらっ!」
「ひゃあっ!?」
 流歌は飛び起きた。飛び起きた瞬間にソファの足に頭をぶつけた。ごっつん、と衝撃が走って火花が飛んだ。一瞬自分がどこにいるのかわからない――じんじん痛む頭をさする内に、少し目が覚めてくる。
「そんなところで寝てると、風邪を引くわよ」
「……!」
 至近距離から覗き込まれていたことに気づいて、流歌は飛びすさった。がん! 再びソファの足に頭をぶつける。
 痛い。


2003年06月21日(土) も……申し訳……!

た、ただいま(※現在22日午前12時24分)。
今帰ってきました。
そして今からなぜか出かけてこなければなりません。同居人が後輩を連れてきているのです。今日同居人は出勤だったんですが、休みなのに引っ張り出された後輩を慰労するんだとかで……ええと……部屋が魔窟なんですけど?(笑)
もてなさなければならないので出かけてきます。し……死ぬ……!

実家では二行しか書けませんでした。今から書く気力がさすがにないので21日のはお休みさせていただきたいかと。22の分はがんばります……

敗北だ!(泣)


2003年06月20日(金) 星降る鍵を探して3-1-2

 *

 どどどどどど、と足音を響かせて剛は階段をかけ昇る。
 階段には全く人影がなかった。あっと言う間に剛は数階分の階段を踏破した。一体どれくらいの高さがあるんだろう。昇っても昇っても、上に続く階段は尽きない。
「しっかりつかまっておれよ!」
 マイキに声をかけたが、この羽のように軽い少女は答えを返さなかった。しかし丸刈りの頭にしがみつく細い腕が力を少し増したようである。それで安心して、剛はマイキを落とさぬために使っていた神経を走る方に回した。その巨体がいっそう速度を増した。走ることに専念した剛はマイキの存在を忘れた。人に見つかるかも知れないという思慮さえ忘れた。今彼の脳裏を占めているのは、流歌を見つけだすのだと言うただそのひとつだけである。
 ――待っておれ、須藤流歌……!
 走ることに専念した剛の顔は無表情になった。この厳つい顔立ちの男が無表情で走る様は見る人に恐怖を与えずにはいないのだが、今は誰も見ていない。踊り場で手すりに手をかけて身を翻したとき、ふと、肩の上が軽くなったような気がした。しかし走ることに全神経を使っている剛は、何故軽くなったのかなどということは考えもせず、ただ走りやすくなったと思っただけだった。

 マイキの細い体が、剛の肩から離れて、落ちた。
 幸運なことにちょうど踊り場を通過している時だったので、マイキは平らな床に落ちるだけで済んだ。床の上をごろごろと転がって壁にぶつかって止まる。マイキの目は虚空を見ていた。痛みも今は感じなかった。剛の頭から手を離してしまったために転がり落ちてしまったということ、そして落ちたことに剛が気づかずに走り去っていったことも、マイキの認識の外にあった。
 彼女は今、自分の中に「降って」きた景色を見ていた。
 もしここに他に誰かがいたら、マイキの顔から表情が抜け落ちていることに驚いただろう。普段から人形じみた顔つきのマイキだったが、今はすっかり人形そのものになってしまったように、生気というものを表に見せなくなっている。目は剛の走り去った階段の方に向けられていたが、階段を見ているわけではなかった。彼女の目は何も見ていなかった。ただ、脳裏一杯に広がったその景色を受け入れるためだけに、全身の神経を傾けていた。
 マイキの脳裏には、夜が広がっていた。
 湖だ。
 広々とした湖が、夜を写して黒々と横たわっている。
 マイキはそのほとりに立って、対岸にぽつぽつと浮かぶ色とりどりの明かりを見ていた。湖の中は本当に暗く、そこに湖があると感じられるのは、マイキの背後から照らしている明かりが水に反射してゆらゆらと揺れているからだ。見上げれば頭上には満天の星が広がっていた。特に正面に一際大きく輝く星は、燃え立つように真っ赤に見える。きれいだな、とマイキは思った。ものを見て「きれいだ」と感じることは、悪いことでもなんでもないのだ、と卓に教えられてからは、未来を「見」ている時にでもそう思えるようになっている。
 と、マイキの見つめる視線の先で、一際大きなその星が揺らいだ。
 正面に一際大きく見えていた星の輪郭がぼやけているのに気づいたときには、その星が次第に大きくなってきているのだ、ということも同時にわかった。マイキは愕然とした。満天の星のひとつに見えていたその巨大な星は、今まさに、マイキのいるこの場所に向けて、激しく燃え立ちながら降ってくるのだ。
 ――すぐる……!
 マイキは悲鳴を上げようとした。しかしこの景色の中ではマイキは全くの無力だった。指一本動かすことは出来ない。声も出せない。逃げようとしても逃げられない。ただその景色を見つめ続けるマイキに向けて、今や車ほどの大きさになったその星は、ものすごい速さで落ちてくる。まっすぐに、マイキに向けて。
 こんなことが起こりうるのだろうか。
 マイキは流れ星も、隕石の存在もまだ知らない。星はいつも夜空に張り付いたように浮かんでいるもののはずで、その内のひとつが落ちてくることがあり得るなんて想像したこともなかった。今やその星が放つ熱気まで、肌で感じられるようになっている。視界一杯に広がる灼熱の固まりを見続けながら、マイキは思う。
 これを呼んだのはあたしじゃない。……って、みんなが教えてくれた。あたしのせいで、この景色が起こるわけじゃないんだ、って。信じたい。すぐるの言うことなら、みんな。あたしが見たせいで起こるわけじゃないって、すぐるが言ってくれたから。信じたい。……けど。
 本当に? 
 それならどうして、この星はこんなにまっすぐにあたしに向けて降って来るんだろう。
 どうしてこんなに破滅的な景色ばかり見なければならないのだろう。
 マイキは投げ出された体勢のまま、虚空を見つめ続けていた。彼女の脳裏には、今まさに自分を飲み込もうとする、巨大な灼熱の固まりが映し出されていた。
 やがて、剛の俊足に置き去りにされていた警備員たちが駆けつけて来、彼女の腕を掴んだ。その時は既にその景色は終わっていたが、今見たもののあまりの衝撃に、マイキは抵抗することも、警備員たちの質問に反応することすら出来なかった。


2003年06月19日(木) 星降る鍵を探して3-1-1

 1節

 剛とマイキが研究所にたどり着いたときには、既に夜になっていた。
 懐具合のせいでタクシーに乗ることが出来ず、バスを使ってきたのだが、剛の焦りとは裏腹にバスはなかなか来なかった。学園都市に勤める人々が帰路につくこの時間、駅へ向かうバスの本数は多いのに、逆方向へ向かうバスは一時間に一本あるかないかというスケジュールになっていたのだった。こんなことなら新名兄弟を待って車で来た方が速かったかも知れない、とバスを降りながら剛は思ったが、ともあれ無事に着いたのだからそんな些細なことは後回しだ。剛は簡単に後悔するのをやめ、周囲を物珍しそうにきょろきょろするあまり遅れがちになるマイキの襟元を掴みかねない勢いでずかずかと門に近づいた。
 そして、問題に気づいた。
 職員が帰宅するピークは既に過ぎたのか、人影はまばらである。門はまだ開いているが、守衛の詰め所に人が三人ほどおり、門から出る人に挨拶をしたりなどしている。あそこを見とがめられずに通るのは難しそうだ。しかしあんなところで止められては元も子もない。剛は思案を巡らせた。
 ――どうしたものか。
 どうしてもっと普通の格好をしてこなかったのだろう、と、その時になって初めて剛は思った。この汚れた道着姿では嫌でも彼らの目を引くだろう。普通の格好をしてくればまだ研究所員になりすますこともできたろうが……しかしそれは到底無理だ。自分はともかくこのマイキという少女は、顔を見なければほとんど小学生にしか見えない。
 ――ううむ……
 腕組みをする剛の横で、マイキがうろうろしている。彼女としては剛が思っているほど周囲のものに興味を持っているわけではなく、もう卓がその辺に来ているのではないかと思って探していたのだった。こんなに卓と離れたのはあの事件以来初めてのことで、心細い気持ちも手伝って、卓なら何とかあそこを無事に通る方策を示してくれるのではないかと思っている。実際のところその方策を示すのは克だろうが、卓がいれば何とかなるというのはマイキにとっては信仰のようなものだった。
(すぐる、まだかな)
 うろうろと周囲を見回すマイキの襟首を、剛ががっと掴んだ。
 驚く間もなくマイキの体は剛の屈強な肩の上に担ぎ上げられていた。慌てて丸刈り頭にしがみつくと、剛が、少し我慢しておれ、と言った。
「こんなところで思案を重ねても仕方がない。通さぬのなら押し通るまでだ!」
 そして突撃を開始する。剛にとってはマイキの体重などほとんど問題にならぬほどの軽さであり、日頃鍛えた脚力はいよいよ流歌を助けに行けるのだと言う期待に普段以上の力を発揮した。守衛の詰め所にいた人々は目の前を猛然と通過する白い道着の残像を見た。慌てて目で追ったときには少女を担いだ道着姿の男は帰路につくためこちらに向かう職員たちをはねのけ、はね飛ばし、ぶんなげながら、白々と明るい研究所の入り口を目指して走って行くところで。そこに至って彼らはようやく、今自分が見たものを分析することが出来た。三人は示し合わせたように顔を見合わせた。
「何だ、今のは」
「道着姿の」
「丸刈り頭の」
「肩の上に女の子が」
 口々に今見たものを報告し合うと、今見たものはどうやら目の錯覚などではないことがようやくわかる。
「……くせ者だ!」
 三人が一致して下した結論はそれだった。大時代的な名称だが、他に何と言えと言うのだ。やっと呪縛から解き放たれた彼らはそれぞれの職務を開始した。一人は通報、二人はその「くせ者」を追うのである。しかし彼らが追跡を開始したときには「くせ者」は既に研究所の入り口に踏み込んでおり、人々が上げる悲鳴や怒号に混じって突撃する「くせ者」の轟くような足音が小さくなっていく。一体何なんだ、と彼らは思った。今日は「銃を持った不審者」が所内をうろうろしているという通報があったが、この時点ではどうやら悪戯だったらしいということで既に警戒が解かれていた。それでようやく安心したと思ったら再び不審者の騒ぎである。今度は悪戯などではありえないだろう。不審にもほどがある。三人一緒に見ていなければ、夢だったとしか思えないだろう。
 剛は研究所内に踏み込んだ。ここもそれほど人が多くはないが、そもそも逃げまどう人々の姿など剛の目には入らない。流歌はどこにいるのだろう、とそこに至ってようやく彼はそう思った。思ったが、既に彼の体はマイキを担いだまま人々を蹴散らして走り出している。左手に向かうと階段があり、階段を見つけてから、恐らく上に違いないと思った。階段は地下へ向かうものと上へ向かうものと両方合ったが、囚われの姫君は上にいると相場が決まっている。彼は思考よりも先に行動に移るタイプである。結果は後からついてくるものだ。何も考えていないくせに、ちゃんと流歌のいる方へ向かって走り出せる辺り、実はものすごく幸運な男なのかも知れない。


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3章開始です。
マルガリータの独走はどこまで続くのか!(笑)


2003年06月18日(水) 星降る鍵を探して2-5-1

 5節

 梨花と高津を乗せたエレベーターは音もなく滑り続けている。
 梨花は必死で思考を巡らせていた。一階に着くまでに、何とか、この男から逃げられないものだろうか。この建物を無事に出られるとは思えなかった。建物を出られても敷地からは出られまい。それに、そう、流歌を置いて一人だけこの建物からでることなんて出来やしないのだから、どこかで絶対に逃げなければ。
 このエレベーターは普通のものよりも、若干ゆっくりとした動きになっているようだ。……18、……17、……16、とランプがゆっくり降りていく。
 チン。
 軽い音を立てて、エレベーターが15階で止まった。
 扉が開く。あちらには誰もいない。どうして止まったんだろう、と思ったとき、高津が先に廊下に出た。扉を押さえて、こちらを振り返る。
「乗り換えだ」
「乗り換え……?」
 驚いた。だって、このエレベーターには1階までの文字盤がちゃんとついていて、高津はさっき1階のボタンを押していたはず、なのに、どうして押してもいない階で止まるんだろう?
「いいから降りろ」
 高津が苛立った声を上げる。梨花は逆らわずに素直に降りた。何が何だかわからないけれど、これはチャンスだと思った。この期を逃しては、もう逃げられないだろう。
 高津は先ほどと同じように、先に立ってずんずん歩いていく。梨花はその後に付いて歩きながら、周囲に視線を走らせる。この階もやはり同じような作りで人影が全くなかった。ずらりと並んだ扉は全て閉まっており、滑り込めそうなところは見あたらない。どうしたらいいだろう。どうしたらこの男から逃げることが出来るだろう。一瞬の隙さえあれば――。
 やがて廊下の端にたどり着き、高津が足早にそこを曲がる。一瞬だけ、高津の姿が見えなくなる。ここできびすを返して全速力でかけたら、どうにか逃げられるだろうか、と思ったとき、こつん、と足に当たったものがある。
 見下ろすと、消火器だった。ずらりと並んだものの内、一番廊下の端にあったものだ。目に鮮やかな赤が飛び込んできて、梨花にはそれが唯一の回答に思えた。
 使い方は?
 やったことはない。でも、高校の時の避難訓練で、使っているところは見たことがある――
 消火器はベルトで壁に固定されていた。引っかかったらおしまいだ。梨花は必死だった。一生の内でこれほどに機敏に動いたことはないと断言できるほどだった。ベルトの留め金をぱちりと外す。ごとりと消火器が床に落ち、それを持ち上げてホースを外し、黄色い安全弁を引き抜く。物音に気づいた高津が怒りの声を上げながらこちらに戻ってくる物音を聞きながら、ホースのノズルを高津の顔の当たりに向けた。
 ――人に向けちゃいけませんって言われるんだろうけど。
 やがて高津の顔が角からひょい、と現れる。梨花は引き金を引いた。

