ジョージ北峰の日記
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2004年09月28日(火) 連続する凄惨な殺人事件ー何でだろう?

 最近人間のやることとはとても思えない殺人事件が頻発している。勿論、お金目的、保険金殺人、怨恨殺人など、欲がらみの事件はある程度、理解可能だが、しかし、それにしても人の命を簡単に奪いすぎるところが理解出来ない。そこまでしなくても、と考えてしまうのだ。ところで、殺人を犯す動機が全く不明の(と言うか、何の関係もない人間を殺害する)興味本位か、または何の意味もない殺人事件に遭遇する機会も増えてきているように思えるーーこれは異常な事態と考えざるをえない。そろそろ何とか手を打たなければ、と考えるのだがーーはたして?
 これは一体如何したことなのだろう?
 昔なら、無念で死んだ亡霊が夢幻(ゆめまぼろし)と現れ、罪人を苦しめる話がまことしやかに信じられてきた。ハーンの有名な話に、平氏の亡霊が夜な夜な現れ琵琶法師の唄に涙流して聞く件(くだり)がある、私は少年の頃“人の恨みは恐ろしいものだ”と自然に理解してきた。近代でも、罪なき金貸しの老女は社会に害毒しか流さないと、殺害し金を奪った青年が、その罪ゆえに神の罰を受け悩み苦しむ物語があった。だからこそ人は自然に“罪を犯す”事の恐ろしさを知ってきたのではないだろうか。
 でも現代の殺人事件はよく言えば全く“あっけらかん”としているのである。悪く言えばまるで罪の意識がないと言えるだろうか。
 何故人間はこんな風にドライになってしまったのだろう?
 現代人は“生の尊厳”を悪魔に売り渡してしまったのだろうか?
 何時の時代も、そうだった。悪魔は何時もいつのまにか人の心に入り込み、人の醜い欲望を掻き乱し、社会を混乱に陥れてきた。悪魔はいつも、人が自由と豊かさを謳歌し始めると、同時に黒衣(くろこ)のように現れ、人に気づかれぬよう、気づかれぬよう“そろり”と心の奥深く侵入して来た。
 人にとって物質的豊かさと自由こそが“生の大切さ(尊厳)”をどこか意識の彼方に追いやってきたように思える。とするとーー
 ところで“衣食足りて、礼節を知る”は嘘だったのだろうか??ーー
 いや少し待った、この諺には、何処にも自由とは書いていないぞ!ーー
 つまり、人の社会に自由がなければ“衣食足りて、礼節を知る”が真理だったたと言うことなのかい?
 そうかも知れない! 
 時と場合によって自由こそが(社会にとって)毒にも薬にもなってきたのではあるまいか。よく“自由のはき違え”と言う言葉を聞かされたことがある。これは、人は自由であるべきだが、何をしても良いということではない、と両親から教えられた。
 しかしどうしてこんな風に言ったのだろう?
 つづく
 


ジョージ北峰 |MAIL