|
|
■■■
■■
■ 【ショート小説】 水曜日の客
水曜日の客【真夜中のダニーボーイ】 それは初秋に入った物静かな夜の事であった。 その珍客がJAZZBAR『淋しがり屋』のドアを開けたのは、もう、午前一時を廻っていた。 通常、営業時間は二時までだが、十二時近くで客が途切れ、それ以来誰も入っては来ず、そろそろ早仕舞をして、うどんでも食べに行こうかと、アルバイトの恵美と話していた所である。 私は咄嗟に、(どうしよう?)と、恵美の顔色を窺ったが、恵美は無言で、こくん、と頷いた。 暗黙の了解で、「私なら、まだ大丈夫よ」と言う意味である。 「あの・・・、後、一時間程で閉店なんですけれど、それでも構いませんでしょうか?」 私は入り口に目を凝らしながら、そう声を掛けた。 入り口のネオン管も、もう消しており、灯りを半分に落とした店内は、間接照明だけで、薄暗い。 ドアから入ってきたのは、魔女を思わせるような黒ずくめの服を纏った、もう五十は過ぎていると思われる、老女だった。 ビルとビルとの、奥まった場所に位置するこの店に、フリー客が来る事は滅多に無く、ましてや、この時間帯に、年配の女性が一人で飲みに来るなどと言う事は、皆無に等しい。 「あぁ・・・、いいのよ、一杯飲んだらさっさと帰るからさぁ、お願いよ! チョットだけ飲ませて頂戴なー」 ドアにもた凭れ掛るように佇み、女はこ媚びるような笑みを浮かべ、そう言った。 もう、既に大分酔っているらしく、女の足取りは幾分ふらつき、体が前後に揺れている。 もう一度、私は恵美の顔色を窺った。 「断る・・・か?」 そう言おうとした時だった。 「いらっしゃいませ、さぁさ、こちらへどうぞ。カウンターでよろしいですよね? 一杯などと言わず、いーっぱい、お飲みになってください〜」 恵美が照明を戻しながら、快活なジョークを交え、その女を受け入れる。 「あっ、灯りはそのままにしておいて。暗い方が好きなのよ・・・・・・」 女はまだ、入り口に佇んだまま、手で顔を覆い、眩しそうに目を瞬いた。 最近、暇な日が続き、私の懐具合を解っている恵美は、それを考慮してか、一人でも多くの客を入れようと、必死である。まだ二四才の若さなのに、中々のしっかり物である。 私は苦笑すると、「悪い! 恵美。うどんはこの次ね!」 と、小声で囁いた。 「アンタ、若いのに、中々話せるじゃない?」 しわがれた声の女は、恵美にウインクをしながら、ゆっくりと店内に入って来た。 「えーと、何をお飲みになりますか?」 お絞りを差し出しながら、私はもう一度、さりげなくその女を盗み見た。 痩せてはいるが、スタイルは悪くない。むしろ、年齢から言えば、整っている方だろう。 長い髪を一足で縛り、やたら化粧が濃く、唇には真っ赤な口紅が塗られている。アイラインが太く引かれた下まぶたの淵に、所々マスカラが滲んでいて、まるで泣いた後のようだ。 大きなショルダーバッグから、ラメ入りのロングショールがはみ出ている。 黒いニットのアンサンブルスーツには、数箇所、薄い染み汚れが付いている。その丸くくびれた胸元には、煌びやかな金色のネックレスが三連。 右の手首には、金色のブレスレットが2本。 そして、左手の中指には、いかにもイミテーションらしい大粒の真珠と、これもイミテーションに違いないと思われる、大きなルビーのファッションリングが薬指に填められている。 右手の薬指には、これだけは本物らしいと思われる銀色の色褪せた指輪が、場違いなように鈍い光を放っている。 (この、ド派手な女。一体何者かしら?) 私は、妙な好奇心が沸いて来た。 女は、うなだれた顎をやっとのことで支えるように、カウンターに肩肘を付いている。 「あの・・・、お飲み物は何にいたしましょう?」 私はもう一度、ゆっくりと聴いた。 「え? あ、あぁ・・、ご免なさい・・・・・・」 女は我に返ったように呟くと、 「まさか、ここはペルノーなんて酒、置いてないわよね?」 と、試すように聞いた。 (へぇ〜、ペルノーだって・・・、驚いた・・・・・・) 私は、その女に益々、興味をそそられた。 ペルノーとは、アブサンを改良したもので、香りに独特な癖の有る、とても強い酒である。滅多やたらな人が飲むような酒ではないのだ。 「ペルノーですか? ウフフ・・・、それが、あるんですよー。私が大好きなものですから・・・・・・。