与太郎文庫
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2003年06月02日(月)  兄弟墓碑

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030602
 
■2003/06/02 (月) 兄弟墓碑(1)命日異説
 
 光琳・乾山忌(2日)京都市上京区の泉妙院で営まれる、江戸時代の
画家尾形光琳と陶工尾形乾山兄弟の法要。
光琳は享保元年(1716)4月6日、乾山は寛保3年(1743)6月2日に没した。
―― 《夏の暦》
―― http://tankosha.topica.ne.jp/special/special97/97summer/calender6.html
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 尾形 光琳 (万治1〜享保1/0406) 1658 京都 江戸 17160526/58(異説)
 尾形 光琳 (万治1〜享保1/0602) 1658 京都 江戸 17160720/58
 尾形 乾山 (寛文3〜寛保3/0602) 1663 京都 江戸 17430722/81

 
 光琳(一族)の墓
 泉妙院(寺之内通新町西入 妙顕寺前町)
 室町小学校の北側の寺之内通を西に行くとまもなく妙顕寺の山門の前
につきます。この山門のすぐ右手の泉妙院の中に尾形光琳の墓はありま
す。妙見寺の「東隣の塔頭泉妙院には,尾形光琳の墓があります。
 光琳(1659−1716)は中立売智恵光院付近の呉服商雁金屋の
子として生まれ,本阿弥光悦や俵屋宗達の画風を学び,琳派といういか
にもこの時代にふさわしい流派を作り上げました。
「長江軒青々光琳墓」と彫られた墓石は,百回忌の文政2年(1819
年)に酒井抱一が建てたもので,近年,寺内の総墓地から移された弟乾
山ら光琳一族の墓石と並んでいます。」
 上京文化振興会発行「上京区の史蹟百選」から転載。(転載承認済)
(写真:平成13年7月13日撮影 )
―― 《室町学区の史蹟案内》
―― http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/muromachi-s/siseki/ogata-kourin.htm

 尾形光琳宅祉
 江戸時代中期の画家で琳派と称される装飾的画派の祖、陶工の乾山は
弟。曾祖母は本阿弥光悦の姉で光悦の影響を多く受けている。
―― 《相国寺 [しょうこくじ] 臨済宗相国寺派の大本山》
―― http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3336/co-syokoku.htm
 
■2003/06/02 (月) 兄弟墓碑(2)
 
 尾形乾山墓碑(乾山深省蹟)
 琳派の創始者、尾形光琳の弟である。寛文三年(1662年)京都の
呉服商・かりがね雁金屋の三男として生まれた。京焼史上最高の名人、
野々村仁清に学んだ後、三十七歳の時、京の乾(北西)にあたる鳴滝に
窯を開き、乾山と号した。深省の別号がある。
 画業のほか、書.茶をよくし、特に作陶は有名で、輪王寺宮公寛法親
王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼
ばれた。また、輪王寺宮の命によって京の鶯をこの辺に多く放って根岸
名物にしたのも乾山という。光琳の画風を慕う酒井抱一によって、文政
六年、顕彰碑が建てられた。入谷交差点の一隅に「入谷乾山窯元碑」が
ある。
―― 《寛永寺と徳川将軍家墓》
―― http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/meisyo/kanneiji.html
 
 乾山の碑
 尾形乾山は寛文3年(1663)に、京都の呉服商、雁金屋(かりがねや)
の当主尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として出生。幼名は権平(ご
んぺい)、上兄市之丞(いちのじょう)は光琳(こうりん)と号し、琳
派として有名です。観山(*)は陶芸家として、鳴滝と二条で乾山窯を
起こし一時代を築きました。享保16年(1731)、69歳の乾山は突然江戸
へ下り。寛保3年(1743)の夏、江戸で81歳の生涯を閉じます。
―― 《上野寛永寺の碑》
―― http://www.ac.wakwak.com/~dentan/ueno/kaneiji/kaneiji2.html

 乾山の墓
 善養寺(江戸三大えんま)
―― www.shinkin.co.jp/oshin/trip/spot/zenyouji.htm
 
■2003/06/02 (月) 兄弟墓碑(3)
 
 乾山窯跡

 京の商家に生まれ親の遺産で隠棲(いんせい)していた乾山が、鳴滝
に窯を築いたのは37歳の時。京の乾(いぬい=北西)にあることから
「乾山」と名付けたが、交通の不便さから13年後、洛中に拠点を移す。
「人里を離れ陶芸を楽しんでいたが資金が尽き、街中で不本意な焼き物
商売を始めた」。伝世品の変遷からこれまで描かれたのは、こんな乾山
像だった。
 1978年夏。鳴滝の法蔵寺を、日本美術に魅せられ留学中の米国人青年
が訪れた。昭和初期、乾山焼の破片が大量に出土し、乾山の窯跡と目さ
れた場所だ。住職は境内で拾い集めた陶片を披露した。「個人が生み出
す多彩な形、絵柄、技法。ハイレベルなのにリラックスした表現。現代
の目で見てもモダンだった」。リチャード・ウィルソン国際基督教大教
授は、初めて乾山焼を手にした若き日の驚きを振り返る。
 この日から教授は世界中の乾山焼を追い始めた。模作や偽作、東京の
大名屋敷跡などで出土した破片も含め、約6000点のデータベースを構築。
乾山焼を初めて考古学的に分析した成果は、乾山研究に新風を吹き込ん
だ。
 教授の積年の願いは、本格的に鳴滝窯跡を掘ることだった。霊園造成
により、一時は発掘はもう不可能と思われたが、4年前に赴任した西川
秀敏住職が教授らと知り合って、本格調査を決意。一昨年、木立雅朗・
立命館大助教授を中心に調査団が結成された。
 墓のすき間を縫って掘ると、窯壁や窯道具、陶器の未成品が次々に見
つかった。「近辺に窯があったのは確実」(木立助教授)。出土した陶
片は1万点を超す。乾山銘入りのもの、中国や朝鮮、ベトナム、オラン
ダなどの陶磁を模したもの。鉄釉(てつゆう)の香炉など、初確認の作
風もある。
 ようやく最近、京都市内から仁清焼や乾山焼の陶片出土や、乾山の養
子、猪八(2代乾山)の工房の痕跡発見などが報告されるようになって
きた。「乾山、京焼ともに研究者の意識改革が始まっている」。鳴滝が
その出発点だと、ウィルソン教授は考えている。
――  竹内 義治《温故知新 20020606 日経ネット関西版》大阪社会部
―― http://www.nikkei.co.jp/kansai/onko/6633.html#begin


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