与太郎文庫
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2003年06月01日(日)  同年月日生れ

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030601
 
 同年月日生れ             田山 力哉
 
 熊井啓の生れは昭和五年六月一日の長野県安曇郡豊科町。フランスの
トーキー第一作「巴里の屋根の下」と同じ年にこの世に生れ出たわけで
ある。と、カッコよい表現をするのは、私は彼と全く同じ生年月日に生
れているからである。熊井との交友といえばやはり酒の追憶が多く、一
時はよく飲み本格的な酒乱だったことは、映画界ではあまりにも有名で
ある。私ともよく口論したり、つかみ合いをやったりしたが、あのなに
かモノにつかれたような酒の飲み方は、執念の固まりのような凄ささえ
あり、彼自身にいわせれば、信州人特有の粘っこい熱意というものがあ
るそうだ。飲む時も徹底していたが、病気で血を吐いてからというもの、
今では一滴も飲まず、それはそれで徹底しているのである(略)。その
後、彼は胸をやられ、入院したが、会社との関係をつなぐために多くの
シナリオを書いた。「邪魔者は消せ」「霧笛が俺を呼んでいる」「銀座
の恋の物語」など十数本あったが、やがて病気も回復し、39年に第一回
監督作品「帝銀事件・死刑囚」を撮った。この映画はガッチリとした事
実の再現のなかに、平沢貞通がはっきりと無罪であるという結論を導き
出していた。よくもこれだけ調査できたと思うほど、帝銀の事件にまつ
わる事実が調べ抜かれていたが、これも熊井の執念の発露であろう。
 第一作が異色で注目を浴び、興行成績も悪くなかったので、熊井は今
度は吉原公一郎の原作により同じく政治実録的な作品「日本列島」を発
表した(略)。この二作の後、熊井は石原プロに出向し、第四ダム建設
にまつわる話をスペクタル風に描く「黒部の太陽」を撮った。これは大
ヒットしたが、これまで政治の裏面を批判する映画を作っていた熊井が、
今度は企業のスポンサー映画を撮ったというので、大分悪口も言われた。
しかもこれは当時の五社協定にひっかかり、熊井は日活をやめざるを得
なくなった(略)。私生活は荒れに荒れ、酔態ぶりは凄く、飲むと直ぐ
に目をギラギラさせて、片っ端から人にからむというような夜々がつづ
いた(略)。
 こうして出来あがった「忍ぶ川」で、栗原小巻と加藤剛に演じさせた
初夜のヌードのラブ・シーンは美しく、この作品は非常に高い評価を受
けた。その後、ぷっつりと酒もやめ、健康を取り戻した熊井は、からゆ
きさんをドラマチックに描く「サンダカン八番館」などで評判も良かっ
たが、加藤剛とフランス女優クロード・ジャドを組ませた日仏男女の恋
愛ドラマ「北の岬」は興行的にも失敗、それ以後しばらく彼の作品は見
られない。一作の失敗が大きくあとにたたるご時世だが、持ち前の執念
で彼は53年に「お吟さま」を撮った。
―― 猪俣 勝人&田山 力哉《日本映画作家全史・下 19780630 現代教養文庫》P000 社会思想社
 
■Let'19871026 for 《BirthDays 366 1986 Awa Library》
 
 御労作(改訂第四版)お送り頂き有難うございます。文庫本が少しで
もお役に立てたとすれば光栄で、亡き猪俣も生前ならば、きっと興味を
もったことと、残念です。
 唯一つ、猪俣も小生も誕生日の所に名前を入れて頂けず、甚だ無念に
耐えません。私は熊井啓と同年月日生れで、それで彼といつも張り合っ
ていただけに、彼がもしあれを見て“オレだけ出てる”と快哉を叫んだ
りすると、小生の立場は如何になるや?! もっとも知名度不足の我々
がいけないのだとあきらめてはいますが、どうか半分冗談とお受けとり
下さい。取り敢えず、御礼まで。     田山 力哉
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 猪俣 勝人 映画評論 19110627 東京   19790807 68 /田山 力哉の叔父
 田山 力哉 映画評論 19300601 兵庫 横浜 19970323 66 /
 熊井 啓  映画監督 19300601 長野 東京 20070523 76 /

 
■松本サリン事件と私          熊井 啓         
 
 平成6年(1994年)6月27日の深夜、松本市城北の閑静な住宅街で、
死亡者7名、重軽症者586名という有毒ガス中毒死事件が起こった。い
わゆる「松本サリン事件」である。そのことを報道で知って、私は次の
2つの理由から、第一通報者の河野義行氏が犯人でないことを直感した。
 一つ。実は、私は子供の頃に河野氏の家の近所に住んでいた。河野家
の先々代である河野齢蔵先生は、長野県ではよく知られた教育者であり、
博物学の権威であった。私の母は大正3年(1914年)に東京女子高等師
範学校を卒業し長野高等女学院に奉職したが、河野先生はその時の校長
で、大変お世話になった。それで私は河野先生のお宅(現在の河野家)
に時々お使いに行き、その家風にも接していた。また、友人に河野義行
氏のお人柄を聞くと、誠実な方だし、お子さんも素直な性格で、とても
犯罪に関係しているとは思えないと断言した。
 二つ。犯行は、きわめて専門的な知識を必要とすると考えられた。そ
れは「帝銀事件」を連想させた。昭和23年(1948年)1月、豊島区の帝
国銀行椎名町支店に犯人が現れ、行員たち16名に毒薬を飲ませ、金を奪
って遁走した事件で、世界中に報道された。
 その凶器の毒薬は、逮捕された平沢貞道画伯のような「素人」には絶
対につくれないものだ。これは旧陸軍の第9技術研究所のエリート将校
たちが、謀略機関が用いる毒薬兵器として発明した、アセトン・シアン
・ヒドリンと推定されている。
 「松本サリン事件」で、警察は「素人」の河野氏を犯人と見込んで自
宅を強制捜査し、自白を強要した。平沢画伯を犯人に仕立てるためにと
ったやり方と、そっくりである。
 私は第1回作品『帝銀事件・死刑囚』(64・日活)を松本で上映した
い衝動にかられた。それは実現しなかったが、「松本サリン事件」は他
人ごとではない、という思いは消えなかった。『日本の黒い夏−冤罪−』
を作ろうと思った動機は、以上のように、私の身近なところにあったの
である。 ── 《監督 あいさつ》
http://www2k.biglobe.ne.jp/~ndskohno/kumai.html
 


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