『 hi da ma ri - ra se n 』


「 シンプルに生き死にしたかった 」


2005年08月08日(月) なつをつくる

夏は、せかいが終わるかもしれなかった季節、と
いつだったか書いたことがあって
その感覚は今もたぶんそれほど変わっていない
いつものように少し突き詰めすぎてしまったきらいはあるにしても、
まっしろでうずめつくされた風景は、
おしまい、に似合うような気がするから

白と闇はなんとなく似ている
白のほうが残酷かもしれません
ときには。

このあいだ見た「PicNic」では聖書の最後のページの
7月10日が世界の終わる日になっていたけれど
(実際、オワリになってしまった世界は美しくて残酷だった)
私にとってリアルなのは8月のこの時期で
はっきり記憶がつむげないころに繰り返しふれた何かが
たくさんつもってその感覚の核になったにちがいない。

夏は、八月は、まっしろに
せかいが終わったかもしれない季節。

こう言ってはなんだけど、
それはひとつの風物詩。
ページをとばしてめくれないのと同じように
毎年、見つめないといられない「風物詩」。
夏はこわい。
でも、それがないとどうしてか
やってゆけない。

そういうわけだから平和アーカイブスを延々とみることに決めて
真夜中に膝をかかえてまるごと石みたいになっていたりする。
ときどき、あさってのほうをみて気を散らしたりしながら
こわいことを凝視する。
ホラー映画よりもこわいと言って誰もがいなくなってしまうけど
特に誰かと話ができるわけでもないんだけれど。

凝視するリアルです。
ずっとずっと大きくて
圧倒的な、なにかです。

・・・・・・・・・・

季節に置いていかれてしまったといつも感じている。
みんなみんなに置いていかれたように
いつもうしろのほうにいる、暑いのも寒いのも
どれも少しだけ遠くを滑ってよくわからない。
漠然としてみんな行ってしまった。

だから、
からだのなかに、夏をつくる。
意識的に、外をみる。
きれいだと思ったら先に
笑ってみたりする。

自分の声は耳障りだから、だから黙ってそうっと
息を吐くくらいのひかえめさで。

蝉がないていることも
遊びにきた猫のことも
報告するみたいに
こころのなかで数えあげて、ふくらます。
ときどき、その報告じたいにくたびれて
いやになって、でもまた立ち上がってはじめて。

……くりかえすうちに、少し、追いつけたらよかった。

・・・・・・・・・・

いきているとかいたくないとかそんな話は
ほんとうはこれ以上いらないのですよ
でも、覆い被さってくるから、見えてしまうから
ないことに変えられないから

……報われるかわからないまま、せいっぱいを注ぐだけ。

からっぽすぎる器だから
どこに向かっているのかときどき
わからなくなる、力が抜ける。
自分に問い返したらおしまいになってしまいそうな
境界線あたりでつまさきを立てる。
そっちに行っちゃいけない。

きえないでと願うそのとなりで
自分がやっていたら意味ないことの数々。
センシティブの方角は
ときに、食い止められなくてせかいじゅううっすらと
闇が落ちる。矛盾ばかりでごめんなさい、
もしかしたら利用しているだけで、きっと、ごめん、と。

けど。

報告書なんていらない
ほしいのは肉声

ねえ
きこえる?

ぼくがみえる?

ゆうらりと影がさす。
触れたように思ったのは
ただの錯覚だったろうか。

いらないと決めてしまう前に
そっちに行ってしまうまえに
もう少しだけ空白をつくれと自分に言う
つめを立てて。


8月7日、午後


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