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JIROの独断的日記
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2004年08月28日(土) 「野ばら(童は見たり・・・)」の原詩はゲーテだった。詩の翻訳ってのは、難しいですね。

◆昔の翻訳は格調高いね。

 

「野ばら」というひじょうに可愛い歌がある。

メロディーはシューベルトなのは知っているけれども、詞は誰なのか迂闊にも知らなかった。

今日知った。なんと文豪ゲーテだった。今日はゲーテの誕生日なのである(ちなみにトルストイも、今日)。


「野ばら」(訳 近藤 朔風(こんどう さくふう)

1  童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇(ばら)

   清らに咲ける その色愛(め)でつ

   飽かずながむ 

   紅(くれない)におう 野なかの薔薇




2  手折(たお)りて往(ゆ)かん 野なかの薔薇

   手折らば手折れ 思出ぐさに

   君を刺さん

   紅におう 野なかの薔薇




3  童は折りぬ 野なかの薔薇

   折られてあわれ 清らの色香(いろか)

   永久(とわ)にあせぬ 

   紅におう 野なかの薔薇



非常にかわいらしい。しかし原典にあたるとちょっとニュアンスが違う。


  Sah ein Knab' ein Roslein stehn,

  Roslein auf der Heiden,

  War so jung und morgenschon,

  Lief er schnell, es nah zu sehn,

  Sah's mit vielen Freuden,

  Roslein, Roslein, Roslein rot,

  Roslein auf der Heiden



  Knabe sprach: Ich breche dich,

  Roslein auf der Heiden !

  Roslein sprach : Ich steche dich,

  Das du ewig denkst an mich,

  Und ich will's nicht leiden.

  Roslein, Roslein, Roslein rot,
  Roslein auf der Heiden



  Und der wilde Knabe brach

  's Roslein auf der Heiden ;

  Roslein wehrte sich und stach,

  Half ihm doch kein Weh und Ach,

  Must' es eben leiden.

  Roslein, Roslein. Roslein rot,

  Roslein auf der Heiden.


  少年が小さなばらを見つけた

  野に咲く小さなばら

  みずみずしく さわやかで美しかった

  間近で見ようと駆け寄って

  嬉しさいっぱいで見とれた

  小さなバラ 小さなバラ 小さな赤いバラ

  野に咲く小さなバラ




  少年は言った 「お前を折るよ、

  野に咲く小さなバラよ」

  小さなバラは言った 「私はあなたを刺します

  あなたが私のことをいつまでも忘れぬように

  そして私は傷ついたりしないつもり」

  小さなバラ 小さなバラ 小さな赤いバラ

  野に咲く小さなバラ




  それなのに乱暴な少年は折ってしまった、

  野に咲く小さなバラ

  小さなバラは自ら防ぎ、刺した

  苦痛や嘆きも彼には通じず

  それは折られてしまうとは

  小さなバラ 小さなバラ 小さな赤いバラ

  野に咲く小さなバラ


冒頭に書いたとおり、この詩にシューベルトがメロディーをつけて、小品ながら、見事な芸術作品になっている。

ところで、ドイツ語だと最後から2行目のRoslein, Roslein, Roslein rot, というのが、歌で聴いても、朗読しても、極めて自然なのだが、これをそのまま、日本語にすると、上のごとく、「小さなバラ、小さなバラ、小さな赤いバラ」となる。

「小さなバラ」、は6音節で、日本語はご存じの通り、7音節や5音節がいいので、どうも違和感がある。

 そこで、明治時代の作詞家、 近藤朔風氏は、大変苦労なさった末に、「くれない匂う」という訳にして、詩の美しさを損なわず、しかも、7音節に納めることに成功している。大変見事である。

 ただし、本来の詩の意味からは少し離れてしまう。やはり文学、特に詩は、原語をうんと勉強しないとよくわからんのでしょうな・・・・。


◆それぞれの言語に特有のニュアンス

 

詩ではないが、逆の例を考えてみる。「我が輩は猫である」はいろいろな言語に翻訳されている。英語ならばこれは、「I'm a cat.」としか、訳しようがない。

 しかし、これでは、日本人が「我が輩は猫である」という言葉から直ちに感ずるユーモアは伝わりようがない。

 岩波新書で日本語学者の大野晋氏が書かれた「日本語の文法を考える」という本があり、大変興味深い。

 たとえば、「私が山田です。」と「私は山田です。」はどうやって使い分けるか?「が」の場合は「が」の前が未知で後が既知。「は」を使うと逆になる。「は」の前が既知で、後が未知。

 だから、「我が輩は猫である」は、「我が輩」が存在することは分かっている。ただし、思い切り偉そうな「我が輩」という一人称代名詞を用いている。そして、「は」の後は未知、つまり何かわからない。その正体が「猫である。」と来る。偉そうな「我が輩」は何かというと、「猫」だ、というギャップがユーモアを産んでいるわけであり、これは日本語の構造においてのみ可能なユーモア表現なのだ。

 こういうことが、あらゆる言語に存在するわけだ。だから、本当はなるべく原語で味わうべきものなのだろう。難しいけどね。


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