ジョージ北峰の日記
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2004年10月03日(日) |
連続する凄惨な殺人事件ー続き |
昔から、富と権力を手にした権力者が、人間が生きる為、本来一度は通過するべきシビアーな努力の過程を全く経験しなかったが故に、それだからこそ生の目的(生の尊厳)を知ろうともせず、国を、人を恐怖のどん底に突き落として来た。このような暴君としては、古くはローマ帝国の暴君ネロ、最近でもルーマニアのC.大統領、イラクのF.大統領等があげられるのではあるまいか。勿論、隣国の将軍様がそのようなお方である可能性が非常に高い(実際のことは知らないが)。彼らには権力者であるが故に無限の自由を与えられていた(いる)のである。 つまり人間、富と自由を手に入れると人格が変わるとよく言われる、大概良い方向に変わるのではなく、その逆であった。 平家の清盛もそうだった。又日本の源氏物語でも光源氏の息子、夕霧が、名家の生まれと言うことだけでちやほやされ無能な人間に成長することを恐れ、厳しく大学教育する件(くだり)がある(この点は賞賛に値する)。 昔から、人に富と自由が保障されると、人間は(如何に優秀であっても)最後は、乱心し神の意思にそむく行為を繰り返して来たのではなかったか。 “自由をはきちがえるな”と言う言葉は、そのような人間が犯してきた過ちを、子供には二度と繰り返して欲しくないと、強い願いがこめられて語られて来たのではなかったか? “衣食足りて、礼節を知る”を少し論理的に分析してみると、“すべての衣食足りた人は、礼節知る人である”と解釈するのが正当だろう。とするなら、その逆は真だろうか?“礼節を知る人は、すべて衣食足りている人である”と逆は必ずしも真でない。この諺は、現代では、必ずしも真ではない。つまり、自由もなく、富もなかった時代では正しかったのだろうが-- ところで人間だけではなく国家の場合も、やはり富と、自由を獲得すると、国としての礼節を失い、バブル期の日本がそうだったように、世界の国々から顰蹙(ひんしゅく)をかうような出来事が頻発した。(戦前、戦後を問わず)土足で相手国の文化を、まさに自分達の論理で蹂躙(じゅうりん)しようとした。(アメリカの場合は大丈夫かなあー?) つまり節度を失った自由は、ややもすると人間社会成り立ちの基盤、すなわち人間の生得の権利“生”さえも奪おうとしてきたのであるまいか。 人の生は、本来神から与えられた、誰にでも保障されるべき絶対的権利で、つまり最も基本的権利と言えるだろう。何人も他人のこの権利を、よほどの理由がない限り、勝手に奪うことは許されない。日本人が切腹した人達や特攻隊に出陣した人達に、ある意味で畏敬の念を抱いたのも、“生″の大切さを知っていたからだろう。あの割腹自殺を遂げた作家M.Y.が今も人々から忘れられないでいるのは、誰もが“生”の大切さを知っているからだろう。 それを知ってか知らずか、現代の日本では、自分の欲望を満たす為、いとも簡単に、人の命を奪う事件が多発している。つまりこの国では、この手の箍(たが)がはずれようとしているのである。 日本で、政治・経済改革として国民が最も期待しているのは、年金問題等、つまりお金にまつわる問題ばかりである(それも分からないわけではないが)。 しかし、今日本が陥っている最も大きな課題は、それより先に、富と自由にふやけきった人心を元(正常)に戻すと言うことではないだろうか。その為にはかなりの、思い切った、目に見えない部分(教育を含めて)の改革をする必要があるだろう。(昔の修身教育の復活ではないですよ!) もし、これに成功すれば、現代日本の抱えている赤字なんか大した問題ではなくなってしまうと考えるが? 如何だろうーーー 日本の将来を、夢を考えるにあたって、政治家が、この今の事態を異常と気づかないで、誰がこの国の未来(希望)を語れると言うのか。
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