ジョージ北峰の日記
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自己責任とはそんなに難しい言葉でしょうか?私は文字通りに“自分がした行為の結果については、その成否を問わず自らが責任を負う”と理解しています。又会社を含めた組織が犯した罪については、事情にもよるでしょうが、その長には直接責任がなかったとしても、やはり管理責任が問われるでしょう。自分がなした如何なる行為に対してもその責任は、他人にあるのではなく、自分にあるとするのが(人の行為に対する)現代の根本的・倫理的な考え方でしょう。“よい結果であれば自分、悪い結果であれば他人”のせいにするのは、最近の日本の政治の世界でよくあったことではないですか。又“あの人は専務に詰め腹を切らされた”等と上司の責任を部下に押し付けられて首になった気の毒なサラリーマンの話は映画やテレビドラマで良く見てきたじゃないですか。自分のした行為に対して、その良悪を問わず当人が責任を負うのは本来当たり前のことではないですか?一人前の大人がすることですから。そんなに難しく考える必要はないでしょう。 ところでイラクで人質にされた日本人に対して政府関係者が“自己責任”と語った言葉を問題にした人が多かった。その理由が、国民の生命・財産を守るのは国の責任だから、3人を助ける為に政府は何かすべきだった、とする意見が多かったように思う。勿論あのニュースに驚いたのは日本人全体だったが、とりわけk首相は肝を冷やしたと言うのが本音だろう(私はk首相をかばうつもりはないが)。 本当にどうすればよいのか? あれほどの軍事力を誇るアメリカでさえ、自国の犠牲者を武力で救うことは出来なかったのだから。 日本政府が出来ることは“自衛隊を撤退さるか”、“お金を出すか”、あるいは第三の道“日本の善意”を相手に理解してもらうかだった、のであるまいか。そのいずれも大変困難なことのように思えた。其の時に出た言葉が“自己責任”だったように思う。 日本の外交は憲法の制約上、武力なしと言う“条件付き困難”が絶えず付き纏っていることを国民は知っているのでしょうか?その為に外交を預かる外交官、政治家は大変苦労しているのではと、少しは同情してあげては如何でしょう。唯一日本の武器は“お金”“話し合い”それと“国連の世論作り”なのですから。だから危険な場所で“何か緊急に事が起こったら”本当は、日本はお手上げなのです。 国連主義、国際世論に訴えて“日本に同情し、力を貸してくれる国”が何処かにあるのでしょうか?おそらく今は“アメリカ”だけでしょう? それなら逆に“今、困難に陥っているアメリカ”を日本は無視出来るのでしょうか?それは違うでしょう?やはり日本は武力は使えなくても、何らかの形でアメリカを支持し、出来ることは可能な限り協力すると言うのが今の日本の立場でしょう? アメリカの戦争が間違っているなら、そんな戦争はやめるように、ありとあらゆる手段を講じてアメリカに説得する以外道はないじゃないですか。 今、日本を取り巻く困難極まる外交問題を解決する上で頼りになるのは“アメリカ”だけだと、言うことを忘れないでおこう。 と、忘れかけていたましたが、あの時点で“自衛隊の撤退”は日本政府として絶対に出来ないと言うのが本音で、それは正解だったのではないだろうか?と考える。 そんな時に日本政府としては、日本人には“あの時点で、あの国”には、今行って欲しくない、如何しても行くのだったら自分の責任ですよ、と言う切羽詰った呼びかけが“自己責任”と言う言葉で表現されたと理解したい。 ところで、本稿のもう一つのテーマは人間の起こす“理解しがたい行為”についてである。それは、誰にそそのかされた訳でもなく、強制されたのでもないのに、敢えて危険に挑戦する人々が人類には何%か存在したし、又現代も存在すると言う事実である。 例えば日本でも、世界の名だたる最高峰に単独登頂に成功した有名な登山家U.N.、ヒマラヤ滑降のプロスキーヤーM.Y.、小さなヨットで太平洋を単独で横断した青年H.K.ーー等等、彼らの行為の本当の目的は何だったのだろう? 有名になりたかった為だろうか?そんな薄っぺらな理由からでは、あんな危険な冒険はとても出来なかっただろう、と思う。 私は彼らの行動を支配している性格には、それを規定する何らかのもっと本質的な“行動遺伝子”“冒険遺伝子”があるのではと、考えたくなるーーつまりそうでなければ、彼らの行為は理解不可能なように思うえてしまうのだ。最近イラクで亡くなられたフリージャーナリストH.S.氏もそう言う人だったのではと考えている。 このような人たちにとって、自分の行為の何故かを説明することは出来ないだろう。 ある有名な登山家が“そこに山があるから登る”と言ったそうである。 つまり“そこに興味の対象があるからやる”と言うのが彼らにとっては単純だが本当の理由なのだろう。 あの人質になった3人もこのタイプの人間なのでは?と考えたいのである。 しかし本当のところは如何なのだろう。 こう言う人たちにとっては“自己責任も糞”も何もないのである。そこにあるのは自分達の興味だけなのである。つまり常識の範囲外の人達なのである。 こんな人達に周囲の人々は良きにつけ悪しきつけ、しばしば振り回されきたのである。 しかし時に勇気をもらってきたことも付け加えておきたい。
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