ジョージ北峰の日記
DiaryINDEXpastwill


2010年06月09日(水) 青いダイヤ

 2
  話を続ける為に、当時の家の周囲の状況を少し詳しく説明しておきましょう。私の家の東西両側には山、北側には、山の清流が流れ込む灌漑用の溜池がありました。池の底は私の家よりかなり高位に位置し、その堤防が家の北側に高く築かれていました。大雨の際には堤防が決壊しないかと随分心配したものでした。
  家の東側には(庭の中だったのですが)池から流れ込む川があり、春には川魚が活発に泳ぎ始めるのが見えました。又夏には魚だけでなく蛍や糸トンボが飛び交っていました。夏、 我が家は窓を開け放しにしていましたが、よく蛍やカブトムシなどが飛び込んで来ました(蚊や蛾は勿論のこと)。
  西側には山の裾野に沿って広い道があり、道路脇から、さらに5メートルほど降りた所が平地になっていて、我が家はこの平地の一角に建てられていました。つまり山と山の谷間の間に平地が有り、西側には、地域に住む人々が利用する比較的広い人道、そして東側には田圃へ流れる川沿いに林・農道用の狭い道がありました.
  南側は町の中心部へなだらかな傾斜を伴う平地が続いていました。
  池より上流には人家はなく、池には山水(やまみず)、(灌漑用水とは言え飲料水に使っても良いほど)透明で綺麗な水が流れ込んでいました。当時はまだ洗濯機がなかった時代で、母が衣類の洗濯によく利用していたのを思い出します。また水道も整備されていなかった時代のことで、川はお風呂の水としても利用していました。東側に位置する山道は、時に樵(きこり)さんが牛に大八車を引かせて、木の伐採や山の手入れに、又時には農家の人々が池の水門の調節に足しげく通われる道でした。我が家は西側から見れば谷底に、東側から見れば川沿いに建っていたのです。
  私の住んでいた地域は、箱根のように、自然が美しく、山林を巧く(うまく)利用した大きな別荘が立ち並ぶ、風光明媚な土地柄でした。
  しかし私が育った頃は、戦後間もない頃で、お金持ちが住んでいた地域だったのですが、敗戦の影響を色濃く残していました。農地改革で土地を失った人や、戦争で父親を亡くした家族が、なれない養鶏や養豚で生計を立てている姿も見受けました。又、地域には戦後生まれた子供達が沢山育ち始めていました(いま団塊の世代と呼ばれている人達です)。
  東側の道(裏道と呼んでいました)が業務用とすれば、西側の整備された道は、山手の別荘に住む人々が利用する居住用の道路でした。

  私の家は別荘ではありませんでしたが、300坪の敷地があり、私達子供にとって格好の遊び場でした。桜、もみじ、柿、栗の木があり、裏道に通じる橋をかけておきますと、特に春にはハイキングに来た人達がわが家の庭で筵(むしろ)を開いて、花見をすることもありました。
  私家族は大陸からの引揚者で、(今振り返ってみれば)両親、兄弟姉妹は皆若く、元気盛りでした。戦後のことで、家族が離れ離れになったりすることが当たり前の時代だったことを考えれば、家族が皆元気で一緒だったことは、何よりの幸せだったと思います。
3
  引き揚げてきてから、家族はしばらく町の中心部の借家に住んでいたようですが(この時代のことは私の記憶にほとんど残っていません)、私が小学生1年の冬にこの地に引越ししてきたのです。兄や姉達が荷物を大八車に積んで、何度も往復を繰り返し一日がかりで、この地へ引越しして来た日のことは不思議によく覚えています。母に手を引かれ、途中から竹林や畑、林を見ながら歩いてきたのですが、途中辺りに人家が少ないので随分怖い印象がありました。所々防空壕を見た時は、穴の奥からお化けが出てきそうで、随分物騒なところへ住むんだなと、怖い印象を抱いたことを今も鮮明に覚えています。(後になって、住居は山の合間に離れ離れに建っていましたが、遊び友達が結構沢山住んでいることが分かりました)

  さて私の子供時代は、現代の様にテレビもなければコンピューターゲームもありません。しかし遊びには苦労しませんでした。当時、子供と雖(いえど)も中学生は、何等かの形で家の仕事を助けていました。しかし小学生以下の子どもは家にいても役にも立たないので、ほとんど放任状態でした。
  学校から帰ってくると小学生や幼稚園児が、一緒に集まって遊んでいたのです。私も小学校からの帰りに友達と遊ぶ約束をし、家にかえるや否や鞄を放り出して、夕暮れまで遊びに熱中したものでした。

