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人物紹介


錯覚
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引越しを機に、9月いっぱいで私はバイトを辞めました。
場所は通学途中の駅だったのですが、前よりも遠くなった為、帰宅時間が遅くなると親にバレてしまうという理由もありました。
が、それよりも店長の嫌味な態度に耐えられなかったという理由が大きかったように思います。

K先輩と朝デートの時に店長を話をすると、

「あの店長、俺のことジロジロ見てた」

と言われました。
やっぱり、そうだったんだ。
私が気に入らないならそれでもいいけど、K先輩にまで嫌な思いをさせた事を知り、ますます店長に対する嫌悪感がつのりました。

そのバイト先にいた唯一の男性であるAさんに、辞める少し前の雨の日。
家の近くまで車で送ってもらいました。
引っ越した先が、Aさんの家への途中の道だったのです。
それが、私が男性の車に乗った初めての経験でした。

Aさんは、私よりも4-5歳年上だったと思います。
一つしか違わない高3のK先輩でさえ、その頃の私にとっては大人に見えていたぐらいなので、大学生で20代のAさんはもっともっと上の存在に感じていました。
ちょっとした仕草に大人だなぁと感じ、タバコを吸う横顔にドキっとする事もありました。
Aさんの事は、ただ優しいお兄さん的な好意をもっていただけで、恋愛感情はありませんでした。
でも、Aさんの車に乗るときになると、緊張の度合いが高まりすぎ、単にドアを開け、シートに座るという動作を意識しすぎていました。
別に見られている訳でもないのに、綺麗な乗り方をしようなどという訳の分からない自意識だったのでしょう。
ぬれて汚れた靴が気になりました。
雨にぬれた傘もどうして良いか戸惑いました。
なにより、車に乗り込もうとした瞬間に漂ってきた車内の香りに、くらっとしました。
今思えば、単に車の芳香剤だったのでしょうが、それすらAさんを大人の男性だと意識させられる事でした。
そして、ドアの閉め方にも気を使いすぎ、半ドアになってしまいました。
すると、Aさんが手を伸ばして来そうになったので慌てて
「あ、半ドアですね」
と言ってその時は自分で閉めなおしました。

その頃、まだシートベルトの規制が厳しくない時でした。
親の車にはいつも乗っていましたが、いつも私は後部座席に座っていて、シートベルト自体を締めた事が無かったのです。
Aさんに、

「一応、シートベルト締めて」

と言われ、気付かなかった自分が悪い事をしたような気分になりました。
「すみません」と言うと、Aさんは

「いや、人様のお家の女の子だからね。窮屈だろうけど、念の為にね。」

と笑いました。
その気遣いを、やっぱり大人だなと思い感心したのですが。
シートベルトを引っ張っても出てきません。
私は、かなり焦り出し、一気に汗が吹き出るのを感じながらも必死でした。
すると、それに気づいたAさんの手が伸びてきて、私の体を覆うようにしてシートベルトを締めてくれました。
その瞬間、息を吸い込んだまま硬直した自分を覚えています。
Aさんにとっては、何気ない行動だったのでしょう。
でも、私はその行動によって、更に緊張の度合いが高まっていきました。

意識してみると、助手席と運転席の感覚が異様に近いものに感じました。
すぐ隣に居るAさんからは、車の芳香剤とは違う、大人の香りがしました。
心臓がバクバクして止まらず、何かを期待している訳でもないのに、好きな相手でもないのに、でも何かを期待しているような自分がどこかに居ました。
マニュアル車だったので、その左腕が少しでも動くと私の腕と触れそうな気がして、体が硬直しました。
Aさんの左手がエアコンの調節をするだけで、ドキっとしました。
それを誤魔化す為に、店長の悪口を喋りつづける私に対し、Aさんは穏やかに宥めるような諭すような答えをずっとしてくれていました。

緊張感の中、店長の嫌がらせの話をしている内に、私は物凄い興奮状態になっていたのでしょうか。
自分でも無意識のうちに涙ぐんで来てしまいました。
それを、Aさんにバレないように、更に喋り続けているうちに、家の側につきました。
自宅より一本手前の場所で車を止めたAさんは、親切に私のシートベルトを外してくれました。
そして、

「結構、辛かったよな」

と言って、私の頭をポンポンと軽く撫でるように叩きました。
その優しい言葉に、一気に我慢してバイトをしていた悔しさが溢れ出してきました。
何度かバイト中に、店長の態度には泣きそうになりました。
でも、泣くのは悔しくて、洗い物をしながら涙を堪えていた時の事が急に蘇ってきて、私は泣くのを堪える事が出来なくなりました。

と、その一方で。
私はAさんの手が、次にどう動くのかを心のどこかでドキドキして待っていたように思います。
私の頭を叩いた手が、その後そのまま私の肩に下りてきました。
私はその瞬間、心の中で「うわーうわーっ」と叫びました。
え?どうなっちゃうの?どうすればいいの?
そんな状態でした。
Aさんの手は、一瞬だけ私の肩に触れ、そのまま首の後ろをスーっと通り抜けて、助手席のシートの後ろに回りました。
単に手を伸ばしてシートに乗っけてるだけ。
でも、私にとっては肩に手を回されているのと同じぐらいのドキドキ感でした。

店長との悔しい出来事よりも、ドキドキの方が勝った為、私の涙はすぐに引っ込みました。
でも、Aさんの手が後ろにあり、助手席のシートをポンポン叩いていて、まるで私をあやしているかのような状況に、顔をすぐに上げられなくなった私は、車の時計を何故かジッと見ていました。
デジタル時計の数字が次の1分に変るまで、異様に長く感じました。

自宅に戻っても、その夜はAさんの事ばかり考えていました。
年上の男性とのドキドキ感を、恋と錯覚するような。
そんな年頃でした。


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「恋愛履歴」 亞乃 [MAIL]

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