ジョージ北峰の日記
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最近報道された事件の中で“少女の同級生殺害事件”ほどショッキングな事件はなかったのではあるまいか。最近、少年少女が引き起こす事件は、われわれの世代の人間からは、理解の限界をはるかに超えているように思われる。“死とか殺人”などの単語が、現代報道される子供達の事件に絡みすぎているような観があるのである。つまり子供と大人の犯す犯罪に区別がつかなくなってきている、と言えるのではあるまいか。こんなことは過去になかったように思えるのである。この問題は少子化と同様、政治問題にするべきはずなのに、どの党も参議院選挙の争点にしていない。 少なくとも義務教育の段階にある子供達の教育は、単に親と学校にだけに押し付ける問題ではなく社会全体、殊に大人に責任があり真剣にならなくてはいけない問題ではあるのに、である。最近の少年少女の事件を見ていると、事件の特殊性ばかり強調され社会全体に存在する真の問題点に目を向けていないように思える。 戦前の道徳教育が、時の権力に対する批判能力を奪い無謀な戦争に国民を駆り立てたことに懲りて、戦後日本国民全体が道徳教育にきわめて不熱心になったことは仕方がないとしても、現代のように良きにつけ悪しきにつけ情報が氾濫している時代に至ってなお、道徳教育をためらう必然性はないように思える。 何も今戦前の修身のような道徳教育を子供達に復活しようなどと言うつもりは全くない。ただ子供達に対しては、物事の善悪の判断を誤らないようにするための教育が必要なのでは?と考えるのである。 ただし、今回言いたいことは子供に対してでなく、道徳教育受けてこなかった現代の大人に対して必要なのでは?と考えるのである。 問題は、現代の子供たちが、早くから大人と同じ情報を簡単に手に入れられる時代だと言うこと(それに対する判断力が、子供には十分成熟しているわけではなく未熟であるにもかかわらず、である。しかもこのことは、インターネットが普及し始めた時から先進国ですでに論議されていた)−−又子供を大人のように扱うことが子供の成長に良いのではと考える大人が増加していることや、問題に全く無関心な大人が増加していることに問題があるのではないか?と言うことである。 子供だけを教育しても、大人にその意義を十分理解されていなければ効果は少ないと考えられる。まず、子供達が今晒されてている危険を大人が早く見極め、子供達を守ろうと言う気概で、この問題に今すぐにでも取り組まなければ将来大変な禍根を残すことになるのではあるまいか。これは現代の政治的大問題である。 この問題を取り上げる勇気ある政治家の出現を私は切に期待している。
最近、ツバメの巣立ちの練習中に悲劇だ起きた。子ツバメが電線から飛び立って親の後を追っていたのだが、どうしても上に昇れない下へ下へと落ちていくばかりだった。心配した親ツバメが上へ下へと子ツバメの周囲を飛んで励ましていたが、たまたま通りかかった猫に襲われ小鳥はたまらず地面に落ちた。親ツバメは鳴きながら周囲をしばらく飛んでいたがーーー。 親ツバメの気持ちは如何ばかりだったか、私は目頭が熱くなった。 こんな自然の摂理の厳しさを、現代人は忘れてしまったかように見えるのである。
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