妄言読書日記
ブログ版
※ネタバレしています
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2013年02月28日(木) |
『ゼロ・ダーク・サーティ』(映) |
【監督:キャスリン・ビグロー アメリカ】
女性諜報員のマヤが9.11以降、ビンラディンを追い、突き止め殺害するまでにいたる映画、ということで、あの一連の出来事を美化するようなのや正当化するような映画だったら嫌だなぁと思ったのですが、そういう内容ではない。 ほぼBGMもなく、マヤの視点で描かれてはいるけれど、ほとんどマヤという女性(名前しか判明しない)のプロフィールも明かされず、この主人公については必要最低限のことしか描かれない。家族がいるのかもわからないし、この仕事をどう思っているのかもその表情からしかうかがえない。しかもマヤを演じる、ジェシカ・チャスティンが抑えた演技をしているので、そこから観る側がいろんなことを考えないといけない。
三時間ほどある映画で、そのほとんどがとても地味な諜報活動の様子にあてられる。もちろん冒頭に拷問シーンがあったり、テロにあったり、銃撃されたりもするのだけれど、アクション映画のCIAのような活躍があるわけではない。 マヤがのめりこむように執拗に追い続ける情報が本当に正しいのか、結局それが正しかったのか、そして本当に最後に死んだ男はビンラディンだったのか、当時の疑問が改めて甦る。
映画はマヤに焦点を当てていながら、マヤを支持しているわけでもなく、アメリカを支持しているわけでもなく、かといってもちろんアルカイダのことを擁護するわけでもなく、あらゆる立場から慎重に距離を置いている。 これを観終わって各自が抱いた感想や確信はおそらく、監督が意図したものではなく、観る前からこの一連の事件を各自がどう考えてきたのかを再度認識しているだけなんだろうと思う。
マヤにしろ、他の諜報員にしろ、テロへの報復への熱意や正義感、使命感はどんどん消えていき執念だけが残っていく様がとても淡々としていてリアルである。
ラスト、マヤはもちろん突入した隊員達にも喜びや達成感は薄く、ただなにがしかの一区切りがついたような徒労感や空しさを感じている様子は、今も続くテロを思うと結局その通りだったんだろうな、と思う。 遠い昔の戦争映画と違い、現在進行していることであるだけに止めようのない連鎖を感じて暗澹とする。
2013年02月26日(火) |
『闘争領域の拡大』(小) |
【ミシェル・ウエルベック 訳:中村佳子 角川書店】
フランスの作家を読むのはひょっとして、モーリス・ルブラン以来じゃないのか、と思ったけど、そんなこともなかった。コクトーとか読んでた。
中身を説明するのは難しい。 哲学的ではあるけれど、難解というわけではなく、話しはシンプルで語りは簡潔に淡々としている。 主人公の30歳の僕が、特に大きな事件があるわけでもないが、徐々にドロップアウトしていく様子は同年代としては身に詰まるというか、どっちかというと絶望的な気分になる。 たぶん、男の人が読むとより一層共感すると思う。 僕、もしくは僕が出会うティスランという不細工で童貞な28歳に。 このどちらの登場人物に共感してもどん底気分になるのは間違いない。
非常に下に下に向かっていく話しなのだけれど、不思議と閉塞感のないラストだった。 まあ、幸せもないけど。
2013年02月25日(月) |
『ジキル博士とハイド氏』(小) |
【R.L.スティーブンソン 訳:大佛次郎 恒文社】
初大佛次郎がこれなのか、という気もしますが図書館にあったのがこれだったので。
これで『吸血鬼ドラキュラ』『フランケンシュタイン』と並ぶ、三大怪奇小説(と呼ばれてるかどうかは知らない)を読了したわけですが、前の二作と違うのはスティーブンソンが一発屋じゃないってことでしょう。 むしろ『宝島』とかの方が有名かも。
これまた有名すぎるが故に中身の詳細は知らないっていう小説でしたが、まずは語り手がジキル博士の友人のアッタスン弁護士だっていうところが知らなかったね。 なんとなくジキル博士視点とかジキル博士の手記形式かと思っていた。 博士の手記は終盤に出てきますが。 もう一つは二重人格の代名詞みたいに言われているからそうかと思ったけれど、ジキル博士が作った薬によって姿かたちまで変わってしまうというのも知らなかったけれど、副作用的なものじゃなくて己の善と悪を分離する目的で作られたのだから、博士の実験は成功と言える。
『フランケンシュタイン』の時もそうだけれど、フランケンシュタイン君にしろ、ジキル博士にしろ別に善人じゃないので善と悪の対立と言うようにはあまり見えず、お前のせいだよ!とか、お前の無計画さのせいだよ!という思いがひしひしと。 あと両作品に共通する、科学ならなんでもできるんじゃないかっていう文系発想。気持ちは分かるけども!
