星降る鍵を探して
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2003年05月31日(土) 星降る鍵を探して1-3-1

 第3節

 その頃の飯田梨花。
 梨花は流歌のいるビルの屋上で、階下への入り口が作り出す日陰に陣取って、日焼け止めを塗っていた。塗り直すのは既に三度目だ。昨日の晩は寒くて閉口したが、この時間の屋上は暑くてたまらなかった。コンクリートが日の光を照り返して蒸し焼きになりそうな気がする。それに梨花の白い肌は日焼けには全く向かない。時には小麦色になりたいとは思うものの、梨花の肌は赤くなるばかりですぐに皮がむけてしまい、おまけに痛むのだ。ひどく。
「早く、夜にならないかな」
 日焼け止めを塗り終えてため息をつく。
 時計を見ると三時過ぎだった。
 おやつの時間だ。
 昨日の晩、夜陰に乗じて仕入れてきたコンビニのビニール袋を漁る。どうして一緒に雑誌も買ってこなかったのだろうかとぼやきながら、マシュマロを取り出して口に放り込む。ふにふにしたマシュマロの触感が口に楽しい。梨花はこういう駄菓子が非常に好きで、特にマシュマロは大好物のひとつだった。あまり食べると気持ち悪くなるので、一袋買っても全部食べきるのは結構難しいのだが、もったいないと思いながらも買ってしまうのである。
 しばらく口の中で転がしてから飲み込む。もう一つ食べようかどうしようか迷いながら、マシュマロを包んでいたビニールの接合部分を綺麗に開いて広げ、それで鶴を折り始める。しかしビニールで鶴を折るのは非常に難しい。すぐに諦めて放り出し、梨花は本日何十度目かのため息をついた。
 暇だ。
「助けに行っちゃおうかな、もう」
 隠密の活動時間は夜に決まっている。この時期、日暮れまではまだ数時間はある。隠密として、このような輝かしい太陽の下で活動を開始するのはいかがなものかとは思うのだが……でも、退屈で死にそうだった。
 ウィィィィ……ン。
 背中を預けたコンクリートの向こうで軽い音が聞こえ、梨花はそのままの体勢で目を瞬いた。機械の作動音に似た、ほんのかすかな音だ。もしこれほどまでに退屈しきっていなかったら、きっと聞き逃していたに違いない。
 エアコンの作動音だろうか。
 とっさに思い浮かんだ推測を、即座に却下した。空調の音なら、今まで一度も聞いていなかったのがおかしい。
 では、エレベーターの音だろうか?
 誰かが屋上に向かっているのだろうかと思ったが、これもちょっと考えてから却下した。梨花が今背を預けているこのコンクリートの向こうにあったのは、確か階段だったはずだ。
 では、何だろう。
 身を起こしたとき、もう一度はっきりと、さっきの音が聞こえた。
 ウィィィィ……ン。
 それに混じって、誰かの話し声が聞こえてくる……
『……らく、きん……れんらく、げんざい……』
 館内放送だ……!
 梨花はぱっと立ち上がった。さっきのウィィィィンという音はきっと、放送への注意を促すサイレンだったのだ。考えながら階下への入り口へ回る。ガラス張りの扉の中には誰も見えない。鍵がかかっていたがヘアピンであっという間に開け、用心深く扉を開くと、隙間から中の冷たい空気と一緒にその放送が押し寄せてきた。
『……階下へ向かって逃亡中です。銃らしきものを持っているとの情報が入っています。職員は全て自室へ戻り、鍵をかけてそのまま待機してください。繰り返します。緊急連絡。現在不審者が館内に入り込み階下へ向かって逃亡中です。詳しい情報が入り次第お知らせします。職員は全て自室へ戻り、鍵をかけてそのまま待機してください』
 ――不審者……?
 流歌だろうか。流歌が逃げ出して、見つかってしまったのだろうか。でも、銃を持っているって……?
 考えながらも一度戻って荷物をまとめ、入り口に戻って扉に滑り込み、鍵をかけてから階段を駆け下りる。ほとんど無意識のうちに四肢を動かしながら、梨花はまだ鳴り続けているサイレンと放送に意識を集中していた。違和感から生じる警告が胸の中にふつふつと沸き上がってくる。
 ――変な放送。
 梨花は言葉に出さずに呟いた。
 ――普通、ああいう放送するかなあ……?
 鍵をかけて自室に待機? 銃を持った不審者がうろうろしているのに? 普通だったら、避難させるんじゃないだろうか? それ以前に、そんなダイレクトな放送をするだろうか? パニックが起きたらどうするんだろう?
 階段が尽きた。目の前に扉がある。ここの屋上にはちょっとやそっとじゃ上がれないようになっているようだ。屋上への階段だけが他の階段と切り離して置かれ、おまけに鍵をかけられた扉がその屋上への階段をふさいでいる。これほど高いビルになると、事故もしくは自殺防止のためにこのような措置が取られるのだと誰かに聞いた覚えがある。ノブにつけられた鍵を開け、向こうの気配を窺いながら顔を出す。この階はしんと静まり返って、誰の気配もしなかった。サイレンと放送だけが、静まり返った廊下に反響している。辺りを見回すと白ばかりが目に入った。一定の間隔で並べられた扉と消火器の他は、白一色に塗られた殺風景な廊下。屋上でのあれほどの熱さが嘘のような、静けさと涼しさ。サイレンがその静けさをいっそう際だたせている。
 エレベーターを使うような愚は犯せないが、廊下の端には、たぶん階段がある。
 サイレンにせかされるように、梨花は廊下を走った。


2003年05月28日(水) 星降る鍵を探して1-2-4

「お前は誰だ。研究所内では電源を切れと注意されただろうが!」
 そしてさっと腕を伸ばして、携帯電話を握ったままの流歌の左手を掴みあげた。容赦のない握り方に手首が悲鳴を上げた。ゆるんだ手のひらから男は携帯電話を奪い取り、ぱちりと開いて通話ボタンを押し、そして、
「やかましいぞ、馬鹿者!」
 怒鳴りつけた。うわあ、と流歌は思った。確かにうるさかったには違いないが、あまりにも過剰な反応だった。彼はまだ流歌の手を掴んだままだった。彼の方が背が高く、おまけに階段の段差のせいで、腕をつかみあげられた流歌の足はほとんど床を離れそうになっている。その体勢のままで、男は憎々しげに電話に向かって続けている。
「お前は誰だ。ここがどこだか知らんのか。こいつの――」
『その声は、もしかして、梶ヶ谷先生ですか?』
 電話の向こうから聞こえてきた、低い、落ち着いた声音は、紛れもなくあの「先生」のものだった。七年前とあまり変わらない、どことなく皮肉げな声音。かすかだったが、間違えようがなかった。
 息を詰めた流歌の前で、梶ヶ谷先生と呼ばれた男は、虚を突かれたようにこちらを見た。
「……お前は……」
『高津がそこにいるんですか? 代わってくれませんかね、あそこから動くなと言っておいたのに――』
「いや、待て。それじゃ、この子は……」
 ――最悪。
 流歌は目を閉じた。決心するのにいつも一瞬かかる。けど、やるしかない。目を開いたときには覚悟が決まっていた。
 梶ヶ谷が掴んでいる手を、逆に握り返す。ほとんど浮きかけていたつま先を伸ばし、床を蹴る。同時に梶ヶ谷の腕にぶら下がるようにして足を浮かせ、
 ――ごめんなさい!
 渾身の力を込めて蹴りを放った。
「……ごふっ!」
 ひどく痛そうな悲鳴が聞こえる。
 蹴りは図らずも見事に鳩尾に決まってしまったようで、梶ヶ谷はたまらず流歌の手を離した。くずおれる彼の手のひらから飛んだ携帯電話を奪い取り、着地したところは数段下の踊り場だった。視界の上の方に「20/19」の表示がぶれて見える。宮前さんの悲鳴が聞こえる。電話の中で「先生」が、「どうしたんです」とか聞いている声が、心臓に直接響いてくる。流歌はその全てを振り払うようにして、十九階に向けて階段を駆け下りた。


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昨日変なところで切ってしまったので今日は短くなってしまいました。
これで2節終了です〜(多分)。
木曜日、金曜日はお休みです。土曜日のおいでをお待ちしております。


