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JIROの独断的日記
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2005年03月06日(日) 「真面目なサイト」は面白い。  国立国語研究所の例。

◆「ウケ狙い」だけでよいのか。

 

 PCとインターネットの普及によって、誰でも気軽に文章を書くようになった。

日本史上、これほどまでに多くの一般人が、かなり高い頻度である程度まとまった文章を書くような状況は初めてのことだろう。

書くことを職業としない人の中にも、驚くほど優れた洞察と、思考力と、表現力を兼ね備えた人がいることに、しばしば驚く。

 だが、一方で、本当に何かを訴えたい、表現したい、というよりも、とにかく「アクセス数」が増えるような「ウケる」文章を書くことを目的とする人も多い。

このような場合、少なくとも私は、その人の文章に共感できる場合は少ない。

 当然であろう。書いている本人が「表現したい」という「思い」を強く持っていなければ、読者の心の琴線に触れることは出来ないのである。


◆学術的研究機関のサイトは興味深い。

 

 そこで、というとやや論理に飛躍があるが、「ウケ狙い」とは対極にあるようなサイトを訪れてみると、これが、意外なほど面白い。

本来、インターネットは、大学などの学術研究者同士のデータ、論文のやりとりを円滑、迅速に行うことを目的に構築されたものであると聞く。

学問の専門家同士が交わす情報は、素人が簡単に理解できるわけはないが、嬉しいことに、国内外の様々な学術的研究機関のサイトを見てみると、ほぼ必ずと言っていいほど、素人向けに研究内容を易しく説明してあるページがある。


◆国立国語研究所のサイトは面白い。

 

 国立国語研究所は日本語について、研究する機関であるが、ここでも、素人でも分かるような内容が豊富に掲載されている。

たとえば、新「ことば」シリーズというブックレットがある。

 Webサイトでは、その一部しか、載せていないのだが、「言葉」に興味がある人ならば興味深い内容が平易な言葉で綴られている。

 当然の、国立国語研究所の研究員が執筆しているのだが、さすがは、国語研究所の研究員だけのことはある。

 その日本語が実に名文なのである。曖昧さのかけらもない。文法的にも実に、感動的に「美しい」と表現したくなるほど、正しい。

「『正しい日本語』という絶対的な基準は存在しない」ということを書いている文章があるのだが、そう云われても、その文章自体、実に「正しい日本語」の見本なのだ。

  このような見事な文章を読むことは、いつも好き勝手な構成、語法、文法で文章を書いている私にとって、大変勉強になる。


◆全国方言談話データベース

 

 もうひとつ。国立国語研究所のサイトでは、音声データを聴くことが出来る。全国方言談話データベースというのだが、各県の一般人同士が日常的な会話をしているのを録音したものである。

 私たちは、東京弁と関西弁と博多弁ぐらいは何となく知っているが、栃木県と群馬県と茨城県では、アクセントがどのように異なるのか、知らない。

また、同じ関西地区でも大阪と兵庫と和歌山と京都で話されている言葉の違いも分からない。

 ここで聴くと、その微妙な違いが分かり、大変興味深い。


◆付随的に発見したこと。市井の一般人の発音は実に聞き取りにくい。

 

この全国方言談話データベースを聴いて、面白かったのだが、ひとつ、重大なことに気がついた。

どこの地方のひとであれ、「一般人同士が普通に会話をしているとき、その発音は極めて不明瞭だ」という事実である。

それがいけないというわけではない。

 そもそも、目の前にいる人と会話をするに際して、舞台俳優のように大きな、良く通る、明瞭な発音で話す必要は無い。通じれば良いのである。

しかし、別の言い方をすると、テレビで話しているアナウンサーや、ドラマや舞台で台詞を語る役者たちは、かなり意識的に明瞭な発音をする訓練を積んでいることが、わかる。 一般人は、アナウンサーや役者ほどではないにしても、相手に一回で内容が伝わる程度の発音や、センテンスで話すことが出来るような訓練は日本の学校では全く行わないので、自分で訓練しておいたほうが、良いと思う。

たかが会社員だって、意識されていないが、日本語の運用能力が、その人の評価に少なからず影響を与えている。

 もごもごとしゃべる奴は怒られやすい。要領を得ない説明をする奴もそうだ。低い声で話すと陰気くさい。

 はっきりと大きな良く分かる発音で、正しい文法で話す人間は自然と評価が上がる(勿論、企業の人事評価が言語能力だけで決まるわけではないのは、云うまでもない)。


◆音読はたまには(出来ればなるべく頻繁に)してみた方がいい。

 こうしたことは、文章を朗読して、録音して、自分で聴いてみないと分からない。語学に音読は必須だが、母国語でも決して無駄にはならない。

最近、「ボケを防止」する目的の「大人のための音読ドリル」のたぐいが、本屋で平積みになっている。

音読すると前頭前野が活性化されるということを、東北大学の川島という人が発表して、そこにお受験の「蔭山メソッド」が同意して、また「声に出して読みたい日本語」の齋藤孝氏がいて、なんだか、ごちゃごちゃと、同じような本が出版されすぎている。

 音読の材料は何でも良いのであって、あのたぐいの「ドリル本」を買う必要はない。

書店に並ぶ「ドリル本」の山をみると、音読の効用自体が、ウソくさく感じられてしまうが、「音読」が言語運用能力の向上に有効であることは、私は、経験的に、認める。

  結論的に述べると、我々は日本人だから、日本語を完璧な発音でしゃべっていると考えるのは、大間違いであり、たいていの人は、何を言っているのか、かなり聞き取りにくい(断っておくが、私は聴力検査を毎年受けており、聴力に障害が無いことは確認済みである)発音をしている。

これを矯正ないし、改善、向上させるためには、繰り返すが、新聞でも本でも良いから、音読して、録音して、自分の耳で確かめてみることが肝要である。


2004年03月06日(土) 「児童虐待防止法改正、『警官立ち入り』見送り」←どうして?虐待は犯罪だぞ。
2003年03月06日(木) <性犯罪者写真>ネット公示は合憲 米連邦最高裁判決←日本でもこの方法を採用すべきだ。

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