与太郎文庫
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1958年10月21日(火)  シンコペーション 〜 決裂と和解 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19581021
 
 いまも幻の甲子園にむけて“ブラバン”の応援は欠かせない。
(当時テレビの普及率は、同志社では90%に達していたようだ)
 この日、川上哲治一塁手も引退。矢守邸で(楠原大八と)観戦する。
 
 ピッチャーがキャッチャーに「二塁へ投げてみろ」と合図する。先に
指で捕球したのを心配しているのだ。捕手も投手を労わって、自分の手
で丹念にボールをこね、もみほぐしてから返球する。
 
 目が細くて、何を考えているのか分らないような男が、かくも繊細な
気配りを最小限の身ぶりで伝えるのは、まことに粋である。
 このような石本秀一の解説によって、与太郎は野球開眼する。
 


 石本 秀一  解説 18961101 広島   19821110 85 /広島監督“カープの父”プロアマ歴任
 川上 哲治 内野手 19200323 熊本 東京 20131028 93 /巨人監督“赤バット”“打撃の神様”
 稲尾 和久  投手 19370610 大分 福岡 20071113 70 /西鉄監督“神さま、仏さま、稲尾さま”

 
 その翌日は、さすがに器楽部室からの騒音がやんだ。
 めずらしく彼らが楽器をおいて、口々に意見を述べあったのである。
 いまだかつて、これほど仲のよい集団を見た者はいないだろう。
 
 昼休みはもちろん、わずかな休み時間でさえも、メンバーのほとんど
が部室をめがけて馳せつける。そうして思い思いの練習をはじめるので、
ひとしきり奇妙な騒音が校内にひびきわたった。
 
 オーケストラの新入生は、はじめて楽器を手にする者がほとんどで、
それぞれ嬉々として取りくんだ。ただし彼らの上達は遅々たるもので、
しばしば“ゴリ”の神経を逆なですることになった。
 
 なにしろ“ゴリ”はトロンボーンを始めるにあたって、肺活量の鍛錬
“潜水泳法”を開発したほどの“コリ性”だから、一部の新入生が面白
半分に練習しているように見えたらしい。
 
「あいつら、演奏会には出さん」と言いはじめた。
 ついに文化祭を目前に、与太郎と決裂する事態に発展したのである。
 与太郎も、覚悟をきめて云いかえした。
 
「それを言うと、どっちかが辞めなあかんぞ」
「ほなら、オレが辞めたらええんやろ」
 こうして“ゴリ”は、憤然としてオーケストラを去った。
 
 十八歳と十九歳の少年の舌戦にしては、いささか純度が低い。
 与太郎の俊敏な反応は、かくなる事態を予見していたともみえる。
 のちに“ゴリ”を瞬間湯沸器と揶揄したほどだ。
 
 その場で“ゴリ”を追放しても、与太郎がオーケストラを失うことは
できない。のちのち与太郎が「俺のほうが正論やった」と弁解すると、
老人になった“ゴリ”も「そんなことは当たりまえや」と応じたものだ。
 
 たちまち与太郎は、みんなに説明せざるを得なかった。
「意見が合わないので、ゴリはしばらく練習を休むことになった。君ら
は、心配せずに今までどおり励んでもらいたい」
 
 第二クラリネットの堀 悦夫 君が、遠慮がちに質問した。
「ぼくらは、ゴリさんにどういう態度をとったらええんですか」
「ゴリは、君らの先輩や。いままでどおり先輩や」
 
 遠くはなれた方角から、ひとり練習するゴリが、トロンボーンの名曲
《僕はセンチになったよ》を吹いていると、鹿の遠音のように聞える。
 オーケストラの音もゴリの耳に届いているだろう。
 
 ふたりの創始者を仲直りさせることは、誰にとっても困難だった。
 そこで、トロンボーンの先輩・森本 理 君が気をくばって、栄光館の
同志社EVE音楽祭前日のリハーサルに“ゴリ”をつれて来てくれた。
 