2003年05月27日(火) 星降る鍵を探して1-2-3

 ぎょっとして飛び上がり、その拍子に階段を踏み外した。悲鳴を上げないように押し殺すので精一杯、わたわたと宙を掻いた左手がべっちんと壁に当たった。何とかすがりついて体勢を立て直すうちにも、あのまぬけな音は甲高く響きわたり続けている。その音を発しているのはどうやら自分のポケットらしい、ということに気づいたときには廊下の角から眼鏡をかけた女性が顔を出していた。流歌がそこにいるとは思いも寄らなかったのか、眼鏡の奥で目がまん丸になっている。
 綺麗な人だった。
 流歌は唾を飲み込んだ。
 こう言うときにはどのような反応をするのが一番妥当なのだろう。頭の中で何通りもの行動パターンが浮かんだが、ぴるるるる、という甲高い音が流歌の思考の邪魔をした。考えがまとまらない。どうしていいかわからない。電話の音はどうしてこうも人の焦りを呼ぶのだろう、とどうでもいいことばかりが浮かんで、流歌はそこまできてようやく、逃げなければいけないことに気づいた。くるりときびすを返そうとしたのはいいが、階段の上だったということを忘れていたものだから、またしても足を踏み外しそうになる。ぴるるるるる。電話の音が急き立てるように続いて、
「……大丈夫?」
 呆気にとられたような、女性の声が聞こえた。
「道に迷ったの? そんなに慌てなくても、大丈夫よ」
 優しい声だった。流歌は落ちかけて身をねじった体勢のまま、彼女をまじまじと見つめ、為す術もなくひとつ息を吐いた。ぴるるるるる。電話の音に急き立てられるように、何か言わなければ、と思う。
「こ……こんにちは」
 ようやく出てきた言葉はそれだった。我ながらなんて間抜けな、とは思ったけれど、他に何て言えばいいのだろう? ぴるるるるるる。電話の音はまだ続く。
「こんにちは。……出ないの?」
 にっこりと微笑んで、白衣の女性が訊ねた。
「え、あ、はい。そうですね」
 とりあえずそう返してみたはいいが、出るわけには行かないのだ。
 左手でポケットから携帯電話を取り出して、液晶画面を見もせずに電源ボタンを押す。神経を逆撫でて急き立てるような音がやんでから、流歌はため息をついた。ああ、どうしてマナーモードにしておかなかったのだろう。
「あなた、誰? 見学者? ここから上は立入禁止よ」
 宮前、という女性はにっこりして、こちらに近寄ってきた。流歌より結構年上らしく、落ち着いた物腰の美女だった。染めていない真っ黒の長い髪が白衣の背に垂れていて、すごく知的な雰囲気に見える。白衣に隠された体はスタイルがものすごく良くて、やせているのに出るところはしっかりと出ているという感じで、何というか。ずるい。
 今更気づいたが、とてもいい匂いがする。たぶん香水だろう。それも高そうな奴だ。綺麗に整えられた長い爪には綺麗にマニキュアが塗ってある。その手を流歌の方にわずかに差し伸べるようにしながら数歩近づいた彼女は、流歌の足下を見て目を丸くした。
「靴、どうしたの」
「そ、それが、ですね、あの、道に迷ってしまってですね、あのう、そのう」
 我ながら怪しさ大爆発だ。意味のない言葉を口元から絞り出す度に焦りがつのってくる。「宮前さん」は小首を傾げたが、深く追求はせずに微笑んだ。
「寒いでしょう」
「ええ、とても」
「階段じゃなくてエレベーターから降りたらどう? その方が早いし。こちらにいらっしゃいよ、スリッパを貸してあげるから」
 この人はあたしを知らないのだろうか、と流歌は思った。彼女はすっかり、流歌を迷子だと思いこんだようで、親切そうな微笑みを浮かべて手招きをしている。どういうことだろう。流歌をさらったあの人たちと、この宮前という人は、仲間と言うわけではないのだろうか。それとも罠だろうかと一瞬疑ったけれど、この人の笑顔を見ているととてもそうは思えない。
 その時だ。
 再び、携帯電話が高らかに鳴った。
 先ほどと同じ音なのに、苛立っているように聞こえるのは……気のせいなんだろうな、やっぱり。慌てながらも流歌は持ったままだった携帯電話を見下ろして、電話の表についた小さな液晶画面を見、
 ――先生……!
 硬直した。「桜井」、という名前が小さな液晶画面に浮かび上がっている。あの高津という男が何度か口にしていた名前だから、あいつの仲間なのだろうということは予想していたし、そもそも敵方に桜井がいることは「鍵」を盗み出したときからわかっていたことだったが、でも実際に目にすると心臓に悪い。ことことと早い音を立てて飛び跳ね始めた心臓が、怯えているのか、それとも踊っているのか、流歌にはよくわからない。でも体が動かなかった。桜井という名前を見ただけで、金縛りになったような気がした。ぴるるるるる。急き立てるような音がいっそう流歌の体を絡め取る。そこへ、宮前さんの優しい声が降ってきた。
「お友達が探しているのかしら」
 その声で硬直がとける。
 流歌は息を吸い込んだ。
「そ、そうかもしれません」
 気がつくと全身に汗をかいていた。流歌は大きく息をついて、そして、我ながらぎこちない笑みを浮かべた。
 そこへ。
「うるさいぞ!」
 怒鳴り声が響いた。宮前さんの後ろから、年輩の、やはり白衣の男が顔を出した。声からするに先ほど宮前さんのことを怒鳴りつけていた人のようだった。白髪混じりの髪をした、いかにも「教授」という名称がふさわしいその人は、怒りで顔を真っ赤にして宮前さんを押しのけるとずかずかとこちらに歩いてきた。流歌を見下ろして、怒鳴る。
「お前は誰だ。研究所内では電源を切れと注意されただろうが!」


2003年05月26日(月) 星降る鍵を探して1-2-2

*   *   *

「ああ、肩凝っちゃった」
 流歌は気絶した高津の落とした鍵を拾い上げると、うーん、と伸びをした。怯えたふりというのはなかなか疲れるものである。演技力に自信はなかったのだが、単純な男で助かった。
 高津という男は完全に伸びている。彼は清水ほど頑丈ではなかったようだった。手刀を打って崩れ落ちた直後に不死鳥のように立ち上がられたらどうしようかと思ったが、あのような非常識な生命力は、そうそう多くの人が持っているわけではなさそうだ。
「さあて、と」
 意味もなく呟いて、とりあえず、鉄格子の鍵を開ける。きい、と軽い音を立てて扉が開いた。白目をむいた高津はぴくりとも動かない。倒れた高津に近づいて、ドキドキしながら体を探る。ハンカチ。いらない。お財布。いらない。携帯電話。そう、これが欲しかったのだ。流歌は折り畳み式の小さな携帯電話を拾い上げて、ポケットに入れた。市販のものではないようで、ボタンが普通よりやや多めについていたが、電話が出来れば充分だ。
 高津が全く動かないのに勇気づけられて、上着のボタンを外してみた。ワイシャツの胸ポケットにネームプレートを発見。ちょっと厚みがあって、光にかざすときらきらと七色の光が踊った。もしかしたらテレビでよく見るような、セキュリティ解除とかできるかもしれないから、一応もらっておこう。おや、銃を持っている。どうしようかな。しばし悩んだが、もらっておくことにした。使うことはないだろうし、使い方も知らないのだが、この男に持たせたままでいるのは怖い。
 立ち上がって、わずかな間だけ考える。ここに連れてこられたときにボディチェックとやらをされてしまって、流歌は今衣服以外は何も身につけていなかった。上着も取られてしまったから、Tシャツ一枚というはなはだ心許ない格好だ。何よりスニーカーを取られてしまったのが堪えた。冷たい床の感触が靴下越しに伝わってくる。しかし高津の靴はあんまりにもぶかぶかだし、こんな格好じゃ外に出たら人に怪しまれてしまうし、そうだ、そういえば、ここがどこだかわからない以上、お金を全然持っていないと言うのは良くないかも知れない。
 ごめんなさい。今更だとは思うが一応謝っておいてから、高津の財布を拾い上げた。ずしりと重い。お札も小銭もぎっしり入っている。全部もらうのは気が引けたから、二万円だけもらうことにした。財布を元に戻し、ネームプレートとお札と携帯電話を自分のポケットに入れ、ずしりと重い銃を手にして、流歌は行動を開始した。