*   *   *

 玉乃は下へ向かうエレベーターに乗って壁に背を預けていた。白衣を着た彼女の肩は疲れ切ったと言うように落とされていた。どうしてあんなことを言ってしまったのか。油断した。
 あの「記者」は気づいただろうか? 一般の研究所に勤める善良な研究者が、怪盗を知っているはずがない、ということを。
 ――気づいてなくても同じことだけど。
 彼女は呟いて、白衣のポケットに手を入れた。中には小型の拳銃が入っている。記者というのも怪しいものだ、と、拳銃のすべすべした感触を楽しみながら玉乃は思う。『善良な研究者が怪盗を知っているはずがない』のだから、『普通の記者が怪盗を知っているはずがない』という理屈も成り立つ。怪盗に狙われた機関は数多いが、そのどこの機関も、盗まれたなどと口が裂けても言いはしない。特にマスコミには絶対に言わない。ひた隠しに隠し続けるはずだ。なぜなら、怪盗が狙う財産は、そもそもそこに存在するはずがないものばかりだからだ。
 エレベーターは途中で止まりもせず、滑るように下降を続けている。このビルはセキュリティカードを持たない者にはとても不親切な作りになっている。エレベーターもカードを入れればノンストップで使えるが、入れなければ15階と10階と5階で乗り換えなければならないのだ。高津が既にそのカードを奪われていることを玉乃は知らない。だから梨花に追いついて「処理」するためには、急がなければならないと思っている。
 その時、ぷるるるるる、と電話が鳴った。
 拳銃から手を離して携帯電話を取り出すと、液晶画面に「桜井」という文字が踊っていた。彼を待たせるのは禁物だった。人は平気で待たせるくせに、待たされるのは嫌いな男だ。
「もしもし」
 出ると、桜井の、かすかに喉に引っかかるような声が聞こえた。
『玉乃か』
「ええ」
 受話器を耳に押し当てて、玉乃は眉を上げた。桜井の声はいつもとわずかに調子が違う。ずいぶん機嫌が良さそうだ。
「どうしたの」
『あの子は?』
 あの子、と聞いて、一瞬梨花のことかと思ってしまった。玉乃はすぐに気づいて息をついた。
「流歌ちゃんね。逃げたままよ」
『そうか。探せ。見つけたら、』
 一瞬の間が空く。玉乃は桜井が一人ではないことに気づいた。怪盗がいるのかと思ったが、まだそんな時間ではない。桜井が機嫌が良さそうなのはどうやらその人物のせいらしいと気づいて、玉乃はため息をついた。胸がうずくように痛むのは嫉妬ではない、断じて。
『――もう殺していい』
 そして電話が切れる。玉乃は耳から電話を離し、軽くにらみつけた。まるでその電話越しに桜井が見えているかのように。
「その人を動揺させたいわけね」
 軽く呟いてみる。桜井が本気でそんなことを言っているわけではないということくらい、玉乃にはよくわかっていた。流歌を殺してしまっては、金時計が手に入らなくなる。桜井はその場にいる誰かを驚かせたくて、動揺させたくて、殺さないで欲しいと哀願させたくて、そんなことを言っている。子供じみた行動だ。桜井がこんな態度をとるのは初めてではないだろうか。
「流歌ちゃんよりも先に殺さなきゃいけない子ができちゃったけど」
 呟きながら電話をしまう。怪盗の妹、流歌という女に、桜井は会おうとしなかった。でも気にかけているのは態度でわかっていた。どうやら昔何らかのつながりがあったようで、それだけならまだしも桜井は、怪盗とその妹に並々ならぬ関心を持っているようなのだ。好意と言ってもいい。ただ、桜井は気に入った相手をなぶるのが好きらしいから、好かれたあの兄妹にとっては迷惑なことこの上ないだろうが。
 玉乃は目を閉じた。エレベーターはゆっくりと下降を続けている。昨夜見た流歌の姿が思い出された。ほっそりとした、綺麗な――まだ幼さを残したその姿を。
 複雑な感情を持て余して、桜井に向けて呟く。
「――そんなことをあたしに言ったら、本気でやるわよ」


2003年06月17日(火) 星降る鍵を探して2-4-3

 こんなに饒舌な奴だっただろうか、と克は思った。「圭太」と呼んでいるところを見ると、何か――『怪盗に金時計を盗まれた相手』というだけの関係ではないような気がする。それならば怪盗の妹を断定してさらうことができたのもおかしくはない。もしかしたらさらわれたという妹とも顔見知りだったりするのだろうか。
 克は目まぐるしく頭を働かせながら口を開いた。
「桜井」
 しかし、
「待て」
 克の呼びかけを遮って、桜井は胸ポケットから何かを取りだした。銃かと思って身構えたが、取りだしたものはどうやら携帯電話だったらしい。ぱちりと開いて片手でボタンを押しながら、桜井の目は油断なくこちらに向けられている。
「もしもし――玉乃か」
 やがて出た相手に呼びかけ、桜井は腕時計をちらりと見た。
「あの子は? そうか。探せ。見つけたら」
 向こうの声は聞こえない。桜井は克を正面から見た。暗くてよく見えないのに、桜井がはっきりと笑みを浮かべたのがわかる。
「もう殺していい」
 そして電話を切った。克は桜井をまじまじと見つめた。正気だろうか、と思った。あの子、というのは怪盗の妹のことだろう。殺してしまっては、金時計を手に入れることが出来なくなると言うのに。桜井は克の視線を受け流してぽつりと呟いた。
「――お前が相手だと、面白いことになりそうだよな」
「どういう……」
「圭太に伝えてくれ。妹を助けるなら早い方がいいってね。会えて良かった。再会の祝いにそれはやる。向こうで会おう」
 それというのは恐らく爆弾のことなのだろう。ちらり、と回収した爆弾を入れたスポーツバッグに視線をやると、桜井は笑って頷いた。
「こっちは大勢でしかも人質を取ってる。それくらいのハンデは当たり前だろ」
 そしてきびすを返した。背中越しに軽く手を挙げてみせる。克はその後ろ姿に、声をかけた。
「いいのか」
「なにが」
「俺を――」
「ああ」
 桜井は立ち止まり、振り返って、苦笑紛れに言った。
「一対一でお前に立ち向かえるほどの度胸はないんだ」

   *   *   *

 バン!
 玄関の扉が盛大に開かれて圭太は薄目を開けた。部屋の中はもうすっかり暗く、剛とマイキが出て行ってから一時間ほどが経っている。ようやく新名兄弟が帰ってきたのかと思ったが、それにしては物音が盛大だった。自分の家に帰ってきたのだからもっと落ち着いて歩けばいいのにと思う内にも玄関で靴を脱ぎ散らかして廊下をどどどどどとかける音が続き、
 バタン!
 リビングの扉が開け放たれた。圭太は身を起こして目を見開いた。新名兄弟ではなかった。一人しかおらず、珍入した男は黒づくめの服を着ており、全力疾走を続けてきたのか激しい呼吸を繰り返している。
「し、」
 黒づくめの人物は卓の声で喘ぎながら言った。
「死ぬかと思った……!」
 そして床にくずおれる。やっぱり卓だった。克はどうしたんだろうと思いながら圭太はソファの上に完全に起き直った。何と言って良いのかしばらく判断に迷った末、当たり障りのない言葉が口からこぼれる。
「……お帰り」
「……」
 卓はくずおれたままこちらを見上げた。怪盗は夜目がすぐに利く。この時点では既に黒々とした闇の中に漆黒の服を着た卓の、普段より白く見える顔が浮き上がって見えていた。卓は何とも形容しがたい顔をしていた。その感情の大半を占めるのはどうやら安堵であり、他に疲労と、何故か怒りが見て取れる。
「……水、飲むか」
 やっぱり克の行為は「下見」などというものではなかったんだろう、と圭太は簡単に結論づけて、立ち上がった。キッチンへ行ってコップに水をくんでいる間に、背後の卓の呼吸は少しずつ収まり始めている。
 どうやら怪我はないようだ。
 まあ卓のことだから当然だ。
 そんなことを考えながら戻っていって水を差し出すと、卓は床の上に起き直っていて、コップを受け取った。一気に飲み干してから、ため息と共に言葉を吐く。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。お兄さんは?」
 ぴくり、と卓の肩が震えた。
「克兄? 知るもんか。克兄なら――」
「ただいま」
「うわあっ!?」
 唐突に声をかけられて卓が飛び上がった。圭太が見やるといつの間に戻ってきていたのか、新名克その人が靴を脱いでいるところだった。こちらもやはり卓と同じような黒づくめの格好をしていて、出ていったときにはひとつだけだった重そうなスポーツバッグが二つに増えている。
「い……いつ……!?」
「たった今だ。お前も今のようだな。だいぶ手間取ったのか」
「当たり前だろ! ていうか! そうだ! こんのくっそ兄貴ー!」
 叫ぶなり卓は跳ねるように立ち上がって兄に向けて突進した。剛のよくする、重戦車のような突撃だった。剛ほどの重量はないが、卓にはスピードと技がある。おまけに廊下は突撃に向いた地形をしている。卓の突進は速くて正確で、勢いに乗って繰り出された拳はひどく的確だった。克が「まあ待て」「話を聞け」「悪かったよ」とか軽い口調で言いながらひらりひらりと身をかわし、圭太はその双方の身のこなしに感心した。
 ――やれやれ。
 圭太はため息をつき、とりあえずコップを戻しにキッチンに向かった。あの卓があそこまで怒るのだから、克はよほどの仕打ちを実の弟に向けてしたものらしい。圭太の予想を肯定するようなわめき声が背後で聞こえる。
「よくも人を囮にしやがったなこのくそ兄貴くそ兄貴くそ兄貴!」
「しょうがなかったんだ。ああしなきゃあの展望室に入り込めなかったじゃないか」
「だからって何であんないきなり! わけを話せよせめてさあ!」
「敵を欺くにはまず味方から」
「欺くにもほどがあるだろ!?」
「悪かったって。だが目的のためには手段を選ばずと言うのが俺の主義なんだ」
「そんな主義は今すぐどぶにでも捨ててしまえ!」
 ……事情がだんだん飲み込めてきた。
 キッチンから戻ってきた圭太はしばらく様子を窺っていた。卓は本気で怒っている。珍しいこともあるものだ。普段なら克の方がずっと強いのだが、もしかしたら卓の身のこなしというのは既に兄に匹敵しているのではないかと思われた。普段はその単純さと律儀さと親切さとが仇となって実力を出せないだけなのかも知れない。本気で怒っている卓の攻撃は普段よりもいっそうそのキレを増しており、克はその攻撃を紙一重で避け続けてはいるものの、次第に追いつめられつつある。これまた珍しいことだった。このまま眺めていたら、一発くらいは殴れるかも知れない。
 ――……一発くらい、待っててやってもいいのかもしれないけどなあ……
 傍観しつつそう思ったが、今はそれどころではないのだ。剛とマイキは既に向かっており、梨花と流歌にも全く連絡の取れない状態が続いている。圭太としては今ここでこの二人が体力の削り合いを続けるのを放っておくのは得策ではなかった。
「新名くん」
 声をかけると卓は律儀にも答えを返した。
「後にしてください!」
「それがそうも行かないんだ。剛がマイキちゃんを連れていった」
 その言葉は劇的な効果をもたらした。部屋の中に一瞬で沈黙が落ち、このよく似た兄弟は、よく似た仕草でこちらを見た。
「……何だって?」
 訊ねる声までよく似ている。これで性格だけが似なかったのが、卓の持つ一番の不幸なのかも知れない、と圭太は思った。


2003年06月16日(月) 星降る鍵を探して2-4-2

   *

 その頃の清水剛。
 運良く特急に乗ることが出来、剛はその巨体をシートに埋めていた。やや緊張していた。特急になど乗るのは初めての経験である。傍らのマイキは珍しそうにきょろきょろと辺りを見回し、二度ほど駅に止まった度ごとに「降りなくていいのか」というような目を向けて来た。また車内販売に興味津々であり、通り過ぎるワゴンをいつまでも目で追っている。言葉による催促こそしないものの、無言の、そしてひたむきな渇望に負けた剛は、先ほどアイスクリームを買ってやった。小さなカップひとつが三百円というのはぼったくりではないかと思ったが、
「旨いか」
 マイキが真剣な顔つきでカップに挑んでいるのに思わず笑顔を誘われて、そう訊ねた。あまりにも真剣にそして旨そうに食べるから、三百円ならさほどのこともないと思える。マイキは真剣にこくりとひとつ頷き、そして気がついたようにカップと木の匙を差し出してきた。食べるか、と訊ねているのがその目でわかる。
「いや、いい。とける前に食え」
 こくり。
 マイキは頷いて再びカップを覗き込む。あまり急いで食べると腹が冷えるとか、よくかき混ぜてクリーム状にして食べると旨いのだとか、つい余計なことを言いたくなる真剣さだ。
 こんなに真剣に、かつ旨そうに食べる少女から、一口もらうというのはかなり勇気がいると思う。横取りするようで申し訳ない上に、何だかデートのようではないか。
 許せ、新名卓。
 そして須藤流歌、この同行は偶然であって意図したものではないのであって誤解しないで欲しいのだ。
 心の中だけでごにょごにょと呟いて彼はシートに体を預けた。目的地まであと一駅である。汚れた道着をきた丸刈りの巨体と、小さくて可憐な少女の組み合わせというのは端から見ればかなり目を引く光景だったが、彼は周囲の――特にワゴンの女性の――興味深そうな視線には全く気づいていなかった。

