ゆれるゆれる
てんのー



 神様になった先輩

 『戰歿學生の手記』読了。東大の自治会が昭和22年に出したものだ。これも長い宿題だった。
 寄らば生樹のかげ、ということだ。当事者以外の人間による心無い「善意の解釈」=捏造にうんざりすることが続いていたから、収集・編集の作為を除けばなんらの解釈も加えられていないものを読むのはそれだけでもひとつの快感だった。

 意外に、さほどの感慨を持って読むことができなかった。中でただ一人、中村徳郎という人の日記と書簡だけは、ずばぬけた文才と、今の時代の僕にも抵抗の少ない豊かな思想――つまりとんでもなく頭がよかったということか――とで、飛ばし読みもせず興味深く読んだ。ただし、この中村という人の部分だけは確かに以前どこかで読んだことがあるのだが、いつどこで読んだかどうしても思い出せないのが残念だ。

 思い出せないといえば、この手記を僕はhtmlでダウンロードして読んだのだが、だいぶ以前に落としていたためにもともとどこから拾ってきたのかも思い出せなくなってしまった。奥付まで付いていたり、明らかに著作権失効後の公開書籍なのだが、いつも使う青空文庫ではないことだけが確かで、まったくわからない。東大のオフィシャル関係のページに飛んだことは一度もないし、ソースもヒントを与えてくれない。

 実家から近い江田島の旧海軍兵学校に、一度行ったことがある。近いくせに一度というのも情けないが、大学在学中つまり彼らとほぼ同じ年のころに、曲がりなりにも自らの意思で訪ねたのでずいぶん感慨深い経験だった。体当たり突撃で死んで行った彼らの遺書といえば、特攻隊が出撃した知覧の資料館が有名だが、「回天」に乗り組んだ海軍側の学徒出陣者の遺書が広島に集められていることなど、地元の僕もまったく知らなかった。学校では第一、広島の軍都ぶりなどまるでタブーか何かのように、教えられずじまいだった。ひたすら、「原爆の被害」、「空襲の被害」、「あなたの身近の戦争被害を調べましょう」だ。おい、あなたの身近の加害はどこだ?

 海軍兵学校の敷地には、いまも海上自衛隊の学校がどっかりと居座っている。威圧的な訓練艦も停泊している。レンガ造りの見るからに歴史的な建物が、一角にある。遺書は、その中だ。

 内容は、もちろんこの手記にあるものとさほど変わらない。大学生といっても、彼らの身につけた教養とそこに見えていた学問というものの大きさと、僕自身の恥ずべき堕落した脳みそなり肩書きなりとを比べるのもおこがましいというものだったが、虚栄というものはやりにくいもので、同じ大学の「先輩」が同じ年でこんな死に方をした、という事実を目の当たりにしただけでも僕は足がすくむように止まってしまったことを思い出す。

 レンガの建物の中は、半紙に達筆の遺書だけではなかった。順路に沿って進むほどに、階級章や海軍大将の軍服やらサーベルやらがキンキラに展示され、また展示されたあらゆる海軍グッズに付された説明書きなるもの、1から10まで英霊に感謝、今の日本があるのは誰のおかげだ、と強調してあった。

 不毛な論争が現在も続いているのは知っている。

 僕は神格化された先輩たちについて、失礼な感想を持ってしまいそうで困っている。――わかります。同情しますよ・・・と。みんながみんな、あんなにはっきりと、俺は神様じゃない、と叫んでいるのに、な。
 遺族に返したほうがいいのに、とも思った。これらを読めることで、僕は考える機会を与えられるけれど、これらが遺族の元で大事にされることのほうが、もっと意味のあることなんじゃないかな、と思った。

 あのときのなんだか歯がゆいようなあの舌触りを、今もはっきりと思い出した。

2002年12月13日(金)
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