本筋と全然関係ない、アッタスン弁護士と毎週日曜日に散歩するアッタスンの二人の関係が気になって仕方ない。話しもしないでつまらなさそうにしながらも、毎週欠かさない習慣って何!
2013年02月15日(金) |
『フランケンシュタイン』(小) |
【メアリー・シェリー 訳:山本正喜 角川書店】
超有名だけど、原作は読んだことがない小説のうちの一つ。他にもいっぱいありますが。 おそろしく訳が読みづらかったのだけれど、もっと読みやすい最近翻訳された物があるのかもしれない(1994年発行) 映画化した時に出したんでしょうか。
フランケンシュタインというと、今では怪物そのものの名前のように使われていますが、本来は怪物を生み出した青年の名前がフランケンシュタイン。 なぜか老人のイメージなんですが、青年。しかもただの学生。 学問を志しドイツで学び、なんとなく二年ほど熱中した結果人造人間を作り上げてしまうという。 なんで作ったし。あと雷関係なかった。 作ったはいいけど、そのおぞましさになかったことにして、逃げ去った怪物は忘れて一年ほど放置!
物語がフランケンシュタインを北極で助けた、ウォルトンという人物が姉に書き送った手紙という形で進行。 ただフランケンシュタインが生い立ちを語り始めてから、手紙形式なくなりますが。 ウォルトンとフランケンシュタインの出会いの熱の入りように、姉さんきっと心配になってるよ。BLの気配に。
それはさておき、逃げた怪物が知り合いの子どもを殺し、その濡れ衣を着せられた知り合いのお嬢さんが冤罪で死刑になるという展開を経て、怪物と再会しておきながら、悠長に怪物の身の上話を聞いたうえで、俺も女が欲しい、という願いをうっかり聞いてしまうフランケンシュタイン君はアホなのだろうか。 そのあとやっぱり止めるんだけれど。どうして早く怪物を倒す方向で決断しないのか!
そんな感じで終始、フランケンシュタイン君の行動には疑問しかわかなかったです。 派生作品がたくさんあるので、これは原石くらいに思って読むのがいいんでしょうか。 確かに刺激される設定ではあるんですが、この小説そのものの出来栄えには疑問です。
【ウラジーミル・ソローキン 訳:亀山郁夫 国書刊行会】
『ロマン』は長編だったけれどこちらは短編集。 ロマンと表題にして冒頭に載っている「愛」を読むと、ソローキンの突然の発狂という芸風にも慣れる…かと思いきや、毎回毎回いったいどこで発狂してくるのかと冒頭の普通の描写の時点からびくびくする。 わにわにパニックやってる気分。 で、突然の発狂が訪れる。 登場人物がというより、テキストの暴走。 たまに突然の暴力に驚く登場人物がいると、ソローキン小説の登場人物ならいちいち驚くな、と思ったりするくらい、登場人物たちはたんたんと狂気と暴力とその他アンモラルな行動に及ぶ。 正直、唖然とするし意味も分からない。 でも本の後ろに収録されているインタビューにも書いてあるけれど、意味や物語性というよりもテクストそのもので充分読ませられる魅力がある。
ソローキン読むと小説っていったいなんだろう、って思う。
この短編集では「愛」「弔辞」が好きです。 「真夜中の客」で斧が登場した時は、斧だーっ!とちょっとテンションあがるという。 もう『ロマン』のせいで、斧のことをまともに見れない。
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