   *

 爆弾の在処を示す印は、地図に四ヶ所記されていた。
 克はそれほど苦心することもなく、まだ卓とその追っ手が立てる騒ぎがタワー内に響きわたる内に、三つを解除し終えていた。残るは後ひとつ。最後のひとつも難なく見つけてその前にしゃがみ込む。何だか拍子抜けするほど簡単だ。慣れた手つきでペンチとニッパーを使い始めながら、克は上の空だった。もはや集中せずとも解除できるようになってしまったのが我ながら恐ろしい、などと考えることもなくぼんやりと昔のことを思い出している。
 桜井昇という男と初めて知り合ったのは――もう、十年ほど前になるだろうか。克は現在の卓とほぼ同い年、大学に入学したばかりだった。同じ学部の同級生だったが、初めはそれほど親しかったわけではない。ただ同じ授業をいくつか取っていたと言うだけで、言葉を交わしたことも数度しかなかったはずだ。第一印象はそれほどよくなかった。悪くもなかった。どことなく茫洋としたつかみ所のない奴だな、と思っただけで、さほど印象が強かったわけではない。
 毎日のように顔を合わせるようになったのは、学年が上がって、同じ教授に師事するようになってからだ。
 よく話すようになって初めて、「不思議な奴だな」と思うようになった。覚えているのは学食のこと。克はその頃からよく周囲に気を配る癖がついていたが、ごった返す学生食堂の中では、桜井に声をかけられるまでその存在に気づきもしなかった。
『新名』
 あの時はかなり驚いたからか、かけられた声を今でもまざまざと思い返すことが出来た。
『ここあいてるぞ』
 振り返るとほんのすぐ側に桜井がいて、盆を取り落としかけるほどに驚いた。どうして気がつかなかったのかとほとんど愕然とした。その顔を見てすぐに、これは本当に桜井だろうかと思った。桜井の雰囲気ががらりと変わっていて、今まで埋没していたのが嘘のように際立って見えたのだ。思わずまじまじと桜井を見つめてしまい、桜井はどうしたんだよ、と言った。
『わざとやってるのか』
 気づいたらそう言っていた。
 普段のあの茫洋とした、人混みに紛れてしまえば見つけることも難しいような希薄な気配は、生まれつきのものではなく、わざと作り出しているのではないのか。
 桜井は戸惑ったような顔をした。恐らく質問の意味が分からなかったのだろう。克もすぐに「何でもない」とごまかしたから、話はそこで終わった。だがその後も何度か同じようなことがあり、克の疑問は確信に変わった。思えばあいつは足音も立てなかったような気がする。成績は抜きんでるほど良くもないが、話してみるとひどく頭の回転の速い奴だと思った。どんな仕事に就いたかさえ知らなかったのだが、思い返してみればこのタワーの中にいてもおかしくないと思える、そんな男だった。「あいつが相手なら卓も危ないかな」という克の危惧は、学生時代のそんな印象から来ている。
 ――変な奴だったな。
 爆弾を手際よく解除しながら、克はぼんやりと考えていた。外見の印象もとても希薄で、五年以上一度も顔を合わせていないから、今ではその外見を思い出すことも難しい。ただ桜井の声だけはとても印象的だった。どちらかと言えば高めで、わずかに喉に引っかかるような声――
「……新名」
 記憶とそっくり同じ声が響いて、克は一人頷いた。そう、まさにこんな声だ。
「新名だろ」
「わあっ!?」
 克は珍しく仰天した。いつの間にか、桜井が左のやや前方に立っていた。タワーの中はもはや真の暗闇に近い。桜井の顔は見えなかったがその声は聞き違えようがなく、相変わらず気配を周囲にとけ込ませることが上手い奴だと思う。
「久しぶりだな」
 桜井の声は落ち着いていた。
「何、してるんだ」
 動揺のかけらも見あたらない平然とした口調。克は狼狽を押し隠して立ち上がった。心臓が飛び跳ねているのを何とか押さえ込む。動揺した自分がひどく悔しい。出来るだけ動揺を押し隠してわけもなく胸を張った。
「……見ればわかるだろう」
「いやそういう意味じゃなく」
 桜井は言って、苦笑した。
「変わらないなあ新名。暗くてもすぐわかったよ、その馬鹿でかい体つき。隠密には不利だな」
 克は暗闇の中で目を見開いた。隠密。克の最近までの職業を知っているのだろうか。やめたのはほんの一ヶ月前だから、今は違うと言うことまでは知らないようだが。
 桜井はしばらく克を見ていたが、ややあって息をついた。
「……そうか、圭太の側(がわ)にはお前がいるんだな。下にいるのは弟か」
「おとうと、」
「『こんのくっそ兄貴ー!』」
 桜井は上手に先ほどの卓の声色を真似して見せ、面白そうに笑う。
「弟を囮にして爆弾回収とはね。まさにくそ兄貴だな」
 そして再びため息をついた。
「圭太はここにはこないのか。せっかく準備してたのに、残念だな」


2003年06月15日(日) 星降る鍵を探して2-4-1

   4節

 山田という男が持っていた図の、示すとおりの場所を覗くと、考えていた通りのものが隠されていた。克はニヤリとして、山田から奪ったばかりのポーチに手をかけた。こう言ったものを解除するのは実は初めてだったのだが、やり方は知っている。見たところそれほど複雑な作りになっているわけでもないらしい。これくらいなら簡単なことだ。切るコードさえ間違えなければいいのだ。さて、赤と青とどっちを切ろうか。
「克兄……」
 山田を縛り上げて物陰に隠し終えた弟が後ろから遠慮深げに声をかけてくる。克は瞬時ににこやかな笑顔を作り上げ、この上もなくさわやかに振り返った。
 今見ていたものが見えないようにその長身で隠しながら、立ち上がる。
「ご苦労だったな卓」
 キラリと歯が光る。
「お、おう」
 卓は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、すぐに半眼になった。探るような視線。『こんな笑顔を見せるときの兄は要注意だ』と自分に言い聞かせる思考の流れさえ手に取るようによくわかる。『何をたくらんでいるのか』『またなんかやらかす気なのか』『これ以上の面倒ごとはごめんだからな』と全身で訴えかけてくる弟の様子に、こいつもなかなか俺のことがわかってきたじゃないか、と内心で舌を巻いたが、そんなことを卓に悟らせるような克ではない。克はにこやかな笑みを見せたまま卓に言った。
「先へ進もう。頂上はもうすぐそばだ」
「……そこに何かあるのか?」
 卓は克の背後を覗き込もうとしたが、克はそれを許さなかった。卓に見られては、この小心者の弟のこと、今すぐ帰ると言い出しかねない。それでは何のためにこいつをつれてきたかわからないではないか。と内心で悪魔のような思考を働かせる克の顔には、自分でも知らない内に怪しい笑みが浮かんでいた。
「何もないさ、卓。さあ行くぞ。お兄ちゃんについてこい」
「……あのさ」
 弟が何か言いかけたが克は強引に卓の腕を引いて階段を上らせた。ここに来た目的はあの地図を手に入れたことで八割方は達成した。あとはこれらのブツを拝借するだけなのだ。ここまできて帰ったら何もかもが水の泡だ。
「やっぱりタワーに来たからには頂上に登らないとなっ」
 ぐいぐいと卓の腕を引きながら階段を上がっていく。ここは本当にタワーの頂上に近く、階段の終点が見えていた。終点は扉になっている。あれを開けば展望台に上がることが出来る。そこにはきっと敵の主力がいるのだろうが、構うことはない。要は見つからなければいいのだ。俺が。
 と、卓が腕を振りほどいた。
「克兄。何隠してるんだよ」
 真剣な口調だ。視線は睨んでいると言っても良いほどに鋭く、卓は珍しく大変真剣だった。克はその真剣な表情を見て、卓が事情を説明してもらうまでは一歩もここを動かないというつもりになっているのに気づいた。
 仕方がない。
 出来れば、隠したままでいたかったのだが。
 克は卓を見つめた。必殺・『真剣な表情』を浮かべる。
「そうだな。……隠してきて悪かった」
「……うん」
 卓は克が真実を語ろうとしていることに気づいたのか、神妙な顔つきになった。
「秘密を打ち明けよう。実はな」
「うん」
 話しながらも階段を上る。この会話はささやき声だけでかわされている。卓は素直についてきて、先ほど克が隠したもののことはすっかり忘れたようだ。……我が弟ながら行く末が心配だ。
「ここへ来たのは、実は下見のためじゃないんだ」
「……」
「……」
「……それが秘密?」
 卓が探るように聞いてくる。克は重々しく頷いた。
「そうだ」
「……知ってんだよそんなことはとっくに!」
 卓が語調を荒げる。しかし大きな声を出さないのはさすがだった。克は放たれた卓の拳をひょいと避けた。わざとらしく眉を上げてみせる。
「へえ、気づいてたのか。さすがだな弟よ」
「バカでもわかるよそんなことは!」
「すごい自信だな」
「どういう意味だ!」
「しっ」
 克は低い声で卓を制した。ちょうど階段の一番上までたどり着き、克は用心深く扉の向こうに耳を澄ませた。向こうの話し声は聞こえない。聞こえないが気配はわかった。三人、もしくは四人だろうか。まだこちらに気づいていないのか、それとも仲間が来たのだろうと思っているのか、こちらを警戒している様子はない。
 扉に手をかける。山田が降りてきたばかりだからだろうか、鍵はかかっていなかった。
『……卓』
 スピーカーを通して弟に呼びかける。卓はつられたように身をかがめてきた。
『相手は三人、多くて四人だ』
『……何でわかるんだ』
 この質問は無視する。
『この部屋に入り口は三つ。ここと、反対側の階段と、中央のエレベーターと螺旋階段。向こうの階段と中央のとどっちを使うかはお前の自由だ。……でも向こうのにして置いた方がいいと思うぞ。中央のは下につくまで身を隠す場所がないからな』
『……何の話?』
『下までたどり着いたら先に帰ってていいぞ。丸刈り男がそろそろ目を覚ましてるかもしれない』
『待ってくれ――』
 卓が言いかけた言葉を最後まで聞かず、克は扉の影に隠れる場所に移動して、一気に扉を開け放った。
 ばん!
 派手な物音が鳴り響き、既にすっかり暗くなった町並みの明かりが流れ込んできた。扉の真ん前に卓がいて、弟はいきなり開かれた扉の向こうを呆然と眺めている。
『走れよ。この服はどうやら防弾らしいが、いくらお前だって銃で頭でも撃たれたら死ぬぞ』
「な」
 そして卓を部屋の中に蹴り入れる。勢い余って卓は部屋の中に転がり込み、展望室の中にいた黒ずくめの男たちがようやく狼狽の声を上げて、
「誰だ!」
「仲間か――いや、違う」
「撃て!」
 一瞬の間をおいて銃声が響いた。卓が跳ね起きて部屋の向こう側へ向かって走り出すのが聞こえる。動揺していても呆然と立ちすくんで撃たれるままにならないところが我が弟だ、と思いながら先ほどの戦利品の場所へ戻ろうとする克の耳に、卓の叫び声が聞こえた。
「このくっそ兄貴ー!」
「今頃わかったか」
 呟く内にも卓が出口にたどり着いたらしく、部屋の中にいた男たちが卓を追い始めた足音が聞こえる。まあ防弾服を手に入れたし、暗いし、なにしろ卓だから大丈夫だろう、と克は階段を下りながらそう考えて、先ほど聞こえた「撃て!」という声を思い出して眉をひそめた。あの声はどこかで聞いたことがある。前の仕事をしていたときに聞いたのだったか。いや、そんなに最近じゃないような気がする――
「桜井か……?」
 思い至って、克は足を止めた。まさか、あいつが。
「……あいつが相手だと、卓も危ないかな」
 一応兄らしく呟いてみたが、どう考えても卓がおめおめと殺されるとは思えない。卓なら弾が避けて通りそうな気がする。だからこそここに卓をつれてきたわけだったが、俺もだいぶ素直になったもんだねえ、と他人事のように呟いて、克は足早に階段を下りた。卓があいつらを引きつけてくれている間に、このタワー内に点在する爆弾を回収しなければならない。