 彼こそは、かつて吹奏楽“中興の祖”と伝えられる故・森本芳雄先生
の次男(潔君の兄)であり、いまも与太郎は畏敬の念を抱いている。
(こういう配慮ができる人には、生涯に数人しかめぐり会えないのだ)

 しかるに“ゴリ”はステージに登ったものの、与太郎とは口を利かず
じまいだった。二人の対立を象徴するかのように、当日の曲目、ビゼー
《カルメン前奏曲》は、絶望的なシンコペーション(切分音)で終る。
 
 ゴリは先に高校を卒業し、キャバレーでトロンボーンを吹いていた。
 かたわら音楽大学受験のため、有賀誠一の姉のゆり先生のもとに通う。
 ピアノが買えないので、もっぱら紙の鍵盤で練習したそうだ。
 
 いつのまにか、ゴリは同じ方角にある予備校に乗り換えたらしい。
 昨年の秋から、ひとことも口を利いていなかった浪人生と落第生は、
卒業してからも、なかなか和解のチャンスは訪れなかった。
 
 いま思うに、あのときが和解するための、唯一の瞬間だったのだ。
 与太郎が乗っている電車のドアから、ゴリが現われたのである。
 ゴリは一瞬まよったが、意を決して与太郎に話しかけた。
 
「おまえ、音大進学あきらめたそうやな」
「うん」
「おれも、音大進学やめて、ふつうの大学に入りなおすつもりや」
 
 たちまち二人は和解し、日を置かず、ゴリは与太郎の家にやって来た。
 与太郎は、東京芸大・金沢美大・京都美大(のち芸大)の入試問題を
取りよせていたので、ゴリに診てもらった。
 
 ゴリは、与太郎の学力を即断して「なかなか難航するな」と云った。
 あいかわらず(ゴリらしい)辛辣な表現だが、図星にちがいない。
(同じ頃、美大受験をしくじって浪人中の平井文人など数人あらわれる)
 
 翌年、それぞれ大阪市大と武蔵野美校に進み、高校入学式では、ゴリ
の編曲による《あおぞら》《真珠採り》《その他》が演奏された。
 夏には演奏旅行を企て、この件は《あまちゅ・かっぽれ》に別記。
 
 上手なアマ楽団は下手なプロ楽団とおなじく、つまらない。
 これでもか、というくらい下手なアマ楽団こそが、プロ楽団にまさる
というのが、与太郎の賛歌《あまちゅあ・かっぽれ》である。
(20060123-0129)
 
 ◆ 
 
 尺八二重奏曲《鹿の遠音》は、雌雄の鹿が相聞歌を交わすさまを描く。
http://www.h5.dion.ne.jp/~nawate/syakuhati%20oto.htm
 ♪ここでは、心ならずも決別した両者の心情を比喩した(双竜外伝)。
 
 syncopation
 リハーサルで、ゴリはわざとシンコペーションを一拍おくらせた。
 ビゼーの切分音については未完、両者の進路とともに別記する。
 
 ゴリが高校一年の水泳大会でぶっちぎり優勝した“潜水泳法”を指す。
“潜水唱法”は、ビング・クロスビーよりうまくなるため、フランク・
シナトラが開発したという。
 
19600410 与太郎はヴァイオリンで参加し、《白鳥の湖》は、ところ
どころ第一第二ヴァイオリンを同時に(ダブルストップで)演奏した。
(若林君の書簡による。カザルスとの対話に言及あり)
 
Tel'20051121 12:30-13:10 from Mr.Yoshida,Hajime
Let'20051121 to Mr.Yoshida,Hajime
 他に《双龍正伝&双竜外伝》同封。
 

 仰木 彬 プロ野球 19350429 福岡 20051215 70/
1959西鉄二塁手1993-20010928オリックス監督“仰木マジック”
19580407北九州市民球場(当時は小倉球場)の第1号本塁打
を阪急ブレーブス・梶本隆夫から放つ。

 
(↓)NPBマーク画像(他に数種あり)→沖縄サミット
http://www.npb.or.jp/
 
(20051006-20060610 Upload)


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