 充分に気配を窺ってからやはり真っ白な廊下に滑り出る。人の気配が全くなく、ときおり消火器らしいものが置かれているほかは、本当に殺風景な廊下だった。床も壁も真っ白でつるつる滑る。新築の病院を思わせる清潔さだ。床には塵ひとつ、埃ひとつ落ちていない。
「……寒」
 身震いをして、辺りを見回す。左手には廊下が延びていて、今し方流歌の出てきたドアと同じようなドアが、一定の間隔を置いてずらりと並んでいる。流歌はその長く伸びた廊下の一番端に立っていた。右手には階段と、トイレがあった。どうやら屋上なのか、下に向かう階段しかない。階段に駆け寄って表示を確かめる――下の踊り場の壁に掲げられた標識には、「25/24」と書かれていた。……25階!?
「高いなあ……」
 思わず情けない声が漏れてしまった。こんなに高いのでは、人一人が出られるくらいにちゃんと開く窓があるかどうかがまず疑わしかった。おまけに運良く窓が見つかり、そこから外に出られたとしても、……出てどうしようというのだ。流歌は残念ながら怪盗ではなかった。江戸城のてっぺんから落下して無傷で済むような、非常識な身のこなしは持ち合わせていなかった。いくらあの兄だって、二十五階じゃさすがに無傷じゃ済まないだろうし。……と思うけど。どうだろう。
 自分の心臓の音が反響しそうな静けさが、床の冷たさを余計に増幅するようだった。Tシャツからむき出しの二の腕に鳥肌が立っていた。出来るだけその寒さについて考えないようにしようとは思うものの、なかなか上手く行かない。こんなところに立ち止まって思案を巡らせているよりは、少しでも下に降りた方がいいだろう。かじかみそうな足を励ましながら、階段を降り始めると、足の裏がひたひたとかすかな音を立てた。
 何階分かの階段は何事もなく通り過ぎた。
 時折廊下に顔を出して気配を窺うのだが、二十階に降りるまで人っ子ひとり見かけなかった。どの階にも同じようなドアが並び、同じような白い壁に白い床が向こうに延びている。同じ間隔で並んだ消火器。同じ間隔で並ぶ照明。階段の表示がなかったら、降りても降りても同じところに帰ってくるという悪夢のように感じたかも知れない。
 だがその静けさは、二十階でやぶられた。
 二十一階から二十階へ向かう階段に足を踏み入れた瞬間、流歌は、今までの生き物が全て死に絶えたような雰囲気に比べ、空気ががらりと変わったのに気づいた。話し声こそしないものの、人が動き回っている気配がする。活気が伝わってくる。冷え切って鳥肌の立っていた二の腕に、かすかに暖かい空気がさざ波のように触れた。
 そうっと足音を忍ばせて、二十階の廊下を窺う。
 廊下の遙か向こうの方から、白衣を着た人が三人、こちらにやってくるのが見えた。
 ――白衣?
「……で」
「…………、」
「……」
 話し声は聞こえるが、内容までは聞き取れない。
 見つかったらまずい、と思いながらも、何とか彼らの話し声が聞き取れないかと耳を澄ませてしまったのは、ここが一体どこなのかを知りたかったからだ。兄に電話をするにしても、場所がわからなければどうにもならない。ここは二十階という高さだから、階段を使うような酔狂な人間はそうはいないだろう、と思うことにして、流歌は階段にうずくまって目を閉じた。
「…………ず」
「……思え……が、」
「じゃあどういうことだというんだ!」
 急に一人が声を荒げた。声からするに男の人で、まだずいぶん向こうにいるのにも関わらず、荒げた声は流歌のところまではっきりと届いた。彼と議論していたらしいあとの二人の声も、つられたようによく聞こえ始める。
「ですから、異常だと――」これは先ほどの人よりは若いらしい男の人。
「なんらかの人為的な力が――」そしてこちらは若々しい女性の声だった。
「はっ、馬鹿馬鹿しい!」
 初めに声を荒げた男の声がいっそう大きく響く。同時に足を踏みならす音さえ聞こえ、一体何を怒っているんだろう、と流歌は思う。
「そんなお伽話のような出来事がそう簡単に可能になったら研究者なんていらないんだよ!」
「ですけれど、それしか考えられな――」
「黙りたまえ、宮前くん!」
 男は一喝した。彼と議論している二人の内の女性の方は、宮前という名前らしい。
「それから鷺沼くん、君もだ。研究に戻りなさい。俺は忙しい。そんな世迷い言につきあっている暇はないんだよ。人為的にあれを集めている奴がいるって? どうやったらそんなことが出来るって言うんだ、冗談もほどほどにしたまえ!」
 男は言い放つと、足音高く再び、こちらに向けて歩き出した。足音からすると、彼らはもうずいぶん近くまで近づいてきている。もし彼らが階段を使うつもりなら、そろそろ逃げ始めないと間に合わない、と流歌が思ったときだった。
 ぴるるるるるる。
 高い、まぬけな音が響きわたった。


2003年05月25日(日) 星降る鍵を探して1-2-1

 第2節

 高津勇一郎という男がいる。
 清水剛や新名兄弟ほどではないが、巨大な男だった。
 彼は退屈しきっていた。一日中こんな狭苦しい部屋の中で、怯えて震える女の見張りなんぞしているのは全く彼の性に合わなかった。
 あの怪盗の妹だと言うからどんな女かと楽しみにしていたというのに。
 ただ震えて、怯えてうずくまるだけの様子を見ていると、ごく普通の女性に過ぎなかった。二十二歳の高津とそれほど年齢は変わらないそうだが、少女と言ってもいいような年齢に見える。美人と言ってもいい顔立ちではあったが高津の好みからすればあまりにも細身にすぎた。玉乃姐のような豊満な美女なら見張りがいもあるというものだが、膝を抱えてうずくまったままほとんど身じろぎもしない上、話しかけても怯えたような返事を一言二言返すだけ、あの自信満々な怪盗と同じ血を引いているとはとても思えなかった。これが見張るに値するような存在だろうか。
 この部屋には窓がなかった。部屋の半分は頑丈な鉄格子で仕切られている。須藤流歌という女性は鉄格子の向こう側におり、鍵を持つ高津は出入り口のある側にいる。怪盗が助けに来ることは充分に考えられたが、この鉄格子は特別製で、鍵を使わずに開けることはほぼ不可能だという。これなら別に部屋の中で見張っていなくてもよさそうなものなのに。彼の上司である桜井が彼女に向ける警戒は分不相応だとしか思えなかった。
「腹減ったなあ」
 これは独り言だ。流歌という女性は高津の声にびくりと反応した。色を失った白い顔がちらりと上げられ、泣き出しそうな瞳が見えた。その瞳を見るだけでわけもなく苛立つ。退屈は苛立ちを呼び、ひどく残酷な気分になった。あの怪盗の妹ならば、もう少し覇気を見せればいいのに。
「お前も災難だよなあ?」
 鉄格子で遮られていなければ、まだ少しは楽しめたかも知れないのに。桜井に鉄格子から出すなと厳命されていなければ、開けて遊んでやれるのに。残酷な気分のまま、嘲るような言葉を続ける。
「悪い兄貴を持ったもんだ。最近荒稼ぎをしてる”怪盗”という悪党がまさかあの大学の学生だったとは思わなかったが、学生なら学生らしく構内だけで遊んでてくれれば、お前もこんな目に遭わずにすんだのになあ? ……お前、自分の兄貴が怪盗だって知ってたのか?」
「……」
 流歌はいっそう縮こまった。ここに連れてこられてからずっとこの調子だ。抵抗するそぶりも、逃げだそうとするそぶりも一切見せない。つまらない。
「何とか言えよ、ほら。……言えってんだよ!」
 足を伸ばして鉄格子を蹴りつける。ごわん、と鉄格子が鈍い音を立て、流歌が縮み上がる。殺風景な真っ白い部屋の中、白々と冷たい明かりに照らし出された彼女は、本当に取るに足らないちっぽけな存在に見え――こんなつまらない女のためにここにいなければならないという今の状態が、腹立たしくてたまらなくなった。
 時刻はようやく三時を回ったばかり。少なくとも夜中の十二時になって、怪盗があの鍵を返したと連絡が来るまでは、ここで見張りをしていなければならない。持ってきた雑誌にも飽きてしまった。これからまだ九時間近くも、このいらいらさせられる存在と、ただまぬけに顔をつき合わせていなければならないなんて。彼は自分の腕に自信を持っていた。新入りだからってこんなつまらない仕事に回されるなんてうんざりだった。桜井がどこにいるか知らないが、そっちに連れていってくれさえすれば、自分の腕を発揮する機会はいくらでもあるのに。
「だいたいあの怪盗ってのは一体何なんだ。学生なら学生らしく勉強してりゃいいのに」
 ぶつぶつ呟くと、か細い声が聞こえた。
「お兄ちゃんが」
 かすれた声だ。流歌という名前にふさわしく、澄んだ綺麗な声だったが、こう怯えてかすれていては台無しだ。高津はもう一度鉄格子を蹴りつけた。ごわん、という音に流歌は身をすくめたが、勇気を振り絞ったように息を吸って、続けた。
「お兄ちゃんが……怪盗だって、」
「聞こえねえよ」
 ちゃんと聞こえていたが、わざとらしく嘲るように声をかけてみる。流歌が出来るだけ大きな声を出そうと肩をふるわせて息を吸うのが面白くて、彼は更に鉄格子を蹴った。
「……どうして、」
「聞こえねえってんだよ!」
 流歌は唇をわななかせて、叫ぶように言った。
「お兄ちゃんが怪盗だって、どうしてわかったの!」
 最後まで言い終えて、流歌はしゃくり上げた。ああ、どうしてこいつにはこうもいらいらさせられるんだろう。八つ当たりに近い感情だとわかってはいたが、相手が何もできないちっぽけな存在だと思うと余計に残酷な気分になる。高津は煙草に火をつけた。もっと流歌が近くにいたら、煙を顔に吐きかけてやれるのに。
「ああ、最近までわからなかったよ。いつも妙な扮装をしてたし。ふざけた野郎だ、全く」
「なのに、どうして」
「さあねえ。知らねえな」
 わざとはぐらかすように、からかうように言ってみたが、実際に彼は知らなかった。彼の上司である桜井が、あの「鍵」をまんまと盗まれた後になってから、あの大学に通う須藤圭太という学生がそうだという情報を持ってきたのだ。桜井に聞けばわかるのだろうが、そんなことをこの苛立つ女にわざわざ教えてやることもない。
「あたしはいつ出られるの」
 しゃくりあげそうになるのを何とか堪えようとしているのか、うつむいた肩が震えている。一度話し出したら止まらなくなったのだろうか。高津は鉄格子に顔を近づけて、手を伸ばしても届かない場所に座り込んだ流歌に向けて、煙草の煙を吐き出した。
「お前の兄貴が宝を返せば、お前は無事に帰れるらしいぜ」
 お前は、というところを強調して言うと、流歌が伏せていた顔をわずかに上げた。その顔から更に血の気が失せたのが見えたようで、高津は嗤った。
「お前はな」
「お兄ちゃんは……」
「怪盗なんて輩を野放しにしとくのは社会のためにならないと、思わないか?」
「……」
「助けに来るかも知れないが、この鉄格子は絶対開かない。怪盗はどんな鍵でも針金一本で開けるらしいが、この檻は特別製でね――」
 流歌がこちらの仕草と言葉にいちいち怯えた反応を見せるのが面白くなってきて、高津はズボンのポケットから鉄格子の鍵を出してちらつかせて見せた。
「この鍵でしか開かないように出来てる」
 流歌は絶望的な顔をして鍵を見たが、諦めたように、再び膝を抱えた。沈黙が戻ってくる。高津は残酷な気分がいよいよ高まってくるのを感じた。この鍵で鉄格子を開けてあちらに入って――と彼は野卑な空想を働かせた。桜井からは絶対に開けるなと厳命されていたが、俺の知ったことか。鉄格子に手をかけて立ち上がろうとしたとき、その呼吸をはかったかのようなタイミングで、彼女がきっぱりと顔を上げた。
 濡れたような瞳に見据えられて、思わず動きを止めてしまった。
「……何だよ」
 流歌は立ち上がった。ずっと座っていたためか、弱々しい、よろめくような動きだ。今にも倒れそうな細い体を、思わずそのままの体勢で見守ってしまう。
 その時、彼女の姿が消えた。
 とん、と床を蹴る音が聞こえたのはその直後。気がつくと流歌が目の前に立っていた。至近距離にいきなり出現した彼女の顔は、もう怯えているようには見えない――
「鍵を持ってるなら」
 柔らかな手のひらが、鉄格子に添えた高津の手首を掴む。
「言ってくれれば良かったのに」
「え、」
 呟きかけた言葉を、最後まで言うことは出来なかった。ちゃりん、と鍵が床に落ちる音を聞いたのを最後に、高津の意識は闇に飲まれた。


