刑法奇行
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2004年09月23日(木) 北京ダック奇行あとがき

 こちらの価値観で一方的に他者を評価するのは、絶対に避けなければならないことは、すでに構造主義の指摘したことである。しかし、北京でのいくつかの場面で「ありゃりゃ」と思ったことがいくつかあった。言いたきゃないけど、やめられない、それ!スイースイースイーダラッタ・・・。それは、やはり行為規範に関わる事柄である。

 まず、順番を守らないという場面に少なからず出くわした。長城に行く前に昼食をとったレストランはバイキング形式であったが、お皿を取るところに人が殺到して、お皿がさらさら見えないのである。順番にお皿を取っていった方が早いのになあー。
 また、お皿に様々な種類の料理をドンドンのせていくから、結局、わけの分からない料理となる。分析的思考を維持するという体系性を重視しないのである。そして、料理をのせている最中に、食べはじめ、口でくしゃくしゃ音を立てながら、お皿にのせていく。食卓に着いてから食べるという体系性を重視しないのである。
 写真を撮っているときに、カメラと被写体の間に平気で登場してくる。ちょっと待つこともないし、屈んで通り抜けるという配慮もない。
 会議では、携帯がよく鳴るのである。あわてて切るかというと、話しはじめるのである。これは驚きであった。こちらには、S岡まなーモードさんがいるのになあー。

 もっとも、これらの事象は、わが日本人にも見られる点だけに、不愉快さは増大することになるのだろう。おそらく、ことは品の問題なのだろう。「お先にどうぞ」という余裕の問題なのだろう。根底には経済的状況があるのかもしれないが、人と人とが競争することをノーマルなものと見る社会観があるように思えるのだが・・・。このレースは、しかし、虚しいものであることはいうまでもない。みな死という結末があるのだから、みな敗れるのである。だからといって、ニヒリズムになる必要はない。「現在を生きる」というシジフォスの幸福しかないのである・・・という話を、昨日、いつもの小学校時代からの友人のO沢とさんざん話したのである。「サルトル・カミュ論争」において、彼はサルトル派、こちらはカミュ派である。われわれは、何時代に生きているのだろうか・・・。

まあ、なんだかんだ言っても、中国は得体の知れない国である。これだけ広く人口も多く、日々の生活に追われている国民にとって「法とは何か」なんて問題はただ虚しいような気がする。やはり、目に見えないイデオロギーでつながるしかないのではないか、と思う。翻って、わが国においても、わけの分からないイデオロギーでつながってしまう危険性はつねにあるように思える。われわれは、もっともっと慎重でなければならないだろう。

 しかし、餃子のタレが、どこでも黒酢であるのは何とかなりませんかねー。やはり、早稲田の中華料理店「北京」の餃子が最高であることを確認した。北京ダック奇行も、結局、早稲田の「北京」で餃子を食べることによって完結するのだろう。

ジャーニー to それにしても常連の店が多い


norio

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