刑法奇行
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今朝、六本木の人気ラーメン店「I蘭」がテレビで紹介されていた。その瞬間、奇行に寄稿しようと思った。というのは、カウンターに一人一人の間に遮蔽措置が執られており、前方ものれんが掛かり、店の人とも顔を合わさず、ボタンで注文できるシステムなのである。 これはトンデモナイ店である。孤独は山になく、町にあるという言葉を思い出した。他人とのコミュニケートを一切否定する店である。他の客がわさわさいて、店の人のつくっている姿を見て、できれば会話があって、明示あるいは黙示の意思疎通が形成される。これが、社会である。他人に見られないことが利点だとシャーシャーと言っていたOLもいた。自分が他人に見られ、自分も他人を見るというのが社会の前提である。ひょっとすると、一方的に、他人を見ることはいいというのなら、それは、公園に出没するのぞき魔である。あるいは、自分だけを見ていたいということなら、わが家のウサギの眼前に鏡を置くことと同じである。
Personになるためには、自己の行動と他人の行動とを相互検証していくことが必要である。あるいは、ラーメンそれ自体に集中したいのかもしれない。しかし、みんなで「うまいねー」と一時的なコミュニティが形成できないものか。早稲田松竹も廃館らしい。ビデオがあるからか。しかし、映画は見知らぬ他人と感情を一時的にせよ、共有することが素晴らしいのである。ニューシネを見よ。
もっとも、同じ感情というと、ナチ時代を彷彿するからいけない。バラバラであっていい。しかし、自分はまったく感動しなくとも他人が感動して涙している姿を見ることが重要である。「目で見る何とか教材」というシリーズがあるが、まさに、「目で見る社会」である。
私は、あまりおいしくなくても、コミュニケートできる店に行く。早稲田周辺では、もちろん、フレンドや牧舎、やぶきや早稲田軒、たかはしなど。「毎度」という言葉が好きである。東洋大では、正門前の「ケルン」という喫茶店である。ときどき手作りのケーキも他の客に内緒ででてくる。週1回の非常勤もケルンに行くのが主となっている。 そこでの世間話が重要である。丸山真男も「政治学は近所のおばさんとの会話の中にもある」といっていた。まあ、M川君のいうように、単なる寂しがりやだけなのかも知れないが・・・。
爆発的に喋る、S大に移ったS君によれば、1日に喋る量が各自決まっているそうである。彼は、あまり喋らなかった日は、布団に入って一人で喋りまくったり、歌ったりするそうである。これに対して、S仙人(R大所属・・・念のため)は、この量が極端に少ない。1日一言「定食下さい」だけである。もっとも、研究会や私といるときは結構喋る。しかし、その後ドット疲れて、ボーとしている。何か小動物的であるが、彼は実は「ネアカ」である。一人で人生を享受している感がある。宮沢賢治も彼には負けるかもしれない。
ともかく、「人間と社会の真っ只中で刑法学の旅がはじまる」のである。どこかで読んだような・・・(別冊法セミ『法学部でいこう!』参照)。 来週から授業だ。今度は夏休みを期待するしかない。
ジャーニー to ジャイアンツ愛(想が尽きる)
norio
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