2003年05月24日(土) 星降る鍵を探して1-1-4

「ま、落ち着けよ」
「これが落ち着いていられるか! うぬう貴様兄であることをいいことに須藤流歌を……須藤流歌を……!」
 ソファの上にうずくまって何とか圭太の腕から逃れようとするが、圭太はほとんど力を入れているようにも見えないのに腕はねじり上げられたままだった。ただ、もう痛くはなさそうだった。動けなくしているだけらしい。
「うちにはうちの事情があるんだ」
 圭太は先ほどまでと変わらぬ穏やかな口調で言った。
 しかし。
「よその奴に口を出されるいわれはないね」
 言葉を続ける圭太を見ながら、卓は、圭太は本当は怒り狂っているのではないかということに気づいた。剛に対してではなく、もちろん、妹を連れ去った相手に対してだ。言葉も口調も表情も態度も、普段の彼と変わらない。だが、気づいてみればわずかに目が違った。ふつふつと煮えたぎる何かがその目の奥に隠れている――
 マイキが、立ち上がった。圭太の横に回って、そっと、剛の腕を掴んでいない方のひじを引っ張る。最近少し豊かになってきた彼女の表情は、今は心配げな憂いを帯びていた。圭太はマイキのその表情を見ると、笑って手を放した。
「大丈夫だよ、こいつ頑丈だから」
「貴様あ――っ!」
 腕を放された剛ががばっと跳ね起きる。マイキが飛び上がる。圭太は剛の目の前に、自分が食べかけていた甘い甘いケーキの皿を突き出した。
「悪かったよ。これやるから」
「こ、こんなもんでごまかされる俺だとでも!」
「そうか、いらないのか」
「誰がいらないと言った!」
 皿を奪い取る。一口食べられてはいるがケーキの大部分は健在で、甘い香りが鼻腔をくすぐり、こうなると戦闘的な気分と言うものはあまり長続きしないものである。甘いものを食べながら怒れる人はそれほどいない。ソファの上に座り込んでわしわし食べ始め、見る見るうちにケーキが消えていく。その気持ちいいまでの食べっぷりは一言も発さずとも「美味い」と熱烈に語りかけてくるようで、マイキは心底嬉しそうにそれを見つめている。
「質問がもう一つだ」
 兄はマルガリータの食べっぷりを横目に、ため息混じりにそう言った。圭太も苦笑する。
「はい、なんです?」
「この金時計はなんなんだ? ただの金時計じゃないだろう。確かに高価そうだが、こんなもののために人一人誘拐するなんて考えられないからな。一昨日これだけ狙って盗んだのか? それとも他の財宝と一緒に?」
「もちろん他のも一緒に。二人で持てるだけの量だから、それほど多くはないですが」
「さっき研究所って言ったよな? 国立の? 何の研究だか知らないが、研究所に怪盗の注意を惹くような宝物があるのかなあ。しかもこんな純金のね、ただ金であるだけがとりえと言うような、趣味の悪い時計。趣味が悪くてもロマノフ朝の財宝だとか言うならともかく、裏にくっきり日本製って書いてあるし。しかも昨年作られてる。こんな趣味の悪い時計の、いったい何が怪盗の注意を惹いたんだろうな。中に何か入ってるのかな。分解してみたいなあ」
 兄は黙り込んだ圭太を見つめて、人の悪い笑みを見せた。
「今更隠し事はなしにしようじゃないか。この時計はなんだ?」
「それは、協力してくれると言うことですよね?」
 圭太もニヤリと人の悪い笑みを見せる。二人の間で何か火花のようなものが散ったようで、卓は思わず身をすくめた。そのとき、ケーキを食べ終えたマルガリータが満足の吐息と共に皿を置き、そして、
「……話はまだ終わっとらん!」
 いきなり割り込んだ。相変わらず場の空気の読めない人である。しかし兄は圭太の方を見たまま自分の目の前にあった手付かずのケーキをずいっと彼の前に差し出した。
「俺のもやろう。遠慮するな」
「ありがとう」
 素直だ。
「……で?」
 兄が促すように圭太に問いかけ、圭太はあっさりと答えた。
「鍵です」
「鍵? 何の」
「さあ、そこまでは。ただ、その研究所には秘密裏に大がかりな装置が作られていまして。その装置を発動させるための鍵のようです。そしてその研究というのがどうも、「人様に大っぴらには言えない」研究のようなんですよね。俺にとっては宝さえ手に入れば奴らがどんな研究をしてようと知ったこっちゃないんですけど、黙って返すのもつまらないし。お兄さんの初仕事としても不足はないと思いますが?」
「俺も行くぞ」
 ケーキを食べ終えたマルガリータが、重々しい口調で言った。
「どんな理由があろうと、須藤流歌を拐かすなど言語道断。俺のこの手で鉄槌を下してくれる」
「頼りにしてるよ」
 圭太がニヤリと笑って、そして、兄を見た。促すように口をつぐむ。場の視線が兄に集中した。
「……奴らだって馬鹿じゃないだろう。一昨日お前たちが忍び込んだその場所に、妹を連れていったとは考えにくいな。十二時までに妹のいる場所を探り出すのは大変そうだが」
「さっき連絡がありましてね。同じ建物ではなかったようですが、同じ敷地内にいるそうですよ」
 兄が眉を上げた。
「連絡? ……誰から?」
「梨花ちゃんです。妹がさらわれた時刻に、ほんのすぐ側にいたそうで。そのまま追いかけてくれたんですよ」
 それを聞いて、卓のすぐ側で、がたん、と立ち上がった者がいる。見るまでもなくマイキだった。マイキはその可愛らしい顔に真剣な表情を浮かべて、私も行く! と言わんばかりに大きく手を挙げた。そしてすがるようにこちらを見た。卓はため息をついた。マイキに促されるまでもなく、圭太ばかりでなく梨花まで関わっているとなると、「金時計を返せばよいのに」などと言っている場合ではなかった。
「俺も協力しますよ」
「新名卓……!」
 マルガリータが感極まったと言うように声を上げる。圭太は何も言わなかったが、マイキと卓に嬉しそうに微笑んで見せ、そして、兄を見た。
 兄は大きく息をついた。お手上げ、と言うように両手を上げてみせる。
「いいよ」
 そしてニヤリとした。
「面白そうだ」


