刑法奇行
INDEX過去未来


2002年04月05日(金) 想い出づくりと歴史の重み

好きな女優の一人である田中裕子、そして確か森昌子ともう一人名前が出てこない(田中健の奥さんか?)の3人が主役だった「想い出づくり」というドラマが昔あった。
しかし、前に言ったように、想い出をつくるために生きているのではなく、結果として、事後的に振り返って想い出が存在するのである。もっとも、歴史の重みはやはり並大抵のものではない。
一昨日、文流でN村先生、H井先生、M川君らとこの点について若干議論した。「代名詞で語り合える仲」の重要性を私は説いた。「ほら、あの時のあれは面白かったね」というようにである。そういう人を大事にすべきである。これは歴史の重みである。恋人と喧嘩した場合、夫婦喧嘩した場合、その他、近しい人とすれ違いが生じた場合、「代名詞の仲」を基本に据えれば、よりが戻るのである(決定的破局はこの基本を超えるものである)。

先日、院入学式に出席した後(壇上で居眠りをしたので、帽子が落ちないか心配だったが)、娘のピアノ演奏会(グループ毎にやる、たいしたものではないが)を聞きに、中野ゼロホールに行った。親たちは夢中だ。我先にビデオ録りに突進する。その中に私の姿もあった。しかし、誰のためにビデオをとっているかというと、現時点では子供のために想い出づくりという感じだが、小学校高学年になれば、本人にとってうっとうしいビデオに変わる。事実、長男のビデオは全何巻あるか数え切れないが、本人はまったく関心がないのである。
親のためにあるかというとそうでもない。こちらもまったく見ない。とすると、そのときどきに親がビデオを撮っていた事実が重要なのかもしれない。後は野となれ山となれか。これはまさに、シジフォスの生き方ではないか。今ビデオを撮ることそれ自体に意味があるだけということである。

K崎弁護士も千晶姫のために付き添っていた。よく来るなーと思うと同時に、親とは悲しく美しい存在だとつくづく思う。
そういえば、テレビのコマーシャルで、「いつから親になったのだろう」と述懐するシーンがあった。自分が親に海に連れていってもらった情景と今、自分が子供を海に連れていっている情景とが構成要件的に符合するのである。身分犯だから、65条1項で違法は連帯する。そして、家族も連帯するというわけか。65条に家族愛を見た。
ジャイアンツ愛なのである。

ジャーニー to 3勝目


norio

My追加