ジョージ北峰の日記
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2002年08月04日(日) 政治と政治家-1

 20世紀の世界の政治家の中で印象に残る人物はと聞かれたら、やはりケネディー、ネ-ル、もう少し古い人物としてはルーズベルト、レーニン、毛沢東、最近ではゴルバチョフ等の名前を挙げることが出来るだろう。何れも歴史の転換期に卓越したリーダーシップを発揮、世界の政治・経済そして平和に多大の貢献・影響を与えた人達だからである。私は政治学者ではないので、彼等の歴史的業績について詳しいコメントを述べるつもりはない。しかしその時代、その時代に強烈な個性をアピール、そしてその個性で世界を動かしえた人達だったように思う。しかもその結果は(今から考えても)良くも悪くも、人類の歴史を前進させた人達だったのではあるまいか。いかに強烈な個性と言ってもヒトラーのように歴史の進行方向(ベクトル)を逆回転しょうと試みた人物は理想と言うべきではないだろう(反面教師としての存在感は偉大かもしれないが)。
 とりわけケネディーは40歳前半でアメリカ大統領に就任、人々の度肝を抜いたばかりでなく世界平和実現の理想を揚げて、若い情熱とそのエネルギッシュな活躍で人々を圧倒、世界の歴史にその名前を永遠に刻み込んだ人物だった、と思う。殊にキューバ危機、ソ連と戦争に発展しかねない危機に、彼の政治力が試された時、当時の人々の予想に反して、ソ連の挑発に敢然と受けて立ち、アメリカの主張を力の政治で押し通しただけでなく戦争の回避にも成功、当時のソ連の実力者(書記長)フルシチョフをして、その政治的手腕をうならせたと聞く。
 当時ケネディーは民主党の大統領で世界平和を主張する若い理想主義者とのイメージが強かった。
 しかし彼が危機に面し、考え抜いた末、下した決断は人々(恐らくフルシチョフをも)を驚愕させる内容であった。そう、それは一触即発、核戦争をも回避するものではないと言う一見無謀と言える大胆な決断で、凍りつくような恐怖に人々が固唾を飲んだ瞬間であった。しかしその直後、キューバ海域からソ連の海軍が撤退し始め、フルシチョフが戦争回避の決断したとのニュースを伝え聞いた時、当時、若かった私も言葉では表現できない、涙が出るほどの感銘に体が震えたのを記憶している。若いケネディーの決断が勝利した瞬間であった。
 当時ケネディーは世界平和実現に向けて、次々新しい政策を打ち出していた。その中にアメリカの若者の海外派遣政策があった。多数のアメリカの若者が文化交流の為日本を訪れる機会が増大、私も彼等と接触する機会が増加した。彼等に一貫する合理的な物の考え方は私にはとても目新しく大きなカルチャー・ショックで、それ以後、私の生き方、考え方に多大の影響を及ぼしたと思う。大統領の暗殺をテレビで知った時の人々の驚きと落胆。彼こそ、政治家として本当のカリスマ的存在であった、と断言できる。
 しかし暗殺されてから、何年か経って彼のスキャンダルがマスコミで頻繁に取り上げられるようになった。ホワイトハウスの大統領執務室の天井に抜け道があり、アメリカの有名な女優マリリン・モンロウとの密会が暴露された。彼は極めて有能・賢明な政治家だったが女性にだらしがなっかた、などと言った類のスキャンダルが数多く報道されるようになった(真偽は知らないが)。このような報道は彼のイメージを少なからず損ねたように思う。しかし、だからと言って彼の歴史に遺した計り知れない情熱、人類に与えた夢、業績に傷がつくほどのものではなかった、と思う。彼はそれに余りある存在だったのである。
 ネ-ル首相は現代の若者には馴染み薄い人だと思うが、私が子供の頃、インド独立にさいし初代首相に就任、その後世界平和に多大な貢献をした人だったと思う。当時米ソは犬猿の仲で世界の国々は東西に分かれ、それこそ何時戦争が勃発しても不思議ではない状況にあった。第二次世界大戦で疲れきっていた人々にとって大変不安な時代であった。そのような時代に、彼は核戦争の悲惨さと危険性を訴え、世界平和の重要性を強調、非同盟諸国の代表としてアメリカ、ソ連両国に絶えず対話による問題解決重要性を訴え続けた。彼は世界の如何なる問題も対話による解決が可能との信念を語り冷戦(cold war)と言われた緊張状態の緩和に誠心誠意努力した人であった。
 私は子供ながら彼の存在を頼もしく思い、また精神的にとても頼りにしていたように思う。彼が亡くなったとき“世界の親”のような存在を失ったと言う思いと悲しさで、彼の亡き後の世界に忍び寄る不安に心動揺したものだった。
 人々は、彼については本当に心から尊敬していた、と思う。また一度だってスキャンダルを聞いたことがなかった。そういう意味で、ネ-ルは誠実で理想的な政治家だったのかも知れない。


ジョージ北峰 |MAIL