ゆれるゆれる
てんのー



 カナダ人菓子職人とカンボジア人官僚と変な日本人

しっぽりとEM散布。山奥にひろがる広大な園地Yをすませて、夕方園地Mへ。



園地Yというのはほんとに山の上で、その昔おじいさんとおばあさんが必死の思いで開墾したところらしい。
今でもすごい傾斜の未舗装の道を上がるしかないのだが、当時(終戦後)はほんとに何もなく、荷物を上げるときには馬で30分かけて上がるか、Y集落から人力で担ぎ上げていたらしい。今でもY集落からの道は人ひとりがやっとの、ただの登山道である。

なんと周囲1キロ四方に人家、畑、各種施設なんかが全くないらしく、こういう有機無農薬栽培には絶好の環境なのだとか。

たしかに、いくら有機JAS認定園です、って胸はっても、あぜ一つ隔ててお隣さんが農薬ばんばん振りまいてたら詐欺ですわな。

で、マスコミさんが取材に来るとたいてい、おっさん御自慢のこの園地に案内してるわけで、テレビに映るのも新聞に載るのもたいがいこの園地。
標高250mで景色も良く、晴れたら香川県から岡山、広島まで楽勝で見渡せるので、知り合いとか来たら狂喜しそう。



取材、といえば、先日不思議な4人組がやってきた。

1人は、地元の人。5月の祭りで一緒に神輿を担いだ。どっかの課長。
1人は、カンボジア人の男性。20歳かそこらにして同国の某大臣官房室付というエリート官僚。
1人は、カナダ人の男性。笑顔がさわやかだが、何を言っても激しくうなずいて「そうですね〜」と言うので実にうそくさい。日本語はセイン・カミュか朝青龍なみ、そこらへんの日本人と話すのと変わらない。菓子職人の資格(ってのがあるのか?)を最近とったらしい。
1人は、隣町の元・塾経営者の女性。ニュースキャスターみたいな、流れるような英語を話す。菊人形みたいな髪型をして怒涛のようにしゃべるので迫力がある。

カンボジアのエリート官僚氏(長いので以下「カン僚」)の研修というか視察のようなものが目的で、おっさんまた例のように「おらが有機」を説明してはりました。

おっさんの言葉を菊人形が通訳し、でもカンボジア人の英語というのは日本人よりまし、という程度なのでカナダ人の男性(以下カナ夫)が難しい単語を噛み砕いて訳し、カン僚が「おー」と言い、それについて質問し、菊人形がそれを得意げに日本語にする、と、何か江戸時代の長崎奉行みたいな問答が土間で繰り広げられてました。

おっさんが「彼はマレーシアに1年ちょっといたんです」と俺のことを紹介すると、菊人形は即座に俺に向かって
「Selamat pagi. (おはよう)」
と言った。油断もすきもない。

俺は俺でカン僚にクメール語で挨拶してみるか、と思ったが、カンボジアを訪れたのはもう4年も前のこと。
「チュムリエプ スー」(こんにちは)
という言葉を思い出したのは、彼らが帰って優に2時間経ってからでした。
「オークン チュラーン」(おいしい)「スワーコム!」(乾杯!)しか思い出せなかった俺はカンボジアで何をしていたのでしょうか。

カナ夫は商品からEM資材から、いたく気に入ったらしく、農園の有機農法についてホームページにまとめてあるのを「ぜったい英語版もつくるべき」とおっさんに迫っていた。甘夏ジャムもやたらに気に入り、マフィンにきっと合いますよ、これそのまま北米で売ってください、必ず売れます、とうなずきまくりながら言った。

菊人形が、カナ夫のマフィンはお母さん直伝で、シンプルだがとてもうまい、と言った。
カナダでみかんといえば、まず思いつくのがクリスマスの飾りだとか。
プレゼントを入れるあの靴下(カナ夫は「ストッキング」と表現したが)の、一番奥には必ずみかんが入っているらしいです。カナダでは。
で、菊人形いわく、そのみかんというのが中国産で、どれもこれも恐ろしくマズイのだそう。

中国産がいけるなら、愛媛産だっていけるわな。
防腐剤かけまくれば、のハナシですが(意味ねー)。

菊人形はカナダのUBC(ブリティッシュコロンビア大学)などで、東南アジアの人々の日常や風俗を綴った文献を調べている、と、園地に向かう車中で俺に話してくれた。
「マレーシアといえば、私コタバルに行ったんです」
「日本軍が上陸したところですね」
「そう、そう! あっちの方はイスラムのあれが厳しいんですね。砂浜に行ったら、女の子が暑いのに頭に巻いて、長袖に長いスカートで、窮屈そうに遊んでて、なんだかなって思った」
「今は外国人でも女性は頭に巻かなきゃいけないですからね。東海岸は。俺行ったことないけど」
「で、インドネシアの**島(聞き取れず)行ったとき、そこは日本軍がいろいろやった所なんだけど、きっとひどく言われるだろうなって思ってたのね。そしたら村のおじいさんが出てきて、笑顔で握手してくれたんです。『私らは日本人に感謝している、日本人は私らに、武器をとって闘う、抵抗するということを教えてくれた』って。うーんって思いましたね」

話はあちこちに飛んだが、マレーシアで例えば第二次大戦中のことを調べようとしても、中華系マレーシア人の書いたものしかない。そこに何が書いてあっても、あれだけ民族の対立した歴史のある国で、じゃあもともとあそこにいたマレー系の人たちはどうなんだと思って、探しているけどまるで見つからないんだ、ということが言いたいらしかった。

俺は、マレー語の本でいいなら山ほどあるんじゃない、MPH(マレーシアの大手書店チェーン)あたりに……と言おうかと思ったが、黙っていた。
英語の本限定なら、そりゃ華人の著作ばっかりになるだろう。

結局、メインのはずのカン僚が一番静かで、菊人形とカナ夫がひゃあひゃあと騒ぎまくって帰っていった。
「私たち二人でラジオ番組もやってるんです。***(ラジオ局)で、*曜日の*時から2時間。次の回で絶対話しますね、こんなとこ行ってきましたーって」

にぎやかなはずである。

2004年06月22日(火)
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