でも、大丈夫ですか? もう、かなり飲まれているようですが?」 私が気遣ってそう聞くと、女は薄笑いを浮かべながら首を横に振った。 「冗談でしょう? 馬鹿言わないで頂戴。まだまだ酔っちゃなんかいないわよ。それにしても、益々話せるネェ〜、この店は・・・・・・」 女は店内を見回しながら大声をあげて笑った。 私は思わず江美と顔を見合わせ、苦笑した。 「じゃぁ、それをソーダで割って頂戴。あぁ、そうそう、氷はなるべく細かく砕いて」 「はい。かしこまりました」 女はバッグからキャメルを取り出すと、それを真っ赤な唇に咥えた。 江美が慌ててマッチを探している。 女は、煙草を咥えながら、そんな江美を、可笑しそうに眺めている。 ようやくマッチに灯が点り、江美がおずおずと、女に差し出すと、女は鼻で笑いながら、煙を深く吸い込んだ。 「待たされた分、美味しいわ」 「申し訳ありません・・・・・・」 江美が救いを求めるような顔で私を見ている。
ペルノーのソーダ割を女に差し出すと、女はそれを一気に半分ほど飲み干した。 「あぁ、美味しいわ・・・」 そう呟き、初めて柔らかい笑顔を向けた。 「ねぇ、アンタ達。そんな・・・、穴が空くほど、人の顔ジロジロ眺めてないでさ、アンタ達も何かお飲みよ。今日は私の退職記念日なんだからさ・・・、一緒に祝って頂戴な。さぁ、さぁ、どうぞ、どうぞ、飲んで、飲んで?」 女は、刺の無い声でそう言い、私たちに手の平を差し出した。 思わず私と恵美は、顔を赤くして俯いた。 「ごめんなさい・・・。こんな時間に女性客が一人でお見えになるなんて、珍しいものですから、つい・・・」 私の言い訳に、恵美がかぶせて言う。 「退職記念日って・・・、お客様は、何処かのお店のママさんですか?」 女は、フッと微笑むと、 「ハズレ―。ねぇ? アンタ達、私って一体、何に見える?」 女は、悪戯っぽい視線を向け、ニタニタしている。 「う〜ん・・・・・・」 私達は、必死で想像を巡らせた。でも、水商売ではないと解ると、とても、想像が付かない。 「考えるのはあとでいいからさぁ、早く早く、自分たちの飲み物をお作りよ!」 女がじれたように言う。 「では、お言葉に甘えて、一杯ずつ頂きます」 「一杯といわず、いーっぱいお飲みよ。あははははは」 恵美の口調を真似る女に、私たちの警戒心がスッと和らぎ、私達は思わず吹き出した。 私は女と同じ飲み物を二つ作ると、一つを恵美に渡し、三人でグラスを合わせた。 「では、頂きます。乾杯」 「うわーっ! 強いっ!」 恵美が思わず、顔をしかめながら、すっとんきょうな歓声を上げる。 女はそれを見ると、いかにも可笑しそうに、ケラケラと笑った。 「アタシさぁ・・・、三十五年もやってた仕事、今日で首になっちゃってさ・・・、フン、そりゃ〜そうよね。もう、五十六だもの・・・・・・。無理も無いけどさ! あんちくしょうったら『長い間おつかれ様でした。楽しい老後をお過ごしください〜』だなんて言いやがった!」 女は問わず語りで、ポツポツと語り始めた。 「・・・・・・」 私も恵美も、黙って聴いていた。 「ねぇ・・・、もう一杯頂戴!」 女は、ロレツの廻らない口調でそう言うと、空のグラスをカチャカチャと、振って見せた。 何か、得体の知れない哀しみを抱えていそうなその女に、私は段々、言い知れぬ親しみを感じていた。 「ええ、どうぞどうぞ・・・、何杯でもどうぞ? もう、看板も消しましたし、他のお客が入って来ないように、鍵も掛けちゃいますから、貸切りのつもりで、ごゆっくり心行くまでお飲みになってくださいな」 そう言うと、私はさっきよりも濃い目に作った二杯目を、そっと女に差し出した。 「アンタ、優しいのね・・・・・・」 女は、鼻をすすると、グラスに口をつけた。 「あぁ、アンタ達も、遠慮しないで、沢山飲んで頂戴。私の奢りよ! 心配なんかいらないよ、お金なら一杯有るんだから・・・・・・」 今日は、この珍客に徹底的に付き合おう。そう思った私は、恵美を気遣ってそっと耳打ちした。 「もしなんなら、先にあがっていいわよ?」 恵美は、暫く考えていたが、 「ううん、私もまだ、ここに居てみたいです」 と、そっと舌を出した。 「お客様のお仕事って、一体何なんですか?」 私のその問いに、女は答えてはくれず、 「ご想像にお任せするわ」 と、はぐらかされてしまった。 (きっと、話したくない事情があるのかもしれない・・・・・・。) そう感じた私は、さり気なく話題を変えた。 「綺麗なアクセサリーを、沢山お持ちなんですね?」 「あぁ・・・、これ達?」 指輪や、ネックレスを愛しそうに撫でると、遠い眼をしながら女は言った。 「そう・・・、みぃ〜んな、みぃ〜んな、男からのプレゼント・・・・・・」 (偽物なのに・・・・・・?) 私は、俯きながらも、必死で笑いを堪えていた。 「これはね? 某会社の社長さんから貰ったルビーで、周りのダイヤだけでも1・5キャラットもあるんだって言ってたわ・・・、それから、これはね? 十五も年下の大学生が、貯金を叩いて買ってくれた真珠よ。そして、これはね・・・・・・」 女は、夢見るような顔付きで、その、一つ一つの想い出を外すと、自慢げに、カウンターに並べて見せた。 「ウフフ・・・、大勢の男たちが、私に夢中だったわ・・・、でも、もう、遠い昔の事よ・・・・・・」 女は自嘲するように笑った。 カウンターに並べられたアクセサリーを、一つ一つ手に取って見ると、驚いた事に、全てが本物だったのだ。 しかし、私が唯一、本物だと思った銀の貧弱な指輪だけは、とうとう、女の指から外される事は無かった。 女の話は、暫くの間、いかに男たちに持て囃されて来たか・・・という自慢話に始終し、やがて話疲れたのか、女はカウンターに突っ伏してしまった。 その女を見守りながら、恵美も私も、無言で飲み続けた。 暫くすると有線から女性ボーカルが歌う『ダニーボーイ』が流れて来た。 ふと、女が顔を上げ、「もっと、ボリュームを上げて頂戴! この曲は私の一番好きな曲なんだよ!」 と、叫ぶように言った。 恵美は、はじかれたように、ボリュームを上げる。 すると女は、ショールを手にスッと席を立ち、ホールに向かうと身体を左右に振りながら、踊り始めたではないか・・・・・・。 「よーく見ててよ! これが私の最後のステージ舞台なんだからね」 あれほど酔っていた女が、背筋をシャンと伸ばし、狭いホールを使って、華麗に舞っている。そして、何と、女は一枚一枚、服を脱ぎ始めるではないか・・・・・・。 恵美も、私も、息を呑んだ。 店の薄明りに照らされた女は、所々、年齢を感じさせはするものの、その姿は艶やかで美しかった。 やがてとうとう、女はショール一枚になったのだ。 嫌らしさは、みじん微塵も感じられない。 むしろ、その女の踊りには、服とともに人生を脱ぎ捨てた、小気味良ささえ感じられる。 私は、思わず泣いていた。 溢れる泪を拭う事も忘れ、泣いていた。 なにかとてつもなく哀しくて、とてつもなく愛しかった。
やがて、曲が終わると、女は脱ぎ捨てた服を淋しげに身に纏った。 「これが私の仕事だったのよ・・・・・・」 そして、フッと哀しそうに微笑んだ。 「今日は、アンタたちに、優しくしてもらったから、特別の大サービスだよ!」 私は暫くの間、泣き止めなかった。 「さぁ・・・、幾ら? そろそろ帰るわ」 女の声は、再び、ロレツの廻らない口調に戻っていた。 「あ・・、あの・・、とんでもない。御代など結構です。何か、物凄く感動させたれてしまって・・・・、今日は私の奢りです」 私は、指先でそっと涙を拭いなが言った。 女はふいに苦笑をすると、財布から一万円札を三枚抜き取り、拒絶する私の手に、しっかりと、それを握らせた。 「アンタ、商売が下手過ぎるわよ。こんな事じゃ全然儲からないでしょうに・・・・・・」 「あ・・・、でも、こんなに頂いては・・・・・・」 躊躇する私に、女は優しく微笑んだ。 「楽しかったよ、又来るからさ! 今度来る時はきっと、ど貧乏になってるだろうからさ、そん時ゃ、アンタに奢ってもらうよ。あはははは・・・・・・」 女がドアを開けようとしたその時、私は思わず女の後姿に声を掛けていた。 「お客様? 一つだけ教えてください。その指輪は・・・、右手の薬指の・・・、最後まで外さなかった銀の指輪は、ご主人のプレゼントですか?」 女は少し間を置くと、聖母のように優しく微笑んだ。 「いえいえ、三十年前に、出て行っちまった息子から、最後の母の日に貰った物さ。ウフフッ・・・。イミテーションなんだけどね・・・・・・」 女はそう言うと、後ろ手に手を振りながら、ドアの外に出て行った。
2002年05月18日(土)
|
|
|