ジョージ北峰の日記
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当時、日本の為、家族の為、苦悩に満ちて死んでいった人達が祭られている。私自身、戦争で亡くなられた人達に対して心から感謝し、尊敬している人間である。 一般人が靖国神社を参拝すること、これは誰からも咎められることでは決してない。しかし、戦犯とされている将軍が英霊として祭られている所へ、日本の政治的指導者が積極的であれ消極的であれ公式に参拝するのはおかしい。それは自己矛盾を曝すことになるのである。この事は、最近、不良債権問題で責任を取るべきリーダーが、結局誰も責任を取らない日本の政治・倫理体制に極めて強い不信感を(諸外国から)持たれる遠因となっているのである。 戦後、軍国主義とファシズムを誤りとし、天皇を国民の象徴とし主権在民による民主主義、自由主義を標榜して新しい国家を建設すると世界に向かって誓ったのである。その事実に、決して矛盾する事のない行動を日本は世界に示す義務があると考える。 天皇は国家・国民の象徴である以上、民族、宗教を超えた、誰からも愛され、尊敬される日本の代表として機能して欲しい。あくまで日本国家に住むすべての国民の象徴的代表である。将来、さらに世界文明、文化のグローバル化が進むことを考えると天皇は民族・宗教・政治体制を超えた日本の誇る象徴的存在であって欲しいと願う。 一方戦犯についてはどう判断するか?戦犯にはA,B,Cの段階があった。ここで問題にされるべきはA級戦犯を日本が如何扱うかである。日本が、あの当時、第二次世界大戦に突入した理由は簡単ではなかったと考えられる。歴史家でない私が、その良否、善悪について判断するのは避けた方が良いかもしれない。しかし結果は、日本の敗戦であり、日本を含む他国の人々に多大の犠牲を強いたと言う事実は否めない。その時代にあっては色々な理由があったかも知れないが、結果としてはA級戦犯の世界戦略・国家戦略に誤りがあったと結論せざるを得ない。A級戦犯だけが本当に戦争犯罪人であったかどうか私が判断すべきできないが、歴史上、日本を、世界を途方もない戦争に巻き込んだ、指導者、リーダーとして、彼等の資質、是非については、過去の他の政治家、将軍達と同様、問われなければならない立場にあった。そして日本の国家的英雄であり、英霊として祭られるべきであったかどうかは精密に、感情論抜きに検証されるべきである。現段階では(当時をよく知っている人達の話、記載されている事柄から判断して)他の歴史上の人物と比較しても、彼等を特別視し英霊とするのは、あまりに性急で軽率な判断のように私には思える。 日本歴史上の人物として彼等の歴史的行為(戦争)の是非については冷静に評価されるべきである。 一方、第二次世界大戦は外国との戦争であり、外国が日本のA級戦犯についてどのように考えるかは別の問題である。外国は日本のA級戦犯について、自由主義、民主主義を踏みにじり、当時日本の方向を国家神道に基づくファシズム的政治に、そして戦争を遂行、日本の進むべき方向を誤らせ、ひいては世界に多大の被害と混乱を招いた、とし民主主義、自由主義を否定した独裁政治家として処刑したのである(ポツダム宣言、東京裁判)。それを日本は受諾して現在にいたっている。そして新しい憲法では、そのような反省に立って、主権在民、基本的人権の尊重、自由主義、民主主義を標榜する国家を再建設することを誓ったのである。
それでは日本はどんな国家であれば良いのか? 先ず、世界から本当の意味で信頼される政治、経済体制を構築すること、しかし何よりも道徳的に高い信頼を得ることが重要と考える。戦後、外国が日本に最も期待したことは(日本人は戦争を恐れはしないが)決して日本から手を振り上げることがないこと、喩えて言うなら父親の権威ではなく、母親の権威を目標とする国家では、と考える。しかし、それは容易な事ではない、母と子の信頼は言葉を必要としない真実の信頼関係だからである。そのような信頼を諸外国からも得ること、支持される事を目標とする先進国家であること、それを世界の国々から理解されることではないだろうか。 だからこそ、国政を預かる日本の総理大臣、国務大臣が歴史上の判断を曖昧にするような、日本の伝統的道徳観を汚してまで、外国の感情を逆なでにするような靖国神社の公式参拝をすべきでないのである。 それは日本の恥であり、将来決して拭い去れない政治的汚点を残す事になるだろう。日本国民は戦後の自信喪失、後ろめたさを拭いきらないまま歴史が逆回転するのでは危惧するのである。 せめて、この点だけは、他の国からも日本の国民からも納得され信頼される、はっきりとした発言・行動をして欲しいと願うのである。
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