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■ (日記) 人間の証明はやっぱ、泣けた
ドラマ【人間の証明】の最終回を、やっと昨日観る事が出来た。 やはり期待通り、あのドラマの最終回は私を大いに泣かせてくれた。 あれほど冷ややかで、愛情を押し殺し、感情を押し殺し、自分の生活と名誉を守るためだけに生きて来た郡恭子が、最後の最後で落ちた瞬間、アタシの涙も落ち、大泣きした。
映画もそうだったけど・・・、ジョニーヘイワードは、言わば自殺だ。 母に会うことだけを夢見て、はるばるやってきた日本で、仮にも母親に刺された事で、自分が母に必要とされて無い事を知り、再会を望まれていない事を知り、母にとって邪魔な存在だという事を知り、それに深く傷付き、失望し、絶望し、母の持つナイフに自ら飛び込んで死ぬ・・・・・・。 しかし、ジョーニーは自分の所持品を全て捨て去り、そんな冷酷な母親を庇う・・・・・・。自分の身元が割れないように・・・・・・。 あんなに酷い事をされながらも、必死で母を庇う・・・・・・。 このシーンに、このドラマの一番の悲しさと遣り切れなさが溢れている。
そして恭子も殺そうとはしたが、やはり我が子。躊躇ったのだ・・・。 致命傷を負わせるまでには至らず、ホンの2センチ程しか刺せなかったのだ・・・・・・。 やはり、母親の意識、人間の意識を捨て切れなかった。
結局は誰も芯からの悪人は居ない・・・・・・。いちゃいけない。 そんな事を言いたかった物語では無いだろうか。
恭子とて、あんな生き方になってしまったのには、過去に暗く大きな深い悲しみと絶望的な出来事があったからなのだ・・・。その子供である翔平も、富はあっても母親の愛を受けてはいない、哀れな子供なのだ・・・。
このドラマは、罪を犯すに至る理由、其々にそれなりの大きな要因を持っていると言う事が、せめてもの救いになっている。
この物語は映画、ドラマとも、人間の証明とは何か? と言う事を投げかけていると思う。そしてアタシが思うに、その証明は【心】なのだ。 愛を持った心・・・・・・。 その愛を持った心さえ、時に捨てざるを得ない宿命が、人を獣にしてしまう・・・・・・。
深い絶望や傷を背負った人間は、それなりの行き方をする。人知れぬ恨みや苦しみを背負いながら生きて行く。そして、そんな意識が血筋として受け継がれて行く・・・・・・。それを人間としての理性や愛や真心だけで前向きな意識に変えて行くのは、並大抵の事では無いだろう・・・・・・。 でも、人間として生まれた以上、やはり、どんな思いがあっても罪を犯してはならない。 善悪の狭間の中で、葛藤する心だけは失ってはいけない。 それが最低限の人間の証明のはずなのに、今の時代は、時代毎に人間としての証を忘れかけているような気がする・・・・・・。
日常茶飯事に起きる、子殺し、母殺し、無差別殺人、無差別テロ、・・・・・・。 殺さなければならないほどの理由など無い殺人がいとも簡単に多発している。
何に対して、そこまでになってしまっているのだろうか・・・・・・。 余りにも、虚しいじゃないか・・・・・・。
そんなイロイロな事を考えさせられる良いドラマだった。 こう言う質のよいドラマ、もっと沢山作ってほしい。
2004年09月12日(日)
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