ジョージ北峰の日記
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7. その場所から、山道は少し広くなって、暫(しばらく)登って行くと山小屋がひっそりと建つ平地に出ました。山の一角を削って作られた平地で、恐らく樵(きこり)さん達が木の枝を切り落としたり、材木や薪を作ったりする場所だったのだと思います。 其処から、明るい月の光に照らし出された周囲の山々の稜線がなだらかに重なり合う様が墨絵で描いたように見えるのでした。稜線の合間から(狭い領域ではありますが)街の遠景が望まれ、私の心を少し和(なご)ましてくれるのでした。 兄達は平地に新聞紙を広げると、まるで、お坊さん達が修行する時のように足を組みながら(座禅)、私の方を見て「お前もやるか?」と聞くのです。私が頷くと、兄は「少し難しいと思うが、何も考えないで、頭の中を真白にするように努めるのだ」 兄の話を翻訳すると、頭の中を空にするには大変なエネルギーと集中力が必要なのだ。それが出来るようになれば、どんなことでも「辛い」と思わずに出来るようになると---。私に分かりやすく説明するつもりなのか「勉強にも身が入るぞ」と話すのでした。
座禅を組んでみると、静かだと思っていた山中にも、時折風の吹く音、大きな鳥が頭上を飛び去る音、木々が風に騒ぐ音など意外に騒がしいことに気付きました。 最初は簡単な事のように思えたのですが、時間が経つにつれて足が痺れてきて周囲のことを窺うより自分の苦痛に耐える気持ちのほうが勝(まさ)り、2人が何時座禅をやめるのか、そちらの方に気が散り始めたのです。頭の中を空にするどころではありませんでした。 北から吹き降ろす風に、最初は厳しい寒さを感じていましたが、時間が経つと、足が痺れてきて、その苦痛を我慢していると、逆に全身が熱くなってくるのでした。どれ程、そんな状態が続いたでしょうか(自分では我慢の限界を感じ始めていたのですが、後で兄は30分程度だと話していました)、兄は、「今夜はこれまで」と言って、「少し体を動かそう」と立ち上がると、足の屈伸(スクワット)、腹筋、腕立てなどをするのでした。体を動かすことがこんなに楽なことだとは思いもしませんでした。 しかし兄が腕立て伏せを100回程軽々とこなす間に、私は20回するのがやっとでした。驚いたことに兄は普通なら1000回はやると言うのでした。
帰り道、兄と高校生は哲学的な難しい話をしていました。私にはよく理解できませんでした。 私達の影が月明(つきあか)りで、墨で書いた影絵のように地面に張り付いて歩いていました。 兄が「勉強は自分を磨く為にするのであって、試験の為にするのではない」と話すと、高校生が私に向かって「試験は自分のやってきたことを試すために受けるのだよ」継ぐのでした。2人は随分気が合うようでした。 この頃の兄は仙人めいた生活に没頭しているようでした。 自分の能力の限界に挑戦しているように私には思えるのでした。
これは、私にとって初めての修行経験でしたが、何かが私の琴線に触れたよう感じられたのです(生ある人間としての自覚)。
8. もう少し兄の話を続けます。私たち家族が戦時中、大陸のS市で住んでいた頃でした(この頃私は恐らく1〜3歳の頃だったと思います)。 その頃の家の状況は、断片的ではありますが、不思議と私の記憶の中に残っているのです。 私が生まれてから暫くして、母が生死をさまよう大病を患っていたようです。母は寝込んでいました。 当時、父は忙しく働いていましたので、炊事、洗濯、家の掃除などと誰かが母親代わりをする必要があったのです。 現代のように、近くに病院があるわけではありません。家は7人の大家族で、誰かが母に代わる仕事をしならなければならないのです。この頃の記憶は、少し前後混乱があるかも知れませんが、兄は学校も行かずに幼い私や母の世話をしていたように思います。又、何処かの医院で母の病気の治療法を教えてもらってきて医者の真似事のようなこともしていました。 母は病気で母乳が出ないので、兄が私の為に子供用の食べ物を苦労して作ってくれていたそうです(当時は牛乳もなく、戦時中だったこともあって、材料が不足していたのか、あまり美味しいとは思った覚えはありません---)。
しかしすべての点で、母は安心して兄に頼り切っていたように思います。父の名誉の為に言っておかなければなりませんが、当時我が家は決して貧乏だった訳ではありません。しかし、外地で周囲に頼れる人が住んで居なかったのです。 兄は、弱音を吐くこともなく、母の仕事を何でも器用にこなしていました。父も兄の助けを当てにして母の病気のことなども色々相談して任せていました。兄の年齢のことを考えれば、随分酷な話だったように思います。しかし今振り返ってみれば、家族一緒に冒険旅行を体験しているような楽しさがあったかもしれません(私が少年の頃冒険小説が好きだったのも、この頃の生活と少しは関係あるのかも知れません)。 現在、日本では、老人や病人の介護、子供の保育施設のことが問題になっています。しかし当時はほとんどが、大家族で家族の誰かに何かがあれば、家族の誰かが代わりになって働いたのです。その為に、恐らく有能な人材も、家族を支える為に、自分の意思(夢も捨てて)を曲げてでも男の子なら丁稚に女の子なら女中に働きに出るというのが普通の考え方だったのです。 そして自分の夢を他の兄弟に託す人達も多かったと聞いています(当時は家族が一丸となって生活していたのです)。 私の家族も母が倒れている間、兄が学業を休んで母代わりに家族を支えていました。しかし兄はその間も、家では勉強を続けていたそうです。
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