刑法奇行
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2006年05月14日(日) |
わけもなくお茶を飲み |
「われらの時代」には、連休が明けると学生はあまり大学に来なくなるというのが、判例・通説であったが、このキャンパスの混雑ぶりは一体どうしたというのだろう。休み時間のキャンパス内は新宿の雑踏のようであり、8号館からローの建物に行くときも、人の渋滞と行き来で、立ち往生する始末である。まさに交通整理の行われていない歩道であり、だれかに交通整理をしてもらいたいものである。
当時は、キャンパス内はガランとしており、周辺の喫茶店と雀荘に多くの学生が収容されていたのである。真面目な学生(多くは女子学生)だけが授業に出席し、サテンでそのノートを写すというのが、一般の学生の正常な姿であった(当時はコピー機などなかった)。われわれも大学には顔を出してはいたが、「潤」というサテン(大隈通りの、未だにあるカレッジの隣りにあり、ママさんがとてもきれいな人だった)に出たり入ったりで、そこがクラスの集まり場所だった。まさに、学生街の喫茶店である。
確かに、近年、学生は授業に出てくるし、われわれも授業に出ろと言っている。ほとんど授業に出なかった身としては若干後ろめたいが、まあ、これで良いのかもしれないが、授業に出ることだけが勉強と思っている節があることが、気になるのである。
「教師が教えてくれるから学ぶのではない。個人が自分自身で問題を考えていて、その問題を解くために知識が必要だから学ぶのです。そのとき、知識は『知的な道具』に転化するわけで、自分の見つけた問題を、その道具を使って解こうとするのです。」(加藤周一『学ぶこと 思うこと』)ってことは、あたり前田のクラッカーなのだが・・・。
「問題意識」がなければ、いくら勉強したって駄目である。はじめに問題意識ありきである。しかし、問題意識というものは、すでに高校時代までに持っていなければならないのだが、今の教育では絶望的であろう。まあ、大学に入って問題意識をもって学んでも遅くはないが、そのためには、やはり本を読むことである。われらの時代は、授業にはあまり出なかったが、我妻民法総則や団藤刑法綱要総論などを一応読みはじめ、最初は、何を言っているのかさっぱりであったが、徐々に何となく理解できてくるのである。「行為とは、人格の主体的現実化としての身体の動静である」って一体、という感じで、お題目のように唱え、噛めば噛むほど味が出てくる「あたりめ」のようなものだったのだろう。今の学生は、噛んだ瞬間にスカッとする「ロッテブラックブラック」が好きなのだろう。あるいは、噛まないで口に入れた瞬間に「空も飛べるはず」状態となる「ホールズ」かもしれない。
とにかく、問題意識をもって学びそして思うことを願うのだが、この間、学生の渋滞の中にいたら、前にいた女子学生2人の会話がちらっと聞こえ、1人が留学するらしく、5年になる危険性を心配しているようであり、一方の学生が突然「ノリオだったら大丈夫だよ」という明瞭な言葉にハッとしたのである。その瞬間、私は、彼女らの横を肩で風切って飛んでいこうと思ったが、渋滞ゆえに、「下を向いて歩こう」状態であった。
ジャーニー to 下駄を鳴らして奴が来る
norio
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