2003年05月23日(金) 星降る鍵を探して1-1-3

*   *   *

 卓も加えて、マイキも座ると、応接セットは満員だった。狭いテーブルの上にケーキと紅茶が所狭しと並べられている。マイキは卓と克の間に座り、皿を抱えてぱくぱくケーキを食べている。克は全く手をつけていないし、圭太は一口食べてからはフォークをおいていた。卓は普段なら食べるところだが、今は起き抜けなのでなかなか手が出ない。剛だけは昨晩からの緊張が、先ほどの卓との一戦でいい具合に解け、糖分の補給を感じたのか、ぺろりと綺麗に平らげていた。食事も喉を通らなかっただろうと想像すると、当然なのかも知れない。
 ともあれ、そのようにケーキの状態が移り変わっていく中で、事態を整理し終えると、圭太は再び話を始めた。
「妹を無事に返して欲しくば、お前の盗んだ金時計を戻せ、というわけですよ」
 昨晩の電話はそれを指示するものだったという。警察に言うなとは言わなかった。当然だ。
 そこまで聞いて、卓は手を挙げた。
「ちょっと待ってください」
「なんだい」
「盗んだ? 金時計を?」
「盗んだとは言葉が悪いが、有り体に言えば、そうだよ。今ここに持ってきてる。売り払う前で良かったよ」
 圭太は言って持ってきていたらしい新聞の包みを持ち上げた。開くと中から出てきたのは、どっしりと重そうな置き時計だった。細長いが、人間の肘から手首までくらいの長さがあり、どうやら純金である。そういうものには全く関わりのない人生を送ってきた卓にも、一目見ただけで非常に高価なものだとわかった。
「何で、盗んだんです」
 我ながらばかげた質問だと思いながら、口に出さずにはいられなかった。圭太が予想通りにニヤリと笑う。
「野暮なこと言うなよ新名君。怪盗たるもの悪の組織に忍び込んでお宝をいただかずにどうする」
「……どうしましょう」
 またしても我ながらまぬけな返答だと思ったが、他にどう言えと言うのだ。まあこの人はこういう人だから……と思いながらため息をつくと、克が呟くように言った。
「悪の組織、ね」
「そう。俺は怪盗ですから、金持ちが隠している、人に言えないような宝しか狙わないんです」
 圭太は言って胸を張った。怪盗には怪盗の矜持というものがあるらしい。
「それに妹とはいえ流歌は年頃の女性ですからね。女性をさらって脅迫するような奴らを悪と言わずしてなんと言いましょう」
 女性限定か。そう内心で突っ込みながらも、それはそうかもしれない、と納得しかけている卓である。「そもそも盗まなきゃトラブルも起きなかったのに」という考えなど、言っても仕方がないことはよくわかっていた。怪盗は宝を盗む生き物である。本能と言ってもいい。その矛先が「金持ちが隠している、人に言えないような宝」だけに向いているのなら構わないじゃないかと思ってしまう辺り、彼もだいぶ怪盗という生き物に慣れてきたのかも知れなかった。
 克が続きを促す。
「で? 電話は何と言ってた。何時にどこへ持ってこいって?」
「今夜十二時に、芸術館の、あの折れ曲がったタワーがあるでしょう」
 圭太の言葉に全員が頷いた。マイキまでつられたように頷いている。圭太の言うタワーというのはこの近辺で一番目立つもので、ニュースや天気予報でよく使われる風景なので、誰でもよく知っているものだった。結構な高さがあり、入場料を払えば上に上がることが出来る。しかしこの町を一望できるというその高さよりも、その不思議な形の方が目を引いた。昔流行ったパズルの一つ、「マジックスネーク」を伸ばしたような、「芸術的」に折れ曲がった形をしている。
「十二時ね。いかにもな時間だな」
「だから、それまでに流歌を助け出してしまおうと言う魂胆なんですけどね」
「ほう」
「一口乗りませんか」
 圭太はこれでもかと言うほどに満面の笑みを見せた。
「結構面白いと思いますよー。相手はとある国立の研究所です。筑波にあります。ま、俺はもちろん流歌だって忍び込めたんだから、それほど難しいセキュリティじゃないですけど、少なくともここの事務所でいつ鳴るかわからない電話を待つよりはうきうきできるんじゃないかなあ」
「……」
 克は黙り込んだ。腕組みをして難しい顔をしている兄を見ながら、卓はそっとため息をついた。一月前の事件で圭太には大変世話になっている。今こそその借りを返すときだとは思う。ただ、卓はまだ怪我が完全に癒えていないということもあり、あのときの事件で死に掛けたということもあり、この平和な生活に慣れてしまったということもあり……進んで冒険に身を投じたいという気分にはどうしてもなれなかった。他に手段がないというのなら、もちろん、圭太のために労力を惜しむような卓ではない。しかしどうして素直に金時計を返さないのだろうか、と思わずにはいられなかった。何もわざわざ危険を冒し、忍び込んで助け出さなくても、十二時に返せばそれで済むのではないかと。見たところ圭太はあまり金時計に執着している様子はないのだ。圭太にとっては盗むことが最大の目的であって、盗んで自分のものになった宝にはあまり関心を抱かない。それならば、返してやったってかまわないようなものなのに。
「また質問ができた」
 兄はようやく口を開いた。圭太が眉を上げる。
「なんです?」
「盗んだのはいつだ?」
「一昨日の夜ですね」
「『俺はもちろん流歌も忍び込めた』っていうのは?」
 圭太はニヤリとした。
「もちろん、一昨日、仕事に出かけたときには流歌も一緒だったということですよ」
「な・にいいいいいい!?」
 打てば響くような反応をしたのはマルガリータだった。立ち上がって圭太に詰め寄ると、彼の胸倉をつかみ上げる。マルガリータの剛力はすさまじく、決して小柄ではない圭太の体が半ば宙に浮いた。
「き、き、貴様、須藤流歌を悪の道に引きずり込みおったな……!」
 圭太は宙にぶら下げられたまま、平然として言った。
「だって妹だし」
「何がだ!?」
「流歌がに決まってるだろう。お前大丈夫か?」
「違うわ! 妹なら悪の道に引きずり込んでもかまわんと言うのか!?」
「兄の活動をサポートするのが正しい妹の姿」
「嘘つけえ!」
 ぶん、と圭太の襟元をつかんだままの丸太のような腕を振り回す。しかし黙って振り回されるような圭太ではなかった。彼は振り回されつつ剛の腕をはずし、腕を握ったまま剛の背後に回り、そのままねじり上げた。この間わずか二秒である。卓が気がついたときには剛が痛そうなうめき声を上げてうずくまっており、彼の背後で、まだ腕を極めたまま、圭太が相変わらず平然とした口調で言った。
「ま、落ち着けよ」
「これが落ち着いていられるか! うぬう貴様兄であることをいいことに須藤流歌を……須藤流歌を……!」


2003年05月22日(木) 星降る鍵を探して1-1-2

*   *   *

 須藤圭太は手に新聞紙にくるまれた包みと、紙袋を持っていた。普段着の彼はあの怪盗と本当に同一人物なのだろうかと思えるほどに平和そうな顔をしている。克はデスクにひじをついて、ため息をついた。
「卓なら寝てるよ。そっちの部屋だ。そろそろ起こしてもいいと思うけど」
 すると圭太はにっこりと笑った。
「今日はお兄さんに相談があってきたんですよ」
 どうでもいいが何故こいつにお兄さんと呼ばれなければならないのだろう、といつもながら思う。しかし克は圭太の後に続いてのっそりと部屋に入ってきた巨体をみとめて、やや目を細めた。彼は克の目から見ても巨体だった。よれよれになった道着を着て、頭を丸刈りに剃った若者だ。後ろからついてきたマイキがほとんど小さな子供に見えるくらいに巨大な男は、その厳つい外見に似合わず憔悴しきった顔をしていた。
 憔悴しきった彼に比べ、圭太は非常にさわやかな顔をしているのが印象的だ。ともあれ圭太はその男をやや振り返るようにして、言った。
「紹介します。大学の同級生の清水剛」
「よろしく」
 地割れのような声でうめくように呟く。克はこちらこそ、と返して、立ち上がった。なにやら事態は深刻そうだった。デスクを回って部屋の中央に置かれた応接セットの方へいく。ソファを勧めながら観察すると、清水という丸刈りの男の顎にはうっすらと無精ひげが生えていた。目の下に隈が刻まれているところを見ると、どうやら眠っていないらしい。
「マイキ、お茶入れてくれるか?」
 訊ねるとマイキは非常に嬉しそうに頷いて、キッチンの方へ向かった。勇んで腕まくりをする。非常に張り切っている。圭太が感心したような顔をした。
「へえ、マイキちゃん、家事をするようになったって梨花ちゃんから聞いたけど、本当だったんですね」
 梨花は圭太と違ってよく遊びに来る。そうだ、今度梨花からもっと砂糖を減らすように言ってもらえばどうだろう、と思ったとき、圭太が続けた。
「で、今日はちょっと非常事態がおこりまして」
「非常事態」
 克は頷いた。こいつは何しろ怪盗である。非常事態は日常茶飯事と言っていい。しかし彼の連れてきたこの巨体がこうまで憔悴した顔をしているところを見ると、圭太の日常からみてもやや非常な事態なのだろうと予測は出来た。
「簡単に言います。妹がさらわれました」
 圭太はあくまでさわやかに言い放った。

