2019年06月08日(土) |
お悔やみを申し上げます |
亡くなったボスの近くにお住いの班長Y氏。 彼は3人兄弟の長男ですが、跡を取っているのは 末の弟さんです。 大阪生まれの東京育ち、太平洋戦争中は父・母の 実家のある島根で育ち、高卒で東京に出て来ました。 代々親戚中が従姉妹結婚という事もあり、ご本人も その後東京に出てきた弟も嫁は従姉妹ではありません。 既に従姉妹結婚を繰り返した影響が出てきている 家系もあると言っていました。 その班長Y氏のご両親もまた、従姉妹結婚なのだと 言います。 18歳で班長を産み、今年で101歳のお母様。 班長の父である夫が戦死し、海軍だったため 身体は戻って来ませんでした。 フィリピン辺りで亡くなったと生き残った直属の 上司がわざわざ訪ねてきてくれて話を聞いたそう。 素晴らしかったのはその元上司で、戦後、どんなに 月日が経とうとも元部下のご遺族を探し出して 生前の様子などを話して回ったといいます。 班長の実家に来られた時も、既に班長達は成人して 嫁もおり、子どももいたとか。 新しく家庭を持った妻たちにとっては有り難くない 訪問かもしれませんが、班長のお母様はその後 一生独身だったといいます。 男ばかり5人産んで、末に娘が生まれ、娘を欲しがって いた班長のお父さんがいよいよ船に乗り込んで出兵という 時に生まれて間もない妹を抱かせに部隊のいる駐屯地へ 赴き、長旅がいけなかったのか、赤ちゃんが途中で 亡くなってしまいました。 なので班長も朧げに末の妹を抱いた思い出があるような ないような・・・という。。。 その後の兄弟も亡くなって、結局3人の男の子が 育ちました。
若いお母様を帰還兵が狙う・・・といったことも あったようです。 よく耳にする話ですよね。 帰還兵は帰還兵で帰宅したら嫁が死んでた、あるいは 死亡通知が誤送され、別の人に嫁いだ方もいますし、 敗戦後は帰還すれば仕事はないし、「国の為に戦った」 なんて肩書きはどうでもよい邪魔な肩書でしかないし。
苦労続きだったお母様は80歳を過ぎた頃から 施設に入っています。 きっかけは弟さんのお嫁さんの病気(癌)だったと 思います。 でもお母様はお元気で、年に何度も自宅に外泊したり していたようです。
「 ♪ う〜たをわ〜すれたカ〜ナリヤは〜 ♪ 」
と、コタツのテーブルを叩きながら拍子を取って 唄っている動画が班長のデジカメに残っています。 班長そっくりのお母様です。
痴呆の症状が出てからも、周りの事が判らなくなっても 班長の住所は?って聞くと、ちゃんと長男の住所を スラスラと言えたといい、「さっちゃん」と 長男の愛称を呼ぶとフと我に帰ることもあったと 言います。 次男・三男ではそうならなかったというので、 やはり初めての子は可愛いのでしょうね。 90歳を過ぎてからはもう食事も自力では摂れず、 介護士さんから食べさせてもらうようになりました。 口元に食べ物を持って行けば口を開けますが、 残念ながらご本人は表情が無く、機械的に口を開け 機械的に口を動かして飲み込むという状態に。 それでも孫・ひ孫と一緒に班長が数年前に行くと 笑顔を見せたといいます。 そしてその写真を撮り、ぱんちゃんに見せてくれました。 痴呆になって殆どの事が判らない状態だとは思えない程の 素敵な可愛い笑顔で写真に写っています。 介護士さんも、
「お母様が笑った顔を見たのは初めてです」
ってびっくりした程。 息子が孫とひ孫を連れて会いに来た事が判ったんですね。 子の存在って凄いですね・・・
そんなお母様が危篤だと連絡がありました。 既に口からご飯が摂れないために胃瘻で食事を摂って いましたが、1週間前に点滴もやせ細った身体に 針が入らないという事で連絡が来ました。 この状態ではもう長くはないだろうとは思っていましたが 連絡が来て翌日の夜の飛行機のチケットが取れまして。 島根へ行く飛行機は1日2便しか無いのだそうです。
でも。
出発の前日にお母様が眠るように旅立たれました。
老衰です。
死に水が取れなかったのは残念ですが、 班長は今、ご実家にお母様に会いに帰られています。 友引に日に亡くなられましたから、先に天国に逝かれた お父様がお迎えに来られたのかもしれませんね。 班長の人柄はとても評価出来る方ですから、 それはお母様のご養育の賜物だと思います。
謹んでお悔やみ申し上げます。
班長、しばらくご実家でお母様と過ごしてね。
|