2017年09月04日(月) |
藤田一照『禅の教室』★★★☆☆ |
藤田一照『禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄 』
座禅の時間を持つようになりました。
ととのえる。
もっと楽にもっと穏やかに生きていけるようになるために、役立つ一冊。
「より豊かに所有することを最高価値にして生きているかぎりは、最後は不幸のどん底で死ななくてはならない。だって『私とは、私が持っているものである』という考え方でずっと生きてきた人が、最後は何も持てなくなるので、価値ゼロで死んでいかなければならないわけでしょう。死が近づくにつれて苦しみは増すばかりです。」(p41)
「人間の力の出方、能力の発揮の仕方は、それがどこまで自発的かであるかということにかかわってくると思う。」(p80)
「たとえば、貧乏が自分を苦しめていると僕らは普通思うけれど、実は貧乏を苦しいと思う心が貧乏を作って、その作り出した貧乏を自分で苦しんでいる。みんな自分のありようと関係があるわけですよ。こういうのが縁起です。」(p96)
座禅は死ぬシミュレーション 「澤木興道老師は『坐禅というのはお母さんの体内にもう一度入るか、棺桶に入って、あらためて人生を考え直すようなものだ』と言っています。」(p157)
「たとえば坐禅していれば結果的に自律神経のバランスは調うけれど、自律神経のバランスを調えるためにそれに特化してやったら、もうそれは坐禅ではない。坐禅したらこういういいことが起きるだろうという先入観や期待を坐禅に持ち込むのは、坐禅からもっとも遠い態度です。瞑想もマインドフルネスも、人間の役に立つなら、どんどんやればいいと思います。けっこうなことですよ。でもそれは仏教の立場とは違う世俗、世間の立場。仏教はやっぱり出世間の立場ですから、人間というかわれわれ凡夫を喜ばせるためにあるのではない。」(p201-202)
では、何のためにあるのか。 「人間をやめるためですよ。凡夫が仏に成るというのが仏教の教えですが、凡夫の延長線上に仏はないので、凡夫をやめることを助けてくれる、そういう意味で仏教が人間の役に立つと言うのなら、ものすごく役に立ちます。」(p202)
成功している人は、なぜ神社に行くのか? 「ものへの感謝の言葉が、ものに神様を招き入れる祝詞になる」(p52)
「『祈りの集合体』が神様の正体」(p53)
「『けがれ』とは『汚れ』ではなく、『気枯れ』。 心の深いところで気力がなえて元気のない状態です。」(p128)
「ものの価値は、関わる人々の祈りの質で決まる、と僕はとらえています。(略) どれだけそのものを大事にあつかうのかで決まるわけですね。」(p197)
神社の神職が行う業務は、掃除と結界。 「その目的は、神様が神社に降り立てるよう『場のエネルギーを整える』ことです。」(p215)
人間をやめるため。
なるほど、と思いつつ、今日も座ります。
藤田一照『禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄 』
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