ジョージ北峰の日記
DiaryINDEX|past|will
私の家族は両親と子供5人で長兄と私以外に次男、長女、次女も7人で構成されていました。私のすぐ上の姉(次女)でさえ5歳の年齢差がありましたので、正直に言って、他の兄達や姉達の逸話について、直接知ることはありませんでした。ただ父や、母の話から兄弟姉妹の“武勇伝”とも言える自慢話を絶えず聞かされていました(私をしっかりさせようと思ってのことだったのかもしれません)。
私は母が40歳を超えてから偶然に生まれた子供だったので、それこそ目に入れても痛くない程、可愛がってくれました。家の経済状況は“火の車”だったにも関わらず、母は古着を染め直して、まるで新調したように見せるほど上手に子供服を縫い上げ、(ミシンではない)いつも着せてくれていました。だから私は良家のボンボンのように見えたかも知れません。 年齢からも、私は兄弟姉妹とはかなり離れていたせいもあって、やはり彼等も私を「仕方がない甘えん坊」と特別扱いしてくれていたように思います。
話を元に戻しますと、長兄は小学生の2年の頃から勉強で頭角を現し、“かみそり”と呼ばれ、頭脳明晰、父が教えると物事の呑み込みが速く、瞬く間に6年生のレベルに達し、後は父が教えなくても自分で積極的に勉強するようになったと言うのです。当時、長兄の天才ぶりの逸話には事欠きませんでした。 受験勉強もほとんど苦労することなく、英才教育のための中学特別クラスに入学したらしいのですが、中学でも4年生の時に、既に当時旧制高等学校の受験組みと一緒に試験を受けて1,2番の好成績を収めるようになっていたのです。 しかし、この辺りから、母の話によると困ったことが持ち上がったらしいのです。つまり長兄の学校嫌いが始まったのです。「学校では何も学ぶことがない、無駄だから家で勉強するほうが良い」と言って登校拒否をするようになったらしいのです。「いくら勉強が出来るからといって学校に出席しなければ卒業もできない」と母が何度説得しても、頑として「それじゃ試験だけ受けに行く」と言って、話を聞こうとしなかったのです。勿論父も随分叱ったらしいのですが、兄はやはり耳を貸そうとしませんでした。 「強情なやつだった」と後日、私にあきれたように話すのでした。 両親は彼の奇行には随分困ったそうですが、幸か不幸か日本が第二次世界大戦に敗れ、旧制教育体制から新制教育体制に変わり旧制中学・高校は廃止、新制高校に移行しました。そして長兄は何とか高校を卒業、新制の大学に入学したらしいのです。しかしその時もトップで入学したと父が語っていました。しかし入学式の時“晴れがましい”代表挨拶は拒否したらしいのです。
とにかく父や母から聞く長兄の評価は、私にとっては、驚きと、羨ましさ、理解し難い部分ばかりで、彼の不思議な(いや神秘的といったほうが正しいのかも知れませんが)行動にますます畏敬の念抱くようになるのでした。
長兄は理数系が特に得意だったようですが、大学では(母に言わせれば悪いことに)哲学を専攻していたらしいのです。
大学へ入学してから、長兄は暫らく家で生活していましたが、やがて家では集中できないと、人家の少ない山手の方に山小屋(粋人が建てた茶室だったようですが)を借りて夕食後は其処に籠もって生活するようになりました。母に言わせると、当時長兄は父との関係がうまくいっていなかったそうで、母も長兄が山小屋に住むことを同意したと言うのです。
当時、私も山小屋に行く機会があったのですが、(几帳面な)兄のことですから部屋はいつもきちんと整理整頓されていました。ただカントとかショウペンハウエルといった哲学書が山積されていたのをかすかに覚えています。 一方私は、当時あまり出来の良い子供ではありませんでした。私の兄弟姉妹が、あらゆる点で秀でていましたので、私は一体何をすれば良いのかさっぱり分からなかったのです。両親も私には何も期待していなかったのか、あらゆる点で私には甘かったのです。 だから私の本当に競争意欲もなくただ“のほほん”としていたようです。信じられないかも知れませんが、小学生の低学年の頃、運動会では競争して走るのだということさえ知りませんでした。ただテープへ向かって走るだけでよいと思っていたのです(両親も運動会を応援に来たことがありませんでした)。私としては何でこんなことをするのか、周囲の観客席で、親達が何故そんなにわあわあ”騒いでいるのかよく分かりませんでした。 又、教室でも、手を挙げて積極的に発言することもありませんでした。先生も母に少し積極性にかけると言っていたようです。 今なら、私は格好のイジメの対象児童だったに違いありません。私が小学校2年生の頃、私のすぐ上の姉が6年生だったのですが、通知表はスポーツ、図画、音楽を含めてオール5、しかし私はほとんどが4、ほんの2、3個5の評価だったように思います。母に見せますと「何が悪かったのだろう」と褒めてくれなかったのです。父にいたっては「この子は馬鹿だ」と一刀両断でした。当時私は通知表の評価さえも何なのか知らなかったのです。 「試験は、ほとんど100点なのに」と口をふくらませますと、母は「お前は字の練習をさせていないし、絵も下手だから」と「私の責任だよ」と少しかばってくれたのです。しかし父は「低学年の試験なんて誰でも100点だから、試験の成績は関係ない」とひどい侮辱の言葉を投げかけるのでした(確かにそれは真実かもしれませんが)。「この子には何かダイヤの様な“キラっ”と光るものがない」とさえ言うのです。しかし私には「キラっ」光るとは何のことなのか、子供だったこともあって、さっぱり分かりませんでした。
両親は、私をどうすればよいのか随分話し合っていたようですが、結論は「長兄と同じ部屋で寝泊りさせる」ことなったようでした。
|