2003年06月14日(土) 星降る鍵を探して2-3-4

 少し落ち着いて、新たに入り込んだその部屋の中を見回すと、そこはまだそれほど魔窟ではないことが窺えた。二日という短い期間では、さすがの長津田さんもこの部屋まで汚すことは出来なかったらしい。ここは簡単な給湯設備が備えられ、一人用の小さなテーブルと椅子が置かれ、仮眠用にか、壁際に長椅子が置いてあった。その下を覗き込んでみると、埃はほとんど見えなかった――宮前さんはとても几帳面な性格であるらしく、長椅子の下にまできっちりと掃除機をかけてくれていたようだった。
 ほとんど思考する間もなく、腹這いになってその下に潜り込む。
 床はつるつるぴかぴかしていてとても冷たかったが、走り回ったのと緊張したので体が火照っていて、今はこの冷たさが気持ちよかった。あまり長いことここにいると体が冷えて風邪を引いてしまいそうだが、そんなにここに長居する気はない。ひんやりと冷たい床に頬を押し当て、流歌は長々と息を吐いた。ここならそう簡単には見つかるまい。きりきりと張りつめていた神経が、音を立ててゆるんでいくような感触。硬直していた体中に血が巡りだしたような気分だ。昨日からの疲れが自分でも知らない内にたまっていたのだろうか。思えば昨日はいつ先生がやってくるかとドキドキしていて、一睡もしていなかったのだ。ほんの少し目を休めようと瞼を閉じただけで、流歌は眠りに引き込まれた。眠ろうとする体の欲求に気づく暇さえなかった。あまりにも深い眠りに一瞬で引き込まれてしまったために、その部屋の扉が開いて宮前が入ってきたことも、流歌は全く知らなかった。


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うーんどうも枚数配分が上手く行きませんね。
今日は理事会で出勤したのでコレくらいしか書けずおまけにこれで3節が終わり。なかなか話が進みません。


2003年06月13日(金) 星降る鍵を探して2-3-3

   *

 廊下の外では、長津田がしおたれている。彼女との約束をすっぽかしてしまうたびに本気で落ち込むのだが、研究に没頭する度にやってしまうのだ。広い肩をしょんぼりと落とした彼の前で、宮前が、しょうがないわね、と言った。
 そしてにっこりと笑う。
「それがね、あたしも梶ヶ谷先生との議論が白熱してしまったので、どうせ約束の時間にはいけなかったの。あなたを待たせたんじゃないかと思ったけど大丈夫そうね。よかったわ」
「ああ――」
 長津田はホッとしたような笑顔を見せた。育ちの良いギャングと言った顔立ちが安堵にゆるむ様はちぐはぐな印象を与えて可愛らしい。宮前も笑みを見せる。
「話したいことがあるの。中に入っても?」

   *

 ――ああもう、どうしたら……!
 流歌はパニックになりかけた。なりかけたが、なっている場合じゃないということもわかっていた。こう言うときには、まず目を閉じるべきだ。そして息を大きく吸って、大きく吐く。それで落ち着かなければもう一度。それでもダメならもう一度。何度か繰り返す内に、やや落ち着いてきて、状況が把握できるようになってくる。はず。深呼吸を繰り返しながら、逃げ道を数え上げる。
 ――廊下には二人がいるはずだから出られないし、この扉には鍵がかかってるし、この部屋の中には隠れられるところはないみたいで……
 何てこと、絶対絶命ってやつじゃないか。
 いっそ入ってきた二人を殴り倒して。
 いやいやダメだそんなことをしたら騒ぎが大きくなるばかりだ。
 というかすぐ暴力に訴えるのは人間としてどうだろう。
 でも他にどうしたら。どうしたら。あうあう。
 思考が混乱してきたので、また目を閉じて、また大きく息を吸う。落ち着いて考えよう。周りをよく見て。何とか隠れられる場所を探すのだ。諦めるのはまだ早い。

   *

「い、いやダメだ」
 長津田は慌てているようだ。その長身で扉を庇うような仕草まで見せる。宮前は当然疑問に思ったようで、首を傾げた。
「あらどうして? 何か隠してるの?」
「いやそういうわけじゃ」
「今日は何だか疲れちゃったの。座らせてくれないかな」
「いやそれがちょっと」
「……どうして? まさか誰か隠してるんじゃないでしょうね。女の子とか」
「そんなわけないだろう」
 長津田は慌てるのをやめてそこだけはきっぱりと言い放った。宮前は頷いた。この男が浮気なんかできる人物ではないことは、よくわかっているのだろう。宮前が即座に頷いたことで、長津田はホッとしたようだったが、二人ともそれがほぼ真実に近いということを知る由もなかった。
「じゃあ入れて」
 宮前が促す。長津田は困ったように下を向いた。ため息がその無精ひげの間を縫うようにして漏れた。

   *

 ――なにかな、これ?
 流歌は相変わらず慌てていたが、数度に渡る深呼吸のおかげでようやくその切れ目に気づいた。ノブのやや上の方に、厚さ2〜3ミリ、幅5センチ程度の切れ目が入っている。覗き込むと緑色の光がぽつんと見えて、もしかしてここにカードキーか何かを差すのかな、と思う。気づいてみればその幅はテレホンカードなどのカードがちょうど入りそうに見えた。
 長津田さん、鍵どこに置いてるんだろう。
 辺りを見回して、流歌はため息をついた。こんな魔窟の中から一枚のカードを探し出すなんて、砂漠の中でオアシスを探すようなものだ。
 いやまて、推理をしてみよう。普通そう言う大切なものは机の上に置くはず、いくらずぼらな人だってなくしたら困るだろうから引き出しとか、もしくはもっと目に付くところに置くんじゃないかな。考えながら流歌は背を伸ばして机の上を見やった。いつ二人が入ってくるかわからない状況で、この部屋を再び横切る気力はもうない。しかしコンピュータのモニタや山積みの本が邪魔で机の上はほとんど見えない。戻って探そうかどうしようか迷った時、流歌の脳裏に天啓のようにひらめいたのは、一枚の薄っぺらいカードなら、普通はカードいれに入れて白衣のポケットに入れて置くだろうと言うことだった。
 そっか、てことは。
 ……万事休すって言うんじゃないのかしら、やっぱり。
 流歌はいよいよしゃがみ込んだ。泣き出したいような気持ちだった。もう諦めてしまいたかった。でもそんなことはできない。見つかったらおしまいなのだ。捕まって先生に引き渡されたら今度こそ殺されてしまうかも知れない。ああ、でも、一体どうしたら。
 ――白衣の、ポケット……か。
 流歌はしゃがみ込んで膝の間に頭を埋めてそんなことを考える。白衣。の、ポケット。ポケット……?
 そして、カード。セキュリティ解除とか出来るような。

 ……あ。

   *

「ねえどうしてダメなのよ」
「いやだからダメというわけじゃなくて、ほら、そ、そうだお茶でも飲みに行こう。この部屋には何もないし」
「怪しい」
「あ、怪しくない」
「いーえ怪しいわ。……あ。さては……」
「……」
「……まさか? そんなはずないわよね、だってあたしが片づけたの一昨日よ、一昨日!」
 宮前は長津田を押しのけてノブに手をかけた。長津田は縮こまっている。ノブは軽い音を立てて下がり、彼女は勢いよく扉を開け放って中に踏み込んだ。
 中には誰もいない。しかしその惨状を見て、彼女はきりきりと眉をつり上げた。

   *

 高津から拝借したもののなかで唯一役に立ったのは、きらきら光る高津のネームプレートだった。
 ネームプレートを入れるとカチリと音がして、あっけなく扉が開いた。その中に滑り込んで扉を閉めるのと、宮前が扉を開けたのはほぼ同時だった。背を閉めたばかりの扉に押し当て、背後で向こうの扉が開いた気配を感じて流歌は床にへたりこんだ。あ、危なかった。本当に危なかった。寿命が三年は縮んだような気がする。
「――と・し・ひ・こおおおおー!」
 宮前さんの悲鳴のような声が聞こえる。否、悲鳴と言うよりは、怒っているような……
「なんなのこれは! 一昨日片づけたばっかりじゃないのよ! カップラーメン食べたらゴミを袋に入れるくらいのことがどーしてできないのよこの馬鹿馬鹿馬鹿!」
 長津田さんは下の名前がトシヒコっていうんだ……
 極度の緊張がまださめやらず、流歌は我ながらどうでも良いことを考えた。


2003年06月12日(木) 星降る鍵を探して2-3-2

   *

 その部屋は、一言で言えば魔窟だった。
 ――うわあ……
 流歌は滑り込んだ部屋の中に人影がなかったことにひとまずホッとして、次いで周囲を見回して感嘆の声を上げた。部屋の惨状はすさまじく、ここまで来たらもはや感心するしかない。こんなに汚い部屋を見たのは生まれて初めてだった。きれい好きな梨花が見たら発狂するかもしれない。
 そこは四畳ほどのこぢんまりした個室だった。
 入り口は二つある。ひとつは今流歌が入ってきた扉で、もう一つは部屋の向こう側、流歌の正面にあった。しかしたどり着くのはとても大変そうだった。その部屋の中には文字通り足の踏み場がなかった。左手に部屋の半分はありそうな巨大なデスクがどかんと置かれ、それ以外の露出した壁は全て棚になっていて、本がぎっしりつめこまれ、それ以外の床には全てなんやかやといったものが投げ出されている。例を挙げれば本や器具や書類に混じってカップラーメン(未使用)だのカップラーメンのカップ(使用済み)だの割られた割り箸だのが散りばめられていて、しかしまだ新しそうなのが救いだった。やや異臭がするが鼻が曲がるほどではない。扉が外開きで良かった。内開きだったら扉を開けるのも大変そうだ。
 デスクの上にはパソコンが置かれていた。液晶のモニタにはなにか複雑な式やグラフが映し出されている。しかしアルファベットや数字の羅列だったので流歌は一瞬で目を逸らし、どこか隠れられるところはないかと辺りを見回した。
 少なくともあのサイレンが止んで、ほとぼりが多少なりとも冷めるまで、身を隠していたかった。
 しかしざっと見回しただけで、この部屋に隠れられるところは一切ない、ということがよくわかった。かろうじて人が落ち着いて座っていられるのはデスクに備え付けられた座り心地の良さそうな椅子の上だけ。机の下はと覗いてみるが、やはりそこにも雑然としたものが詰め込まれている。何故か寝袋がひとつあったが、あんなものにくるまりたいとは思わなかった。大きいから隠れることは出来そうだが、何しろ埃まみれで、くしゃみが出て止まらなくなりそうだ。
 残るは、あの扉の向こうだけだ。
 意を決して足を踏み出し、できるだけ物の密度が少ないところを選んで部屋を渡っていく。サイレンはまだ続いていた。あの男の人は一体どこへ行ったんだろう、と今更だが彼女は思った。コンピュータの電源も、この部屋の電気も点けっぱなし。てことは、すぐ戻ってくるつもりだって、ことだよね。
 トイレかな。
 それが一番妥当な回答だろう。ということは、もういつ戻ってきてもおかしくない。そう思い至った彼女は足を早めた。もはや足下に構わず障害物を乗り越え乗り越え乗り越えて、何度か転びかけながらもようやくその扉の前にたどりつき、いざノブに手をかけようとした直前に、先ほど彼女が入ってきた扉のノブががちり、と音を立てた。
 思わず振り返った。
 あの人が戻ってきたのだ。
 まずい、と思う。出来るなら駆け戻って扉を閉めたかったが、当然のことながらそんなことは出来なかった。怪しい者が中にいると教えているようなものだし、それ以前にこの魔窟の中を駆け戻るなんて不可能だ。流歌の視界の中でゆっくりと扉が開き、果たしてその向こうには、白衣の男が立っていた。ぼさぼさ頭の不機嫌そうな顔まではっきり見えた。彼は下を向いていたが、顔を上げたら目が合ってしまう。どうしよう、と流歌が思ったときだった。
「長津田さん!」
 聞き覚えのある声がして男がはっとしたようにそちらを振り返った。記憶を探るまでもなく、さっき出会って別れたばかりの宮前さんの声だった。彼女がかつこつとヒールの音を鳴らしてこちらにやってくるのが聞こえる。長津田と呼ばれた白衣のぼさぼさ男はそちらの方に向き直り、流歌の目の前にその横顔をさらした。無精ひげの生えた頬はこけていて彫りが深く、精悍な印象を与えた。映画などで悪役を張る男が休日に、髭も剃らずにごろ寝していたところを強襲されました、という感じ。
「やあ」
「やあじゃないわよ、今何時かわかってる?」
「ああ……」
 男は扉から手を離して腕時計を見た。扉がゆっくりと閉まり始める。早く閉まって、と流歌は祈る。閉まりかけた扉の向こうで長津田が答えるのが聞こえた。
「四時、ちょっと前」
「約束は?」
「……三時」
 しおたれた声は存外に可愛らしい。恐らく宮前さんと長津田さんは三時に何らかの約束をしていたのに、長津田さんは研究に没頭するあまり今まで我に返らなかったと言うところらしい。長津田さんがその長身を恐縮するように縮めたのがわずかに見え、それを最後に、ぱたん、と音を立てて扉が完全に閉まった。
 二人でどこでもいいから出かけてくれないかな。
 流歌は慌てて背にしていた奥の扉に向かいながら、ちらりとそんなことを考えた。

   *

 この扉は、さっきの廊下に続く扉とそっくり同じ形をしていた。
 流歌は背後に全神経を傾けながら、音をさせないようにそのノブに手をかけた。鉤型のノブを下に押し下げるタイプの扉。焦る気持ちをなだめすかしながら、ゆっくりとノブを押し下げる。
 ガチリ。
 厭な感じの抵抗があった。
 彼女は呆然と、そのノブを見つめた。
 ――か、鍵が……!
 忌々しいことに鍵がかかっていた。見たところこの扉にはこのノブしかついていないのに、いったいどうやって鍵を開ければ良いんだろう?


