刑法奇行
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2002年06月02日(日) |
癒しと感動としての運動会 |
今日は、娘の運動会だった。例により、すべてのことに対してwesentlichに超過する利益となり、作為義務が発生する。日曜だというのに、9時の開会式に間に合うように行かなければならない。早速ビデオ撮りである。すでに多くのVaterが陣取っている。以前、奇行に書いたように、一体誰のために、何のために撮っているのか分からないまま、私も撮っている。撮ること自体に意味があるならば、全然写っていなくても笑いぐさとなる。事実、そういうときもあったから、そのとおりなのだろう。 何回、運動会に来ただろうか。数え切れない。1年生と6年生がやはり主役である。親の感動が伝わる。「いろいろあったけど、こんなに大きくなって・・・」と思うのだろう。そして、それは永遠に続き、「親父の一番長い日」を通過し、孫ができ、そして、息を引き取るまで・・・。これをフツウの人生というが、このフツウを維持することは実は大変なことなのである。「親父の一番長い日」に感動するのは、実際はそういかないからなのである。喧嘩したり、対立したり、怒ったり、泣いたり、笑ったり・・・それぞれの感情がぶつかり合い、ギクシャクギクシャク紆余曲折するのが、実はフツウなのではないか。かえって、それがない方が変なのである。だから、儀式に人は感動するのかもしれない。散々喧嘩して対立していた娘が、晴れの姿で「おとうさん、ありがとう」とくるから、感動は究極の極致に達するわけである。 とすれば、儀式的なものを時々行うこともいいかもしれない。ひと月に1度、父の日、母の日、夫の日、妻の日、息子の日、娘の日・・・などなどを決めて、家族集団会議を開いて、それぞれ感謝の言葉をいうのである(テレビの番組みたいだが)。まさに、家庭における修復的司法である。修復的司法の射程範囲は広いのである。 運動会でいいなあーと思うことの一つに、地域の人々も参加することがあげられる。学校と地域と家族が一緒になって、子供達を観察するという貴重なひとときだと思う。みんなで子供達を育てる、ということが必要だと思う。昔は自然発生的にそれがあったが、今は、一家族がそれ自体で引きこもり状態である。これでは駄目だ。少年犯罪の原因論の重要部分を占めると思うのだが・・・。しかし、他人の子のことまで面倒見るのは大変なことだ。自分の子だけでも大変なのに。そして、自分の子以外愛せるかという、哲学上の問題に行き着いてしまうのである。 こういう話題になるときは、たいてい疲れているときである。顔も日に焼け、たしかに「つかれたびー」である。「疲れる」と、何かに「憑かれる」ことが多いのである。
ジャーニー to オロナミンC
norio
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