JIROの独断的日記
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現在の小学校の音楽の教科書には、昔なら誰でも知っていた「文部省唱歌」が、載っていない。不満である。
「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川、夢はいまも巡りて、忘れ難き故郷。」(故郷)
「卯(う)の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」(夏は来ぬ)
何という格調高い日本語であろう。子供が歌う歌であるにも関わらず、断じて幼稚ではなく、日本語の美しさに感銘を受ける。
最近の歌を見てみる。
「花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた 人それぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている それなのの僕ら人間は どうしてこうも比べたがる 1人1人違うのにその中で 一番になりたがる そうさ僕らは 世界にひとつだけの花 1人1人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」(世界にひとつだけの花)
この歌詞の内容は真理をついているかもしれない。しかし、如何せん、万人が一度聞いてわかるように、極力易しいことばのみを用いて書かれている。だから、説明的な、冗漫な日本語になる。言葉は出来る限り短い方が印象的である。この歌は私にはどうしても幼稚に聞こえて、物足りない。最近の日本語は大抵、このレベルである。
文部省の役人が唱歌を教科書からなくしたのは、言葉が難しくて、小学生には意味がわからないからだという。そんな馬鹿な話があるか。
そもそも、分からない事を分かるようにするのが教育ではないか。子どもの頃に出来る限り格調高い日本語に触れる事が、高い言語表現力を身につけるために必要である。たとえ、子どもの頃は意味がわからなくても、いずれ分かるときが来る。
教育は、低い方にレベルを合わせてはいけない。迎合してはいけない。
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