2003年06月11日(水) 星降る鍵を探して2-3-1

 3節

 その頃の須藤流歌。
 彼女は15階までたどり着いたところで、下へ続く階段がそこで終わっていることに気づいて慌てた。勢いのついていた体を、手すりに手をかけて止める。階段の表示は確かに15階を示しているのに、まるで一番下にまでたどり着いてしまったみたいだ。一体どうなってるんだろう。15階から下へ続く階段は、また別に作られているのだろうか。
 テレビ局とかってこういう作りになってるって、何かで読んだ記憶があるけれど。
 あれはテロリストに占拠されることを防ぐためだったはずだけど。
 じゃあこの研究所でも、テロリストを警戒してるというわけ……?
 ウィィィィィ……ン。
 少し前から鳴り始めたサイレンが流歌の焦りをかき立てる。彼女はため息をついて、15階の廊下へ滑り出た。こんな事態を引き起こしてくれた厄介な拳銃は、ジーンズの背に挟んである。重いし冷たいしかさばるし、いっそ捨ててしまいたいのだけれど、そこまで吹っ切ることもできなかった。撃つ気はなくても牽制になるんじゃないかと思うと。でもそんな事態、できるなら起こって欲しくはないわけで。ああもう、今日は厄日だろうか。
 この警報のおかげでか、廊下には人影がない。
 でもこの階にも、人が溢れている気配がしている。同じ間隔で並んだ扉の風景は今までの階と同じだったが、扉の向こうに人がいる。低い、意味のない振動にしか聞こえないが、話し声もしていた。
 ――どうか、誰も、扉を開けませんように。
 ドキドキしながら、その扉がずらりと並んだ廊下を進む。
 この廊下の向こうには、きっと下へ続く階段があるはず。そう自分に言い聞かせながら歩いていくのだが、普通に足を動かしているはずなのに、まるで夢の中でもがいているみたいにちっとも前に進めない。いや、進めないのではなく果てがないのかと思うほどに長いのだ。向こう端は見えている。「非常口」を示す緑のランプも見えている。見えているのに、恐ろしく遠い。
 こういう場所で、靴を履いていないと言うことが、こんなにも心細いものだったなんて。
 無意識のうちにむき出しの二の腕を手のひらで覆って暖めながら、流歌は歩を進め――
 ウィイィイィイィイィ、というサイレンの音が彼女の脳裏をかき乱し――
 目を閉じてサイレンを振り払うように頭を振ったその瞬間、彼女の目の前で、扉が開いた。
「あああ、うるせえなあ!」
 憤慨したように吐き捨てる声が聞こえる。
 扉を開けたのは背の高い男の人、だったらしい。為す術もなく立ちすくんだ流歌の目の前を、くたくたの白衣を着たぼさぼさ頭の男がのっそりと通り過ぎていった。 「だったらしい」というのは、流歌にはその人を観察している心理的余裕が全くなかったためである。悲鳴を上げるか、逃げ出すか、しゃがみ込むか、攻撃するか――という選択肢が浮かびはしたがそのどれをも取ることが出来ず、彼女はただ口に手を当てていた。切羽詰まったときにただ立ちすくむしかできないという自分のていたらくが情けなくもあったが、結果的にはそれで良かった。出てきた男は信じがたいことに、流歌に気づきもしなかったのである。サイレンに毒づくのに忙しかったのか、それとも他のことに気を取られていたのだろうか。ともあれ流歌が我に返ったときには男は向こうに向けて歩いていくその背中を見せており、流歌は安堵の吐息を漏らす暇もなく閉じかけた扉の中に滑り込んだ。


2003年06月10日(火) 星降る鍵を探して2-2-3

「あのう……失礼は承知で、ひとつだけ、教えていただきたいんですが」
 梨花は用心深く言ってみた。玉乃がにこっと笑って首を傾げる。
「なあに?」
「先ほど高津さんにもお話ししたんですけど、この研究所内にね、わたしの……友達の友達が勤めているんです。残業で遅くなったおりに、わたしの追いかけている”彼”の姿を見た、って教えてくれて。だから今日おじゃましたわけなんですけれど」
「そうなの」
 玉乃はにっこりした。
「それはいつのこと?」
「一昨日です」
「へえ……で?」
「電話をもらったときには耳を疑いました。だって研究所でしょう? ここの一体何が、彼の興味を引いたのか、って」
「そうねえ」
 玉乃は首を傾げた。その様子を見ていると、これが演技だなんてとても思えなかった。玉乃はしばらく考えた後、首を振った。
「何かしら。わからないわ。お友達の見間違いじゃないのかしら。少なくともわたしには――思いつかないわ」
 しまった――
 梨花は玉乃に視線を投げそうになるのを必死で押さえなければならなかった。どうして怪盗の話なんて振っちゃったんだろう。『わたしには――思いつかないわ』と言ったとき、玉乃の声に混じったほんのわずかな動揺は、瞬きの間に消え去った。ああ、お願いだから、と梨花は誰だかわからない存在に祈った。お願いだから、彼女が自分の矛盾に気づいたのではありませんように。
 そんな僥倖が起こるはずはないのだけれども。
 と、思ったときには20階に着いていた。梨花はその廊下に出た瞬間に、空気すらもがここより上の階と比べてがらりと変わったことに気づいた。人の気配が充満していた。静かなのは変わらないのに、人の発するかすかな暖かさが押し寄せてくるようだった。
 玉乃はエレベーターまでやってくると、梨花の両手をぎゅっと握った。高津がエレベーターのボタンを押すと、ちょうどここに止まっていたらしくすぐに扉が開く。
「……ごめんなさいね、私の手が空いていれば案内をして差し上げるところだけれど、今からちょっと会議が入っているの。高津くん、梨花さんをしっかり下までお送りしてね? 梨花さん、お会いできて嬉しかったわ。今度はちゃんと許可を取ってからいらしてね。隅々までご案内するわ」
「そうします。お騒がせして済みませんでした」
 梨花は内心を悟られぬように、笑顔を見せた。玉乃も笑顔を返した。もし玉乃が動揺しているのなら――しているに違いないのだが――その笑顔は信じがたいほどに完璧だった。その笑顔を見ただけで背筋が冷えたような気がした。無事にここから出られるだろうか。早く扉が閉まってくれればいい。この人の視線から、あたしを隠してくれればいいのに。
「それじゃあ。高津くん、お送りしたらすぐわたしのところへ戻ってきて」
 永劫にも思えるような時間をかけて、ゆっくりと扉が閉まる。閉まる寸前まで、玉乃の笑顔は完璧だった。扉が閉まり、体がわずかに浮いたような感触。エレベーターが下り始めたのだ。梨花は今まで防衛本能が押さえ込んでいた全身の冷や汗がどっと浮き出したのを感じた。玉乃に取られていた腕に汗が浮いていたらどうなっていたことか、と思って大きくため息をつきそうになったが、寸前でそれを押しとどめることが出来たのは、高津が隣で大きく息を吐いたからだった。思わず足を踏みつけてやりたくなるような、うっとりした、能天気なため息。
 どくどくどく。
 今更ながらに鼓動が早くなる。
 あの人は頭がいい、と梨花は思う。一介の大学生に過ぎないあたしなんかよりもよっぽど頭がいい。だから気づいただろう。『なんの変哲もない研究所の職員が、”怪盗”の存在を知っているはずがない』という矛盾に。そう、一般の人なら知らないはずなのだ。まだどのメディアも、神出鬼没の怪盗の存在を取り上げていない。当たり前だ。圭太は、『人に言えないようなもの』しか狙わないのだから。

『”怪盗”を追いかけているそうです』
『へえ、彼をね。大変ね』
『ええ、とっても』

 ああ、あの会話だけ、なかったことに出来ればいいのに。
 あそこさえなければ玉乃の言葉は完璧だった。この研究所には記者の興味を引くようなものは何もない、ということを示すため、彼女の会話の誘導は巧妙だった。高津が連発した「立入禁止」も使わず、玉乃は梨花が捕まったのは研究所全体が緊張しているせいであり、また梨花が正規の手段を執らなかったせいだと言うことで梨花の興味を逸らそうとした。梨花だってもしあの扉に近づいてあの音を聞いてさえいなかったなら、騙されてしまっていたかもしれない。
 あの音。不気味な扉。あの扉の向こうには何があったんだろう。玉乃が隠しているものは、一体なんだろう。
 いったいあの厄介な怪盗は、何を狙っているっていうんだろう――
 梨花は震える息を吐いた。何とか高津を撒いて逃げ出さなければ、と思った。玉乃が黙って梨花をここから出してくれるとは、もはや信じることが出来なかった。杞憂かもしれない、と梨花の中の楽観的な部分が囁いたが、あの笑顔が最後まで完璧だったことが、梨花の不安を煽っていた。


2003年06月09日(月) 星降る鍵を探して2-2-2

   *

 新たに廊下の方から現れたのは女性だった。高津はばつの悪そうな顔をして梨花を放し、そちらに向き直った。気弱げな言葉が高津の喉から漏れる。
「玉乃姐……」
「こんなところで何してるの? 見張りはどうしたの? さっき下で……あら」
 玉乃と呼ばれた女性は梨花の顔を見て眉を上げた。梨花は高津から数歩下がって大きく息を吸い込んだ。体中が震えていたが、あの音に絡め取られそうになっていた時に比べたら天国にいると言ってもいいような気持ちだった。大きく深呼吸を繰り返しながら、新しく出てきた女性に視線を向ける。彼女は梨花より、そして高津よりも年上らしく、落ち着いた物腰の美女だった。まず目に付くのは長い、艶やかな黒髪だった。何故か白衣を着ていて、その肩や背にさらさらと流れている。
 その黒髪の美女がつかつかとこちらに歩み寄ってくると、高津が慌てたように脇に退いた。女性は眼鏡をかけていた。眼鏡の奥の目は少々垂れていて、この場に不似合いなほどに優しく見える。
「こんにちは。どうしたの? あなた誰?」
「記者です」
 と答えたのは高津だった。彼は何故か直立不動になっていた。よっぽどこの玉乃という女性が怖いのだろうかと思ったが、高津の表情を見ると恐れていると言うよりは、
 ――崇拝してる?
 わかりやすい男だった。マルガリータといい勝負だ。高津の目は「うっとりしている」と言っても良く、ほれぼれと玉乃女史の立ち姿を見つめていた。その視線はふらふらとさまよい、形良く盛り上がった胸の辺りに止められたりなんかしたりして。
 こらこら、どこを見ているんだ。
 とはもちろん口に出さず、梨花は咳払いをした。高津の言葉を肯定するために頷いてみせる。
「そうです。初めまして。今日は名刺を持ってきていませんが」
「そりゃあそうよね」
 玉乃女史はおかしくてたまらないというような笑みを見せた。
「記者さんにしては若そうだけど?」
「見学者に紛れ込もうと思って。得意なんです」
「羨ましいわねえ。初めまして。玉乃って呼んでね」
 彼女はにこにこしながら、綺麗にマニキュアを塗られた手を差し出してきた。ふわり、といい香りが漂う。梨花はできるだけ大人っぽく見せるように気を付けて――女性を騙すのは至難の業だ――その手を握った。握手だなんて珍しい。酔うと握手をしたがる友達が一人いるが、彼女と飲んだ時以外で握手をしたときなんて、これまでの人生でもあまりなかったような気がする。
「飯田梨花です。どこの記者かは言えませんが」
「まあそうよね。何の取材でいらしたの?」
「”怪盗”を追いかけているそうです」
 と高津が口を出した。玉乃女史が意外そうな顔をする。
「へえ、彼をね。大変そうね」
「ええ、とっても」
 ドキドキしながら頷く、と、玉乃は梨花が息を吐いた一瞬を狙うようにして切り込んだ。
「まだどの新聞にも、雑誌にも、彼の記事は出てなかったような気がするけれど?」
 息を飲みかけるのを何とか抑えなければならなかった。
「――不完全な情報を載せるわけにはいきませんから」
「ふうん。硬派なのねえ」
 玉乃は梨花の手を取って、ゆっくりと階段の方へ誘(いざな)った。本当に自然な動きで、逆らうことなんて思いも寄らない。彼女は梨花と同じくらいの身長で、細身で、全く強そうには見えない。けれど高津よりよっぽど手強い。梨花は階段の方へつれて行かれながら、ゆっくりと、玉乃に気取られぬように呼吸を整えた。玉乃がこちらに人なつっこい視線を投げる。
「あのね、飯田さん……梨花さんって呼んでも?」
「どうぞ」
 頷くと玉乃はにっこりした。梨花も微笑みを返した。この人はやっぱり西洋風の習慣の持ち主なのかな、と梨花は思った。どうみても日本人の外見だけど、外国育ちってことはあるかもしれない。
 玉乃と一緒に階段を下り始める。高津は玉乃との間に梨花を挟むようにしてついてきている。この玉乃という人の和やかな笑顔の裏に潜むものを何とか探り出したいと思ったが、彼女の物腰は完璧だった。
「下まで高津がお送りするわ。申し訳ないけれど、マスメディアの方の見学は、事務所の許可を得ていただくことにしているの。この研究所では日本中の天文観測所から送られてくる様々なデータを統括・処理して、太陽風が地球に与える影響や、宇宙塵の濃度、種類、天文状況と流星の関係――といった様々な研究が行われているのだけどね」
「はい」
「記者さんならご存じでしょ? 最近火星と木星の間にある小惑星群の活動が活発化しているって」
「ええ」
 梨花は頷いた。そのニュースなら知っている。昨日、帰り間際に流歌と会う直前の授業で、先生が雑談に交えて話していた。居眠りしていなくて本当に良かった。
「実は火星と木星の間にあるものだけじゃないのよ。数日前から地球に降り注いでいる流星が――数だけじゃなく動きまで含めて、非常に不規則になっているの。原因は不明。不思議でしょう? で、私たちもその観測データの処理に追われていて、ここ数日少し――張りつめていてね。高津が何か失礼なことをしたのじゃないといいけれど」
 ちらり、と高津に視線をやる。別に睨んだわけではないのに、高津は目に見えて恐縮した。玉乃はすぐに梨花に視線を戻して、微笑む。
「でもね、あなたのやり方もちょっとフェアじゃなかったと思うわ。そうでしょう? 怪盗を追いかけているという事情はわかるけれど、見学者に紛れ込んで忍び込むんだもの。ね?」
「そうですね。申し訳ありませんでした」
 梨花が頭を下げると、玉乃はぱっと花の開いたような笑顔を見せた。
「わかってくださって嬉しいわ。高津の失礼はそれでチャラということにしてくださる?」
「ええ」
「よかったわ」
 にこにこと笑顔を振りまく玉乃の顔を見ていると、本当に、ここには記者が興味を持つようなものは何もないといった気分になってくる。この人は本当に手強い、と梨花は思った。


