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2006年06月24日(土) |
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出先から直帰できたおかげで、地元の駅には五時前に着いた。 高校生が数人、バス停のベンチに腰掛けアイスを齧ってる。 自転車置き場はまだ殆ど一杯だ。 それはそうだ。 五時に会社が終わったとしても都心からここまではゆうに一時間半はかかる。
バスの時刻を見る。 さすがにこの時間帯のダイヤは覚えてない。
丁度さっき出たばかりだった。
一瞬考えた。 もうだいぶ日も延びた。 それにあの冴えない駅前で30分もバスを待つのが嫌だった。
バスで15分の距離だ。 歩こう、と思った。
何故か気分が良かった。 微かな優越感すら感じる。 ほんの二時間帰宅が早いってだけでだ。 ジャケットを脱ぎ左腕にかけた。
駅から県道を横切り、小学校の角から住宅街に入る。 この辺は昭和50年代に造成された宅地だ。 古い町並みって程ではないが、新興住宅地に在りがちな余所余所しさはもはやない。
そういえばこの道は小学校までの通学路だったと思い出す。 もう18年も前に卒業したのに足がまだ憶えてる。
歩きながらふと思う。 結局、一度も家を出なかった。 大学も会社も自宅から通ってる。 家を出るのはたぶん結婚する時だろう。
そういえば父とは最近話してない。 昔は彼氏を連れて来いなんてよく言ってたのに。
30で独身の娘というのはそんなにデリケートな存在なんだろうか?
父が私のことを理解しがたいと思ってるように、私だって当然30になる娘を持つ父親の気持ちは判らない。
児童公園を右手にみて、松の木がある家の前を左に入る。 小学生時代のランドマークが未だに変ってないことに軽く驚く。
この分だとあの『広場』も残っているかもしれない。
小学校の帰り道に有刺鉄線で囲まれた『広場』があった。 今考えればギリギリサッカーができるくらいの広さだったと思うのだが、住宅街の真ん中にぽつんと空いた空間だったせいか当時の私にはやたら広い空間に思えた。
『広場』には噂があった。 六価クロムという薬が投棄されたせいで向こう100年は立ち入り禁止だとか、地下に遺跡があって建築許可が降りないとか、土地相続で揉めていて裁判が終わるまで入れないとか。 学年が上がるごとにもっともらしい理由に変って行ったが、その有刺鉄線をくぐるとどこからともなく警備員が現れ指紋をとられるというオチだけは変らなかった。
小学六年の確か一学期も終わる頃。 別の噂が広まった。
「『広場』にさ、サーカスが来るんだって。」
サーカス。 ぴんとこなかった。 さすがに12歳ともなれば眉唾の話には飛びつかない。
低学年の子の子は騒いでいたけど、私のクラスでは給食の時間に「サーカスだって」「へぇ」と一言二言語られる程度だった。
その頃サーカスといえばシルクド・ソレイユでも木下でもなくボリショイだった。 もちろん近所に巡業してくるものではなく後楽園の横や桜木町の埋立地やドリームランドで行われるものだった。
終業式の頃には、サーカスがくるのは八月の真ん中の金土日で小学生以下は500円なんて具体的な話になってた。
夏休みになりその噂を覚えていた子がどれほどいたかは知らない。 その週末、私は家族で母方の田舎に里帰りし帰りの日に熱を出して父母を随分慌てさせた。
学校が始まってサーカスの話をした記憶はない。 噂はいつもそんな風に唐突に終わるものだった。
角を曲がった。 『広場』だった場所は『広場』のままだった。
隅には建築廃材が無造作に積み上げてあった。 赤く錆びて朽ち果てた有刺鉄線の残骸がところどころ残っている。
記憶の中の広さよりさらに『広場』は狭かった。 サッカーどころかフットサルもできない程のほんの小さな空き地だった。
日もだいぶ傾いてきた。 腕にかけていたジャケットを着る。
なんとなく物悲しいのはたぶん夕暮れのせいだろう。
遠くにコンビニの看板を見つけほっとする。 このコンビニから家までは3分と離れてない。
それでもまだ、今日は普段より早い。 早めにお風呂に入って録画してある映画を見ながらビールを飲もう。
今日は奮発してエビスにしよう。
そうだ。
たまには父親の分も買って帰ろう。
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