ゆれるゆれる
てんのー



 村上春樹の天才のありか

 海外在住の貧しい活字中毒者はほしい本を目の前にしながら、購入することもできない。
 だいいち、新刊のある本屋までうちから2時間近くかかる。そしてそこの本ときたら、輸送費をかぶっているせいで、この国の数倍の物価を持つ日本での値段よりまださらに高いのだ。
 あまり日本の人には理解してもらえないだろうが、目をつぶって崖から飛ぶような気持ちで村上春樹の『海辺のカフカ 上』を購入する。RM67、そうだなあ、プロモーション価格で中級ホテルのツインに泊まれる値段だ。ホテルのディナーバイキングも楽しめる。そこそこの内容のやつだ。
 そうして手に入れた宝物的なこのヤクを、文字通りしゃぶりつくしてやろうと思って読み始めた。

 上下巻をあわせて買うような芸当はできないから、なるべくゆっくり読んで下巻につなげたいが、しかし・・・絶叫したいほどつまらない。
 なんだ、これは。いや、まだまだ上巻の途中だ、どう転ぶかはわからないと言えなくもないが、それにしても「自分で選んで一度読み始めた本はとにかく読みきる」ことを、本を読む際自分へのただひとつの約束にしている僕が、放り出そうかと思った稀有な本ではある(すくなくとも今年初めてだ)。

 村上春樹の天才は、とにかくひたすらそのストーリーテリングにある、と僕は思っている。主人公の内面の葛藤や対話なんて、よくまとまった古典芸能を観るときみたいににこにこ微笑んでやりすごせば十分で、あとは評論家さんたちもおっしゃる現実と虚構のしちむずかしい問題について考えるふりをしつつ、ふわふわと作品の酒精にうかれていれば満足なのだが、まったくこの本ときたら! 合成アルコール並みに気の利かない直喩と、ステレオタイプのごみためみたいな描写をかきまぜて冷めないうちにはいどうぞ、か?

 僕が村上春樹を好きになり、求めてきた原因は、なんといっても不思議な響きの、それでいて状況がありありと目に浮かぶ比喩表現のおもしろさと、自らを思想的マイノリティと宣言して恐縮せず、同時に驕らないその潔さ、この二点にあった。ここまであっけなくそれが否定されて僕はいうべき言葉を知らない。
 読了もしないうちから決め付ける論理の無意味さを十分わかったつもりでいる。どれほど不完全に思える作品でも、その不完全なるがゆえの魅力については、村上先生自ら語っておいでだし、それは最後まで読まないと「完全には」わからない。
 しかし上巻だけでじゅうぶん意見は可能だ。書き出しの数ページで半分以上わかる、という意見に僕は反対しない。先生が最後までにこの驚くべき俗ぶりをひっくりかえしてみせ、自分の書いたこの文章に僕が恥じ入ったときは、まったく先生の天才に心底脱帽するが、そうでなかったら・・・。

 村上春樹に、あなたはどうして書くのですかと尋ねなければならなくなる。そんなむなしいことをしたくはない。あなたはどうしてこんなもので食い扶持を稼がなくてはいけないのですか、と聞くなんて。

2002年11月22日(金)
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