2003年06月08日(日) 星降る鍵を探して2-2-1

  第2章

 時間は少々さかのぼる。
 何の変哲もない階段を、高津の後について降りていく。
 梨花と高津は今23階から22階へ降りる階段に差し掛かったところだった。梨花は何とかこの辺の階で何が行われているのか探ろうと耳をそばだたせていたのだが、24階も23階もしん、と静まり返ったまま、なんの物音も気配も感じることが出来なかった。高津は梨花がおとなしくついてくることに安心しているのか、足早に大股に降りていく。ついていくためには小走りにならなければならないほどだ。高津が全く振り返らないことで少し大胆になってきて、梨花は歩く速度を緩めた。高津との距離が少し開いて、ちょうどたどり着いた22階の廊下を覗き込んでみる。
 サイレンは既に止んでいた。
 恐ろしいほどの沈黙が梨花を包み込んだ。
 何の物音も気配もしない。まくっていたシャツの袖から突き出た腕に鳥肌が立っていることに気づいた。涼しい。というか、寒い。空調がよく効いているというよりも、まるで全てが死に絶えたような、ひどく空虚な沈黙――
 ヴ……ン。
 澄ませた梨花の耳の奥に、かすかな音が聞こえてきた。
 冷蔵庫の、あの低い稼働音をごくごく小さくしたような、何かが震えるような音だ。梨花は息を吸い込んで、目を閉じた。耳鳴りだろうか。あまりにも静かだから、自分の血の流れる音が聞こえているのではないだろうか。
 しかし、

 リ……ィ……

 リィ……

 リ……ィィ……リィィ……

 先ほどの音よりもさらにかすかな、何か共鳴するような音に気づいて、梨花は目を開いた。耳鳴りなんかじゃない。何かがある。梨花の目の前には25階と全く同じ景色が広がっている。同じ間隔で並んだ照明、同じ間隔で並ぶ扉、同じ間隔で並ぶ消火器。まるで先ほど降りた階段は全て嘘で、何度降りても同じ場所に戻って来ているような錯覚に加え、耳の奥にこびりつくようなこの不吉な音、気づいてしまうとその音は、なぜこんな音に気づかずにいられたのかといぶかしむほどに梨花の全身に押し寄せてきた。梨花は更に廊下の方へ一歩足を踏み出した。すぐ側にある扉からその音は聞こえてきている。全身の産毛を逆立たせるような音、鼓膜を直接引っかくような音、鳥肌が立つ、気持ち悪い、逃げなければ――梨花の思考はその音によってめちゃくちゃにかき乱されていた。わかっているのは「逃げなければ」ということだけ、しかし彼女の体は意志に反して少しずつ扉の方へ近づいていく。足が言うことを聞かない。体がひどく重くて、それなのに足が地に着いていないようなとても頼りない気分。この感覚はいつだったか感じたことがある、ああ、そうだ、マイキちゃんの感情があたしの中に流れ込んできたときと同じような。自分が自分でなくなるような。視界が歪む。息が出来ない。頭の中に何か電波のようなものが入り込んで脳の細胞ひとつひとつの間に割り込んで自分の体を構成する組織がバラバラになってあの扉の隙間から吸い込まれそうな――
 あの扉の向こうに何かがある。扉がぐにゃりと歪んだように見えた。扉の隙間は恐ろしいほどに黒々として、もしあの向こうに宇宙空間が広がっていたとしても今ならきっと驚かないだろう。開けてはいけない。今すぐここから逃げなければ。そう思っても体は勝手に動いて、梨花の手がついに扉のノブを掴んだ。ぴりっ、と静電気に似た衝撃を感じる。向こう側には何か巨大で醜悪で冷ややかで張りつめた恐ろしいものが、
「……おい!」
 高津がいきなり梨花の肩を掴んで、梨花は悲鳴を上げた。全身の感覚が一気に戻ってきて、酸素が盛大に肺に流れ込んで彼女は思わず喘いだ。一体なんだ、今のは――慄(おのの)きながら目を瞬くと、高津の憤怒の顔が間近で梨花を覗き込んでいた。
「立入禁止だと言っただろう! 殺されたいのか!?」
 立入禁止――?
 梨花はまじまじと高津を見つめた。この男はあの音に気づかないのだろうか、と思ってから、梨花は既に自分にもあの音が聞こえないことに気づいた。高津の存在があの音をかき消している。本当にごくごくかすかな音だから、誰かと一緒にいるだけで聞こえなくなるのだ。そう思い至って彼女はぞっとした。もしたった一人だったら、高津が戻ってきて引き戻してくれなかったら、あたしはあの扉を開けていただろうか?
「あの中には……何があるの……?」
「なんだと……!?」
「あなたは見たことがあるの!? あの中には何があるの、ねえ教えて、ここでは一体何が!」
「うるせえ!」
 高津のごつごつした巨大な手が梨花の首を掴んだ。息が詰まった。全身の血が逆流したような気がして梨花は高津の手に爪を立てたが、苦しくて息がしにくいだけで、高津は単に梨花の言葉を止めるために喉を掴んだにすぎないことにすぐに気づいた。もしこんな大きな力の強そうな手で本気で握られていたら、こんなことをあれこれ考えることなんて出来なかったに違いない。高津は梨花が黙ったのを見て、手を緩めた。舌打ちをひとつ。
「いいか、何度も言わせるなよ。ここは立入禁止なんだ。今度こんなことをしたら、」
「それはあなたにも言えるわよ」
 唐突に高津の背後から涼やかな声が響いて、高津が動きを止めた。


2003年06月07日(土) 星降る鍵を探して2-1-4

   *

 さて、新名兄弟である。
 二人は、ここに入ったときとは見た目が全く変わっていた。
 何でもないTシャツとジーンズにスニーカーという格好だった二人は、今は黒ずくめの服を着ていた。兄から渡されたマイクとスピーカーの他にもう一つ、オペレーターが使うようなマイク・イヤホンが一体となった、小型の通信機を装備している。服と通信機はここに上がってくるまでに出会った二人の不運な見張りを倒して奪ったものだった。ここに来るまでに二人が倒した見張りは、入り口のも含めて三人に上っている。
 卓はすっかり諦めていた。もはやこれが「下見」だなどと、どう転んでも言えないようなものなのだということはよくわかっていた。いや兄は未だに「下見」だと言い張るのだが、ここで日本語の用法の食い違いについて論じあっていても仕方がない。かくしてすっかり敵方そっくりの服装をした二人は、敵に全く気づかれぬままに前進を続けている。
 と――
 またしても、前方からひとつの足音が聞こえてきた。規則正しい足音だった。先に行っていた兄が壁に身を隠し、卓もそれに倣った。敵から奪った通信機に意識を集中する。先ほどからこの通信機は全くの沈黙を続けており、敵の情報はほとんどと言っていいほど得られていない。
 兄が身振りで『行け』と言い、卓は頷いた。もうここまで来てしまった以上、ぐずぐず言っても仕方がない。毒をくらわば皿までだ。さらば俺の平和な日々。願わくば再び、あの輝かしい太陽の下へ戻らんことを。
『音を立てるなよ』
 兄の言葉にうなずきを返し、卓は息を整える。かつかつという足音はもうすぐ側にまで近づいてきている――
 と、足音が止まった。
「はい、こちら山田」
 はっきりした男の声がすぐ側で聞こえ、卓は息を詰めた。どうやら、誰かから連絡が入ったらしい。どうして卓の持つ敵方のイヤホンにはあの連絡が入らないのだろう。ふとした疑問が湧いたが、男がえ、と声を上げたのでその疑問はすぐに忘れてしまった。
「そうなんですか? 入り口の――はい。了解。すぐ見てきます」
 山田さんというらしい男の声がそう言って、足音が再開された。先ほどよりもかなり早い速度でこちらに向かってくる。卓は息を整えた。山田さんが角から姿を見せるまで、あとほんの数秒。いつでも行動に移れるように、全身から力を抜き、息を全て吐く。
「どうなってるんだ」
 独り言がほんの間近で聞こえる。卓は息を吸った。タイミングを計って、たわめた全身をバネにして隠れ場所から飛び出し、視界一杯に山田さんらしき男の黒い影が広がり――
「――ぐっ!」
 くぐもったうめき声。卓の放った拳は正確に山田さんの鳩尾の急所をとらえていた。ああ、師範――卓はくずおれた山田さんの体を音を立てぬように支えながら、卓に空手を教えてくれた白髪頭の師範に向けて懺悔した。ごめんなさい師範。俺はもう貴方に顔向けの出来ない体になってしまいました。
「大したもんだ。誉めてつかわそう」
「そりゃ……どうも」
 兄のおどけた賞賛の言葉にため息混じりで答え、男の体を横たえる。今二人が着ているものと同じ、黒ずくめの服装。銃に、通信機と言った装備は今まで倒した三人と同じだったが、この男はその他に、腰にポーチをひとつつけていた。中を開けると何かのプラグやレンチ、ドライバー、ペンチ、色とりどりのコード類がぎっしり入っている。
「工作員だな。受け持ちの箇所は終わったのか――ん?」
 ポーチの中を探っていた兄が声を上げ、中から一枚の紙切れを取りだした。広げるのを横から覗き込むと、それはどうやらこのタワー内の見取り図のようだった。何箇所かに赤い印が付けられている。今二人がいる場所のすぐ近くにも印がある。兄は男のポーチを外し、自分の腰に付けると、こちらを見下ろしてニヤリとした。
「下見に来た甲斐があったな」
 まだ言い張るか、この兄は。
 卓は男の体を縛り上げて物陰に隠しながら、その自分の手際にため息をついた。縛るのは既に三人目。兄の指導のおかげでだいぶ手際が良くなってしまった。ああ、人を縛るなんてことだけ上手くなってどうするんだ。人間としてそれはどうだ。
 卓が嘆いている間にも兄は行動を開始していた。印のついた箇所を探して先に進んでいる。兄の動きは素早いのにとても気配が希薄で、さらには音を全く立てないので、男を隠すために兄から目を離しているだけで兄がどこかに消えてしまったような気分になる。まあ、あの兄が選んだ職業が「探偵」というものでよかったよな――と卓は何とか前向きに考えようとしていた。あの身のこなしで暗殺業でも営まれた日には、日本の未来はどうなる。
 これが「探偵」のすることだろうか、というそこはことない疑問が湧かないでもなかったが、それについてはこの事件が片づいてからゆっくり考えることにしよう。卓は山田さんに内心で謝罪してから、兄の後を追った。最後に男の通信機を奪ってポケットに入れることは忘れなかった。半ば無意識に行った行動だったのだが、後でその無意識の行動が自分を大変な事態に陥れることになろうとは、まだ想像だにしていなかった。