  やがて我が家でも両親が働き始め、子供達も学校へ通い、戦後のどさくさの時代も終わり告げようとしていました。

  あれは確か小学校の2年生の頃だったと思います。この地へ引越ししてきたのが初夏の頃、帰校途中、裏山 (当時東側の山を裏山と読んでいました)でゼミが“ジイジイ”と騒がしく鳴いているのに気付きました。それは私が始めて知る蝉の鳴き声だったのです。(当時の子供達には遊び道具は全くありませんでした。だから子供の興味は、まるで猫と一緒、動く昆虫には、ことさら興味があったのです)友達は「あれは松ゼミと言って、一度見たことがあるが、小さくて可愛い蝉だよ」と自慢そうに話すのです。
  私は、如何してもその蝉を見たくなりました。
「あれを捕るのは無理だよ。松ゼミは松の木の高いところで鳴いているので網を持って行っても、子供だけでは捕れない」と一層自慢げに話すのでした。
しかし私は天邪鬼(あまのじゃく)だったのでしょうか、そう言われれば言われるほど、どうしても見たくなったのです。その友達と昼御飯を食べたら会おうと約束をして家に帰ったのです。


  が、運の悪いことに、その日に限って家に父が一人いて、確か新聞を読んでいました。私が帰ったのを気付くと「今日は遊びに行ったら駄目だ」と言うのです。「友達と会う約束がある」と反抗したのですが、「どうしても駄目だ」と言うのです。理由は(恐らく私が勉強に身が入っていないということが)あったのかも知れませんが、とにかく私には大変理不尽な話に思えたのです。しかし今時と違って当時の父親は絶大な権力を持っていました。何しろ当時、親父は「怖いのは地震、雷、火事、親父」と恐れられた存在だったのですから---。
  しかし私は、父が寝た隙にこっそり家を抜け出し友達と山へ蝉を捕りにいったのです。夕暮れ時まで山中を駆け回りましたが、死んだ松ゼミ一匹を見つけただけでした。それは羽が透明で、小さな可憐な姿をしていました。まるでツクツクボウシの子供の様にも見えました。しかしそれでも大満足でした。それっきり父の言葉はすっかり忘れて、子供達と日が完全に暮れるまで遊びほうけていました。
  日がまさに暮れんとする頃、家の方角から血相を変えて、姉達が走ってくるのが見えました。「お父さんが怒っているよ」と私を連れ戻しに来たのです。
その瞬間「はっ!」と父の怒った顔が思い浮かびました。「そうだった!」私は狼狽してしまいました。
  帰ると、どんな目に合わされるか分かりません(当時子供を叱る時は、お尻をたたかれるのです)。姉が「今日は覚悟しておいたほうがいいよ。百発はたたかれると思う」と脅すのです。
 「私は帰るのが嫌だ」と「家出する」と随分ごねたのです。姉達も、最初宥(なだめ)たりすかしたりしていましたが、駄目だと分かると、最後には力ずくで引っ張って連れて行かれたのです。姉も私を連れて帰らなければ「怒られる」ので必死です。小さな私は、姉達には力では勝てません(随分悔しい思いがありました)。
  上の姉は「馬鹿だね」と囁いて笑っていましたが---。

  案の定、家に帰り着いた途端、上から怒鳴り声が降ってきました。「お前は父の言うことが聞けないのか! お前の様な馬鹿は、帰ってこなくてよい(父は馬鹿という言葉が好きなようでした)!」と---。しかし、今振り返って見れば、父も本気ではなかったのだと思いますが、私は、父の声に縮み上がってしまいました。
  それからは、厳しいお仕置きの刑が待っていました。
さて何発ぐらい叩かれたか忘れましたが、恐らく私は泣き叫んでいたと思います。見かねた母が「もう、許してやってください」と頼むのですが、父は「何を言うか!」と怒鳴るのです。母は「この子ばかりが悪いのではなく、長兄の教育が悪いのです」となんと私の悪さを、兄のせいにするのです。
  「お前がそんなに甘いから、この子が駄目になるのだ」父の怒りはおさまりませんでした。
  そんな折、運よく長兄が帰ってきたのです。事態が飲み込めた兄は「確かに、僕が悪いかも---」と、「後で充分言って聞かせますから許してやってください」と頼むのです。父はいかに、私が悪餓鬼かを兄に話すと、少し気が治まったのか「今夜は、晩御飯抜きだ」と言って、やっとのことで私を解放してくれました。

  私はお腹をすかしたまま、部屋に引篭もって蝉を見ながら泣いていますと、兄が部屋に戻ってきて「お母さんからだ」とこっそり“御握り”を持ってきてくれたのでした。「宿題はしたか?」と尋ねながら「手伝ってやるから」と私に勉強するように促すのでした。
 そして、笑いながら「お前も強情なやつだが見所もある」と言ってから、「少し話がある」と言ったのです。

 その頃の私には、理解不能でしたが、哲学を専攻した兄らしい面白い話をしてくれたのでした。その話が、私の一生左右することになるとは、当時思ってもみませんでした。



ジョージ北峰 |MAIL