 克はしばらく黙っていた。圭太は的確に状況を説明していく。
「昨日の夕暮れ、大学の正門前で。銀色の、どこにでもあるありふれた国産車だったそうです。どうやら妹の顔を知っていて、出てくるのを待ちかまえていたようですね。妹が正門から走り出たら中から男が――これも普段着だったようです――近づいて、「すみません」と言った、と。
 妹はある男から逃げている最中でしたが」
 え、と上げかけた声は無視された。
「逃亡の途中にもかかわらず律儀にも立ち止まりました。我が妹ながら、律儀な性格なんです。誰に似たんだか」
 自分で言えば世話はない。圭太は語る内容の深刻さとは裏腹に笑って見せた。
「妹は立ち止まり、なんでしょうか、と答えたそうです。男は一言、「須藤流歌さんですか」と訊ね、妹が頷くと、いきなり銃を取り出して」
 ……待て。
「妹にではなく、近くにいた学生に向け、「車に乗りなさい」と言った。頭のいい奴です、妹に銃を向けても無駄だと言うことを知っていたのかも知れません。立ちすくんだ妹を横抱きにして車に乗せ、連れ去った。あっと言う間の出来事で、側には大勢の人間がいたにもかかわらず、誰も何もできなかった。……以上が事件のあらましです」
「……」
 克はため息をついた。清水と紹介された丸刈りの男が下を向いて、膝に乗せた拳をわなわなとふるわせているのに気づいてはいたが、今は事態を把握するのが先だ。
「質問が三つ」
「どうぞ」
「妹は誰に追いかけられていたって?」
「こいつに」
 圭太は身振りで丸刈り男を示した。
「……何でまた」
「その話はまた後で。二つ目は?」
「妹に銃を向けても無駄だ、というのは」
「その話もまた後で。追々わかります。三つ目は?」
「何でそんなに落ち着いてるんだ」
 圭太はまるで「今日の授業は休講でした」とでも言うような平然たる口調、比べて丸刈り男の方は取り乱しそうになる自分を必死で押さえ込んでいるという風情である。話の内容から考えると、清水の反応の方が妥当だ。妹がさらわれたというのに、この兄は何でこうも落ち着いているのだろう。いやそもそもこの男に妹がいたということも驚きだったが、しかし圭太は克がその疑問を口にする前に、言った。
「取り乱してますよ。だからお兄さんに相談に来たんです」
 やはり世間話でもしているような、平然たる口調だった。
 マイキがお茶を運んできた。紅茶が三つ、ケーキも三つだ。匂いをかぐだけで歯が融けてどろどろと流れ出しそうな甘いケーキを給仕し終わると、早く食べて欲しいというように脇に立ってお盆を抱えて見守っている。その時、丸刈り男が唐突に言った。
「……俺がついていながら」
「まあ仕方ないよ」
 圭太はやはり落ち着いている。その落ち着きに刺激されたように、丸刈り男が怒鳴った。
「俺の目の前でだ!」
 どん!
 叫びと共に足を踏みならす。その振動だけでがしゃん、と机の上の食器が跳ね、マイキが飛び上がった。堪えに堪えたものが思わずほとばしったと言うようなその声はまるで獣の咆吼だった。あまりの大声に隣近所から苦情が来るのではないかと思ったとき、隣室でどしん、という音がした。
 ややあって扉が開く。
「……地震?」
 扉から弟の卓が寝ぼけた顔を出す。ぐっすり眠っていたところを今の大声で起こされたらしい。卓が起きるのだから大変なものだ、と考えて、克はため息をついた。隣近所どころか、隣町からも苦情が来るかも知れない。
 その時だ。
 咆吼した後、立ったまま下を向いて衝動に耐えるように震えていた男が、卓の寝ぼけた顔に目を留めた。ややあって、先ほどとは少々色の違ううなり声がその喉から漏れる。
「に……新名卓」
「え、」
「新名卓ー!」
 丸刈り男は再び吼えた。と思ったら存外素早い動きでソファをまたぎ越え、卓の顔の出ている扉の方へ突進する。げ、と卓はうめき声を残して扉を閉めようとしたが、丸刈り男の方が早かった。扉に体当たりするようにして開け、仁王立ちになる。叫ぶ。
「会いたかったぞ、新名卓! 助けてくれ! 俺の大事な人が拐(かどわ)かされたのだー!」
「うわーっ!」
 げしっ。痛そうな音がした。切羽詰まった卓が無意識に放った蹴りが、丸刈り男の鳩尾にまともに炸裂したらしいのだが、こちらからでは壁と扉と丸刈り男の巨体が邪魔で見えない、が、丸刈り男の巨大な背中が痛そうに身をかがめたので想像は出来た。卓の蹴りをまともに受けた男は身を折って崩れ落ち、ややあって、がばっ! と不死鳥のように身を起こした。
「いい蹴りだ! やはり俺の目に狂いはなかった! どうだ新名卓、今からでも我が『拳道部』に――」
「いきなり何言ってるんですかー!」
 あちらでわいわい騒いでいる二人を尻目に、克は紅茶を一口飲んだ。
「……知り合いだったのか」
「ええまあ」
 圭太も平然としたものである。克は紅茶の香り立つ湯気を顔に当てながら、呟いた。
「で、あれだな。彼があそこまで憔悴してる理由もわかったってわけだな」
「わかりやすい男でしょう。呆れたことに妹はまだ気づいてませんが。で、話を先に進めますが」
「そうだ、理由をまだ聞いてなかったな」
 克は目を細めた。そう、圭太の妹が何故公衆の面前で、しかも名指しで連れていかれたのかの理由を聞いていなかったのだ。
「ええ、それがですね、昨日の晩妹をさらった奴らから家に電」
「落ち着いてください! 首! 首が! ぐっ」
「外してみるがいい、貴様の腕ならこの程度の締めなど簡単だろう!」
 どうやらあちらでは新たな展開を迎えたようである。なにやら緊迫しているようで、卓の苦しげなうめき声と丸刈り男の含み笑いが聞こえてくる。どうやら好敵手を見つけて一時の憂慮を頭から吹き飛ばしたようだ、と考えながら克が紅茶を口に含んだ隙に、目の前から圭太が消えていた。続いてあちらでごん、と痛そうな音がする。
「落ち着け、マルガリータ」
「……痛いではないか!」
「勧誘は後にしろ。逃避してる場合じゃないだろう。新名君、悪かったね。ほら来いよ」
 ずるずると剛の襟首を掴んで圭太が戻ってくる。細身にもかかわらず、あの巨体を軽々と引きずるところはやはりあの怪盗だった。ソファまで来ると圭太はぽい、と剛を放り出し、ソファに落ち着くと、何事もなかったように、「でね」といった。
「昨日の晩、電話がありまして」
 マルガリータって、何だろう。克は思ったが、何も言わなかった。