2003年06月06日(金) 星降る鍵を探して2-1-3

 でも、俺は行く。
 動かない圭太の背中に、頭の中だけで言い捨てて、剛はきびすを返した。起こす気はなかった。起こしたら止めるだろう。制止の言葉など聞きたくはなかった。止められずとも、自分がどんなに馬鹿なことをしようとしてるのかということはよくわかっている。でも、行くしかない。そう、あの兄妹の間に割り込める立場にはないけれど。もしかしたら、彼女を助けにいくということすら、差し出がましいことなのかも知れないが。でも、彼女が無事でいなければ、この世に何の意味もない。
 マイキはもはや肩を叩いてはいなかった。心配そうに剛を見下ろしてくるその視線から逃れるように、剛は玄関に向かった。
 玄関で靴を履いてから、マイキを下ろす。手荒な真似をして悪かった、と囁くと、マイキはふるふると首を振った。思わず笑みがこぼれる。このマイキという少女はひどく可愛らしくて、同じ年頃の女生と言うよりは子供か――もしくは小動物のようだった。良く懐いている子犬に見送られているような気分で玄関を開け、外に出る。暮れかけた夕闇の空気は少しずつ冷えはじめ、寝起きで火照った頬を心地よく撫でていく。
 ため息をついて、歩き出す。
 すると、閉まったばかりの玄関の扉が開いた。
 振り返る。
 靴を履きながら、不安定な足取りでマイキが追いかけてくる。
「ど、どうした」
 囁くとマイキはなにやら決意を秘めた顔つきで、両手に持っていたものを差し出してきた。ひとつは剛の携帯電話だ。リビングに置きっぱなしになっていたものだ。もう一つはこれまた剛の財布である。
 恥ずかしい。
「ああ……すまん」
 財布も持たずにどうやって行くつもりだったのかと自分を責めながら受け取って、ポケットに入れて、じゃあな、と声をかけて歩き出す。とことこ、と小さな足音がついてくる。まだ何かあるのかと振り返った剛の道着の裾を、マイキが掴んだ。
「つ、ついてきてはいかん」
 狼狽して少し大きな声を出す、と、マイキはこちらを見上げた。ふるふる、と首を振る。いや、それはどういう意味だ。剛は途方に暮れた。マイキの表情は乏しくて、何を言いたいのかわからない。
「今から危険なところに行くのだ。貴様を連れていっては、新名卓に言い訳が立たん」
 その細い肩に両手を置いて、諭すように言ってみる。保父さんにでもなった気分だ。マイキは先ほどまでよりもさらにきっぱりと、首を振った。一緒にいる、と言われた気がした。
 剛は知らなかったが、卓が剛を気絶させた後、克がマイキに言っていたのである。『こいつを見張っててくれ』と。マイキとしては出来れば見張ったまま克と卓を待ちたかったのだが、剛が起きてしまい、止めてもあっさり外に出られてしまった。マイキの力ではこの巨大な男を制止することはとてもできない。だから、ついて行くしかない。見張っているためには。
「……」
「……」
「……」
 二人の間を息詰まった沈黙が流れていく。
 折れたのは、剛の方だった。

   *

 誰もいなくなったリビングで、圭太は深いため息をついた。彼は眠っていなかった。眠れるわけがなかった。いっそ卓に気絶でもさせてもらえば良かった。卓の手並みはとても鮮やかで、あれでは痛みを感じる暇もなかっただろう。いつも平和そうな顔をしているから忘れてしまうが、ああ見えても卓は空手で全国大会のいいところまでいった男なのだった。さすがはあの兄の弟と言うところだろうか。
 剛とマイキが出ていって、五分ほどが経っていた。圭太は張りつめていた息を吐き、ごろりと仰向けになった。剛は圭太を起こそうとしなかった。起こしたら止めるだろうと思ったのだろうが、止める気はまるでなかった。剛が羨ましい、とさえ思う。剛は何も知らない。流歌を助けに行くことは、流歌のためではなく自分自身のためなのだと言い切ることの出来る単純さが、今はひどく羨ましい。
「猪突猛進」
 呟いてみる。
「単細胞」
 次第に夜の闇が濃くなってくる。
「……あそこにはあいつがいるのに」
 桜井が。
 桜井昇は、七年前は大学生だった。今の圭太と同じくらいの年齢だっただろう。表情が抜け落ちたような、どことなく茫漠とした男。それでいて冷たくて……何か、とても、存在感のある男。
 圭太は目を閉じた。ふつふつと、胸の奥に沸き上がるものがある。桜井のことを思い出すだけで、ひどく冷たい気分になる。それでいてふつふつと沸き返る感情は、どろどろとして、熱い。
「見てろよ」
 圭太は目を閉じたまま呟いた。
「人の妹をさらったら、どんなことになるか教えてやる」


2003年06月05日(木) 星降る鍵を探して2-1-2

   *

「……っ!」
 がばっ! と身を起こすと小さな影が驚いたように飛び退いた。剛は上げかけていた声をすんでの所で飲み込んだ。びっしょりと汗をかいていた。悪夢だった、と彼は思った。具体的にどんな夢だったかはすぐにわからなくなってしまったが、須藤流歌が居たような……気がした。
 どくどく、どくどく。
 全力疾走をしてもほとんど乱れることのない彼の鋼の心臓は、今は何故か、ひどく。
 ――大丈夫?
 小さな声が聞こえた気がして顔を上げると、マイキという小さな少女が傍らにしゃがみ込んで、覗き込んできたところだった。見ると毛布が床に落ちていた。どうやらこれをかけようと近づいてきた気配を感じて、自分は飛び起きたものらしい――
(飛び起きた?)
「寝てたのか……?」
 呟くと、マイキがこくりと頷いた。剛は右手で目を覆った。眠っていたというのか。信じられない。須藤流歌が危険にさらされているというのに、俺は――
 窓の外を見ると夕日の残照が赤くわずかに残る他は、夕闇に包まれ始めている。マイキの驚くほどに整った綺麗な顔立ちも、薄闇に沈みかけている。
 剛は辺りを見回した。
 先ほどいたリビングほどではなかったが、なかなか広い部屋である。扉のある側の壁には彼が寝ていたベッド、窓のある側の壁には勉強机と椅子、クローゼットらしき扉のある側の壁は、扉以外は全て本棚になっている。持ち物を見るとどうやら新名卓の部屋らしい。
 周囲を把握すると同時に、眠る前の記憶も甦ってきた。
 そうだ――少し休め、と言われたのだ。卓の兄の、克という男に。冗談じゃない、と思った。居ても立っても居られなかった。マイキのあのすこぶる美味いケーキのおかげでエネルギーも補給したことだし、剛は一刻も早く流歌の救出に向かいたかった。けれど。
『昨日寝てないんだろう。体調を万全にしておけよ。どうせ夜にならなきゃ動けない。俺たちが帰るまで待っておけ』
 冷静に克に諭された。どこへ行くのかと聞いたら、怪盗を呼び出した奴らがどの程度の覚悟で怪盗に立ち向かおうとしているのかを探るために下見に行って来る、と言われた。克がそう言ってひどく楽しそうに笑って、卓と圭太が何故か微妙な顔をしたのが、記憶の片隅に残っている。
 しかし、剛は激昂した。今更下見など。そんな悠長なことを言ってる場合か。こうしている間にも流歌は危険にさらされているに違いなく、剛から見れば流歌はか弱い。体力がない。戦闘能力はあるが、あの細く華奢な体は触れただけで折れてしまいそうで、彼女がさらわれてどんな目に遭っているか、どんなに心細く思っているかと思うだけで――
 それで、自分は、何と言ったのだったか。
 そうだ。ならば俺だけでも先に行くと言ってきびすを返して。
 その背後で『卓』と克が何か促すような口調で言って。
『……わかったよ』と卓が何か諦めたような口調で言って。
 その後は。
 その後は……?
「寝ていたというのか」
 剛は重いため息をついた。自分が許せなかった。卓がおそらく自分を気絶させ、昨夜からの睡眠不足でそのまま眠ってしまったのだろうと、想像はついたが許せなかった。
「新名兄弟は帰ってきたか」
 訊ねたが、マイキは答えなかった。顔を上げると、彼女は首を振っていた。思えば彼女が発した声を、剛はまだ聞いたことがない。この子の声は一体どんな声だろう、と反射的に疑問が湧いて、想像してみようとしたが、脳に浮かんだのは須藤流歌の流れるような綺麗な声だった。
 彼女はいつも剛のことを「清水さん」と呼ぶ。
 もう一度あの声で、呼ばれることはあるのだろうか。
「くそ……っ! 俺は行くぞ。もう待てん」
 言って、がばりと立ち上がる。悔しいが、数時間の熟睡で体力はすっかり元に戻っていた。ビックリしたようにマイキが彼を押しとどめようとしたが、剛にとってマイキの制止などないに等しかった。しかしいつものごとく乱暴に振り払っては彼女に怪我をさせるかも知れない、とためらった隙にマイキが首を振りながら両手で押さえつけようとする。仕方なく剛はマイキの体を抱え上げた。軽い。須藤流歌も剛にとっては猫の仔かと思うほどに軽いのだが、マイキはさらに軽くて、まるで体重を感じなかった。
「……! ……!」
 相変わらず言葉を発しないまま、マイキがぺたぺたと剛の肩を叩く。全く意に介さず剛はマイキを抱えたまま卓の部屋を出た。リビングも薄暗く、そのソファに、圭太が寝そべっていた。思わずぎくりとして見つめたが、圭太はソファの背もたれの方に顔を向けて、どうやら熟睡しているようだ。
 ――あやつも昨晩、寝てなかったのか。
 剛はしばし、その背中を見つめた。
 ――心配、してたのか。
 本当に?
 須藤流歌がさらわれたと告げたとき、圭太は平然としたものだった。奴らからの電話がかかってきたときも、平静そのものだった。思えばこいつが取り乱したところを剛は見たことがなかった。心配ではないのかと苛立った剛に、昨晩、圭太はこう言った。
『流歌なら大丈夫だよ』
 何故そう言い切れるのだろう――?
 信頼しているのだろうか。
 そして。
『よその奴に口を出されるいわれはないね』
 先ほど言われた言葉が耳に痛かった。そうだ、俺はよその奴だ。圭太が須藤流歌を怪盗の仕事に引きずり込んで、挙げ句そのせいで彼女がさらわれても、俺には口を出す権利はない。恋人ではないし、それどころか嫌われてさえいる。流歌にとっては剛など「強引な勧誘を繰り返す困ったサークルの主将」でしかなく、もし彼女のことをこんなにも心配していることを流歌が知ったら、滑稽にすら思われるかもしれない。美女と野獣にもほどがある。


2003年06月04日(水) 星降る鍵を探して2-1-1

 第2章1節 

 芸術館の曲がりくねったタワーの中は、沈みかけた落日の赤い光をなみなみと湛えていた。
 時刻は五時を回ったばかり。全面ガラス張りのタワーの中は西からの光をふんだんに吸収し、入り口に立つ卓の周囲は真っ赤に染まっている。それでもまぶしくはないのは、光を抑える特殊ガラスになっているからなのだろう。タワーは帰宅を始めた社会人や高校生の行き交う雑踏の、ほぼただ中に立っているのに、一歩中に入り込むとまるで別の世界みたいにひっそりと静まり返っていた。
 新名卓は頭上を見上げた。タワーの中に入ったのは初めてだったが、とてもわかりやすい構造になっていた。タワーの中はほぼ空洞になっており、中央には床から天井まで貫くエレベーターが備えられていた。エレベーターはガラス張りなので中の人や構造がよく見える。高所恐怖症の人は辛いだろう。その周りをぐるぐる回りながら、螺旋階段がやはり上まで通っている。タワーの中にあるものはこれだけだった。がらんとした空洞の中を上から下まで貫くガラスのチューブと、螺旋階段。なんだか何かによく似ていると思ったが、思い至ってみるとDNAだった。思わずポン、と手を打った。二重になっていないのが悔やまれる。
 頭上を見上げると、遙か上空に天井が見えた。エレベーターと螺旋階段があの天井を突き抜けて上に続いているところを見ると、あれはたぶん展望台の床なのだろう。
 タワーの中は、前述の通り静まり返っている。
 しかし、卓は、上の方から、人の気配が伝わってくるのを感じていた。外壁を伝うように作られた階段の上の方、この位置からではタワーがくねくねしているために見えないのだが、低い話し声や、なにかかちゃかちゃゴトゴトという、金属音がかすかに聞こえてくる。
 ――いるよ……やっぱり。
 卓がこれからのことを思って重いため息をついたとき、見張りを縛り上げてどこかに隠しに行っていた実の兄が、音もなく隣に戻ってきた。押し殺した声音で、しかし事も無げに訊ねてくる。
「奴ら、何人ぐらいだ?」
「わかるわけないだろ……」
「気配を読めよ」
「無茶言うなよ」
 卓は再びため息をついた。自慢じゃないが卓はちょっと空手が強いだけの一般人なのである。人をあんたたちと一緒にするな、と言いたい。

 新名兄弟は今、怪盗が呼び出されたというこの芸術館のタワーに、下見に来ているところだった。
「下見だ」と兄が言い張るからにはそうなのだろうが、本当はもっと他の目的があるのじゃないかと思わずにはいられない卓だった。理由はちゃんとある。ここに入り込む直前の話だ。入り口を見張っている男はまだこちらに気づいていなかったのに、足音も気配も消して男に近づくやあっと言う間に殴り倒し、あっと言う間に縛り上げ、どこかに隠しに行ってすぐ戻ってきた。その間わずか一分。制止しようと卓が思ったときには既に、縛り上げられた男をなす術もなく見下ろしていたと言うわけで。これが「下見」に来た人間のすることだろうか?
 その時兄が言った。
「さあて、下見の開始だ」
 言い張るか。
 舌なめずりしそうな顔を見せ、兄はしゃがみ込んだ。担いできていた重そうなスポーツバッグを開いて、先ほど見張りを縛るのに使ったロープの残りをしまい込む。次いで奥から取り出したのは小さなイヤホンと丸い肌色のシール。そんわけはないと思いながらも、磁気で肩こりを治すアレによく似ている。
 しかし卓は、兄が嬉しそうに取り出したものに注意を奪われているわけには行かなかった。
 ――今、何か見えた。
 下を向いてごそごそしている兄の後頭部越しに、スポーツバッグの中身がちらりと見えたからだ。
 ――黒くてごつごつした、重そうな……
 まさか銃とか言わないよな。と傍らにしゃがみ込んだ兄の頭のつむじに内心だけで語りかけてみたが、つむじが返事をする前に兄が言った。
「顎の下にこれ貼れ」
 差し出したのはあのシールである。卓はもはやこれが何なのかと問いつめる気力もなかった。黙って顎の下に張り付けると、次に差し出されたのはイヤホンだ。
「耳に入れろ」
 言われたとおりにすると、突然、明瞭な兄の声が耳に直接響いてきた。
『すごいだろう、高性能超小型マイクとスピーカーだ』
 思わずギョッとしてのけぞると、しゃがみ込んだままで兄がニヤリとした。
『別行動になっても連絡が取れるようにな。話すときはシールに触れ』
 何でこんなもんを持ってるんだ……という素朴な疑問さえ口にせず、卓は黙って頷いた。訊ねたってまともな答えが返ってくるはずがないことは、厭と言うほど分かっていた。切ない。
 見やるとあれほどの赤い光は徐々に色を変え、寒々とした暗闇が中に満ち始めている。「下見」には絶好の時間帯だよな、と卓は思った。


