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■ 書くということを書くことに就いて
文章を書こうと思う。 作文が得意だから作家になろうと思ったという菊池寛のようなわかりやすささえ、持っていないけれど、これでも僕は自分の文章にうぬぼれているほうだ。 思っているなら書けばいいのだ。いちいち宣言するのは阿呆のすることだ。でも、何も書けない自分がいる。 何を書けばいい? 読む人は何を期待している? 俺は文章を読むとき何を期待している?
怖いのだ。「すべては、書かれている。」
20世紀のノンフィクションで。19世紀の帝国で。18世紀のサロンで。あるいは紀元前の広場で。すべては、もう書かれてしまっているのではないか? 長い間信仰されてきた、文字によるあらゆる実現――あるいはため息 psyche の化石――は、たった一つの賢者の石の上に、一行で記されてもう完成してしまったのではないのか。そしていま文学などと乱暴に手を振り回している輩は、廃坑に1000カラットの夢を求めてつるはしを手放さない間抜けだけなのではないか。
臆病を始めればきりがない。まるでそうとしか思えなくなってくる。 別にそうであってもいいのだ、どうせ間抜けなのだから、などと底の浅い開き直りは通用しない。書かれた開き直りの、汚さといったらない。本来の意味で汚いからほとんど化け物だ。
だから日記しか書けない。どうにも次元の低い話になってしまう。僕は文章を書こうと思うが、ストーリーテラーたらんとするのか、美しい文章を書こうとするのか、社会の何やかやをするどく糾弾していくのか、ずいぶんあいまいだ。ええかっこしいを排除するためにくだらないと思いつつ書くが、作家というのは芸術家の一種だ。これは間違いなくそうだ。でなければなんなのだ。このおおもとからあいまいだから、次元の低い話しかできなくなるのだ。一人僕だけのせいではないと思っている。おおもとを捻じ曲げてしまった最初の元凶は三島由紀夫で、ええかっこしいも彼ぐらいになると貫禄があるが、彼の言葉が小人たちによってスローガン的に実に効果的に敷衍されたことが決定的な瑕となった。「川端氏は芸術家の烙印を押されてしまった」と、あまり分かりやすく書いてしまうものだから。
芸術家であれば、上記の三つの目的はそれぞれに合目的的であることはすぐに合点が行くし、それぞれに美しいと思うところの根拠が割合明確だから、張り合いもあって面白く話を進められる。
そうでなければ――いや、そうでないという考え方がここまで広がってきたからこそ、文章で食い扶持を稼いでいる奴ら(なんと呼べばいい?)の馬鹿馬鹿しい繁栄がいまあるのだが――いや、話がめちゃくちゃだ。僕は世直しがしたいんじゃない。文章で食い扶持を稼ぎたいだけだ!
菊池の『無名作家の日記』はおそろしいまでに面白かった。またまた思ったものだ、「まただ。こんなことまでとっくに書かれているのか」と。あれが心覚えなのか、作品なのかはどうでもいい。美しい、腹が立つほど菊池寛は作家だ。『父帰る』を傑作と誉めそやした小林秀雄の神経が今まで分からなかったが、『無名作家の日記』を読んだあとではなるほど傑作というほかないだろう。もちろん、そう言うからには「嫌な奴」というそしりも甘んじて受けるつもりだ。小林秀雄というのは不世出の「嫌な奴」だったと思う。
青臭い感想文も、古臭い思想と勝手な同情も、すべて今の僕に必要な道具だ。ああ、書きたい、書きたい。俺はまだ何一つ書いてやしない。本当に書きたいのに、まるで書くことが怖くて仕方がない。
2002年11月16日(土)
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