刑法奇行
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2002年08月14日(水) お葬式

 叔父が86歳で亡くなり、お通夜、告別式と忙しかった。夏の葬式での喪服はつらいが、死は予定できない。われわれは、いつ死ぬか分からないのである。明日かもしれないし、10年後、20年後、あるいは、大隈説によれば、125歳まで生きるかもしれない。こうした不安定な状態にもかかわらず、意外に呑気に生きていられるのはなぜか。全員が平等に死に直面しているにもかかわらず・・・。
 収骨の際は、いつも愕然とする。人間のはかなさを実感する。親父が死んだとき、長男は小3だったが、それまでずっとケラケラしていたのに、収骨後、ポロポロポロポロ泣き出したのには参った。

 まあ、いずれみんな死ぬんだから、生きている間、明るく楽しくいきましょうということしかないのかもしれない。そう思えば、わずらわしいことの何パーセントかは消滅するだろう。ほとんど気の持ちよう次第だとビートルズも歌っていたではないか。

 早稲田出は、昔から、打たれ強いというのが通説・判例である。誰が何と言おうと、進取の精神で突き進むのである。最近では、打たれ弱いのが多くなったような気がする。ナイーブといえば感じがいいが・・・。もっとも、まったくナイーブさのない連中も(自分も含めて?)私の周りには多い。自分だけ一方的に喋って、聞く耳を持たないのである。誰とはいわないが、昨日のH口さんの歓送会でライオンで一緒だったM藤君と私の会話は、それぞれ一方的にしゃべりまくり、相互に相手の話を聞いていないという、おそろしい状態が現出する。彼は話しに夢中で、エーデルピルスを倒したのである。まあ、Nジーランドに行くというからうらやましい。修復的司法のワガワガ・モデルでも見てきてもらいたいが、純粋に旅行だそうである。まさに、彼らしく、ワガママ・モデルである。

 いずれにせよ、打たれ強くなることが大事だと思う。転んでもただじゃ起きない、七転び八起きである。他人の評価を気にせず、自分が自分自身に下す評価を基本に据えることである。「自己批判・他者肯定」の立場を、一人でも多くの人がとってくれればと思うのだが・・・。

ジャーニー to ewige Seligkeit


  


norio

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