2003年06月03日(火) 星降る鍵を探して1-3-4

「どこから入った?」
 男はじろじろと梨花を眺め回しながらそう言った。梨花は呼吸を整えた。
「見学者に紛れ込んで入って、で、途中から階段を使って。エレベーターがここまで来てないなんて思いも寄らなかった。普段エレベーターを使う人たちは、もしかしたら二十五階まであるってことすら知らないかも知れないわよね。建築に詳しい人ならともかく、普通の人って、二十階建てにしてはビルが高すぎるとか考えたりしないもの。あのう――」
「質問はなしだ。ここには記者の注意を引くようなものは何もない」
 切り捨てるような言い方に、この人はあまり頭が良くない、と梨花は思った。こんな言い方をしたら、何かあるって言ってるようなものじゃないか。梨花は黙って首を軽く傾げて見せた。男が眉を上げる。
「下まで送ろう。立入禁止のところをうろうろされちゃ迷惑だ」
 立入禁止、ね。
 梨花は辺りを見回した。両側に扉のずらりと並んだ、殺風景な廊下。あの扉の向こうには、一体何があるんだろう。
 記者になりきらなければならないという必要性を抜きにして、隠密活動部の血がうずき始めた。人には大っぴらに言えない研究を続ける研究所と、どうやらその研究を守るのが仕事らしい、どう見てもその道のプロの、居丈高な男。こういう奴らが隠している情報こそ、盗み出してみたいと思うのが隠密というものじゃないだろうか?
 こちらを促すようなそぶりを見せて、男が先に歩き出す。その後に付いて行きながら、梨花は頭を働かせる。この研究所に、記者が入り込んだことはあるのだろうか。どこかのマスコミが、ここの研究の存在をかぎつけているということはあるだろうか。セキュリティは万全なのだろうか。
 嘘をつくときは、肝心なところだけ嘘にして、他は出来るだけ真実を話しておくに限る。梨花は足早に男に追いついて、言葉を紡いだ。
「私、”怪盗”を追いかけてるの」
 そうだ。そうしておけば、ここの研究がどのようなジャンルのものなのかすら、知らなくてもおかしくない。
 案の定男は食いついてきた。立ち止まって振り向いた目はこちらを射抜くほどに鋭かった。
「……何だと?」
「最近少しずつ有名になってきてるのよ。知ってるでしょ? タキシード着て、シルクハットかぶって、マントを羽織った――これぞ怪盗! ってスタイルの。ねえ、何か知らない? 何日か前、この辺に忍び込んだって情報があったものだから――きゃっ!」
 いきなり男が梨花の襟元をつかみあげた。間近に寄せられた顔は憤怒と憎しみに歪んでいる。
「どこで知った」
 まるで遠雷のような――抑えてはいるが、ひどく威圧感のある声音だった。襟元を掴んで持ち上げられて、足が地面から離れてしまった。両手をその厳つい手に掛けて、何とか呼吸を確保する。
「……ニュースソースは明かせないわ」
「答えろ!」
「友達がいるのよ。残業で遅くなったときに見たって。ねえ教えて、彼は何を狙ってるの?」
 男は梨花の襟元を掴み上げた体勢のまま、じろじろとこちらを睨(ね)め回している。その腕は梨花一人の体重を片手で支えたままびくともしない。その形相にと言うよりは、その怪力に背筋が冷える。ごくりと唾を飲み込んだとき、男は舌打ちをして振りほどくように手を離した。
 何か言うかと思ったが、彼は何も言わずにそのまま足早に歩き出す。梨花は追いすがった。
「ねえ――」
「質問はなしだと言っただろう」
「さっきアナウンスがあったわよね。銃を持った不審人物がうろついてるって。その不審人物って……」
「無事に帰りたいだろ」
 男の声は胸の中に突き刺さるほどに冷たい。これ以上何か嗅ぎ回るつもりなら容赦はしないとその後頭部が雄弁に物語っている。後は何も言わずにずかずかと階段の方へ向かう。梨花は彼がすっかり記者だと思い込んだらしいことにホッとしながら、その後を追った。

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これで第1章は終了であります。
人気投票中間発表やりたいなあ。


2003年06月02日(月) 星降る鍵を探して1-3-3

 梨花は唇をしめらせた。この男を倒すこともできそうになく、攻撃を避けることもできそうにないのだから、何とか丸め込んで逃げるしかない。
 ゆっくり後ろに下がりながら、言い訳を絞り出す。
「あのう、今日はね、見学に来たんです。ほら、こんなに高いビルってこの辺じゃ珍しいでしょう? これくらいのビルだったら、やっぱり一番上に昇ってみたくなるでしょう? それでエレベーターで上がってきたの、でも窓も何もないし、サイレンが鳴って慌てちゃって、それで」
「ふうん?」
 男はニヤリと笑った。
 そして、ゆっくりとした動きでこちらに歩み寄ってきた。
 スーツの内側から出した右手には何も握られていなかった。でもそのごつごつした大きな手がこちらに伸ばされるのを見て、梨花は反射的に更に後ろに下がった。握力の強そうな巨大な手だった。あんな手で首でも握られたら、片手で折られてしまいそうだ。
「この階は一般には使われてない。エレベーターは全部二十階止まりだったと思ったが」
 ――え?
 梨花はさらに後ろに下がりながら目を瞬いた。
 どういう意味だ、それは?
「何をしに来た? あの女を助けに来たのか?」
 高津がさらにこちらに近づき、梨花は同じだけ後ろに下がる。その動きを繰り返しながら、梨花はか細くなりそうな呼吸を整えた。
 あの女。流歌のことだろう。この男は流歌を知っている。とすれば一度捕まってみるのも手だ。そうすれば流歌に会える。
 でも流歌が既に逃げ出していた場合は?
 流歌の状況を知りたかった。何とかこの男から、情報を聞き出すことはできないだろうか。
「あの女って、誰のこと」
 出来るだけ声を励まして、平然と響くように訊ねる。高津は薄い唇をつり上げた。
「しらばっくれるつもりか?」
「本当に知らないんだもの。あたしは『見学』に来たの。本当よ」
 見学、というところを意味ありげに言ってみる。すると男は、少し意外そうな顔をした。
「……何の、だ?」
 探るような声音。引っかかった。梨花は悟られないように唾を飲み込んだ。
「言わなくたってわかるでしょう?」
「そりゃあ……」
 男はじろじろと梨花を見た。思い当たる節があるらしい。カマをかけてみただけだったのだが、何とか流歌の仲間ではないと思いこませることに、とりあえずは成功した。……かもしれない。
「見逃してもらえ……ないわよね、きっと」
 出来るだけ大人っぽく響くように気をつけて、梨花は声を落とした。ストライプの入ったキャミソール、ジーンズにスニーカー、上に白いシャツを羽織ったという今の格好ではなかなか難しいかも知れないが、梨花はその気になれば遙かに年上らしく見せる術を心得ていた。
「お前は何者だ?」
 高津が先ほどよりは少し警戒を解いた口調で訊ねてくる。何にしようかな。梨花は一瞬考えてから、抑えた口調で言った。
「……記者」
「どこの」
「そこまでは言えないけど」
 ふん、と男が鼻を鳴らす。まだ胡散臭そうな顔つきだったが、何とか、流歌の仲間ではなく記者なのだと思わせることに成功したようだった。一応は。
 言葉を出す度に、魂が削られていくような気がする。
 飛び跳ねる心臓をなだめながら、梨花は必死で頭を働かせていた。
 このビルは二十五階もあるのに、二十一階から上は一般的には使われていない――エレベーターも届いていない――らしいこと。
 そして怪盗が狙っているということ。
 さらに流歌を拉致するという非常手段を執ってまで、その研究を守ろうとしていること。
 今わかることはこれだけだ。一体何の研究をしているのか知らないが、あの圭太が狙うのである。人には大っぴらに言えない研究であるに決まっている。当然彼らはマスコミを警戒しているはずで、見知らぬ女が忍び込んでいたら、記者かも知れないと思ってくれる可能性はあると踏んだのだったが、今のところは上手く行ったようだった。
 さて、自分は記者である。真実を探り出すことに情熱を傾けるあまり、忍び込むという危険な方法をも辞さなかった精力的で無鉄砲な記者だ。その記者が、どう見ても研究者じゃない男に発見された場合、どのような行動を取るだろう?


2003年06月01日(日) 星降る鍵を探して1-3-2

   *

 高津はよろめきながら立ち上がった。
 一体何が起こったのだろう?
 首筋がうずいていた。自分はどうやら鉄格子の側で倒れていたようで、見やると鉄格子の扉が開いていた。その向こうはもぬけの殻で、あの須藤流歌という女は影も形も見えなかった。
『鍵を持っているなら』
 かすれても怯えてもいない、しっかりした綺麗な声が耳に甦ってくる。
『言ってくれれば良かったのに』
 鉄格子を掴んだ自分の手首に添えられた、あの女の柔らかな手のひらの感触。
 ウィィィィィィィ……
 緊急事態を示すサイレンが先ほどから絶え間なく響いている。
「くそ……っ!」
 事態を把握し終え、高津は鉄格子を蹴りつけた。ごわん、と鉄格子が音を立て、それが更に腹立ちを煽った。気絶させられていたのだ。誰に? 決まっている。あの怪盗の妹に、だ。
 あの怯えた様子も全て演技だったというのか。
 失態を犯したのだ、という事実が次第に鳩尾に落ち着くにつれ、彼の体は次第に震え始めた。恐怖のためではなく、怒りのためだった。桜井があれほどあの女を警戒していた理由がようやくわかった。鍵を見せるな、鉄格子に近づくな、絶対にあの子をそこから出すな。苛立つほどに繰り返された注意。それにも関わらずまんまと計略に引っかかって逃げられてしまった。須藤流歌を逃がしたことを桜井が知ったら、あの男は何と思うだろう? あのいけ好かない上司は。いつでも平然と構え、間違いなど一度も犯したことがないような顔をして、人を見下すような目をした、あの男は。
「……畜生!」
 もう一度鉄格子を蹴りつけて、高津はきびすを返した。何としてでもあの女をこの手で捕まえなければ。出来るだけ研究所員と接触するなと言われていたが、非常事態だ。仕方がない。高津は憤りを出来るだけ抑えながら、扉へ向かった。

   *

 梨花は足早に廊下を走っている。長い廊下だったが、そのうち端が見えてきた。トイレの表示と非常口の表示が白一色の世界に浮かび上がるように見え、梨花はいっそう足を早め――
 その時、梨花の目の前で、扉が開いた。
 それは階段に一番近い扉だった。目の前に立ちはだかるように開いた扉に激突しそうになって慌てて飛びすさる。スニーカーがきゅっと音を立てた瞬間、扉の向こうから男が姿を見せた。
 新名兄弟や清水剛ほどではないが、大柄な男。
 漆黒のスーツを着た、凶悪な顔をした男だった。彼はただでさえ厳つい顔を忌々しげにしかめていたが、梨花のスニーカーの音に驚いたようにこちらを覗き込んできた。目があった。その男は一瞬虚を突かれたように梨花を見、そして――
「お前――!」
 低い威嚇の声を上げた。その声と顔が余りにも凶悪で、梨花は一瞬立ちすくんだ。梨花にはその男が流歌を見張っていた高津という男であり、流歌にまんまと気絶させられて鍵を奪われて逃げられたということなどわからない。わからないが、やばい、と思った。後ずさる。危険だ。
「あの女の仲間か」
 男が扉から手を離して、自分の懐に手を入れたのが見えた。映画でよく見る動き。銃を出すのだろうか。
「あ……の女、って?」
 じりじり後ずさりながら、出来るだけ刺激しないように、訊ねる。男は懐に手を入れたままゆっくりと扉から出てきた。鍛え上げられた体つきだ、と梨花は思った。梨花は流歌ほどの戦闘能力は持ち合わせていない。一般の大学生なら後れをとるような梨花ではないが、こいつはたぶんプロだ。素手ではきっと勝てないだろう。その上どうやら銃を持っているようで、それを出されたら終わりだと思った。怪盗だったら銃で撃たれてもひらりひらりとかわしてのけそうな気がするが、そんな化け物のような身のこなしも持ち合わせていない。


相沢秋乃 目次前頁次頁【天上捜索】
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