2003年05月21日(水) 星降る鍵を探して1-1-1

 第1章第1節

 日当たりのいい部屋で、革張りの椅子に座って、大きなデスクに置いた新聞を読む。
 背中から日の光が盛大に差し込み、彼の巨大な背中を暖めている。思わず眠り込んでしまいそうになりながら、新名克は必死で新聞の文字を追っていた。眠ってはいけない。気を抜けばうとうととまどろみそうになる自分を叱咤する。昼過ぎならともかく、今はまだ午前中だ。今眠ってしまったらきっと一日中、全身を蝕む倦怠感に悩まされた挙げ句、夜眠ることが出来ずに七転八倒することになる。そもそも俺は今事務所にいるのだ。職場にいるのだ。神聖な職場で居眠りをするなど、いや昔はよくしたものだったが、それにしてもいくら暇だからってやることがないからってそんな自堕落な。……眠い。
 以前から借りていた隠れ家を事務所として整えてから二週間ほどが過ぎた。南に大きく開いた窓辺にはマホガニー製(のつもり)のデスクがどんと置かれ、依頼主や調査対象のファイルを入れるキャビネットもすぐに取り出せる場所にそろえてあった。黒光りする電話は旧式な外見とは裏腹な最新式のものだ。革張りの巨大な椅子は克の巨体を支えるにふさわしい大きさを備え、座り心地がよい上に、キャスターつきでくるくる回る。また机の上には薄く持ち運びに便利なノートパソコン。そして極め付けには鳥打帽と拡大鏡。おそらくかぶらないし、おそらく使わないだろうが、これは基本である。欠かせない。
 このように、外観は全て整っている。
 あとは仕事が来るだけなのだが。
 世間は平和だ。
 やはり広告を、もっと大々的に出すべきだろうか。電話はせっかく最新式なのに今まで一度も鳴ったことはないし、キャビネットもがらがらだった。二冊だけファイルが入っているが、綴じるべき書類が何もない。むなしい。
 新聞の文字がぼやけ始め、克は一つ頭を振ると、革張りの椅子に背中を預けてため息をついた。
 暇だ。
 一月前の大事件の直後はひたすら疲れ果てていて、もうこのまま一生何もせずにぶらぶらして過ごしていたいと思ったものだったが……二週間もしたらこの平和な生活に飽きてしまった。克は二十七歳である。年下の者ばかりに囲まれているとつい自分を長老のように感じてしまうが、克はまだ隠居するには早すぎる年齢だったし、穏やかな生活と言うものが性格的に向いていないのかもしれない。いっそ弟の卓のように怪我をしていたらよかったのだ。克よりも十も年下の若者は、あばらに入った傷を癒すべく、静養という名の惰眠をむさぼっている。
 半ば冗談のつもりで始めた事務所だったが、今では仕事が来ないかと切望する日々である。
 がさり、と新聞をめくる。
 尋ね人、失せ物、迷い犬。天気予報。訃報や地域のニュース。記者の見解。世界情勢の解説――と言った細かな情報まで舐めるように読んでいく。だがあまり目を引く記事もなく、新聞記者もきっと記事に困っただろう。まあ平和なのは喜ばしいことなんだよな、と思いながらページをめくると、「願い事乱発?」という、ちょっと大き目な活字が目に入った。
 火星と木星の間にある小惑星群の活動が活発化しているとか、そういった話だった。小惑星群がなぜか近くの火星にではなく地球の方に吸い寄せられている原因を探るとか、最近では夜になると時期でもないのにすばらしい流星が見えるとか、そもそもその小惑星群というのは何億年か前に火星と木星の間にあった太陽系の惑星もしくは衛星の一つが何らかの原因で破壊され、その屍が帯のように漂っているのだとか、そんなことを冗長に述べたコラムだった。記者もよっぽど記事に困ったのだろう。流星か、と思わずため息をついてしまう。流星が普段よりやや多く降ったところで、仕事が舞い込んでくるとも思えない。
 散歩でもしてくるかなあ……と考えていると、きい、とキッチンの扉が開いた。まどろんでいたような部屋の中に、甘い香りが流れ込んでくる。
 克は自分の額に冷や汗が流れるのを自覚した。
 眠気はいっぺんで覚めた。
 新聞から目を放さないようにして、気配をうかがう。黒髪の小柄な少女が大きなお盆を掲げて、上のものを落とさぬように慎重に、ゆっくりと、こちらに入ってくる。ちらりと視線を上げて時計を見ると時刻は正に十時だった。まずい。
「ま、マイキ。見てみろ。最近流れ星がすごいらしいぞ」
 甘い匂いに押されるように無意識にのけぞりながら、克はできるだけマイキの持ってきた盆の上から注意をそらそうとしたが、暴力的なまでの甘い香りは容赦なく押し寄せてくる。盆の上に載っているのはショートケーキだった。マイキが焼いたものだ。出来立てだ。彼女は最近菓子作りに目覚め、頻繁に菓子を作るのである。それはいい。すばらしい。日常生活に興味を持ち始めたこと自体はとても喜ばしく、どんどんやってほしいと思う。そしてありがたいことに、マイキの腕はそれほど悪くはなかった。今彼女が持ってきたショートケーキは、スポンジはふんわりと膨らみ、間にはスライスされたイチゴが挟まれ、スポンジの上にこんもり盛られた生クリームはつやつやふわふわして甘い香りを放っている。非常に旨そうだ。しかし。
 ことり、と皿が克の目の前に置かれた。
 彼女はほとんど言葉を発さないのは相変わらずだったが、最近はかなり豊かな表情を見せるようになっている。その整った顔立ちは、「早く食べて欲しい」という期待に満ちていた。
「ま、マイキ……」
 呟くと、マイキは、何だろうかと言うようにわずかに首を傾げた。
「よ、夜外に出るとな、流れ星がよく見えるらしいぞ。流れ星ってわかるか?」
 ふるふる、とマイキは首を振った。克はできるだけ皿から視線を逸らしながら、言った。
「そうか。うーん、そうだな。見てみればわかる。綺麗なんだぞ。どういうものかというと、俺たちが今住んでいるこの地球上にな、……地球って、わかるか?」
 再びふるふると首を振られ、克は唸った。こういう知識は日常生活にはあまり関係のないものだから、一月という短い期間では卓もまだ教えることができていなかったのだろう。克は今度図書館に連れていって、子供向けの本を何冊か借りてやろうと思った。幸いというか何というか、時間はたっぷりあるのである。
 マイキが克の言葉を聞く体勢になりつつも、ショートケーキの載った皿を、わずかにこちらに押しやった。
 食べながら話して欲しいと言うことだろうか。
 再び冷や汗が流れた。
「マイキ」
 何と言ってごまかそうかと、必死に頭を探る。
「確かにお前がこないだ観ていた番組では、十時になったらおやつを出そうとか、言っていたけどな」
 こくり、とマイキが頷く。この殺人的なケーキを差し出しながらも、マイキは邪気のない笑顔を見せていた。焼き上がったケーキの出来映えを純粋に喜んでいる彼女に、克はその誇らしげな笑顔を崩さないためには何と説明すればよいのだろうかと、困り切っていた。もちろん顔には出さない。
「まず、あの番組は小さな子供を持つ母親向けのものでな」
 こくり。
「子供というのは胃袋が小さいから、昼食まで持たせられるくらいの量の食事をとることが出来ない。だから、あの番組では、十時頃に軽いおやつを与えると良いと言いたかったわけでな」
 いや、お前にすればこのショートケーキは「軽いおやつ」の範疇に含まれるのかも知れないが。呟くとマイキはああ、と何かに気づいたように頷き、ぱたぱたとキッチンの方へ向かった。ややあって盆を両手に捧げ、持ってきたのは紅茶である。ちゃんと柄のあったセットのカップと皿を使い、入れられた紅茶はいい色と香りをはなっており、新名兄弟の嗜好に合わせてか、ミルク入れもそろえられている。スプーンも忘れていない。しかし克は手を挙げた。
「違うんだ。確かにケーキには紅茶かコーヒーがつきものだが、俺は大人だからちゃんとしっかり朝食を食べたしな」
 第一マイキの作るケーキは歯が融けるかと思うほどに甘い。
 というのがおやつを断る唯一にして本当の理由だったのだが、それはさすがに言えない。何しろケーキをきちんと焼けるようになり、紅茶もコーヒーも日本茶も全て上手にいれられるようになったのはマイキにとって、そして克と卓にとっても非常に大変なことだったのである。克と、特に卓がその腕前に、そしてなによりその意欲に非常な喜びを感じているのは確かであり、マイキとしてはこれらの作業が楽しいことに加えて二人が喜ぶのがとても嬉しいというわけで、最近はケーキという大業にチャレンジするようになった。テレビや本からお菓子づくりの様々な情報を集めるのも欠かさない。その意欲に水を差したくはない。差したくはないが、このケーキは――まずくはないが――いかにも甘いのだった。他の茶菓子はだいたい美味しく作れるようになったのに、どうしてケーキだけはこうも甘いのだろう。
 卓はと言えば、舌が少々鈍くできているのか、それとも恋の成せる奇跡なのかも知れないが、マイキの作ったものを非常に喜んでぱくぱく食べる。克は弟が恨めしかった。うまいうまいと言う前に、どうして砂糖をもっと減らせばもっとうまいとか言ってくれないのだろうか。自分でも言えないくせに、克は自分を棚に上げて弟を恨んだ。
「さ、三時になったらお茶にしような。それまでしまっておいてくれないか」
 何とか差し障りのない言葉を探し出して言うと、マイキは素直に頷いた。ホッとしながらも、三時になったら何か理由を付けて上手く逃げよう。克がそう思ったときである。
 ぴんぽーん。
 軽い音を立ててチャイムが鳴った。
「客だ。マイキ、出てくれるか」
 マイキは頷き、盆をデスクの上に置くと、ぱたぱたと玄関に向かった。克は置かれた盆とケーキの載った皿をキッチンに下げようと腰を浮かせた。開業して一月にして初のお客様である。初仕事である。やはり客の目に見苦しくないように、事務所を綺麗に整えておく必要がある。いやセールスかも知れないし梨花かも知れないのだから期待するな俺、と自分に言い聞かせたとき、玄関の方で聞き覚えのある声が上がった。
「やあマイキちゃん、元気そうだね。上がっていいかな」
 次いで、玄関の閉まる音、玄関で靴を脱ぐ音、そして廊下を歩いてくる三つの足音が聞こえる。なんだ、あいつか――克はやや落胆して再び椅子に腰掛けた。客じゃなかった。知り合いだ。そうだ、このケーキを出してもてなしてやったらどうだろう、と非情なことを考えたとき、正面の扉が開いた。
「こんにちは、お兄さん」
 相変わらずの間延びした声。一月前の事件で世話になった、普段着の怪盗が、人なつっこく笑った。


2003年05月20日(火) 序章

 清水剛は自動販売機の前で思案に暮れていた。彼の好物である「あたたかいおしるこ」は、梅雨も近いというこの季節には既に自動販売機から姿を消しているので、最近はいつも飲むものに悩む。その巨躯と厳つい外見にもかかわらず彼は極めて甘党だった。彼の嗜好にぴったり合うのは「歯に沁みるような甘さ」であるという事実に加え、『拳道部』の激しい部活動で酷使された筋肉は普段よりも更に甘みを求めている。その彼の好みと筋肉の需要に耐える飲み物はどれだろう。勇猛果断な性質で知られる『拳道部』の主将は、しかし甘味に関しては優柔不断だった。
「コーラか……しかし炭酸という気分でもない」
 剛は困り切って、地響きのような声で呟いた。
 嘆くべきは昨今の「すっきりした味」「さわやかな甘み」「淡泊な味わい」を求めるという世間の風潮である。自販機の中身は世間の需要に応えるべく刻々とその中身を変え、彼の好む「どぎついまでの甘み」を売りにする飲み物は隅に追いやられるようになって久しい。
 部活動を終えた夕暮れ時というこの時間、構内は既に薄闇に包まれていた。生協前の自動販売機の前に陣取って腕組みをして唸る道着姿の巨体は、正しく通行の邪魔になっている。しかし彼を押しのけて自動販売機を使用できる強者は存在しておらず、夕食を取るために食堂に向かう学生や、食料を仕入れに購買に向かう者は足早に彼の背後を通り過ぎ、彼の周りだけぽっかりと空間があいている。
 その空間の中で、剛は三つ並んだ自動販売機のウィンドウを未練がましい目で睨み回してから、
「……購買で饅頭でも買うか」
 肩を落として呟いた。おしるこの、あのどろりとした喉越しを懐かしみながら、ひとつため息をつく。十分間にも及ぶ思案の末に出した結論にそこはかとなく敗北感を感じながら、購買の方へきびすを返そうとした瞬間だった。
「流歌(るか)ー! 待ってー!」
 女学生の甲高い声が響いた。見やると生協前の雑踏の中で小柄な女性が立ち止まるのが見えた。長い黒髪をひとつにまとめたその女学生の横顔を視た瞬間、彼はおしるこへの渇望も饅頭へ傾きかけていた意識も忘れた。流歌と呼ばれた女学生は彼の目から見ればいついかなるときでも麗しい。雑踏の中に立ち止まった彼女はあたかも泥水の中に浮かぶ真っ白な蓮の花だ。その声も可憐であり、意味のない言葉の洪水の中に流れる天上の音楽のようである。流歌という名前さえも剛にとっては好ましく、彼女は剛の注ぐ視線も知らぬげにそのまさしく流れる歌のような柔らかな声で友人に応じた。
「梨花! 今帰り?」
「うん、そこまで一緒に行こ」
 追いついた女学生はふわふわした栗色の髪を持つ美女であったが、目的物以外は剛にとってどうでもいい。二人は並んで仲むつまじそうにおしゃべりしながら正門へ向けて歩き出す。その背に向けて、剛は叫んだ。
「須藤流歌ー!」
 そして、突進する。猪突猛進が彼の信条であり、得意技でもあった。既に彼の目には彼女と自分との間を隔てる学生の波など入らない。彼らが重戦車のような剛の突進に恐れを成して慌てて避けようとするのをかきわけ、突き飛ばし、はね飛ばしながら、彼は須藤流歌へ向けて突進した。
「『警邏会』の怒れる孫悟空! 今帰りかー!」

