ジョージ北峰の日記
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2004年09月12日(日) オリンピック(スポーツ)の意義

 日本の野球チームは力量から、本当は金メタルをとって良いチームだったように思います。しかし運がなかったのでしょう。如何に強いチームも、野球の場合たまたま良いピッチャーが出てくれば勝てないこともあるって事です。戦前、アメリカ大リーグに対して好投した沢村選手の逸話を思い出しました。又現代の国内のプロ野球でも良いピッチャーを揃えているチームが良い成績上げているではないですか。
 それに、日本チームはすべて勝とうとして逆にメタルを失ったと、言った人もありました。それもあるかもしれません。しかし私見が許されるなら、私は日本の野球チームは負けても王者の野球に徹して欲しかった、クリーンアップのバントだけは見たくなかった。必死さを強調する余り、自分達の力を忘れてしまっているかのような印象さえ受けました。日本は最強豪チームだったのですから、それなりの姿勢で戦うべきだったのではと、思います。
 ちょっと皮肉が許されれば、プロ野球選手はリーグ戦の試合に慣れていてトーナメントのような“生か死か”と言った緊張感の持続に疲れてしまっていたのではありませんか?それに相手を甘くみた、一寸(ちょっと)した隙(すき)が敗戦の原因になったのではないですか?
 人間は変化に乏しい日常生活に慣れ親しんでいると、知らぬ間に気の緩み(ゆるみ)が台風の目のように発生し、怖いことに、それは習慣化し、進化、さらに膨らみあがり油断を誘う、しかもそれを人は気づかない、と言う、それはそれは性質(たち)の悪い代物なのです。今のプロ野球のゴタゴタの震源も、まさにその辺りにあるように思えて仕方がありません。
 ところで、オリンピックは世界あげてのスポーツの祭典です。それはそうなんですが、あるテレビのインタビュ-番組で、“あなたにとって、オリンピックは何ですか?”と陸上の金メタリストM選手に尋ねた場面がありました。彼は一言“平和”と答えていました。一瞬その意外な答えに驚きました。彼にとっては、金メタルが目標だと思っていましたから。
 そうだ!オリンピックはもともと平和の祭典でもあったのだ!と改めて(競技が始まって以来)思い出したくらいです。
 オリンピックは人間の政治、経済活動には直接的には何の関わりもない。しかも、国と国、人間と人間の利害を一切捨象した所で、一定のルールを決め、フェアーに競い合うスポーツの祭典と言えるでしょう。其処にはお金も、権力も一切存在しないと言うのが原則でしょう(現代は少し変わってきたかもしれませんが)。其処にはただ人と人との純粋・公正な戦いがあるだけだと言うのがオリンピックの理念でしょう。
 人はそのような戦いだからこそ感動し、そして戦い終われば、相手を尊敬し愛する気持ちが芽生えてくる、とするのが素直な人の気持ちの動きではないでしょうか?例えば、私の場合、現代紛争真っ只中のI国のサッカーチームがメダルに届く試合をしていた時、知らぬうちにI国を応援していたのも、そのような気持ちの現れではなっかたでしょうか? 

 オリンピックは人に挑戦する意欲と勇気の重要性を教えてくれる。
 それにオリンピックは、人間の経済活動とは直接関係しないかもしれないが、人の能力の無限の可能性、正しい人格形成と礼儀作法の重要性を、さらに人を尊敬し、愛することの重要性等を教えてくれる。
 オリンピックは正しい人間行動の理念を教え、人に真摯で崇高な心を忘れないよう諭してくれる。
 つまりオリンピックは正しい人間行動の原点が何であるかを教えてくれる最も大切なチャンスの場である、とも言えるのではないでしょうか。

 今回のアテネオリンピックで、私はギリシャがとても好きになりました。 何故か?
 今のところ、その理由は良く分かりませんが、恐らくスポーツのあるべき原点に立ち返ったような気がしたからかも知れません。
(“たかが選手が”なんて言葉は、文明国の人の発する言葉ではないように思います。でもあの方の性格上本当は“たかが若造が”と言うべき言葉を言い間違ったのではないかなあ、と思いたいですね。選手会の皆さん、そのように理解してあげてください。何しろご高齢の方ですから!)


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