あきれるほど遠くに
心なんか言葉にならなくていい。

2002年05月30日(木) 神 天にいまして


 「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分け
  られぬようにしてしまおう。」(創世記11:7)


近ごろ、ちょっと変な格好をして本を読むことが多い。
どういう格好かというと、学習机の(←未だに使ってる)真四角な椅子に、
ひざまずいた上で寄り掛かったような格好。
なんてゆーかこう、アバラで上半身を支えてるような感じって言ったらいいのかなぁ。
おかげで一冊読み終えると胃の付近の肋骨が歪んで痛い(←当り前)。

椅子にちゃんと座るのが苦痛になってきたのかな。
うーん、人間は快楽を求める方向に走るというけれど、僕の場合は少し違って、
安楽さを追求していってしまったようで。
寝転がって本を読んでいると、睡眠の欲求と絶えず(?)戦わねばならぬので、
上半身のみを安定させるような態勢に落ち着いた、というか。
うー。説得力ナシ。
まぁ、本気で肋骨が歪んでも困るんで、今度から気をつけよう。

椅子には背筋を伸ばして深く座る。足は組まずにまっすぐ下ろす。
うんうん。
・・・てゆーか家でこんなことをする必要も無いのだろうけど(涙


縞田みやぎさんが日記で良いことを書いてた。
「自分を語る日記と、自分にだけ語ってる日記とでは、自ずから違いが見える」
みたいなこと。
ちょっと反省させられた。
こういうWeb上で公開されてる日記について、こないだ後輩と話していたら、
「やっぱり書いてる人間の感情とか、事実だけでない何か余分なものがないと
 読んでいて面白くない」
みたいなことを言われて。
あぁそうだね当り前だねと答えながら内心ギクリ。
忙しい時は僕、その日あったことだけ書いて終わらせてました。ゴメンナサイ。(懺悔

なんだかなぁ、日記って本来は自分の記憶のために残すものだったんだと思うけど、
日記文学が生まれてから、自分の心を書き表すような場所になっちゃったようで。
これは僕が詩を書いていて思うことと少し似ているかもしれない。

人間、自分の心をはっきりさせるには、やっぱり言葉にするのが一番で。
他人に見られちゃ困る日記なんかをつけるのは、自分を再確認し再構築する、その過程が
他の手段ではどうしても実現できないからなんだろう。
もちろん、日記をつけない人間もいるんだから、それが全人類に当てはまるわけでは
ないけれど。
だけど、言葉にして残しておけば、後から確認することも思い返すこともできる。
心も記憶も、まったく不確かなものだけど、言葉のカタチにしてしまえば
少しは手にとって思い起こすことができるし。
うん。
でもそれって、ある意味けっこうツライことだと思うんだけどね。
だいぶ後になってから見れば、懐かしいものでしかないかもしれないけど。

僕は時々、詩を書いて自分を追いつめているように思う時がある。
自分の愛情も、自分の心も、本当は淡く重みも形も無いものでしかないのに、
僕はそれを言葉に換えて、確固たる形を与えてしまっている。
胸の中に在るだけならやがては霞んで消えていくはずのものを、形にして残すことで
僕は今のこの時の自分自身を凝固させて遺していっているような。

・・・それはたぶん、読み返す自分がいるから、
再び蘇ってきてしまうものなんだろう。
愚かだなぁ。



↑真は揺るぎなく、そう思います。
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