   *

 飯田梨花は人波をすり抜けて友人の元へたどり着いた。こちらを見上げるこの同級生は人なつっこい笑みを浮かべていた。大学に入って一番初めに出来た友人は、一番気の合う友人でもあった。梨花は可愛いものが大好きである。須藤流歌は外見も、もちろん性格も、普段は、極めて可愛らしかった。
「今日は早いんだね。今は平和なの?」
 訊ねると、流歌はおっとりと笑った。
「うん、だいぶね。新入生の勧誘合戦も一段落ついたし」
「大変だったもんね、しばらく」
 梨花は流歌の所属する『警邏会』の面々が、乱暴な勧誘を繰り返す運動系のサークルの魔手から新入生を守るためにどんなに苦労していたか知っていたので、しみじみと呟いた。『警邏会』は大学構内の治安を守るというのが主たる活動目的である。この大学内に跋扈する多種多様なサークル間の治安を守るのは並大抵の仕事ではなく、流歌の同僚はほとんどが運動系のサークルに属してもおかしくないような屈強な男子学生ばかりである。流歌が『警邏会』に入ると言ったとき、梨花はこのおっとりした優しげな友人があんな過激なところに入って大丈夫だろうかとかなり心配した。しかしあのとき梨花は知らなかったのだ。彼女を怒らせるとどんなことになるかということを。入学して一年が過ぎた今では、この友人の持つ特殊能力も身に沁みてわかっていた。今では流歌が姿を現しさえすれば大抵のサークルはおとなしくなると言われるほどで、『警邏会』ブラックリストの常連には「『警邏会』の怒れる孫悟空」とあだ名されて阿修羅のごとく恐れられている。大丈夫だ。この子なら猛獣のひしめくジャングルに生身ひとつで放り出されても何とか生き延びられるだろう。
 ともあれ今の流歌は普段通りの、おっとりとした雰囲気をまとった梨花の大好きな友人である。梨花は新入生の勧誘合戦の嵐が過ぎ去った平和な日常に感謝しながら、友人と共に足を進める。
 しかし。
「須藤流歌ー!」
 背後で野太い声が響き、同時に悲鳴がわき起こった。見やると生協の方で異変が起こっていた。行き交う学生の流れを横切るようにして何か巨大な生き物が、邪魔な学生を手当たり次第にかき分け、放り投げ、突き飛ばしながら、こちらに突進してくるのである。人混みの間から丸刈り頭がちらりと見えた。彼のまとっている土に汚れた道着も見えた。梨花は思わず友人の方を振り返った。流歌は呆然とその突撃を見つめていたが、次第に事態が飲み込めてくるとその表情が変化した。まずいものに見つかってしまったという狼狽の表情が浮かび、くるりときびすを返して逃げ出そうと、する。
 と、突撃猪がさらにその地割れのような声を張り上げて叫んだ。
「『警邏会』の怒れる孫悟空! 今帰りかー!」
 まずい……!
 慌てた梨花の目の前で、流歌の表情が激変した。
 思わず上げかけた梨花の制止の手をすり抜けて、
「だ・れ・が・孫悟空ですかー!」
 あと数メートルのところにまで近づいていた男への距離を、彼の数倍は早い速度で一気に詰めて、流歌は何のためらいもなく跳躍した。そしてくるり、と空中で回転して放った跳び蹴りが、丸刈り男の顎にまともにヒットした。がこっ! と非常にいい音がして、丸刈り男がのけぞり――ゆっくりと、倒れる。
 地響きがした。
 地面が揺れた。
 丸刈りの後頭部が地面に激突した。
 痛そう……と思ったときには、流歌が地面にとん、と身軽に着地していた。相変わらず呆れるほどの身のこなしだ。彼女だけは怒らせてはならず、彼女の嫌うそのあだ名だけは彼女の前で言ってはならない、という不文律が出来て久しいが、あの丸刈り男にだけはそのような常識は通用しないのである。梨花は平和な夕暮れが崩れてしまったことにため息をつき、とりあえず流歌の方へ一歩足を踏み出した。彼女がまだ怒り狂っているようなら何とか鎮めなければならない。気分は猛獣使いである。
「誰が孫悟空ですか誰が!」
 流歌は倒れたっきり動かない丸刈り男にびしっと指を突きつけて怒鳴る。まあまあ、となだめようと右横から近づきながら――背後から近づくと「反射的に」攻撃される恐れがある――梨花がかける言葉を探したとき、がばあっ! と丸刈り男が起きあがった。
「い……いい蹴りだ!」
 人間か。
「貴様のその蹴り、やはり『拳道部』にこそふさわしい! そう思わぬか!」
「思いません」
 流歌は呆れたようにため息をついた。少し怒りが弱まったようである。丸刈り男が何事もなかったように土を払って立ち上がるのを見ながら、流歌はもう一つため息をついた。
「また勧誘ですか。あたしは『拳道部』に入る気はないって、何度言ったらわかるんです?」
「何故だ。貴様のその運動能力、『警邏会』などで腐らせておくのは惜しい」
「『拳道部』は女人禁制じゃなかったんですか」
「貴様なら大丈夫だ」
「どういう意味です!」
 流歌は心底心外だと言うように声を荒げた。周囲の学生たちがしみじみ頷いているのは、幸いなことに流歌の目には入っていないようである。流歌は期待に満ちた丸刈り男の笑顔を見上げて、またため息をついた。
「とにかくあたしは『警邏会』をやめる気はありません」
 宣言して、くるりとこちらを振り返った流歌の顔はすっかり元の落ち着きを取り戻していた。まだ戦闘態勢を崩してはいないが、もう阿修羅には見えない。彼女の変貌はとても瞬発的なもので、長続きしないのが常なのである。
「ごめんね梨花、行こう」
「う、うん」
 とりあえず頷いてはみたものの、丸刈り男がこのまま引き下がるとは思えない。歩き出すのをためらった梨花の判断を肯定するように、丸刈り男が叫んだ。
「待てい! まだ話は終わっておらんぞ!」
 そして突撃を開始する。流歌はちらりと梨花に謝罪の視線を投げ、一散に逃げ出した。怒りに我を忘れているときならともかく、この不死身のように頑丈な男とまともにつき合うような愚は――殴っても蹴っても起きあがってくるのだから時間と体力の無駄というものだ――普段の流歌は犯さない。しかし逃走は今日に限ってはなかなか功を奏さなかった。開けた場所なら流歌の方が断然足が速いのだが、生協前から正門に続く道にはあいにく大勢の学生たちが行き交っており、その間をすり抜けなければならない流歌は、彼らをはね飛ばせばよい丸刈り男の進む速度と同じくらいの速さしか出せない。はね飛ばされる学生たちの悲鳴や怒号が次第に正門の方へ移動していく。やがて元の平穏を取り戻し始めた生協前で、梨花はため息をついた。
 いつものこととはいえ、あの丸刈り男が流歌に見せる執着と、流歌の放つ鋭い攻撃をことごとく受けながらも不死鳥のように立ち上がる体力には脱帽するしかない。流歌にとっては災難だが、端から見ているこちらとしては、ひどく体力を消耗させられる風景だった。
「……帰ろう、とにかく」
 呟いて、きびすを返す。周囲の学生たちも三々五々散らばり始めている。と、そのとき、梨花は地面に落ちている流歌のショルダーバッグを見つけた。先ほど跳び蹴りを放つ直前に地面に落としてしまったものらしい。
「しょうがないなあ、もう」
 拾い上げるとずしりと重い。開いた口から財布がのぞいている。大学の近くに兄と一緒にアパートを借りている流歌は、財布がなくても帰れないということはないが、それでもやはり何かと困るだろう。ちょうど帰り道だし、届けてあげよう。一緒に夕飯を取るのもいいかも知れない、と考えながら流歌のバッグと自分のバッグを両肩に掛けて歩き出した梨花は、正門の方がすっかり静まり返っているのに気づいた。
 もうあの二人が通り過ぎた後だからなのかとも思ったが、それにしては帰りを急ぐ学生たちの立てる喧噪すらも聞こえない。おかしい、と思いながら彼女は無意識に足を早めた。やがて、正門が見えてくる。正門付近の学生たちが呆然と立ちすくんでいる。その中に、やはり呆然と佇む丸刈り男の後ろ姿も見える。梨花はいよいよ走り出した。あの丸刈り男が流歌の追跡も忘れて立ちすくむなんて、異常事態だとしか言いようがない。
「し、清水さん?」
 走り寄って、一学年上である丸刈り男にそっと声をかける。流歌の姿はどこにも見えない。すると丸刈り男はいきなり振り返って、梨花をまじまじと見つめ、わななく唇で呟いた。
「大変だ」
「どうしたんです……?」
 この男がここまで動揺するのを、梨花は初めて見た。その日に焼けた赤銅色の肌が、気づけば青黒く見えた。夕暮れの光のせいかとも思ったが、そうではないことにすぐに気づいた。丸刈り男は蒼白になっていたのだった。彼は愕然として、青ざめて、どうしていいか全くわからないというように、うめいた。
「須藤流歌がさらわれた」


2003年05月19日(月) もらいました。

お友達からこの場所をいただきました。どうもありがとうございます。
先に序章だけアップしてみました。始めちゃうのか……ホントに?(聞くなよ)


相沢秋乃 目次次頁【天上捜索】
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