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五十嵐 薫
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2008年10月15日(水)
オフィーリア

その絵は、あっさりとそこにあった。
特別に設えたコーナーにでもあるのかと思いこんでた。

虚ろな目の美しい女が川に沈もうとしている。
水に広がった豊かな髪は彼女の若さを、レースをたっぷり使ったドレスは彼女の身分の高さを示している。
テートの至宝、ミレイの代表作「オフィーリア」だ。

ロンドンに行くたびにこの絵の前で数時間を過ごした。
まさか渋谷で見られるとは思わなかった。



平日の午前中だけあってギャラリーは空いていた。
数人ごとに絵の前で立ち止まる。イヤフォンガイドの説明を聴きながら眺めているのだろう。



ふと、絵の前で動かない女が一人いるのに気付く。

後姿なので顔は判らない。

背中に届く黒い髪。
赤いフェルトの帽子に朱色のインバネスコート。
タータン柄のミニスカートにジョッキーブーツ。

ドクン、と心臓が鳴った。



思い出した。
「オフィーリア」が好きだったのは僕ではなく彼女で、彼女の好きだった「オフィーリア」だったから、僕はこの絵に惹かれていたのだ。



腕を組み首を傾けたあの後姿は、彼女に間違いなかった。

声をかけようか暫く迷った。
あれからもう10年以上の時間が流れている。



意を決して一歩踏み出そうとした時、一人の男が視界の外から現れ、彼女の肘を引っ張った。
彼女はその手に引っ張られるままに絵の前から離れ、次の展示部屋に消えていった。



僕は「オフィーリア」の前に数分立ち止まり、そのまま入口に向かった。
何か言うモギリの女の声を無視し、入口から表に出た。



ミレイ作「オフィーリア」。
ちりばめられた花の暗示的な花言葉や殉教者を思わせるポーズ等、その象徴性の高さから「誰にとっても特別な絵」と言われている作品。



僕にとって特別なものはきっと、他の誰かにとってもまた特別なものなんだろう。


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