あきれるほど遠くに
心なんか言葉にならなくていい。

2002年04月25日(木) 皐月待つ 花橘の

今日は風強し。
何となく吹き飛ばされてみたくなる。
先日買った新しい靴を履いたら、かかとが微妙に靴擦れになってひりひりする。
大学に入ってカバンが異様に重くなって、靴は選ぶようになった。
…って言ってもスニーカーだけど。
でも高い靴って、安物より数段は履き心地良いね。ちょっと感動。


―――詩って、何なんだろう。
自分の書いたものなら、いくらでも駄作だと決め付けて忘れられそうだけど、
名のある人が書くと、それだけで価値を見出そうとしてしまったり。
それとか、サイトによって好みがあって、こういう系統の詩にはレスが付きやすいけど、
別の系統の詩だと無視されちゃうとか。

 ちょっと今日はパソコンの前にきちんと座ってみる。

そもそも、詩の評価って、誰がどんなふうにしたらそれでOKなんだろう。
以前僕の後輩さんが言ってたけど、自分の感性というものがつかめなくて、
他人の言っていることについ引きずられて好き嫌いを決めてしまって、
自分の中では相応の葛藤があるのに、それをカタチにできずに沈黙してしまう、
そんな主張下手なヒトもいるのだろう。
On the other hand, 僕なんかは根本的に自分の好き嫌いだけで詩を区別して、
例えば一読して意味の通らない言葉の羅列なんかは詩と認めない。
コトバ遊びなんかも、基本的には詩だと思わない。
・・・そしてたまに、そのサイトでもてはやされている詩を読んでみて、自分の感性との
凄まじいギャップに動揺してみたりする。

だけど、そういう感性の違いにケチをつける必要があるか?
感性は矯正されるべきものか?

僕はそこで沈黙する。
詩人の世界でもてはやされるものと、
何の関係も無い人たちがふと読んでみようとしたものと、
その両者の間に何の隔たりがあるだろう?
どちらかに千斤の価値があり、どちらかは唾棄すべきものだろうか。
言葉が誰かに読まれるべき形で連ねられた時点で、僕はそれに主観的な価値は見出せても
客観的な価値などつけることはできない。

そこから、僕は時折眩暈をおぼえる。
「ネット詩の向上」って、いったい何なんだろう。


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周防 真 [MAIL] [HOMEPAGE]

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